四章ー10話
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「なんだったのよ。まったく」
惺壽と別れ、一度自分の部屋に戻った乙葉は、革靴を履いて外に降りていた。
向かう先は湖の畔だ。
(惺壽、まだあの部屋に残ってるのかしら……)
彼にはついさっき、なぜか髪を引っこ抜かれたばかりだ。
できれば顔を合わせたくない。
まあ、見つかりたくない理由は他にもあるが。
足音を立てないよう注意しながら、ようやく水際に出た時、ふと視線が上空に留まった。
(……麒麟……?)
真珠色の鱗を持つ麒麟が、蒼天から、屋敷を目がけて駆けてくる。
鬣と尾は薄桃色がかった銀色だ。どちらも急降下の風に煽られ、鬣の合間に、きらりと水晶の輝きを放つ角が見えた。
(あ、一角……!)
角は一本。
あれは、麒麟の大多数を占めるという一角の麒麟だ。
双角の惺壽と比べると、どことなく四肢の線や色合いが柔和で、よりたおやかな姿をしている。
疾走してくる麒麟をぽかんと見上げていた乙葉だが、慌てて建物ぎりぎりに近寄って、その場でしゃがみ込んだ。
身を隠すためだ。幸いこちらに気づかなかったらしく、一角の麒麟は湖に面した部屋に駆け込んでいった。
惺壽に会いにきたのだろう。
ひどく慌てていたようだが、なにかあったのだろうか。
かすかに声が聞こえた。低いものは惺壽で、もう一つは聞き覚えがない。
一角の麒麟の声だろう。なにか焦った様子で言葉を並べ立てているが、会話の内容は聞き取れない。
そのうちに、また一角の麒麟は屋敷を飛び出していった。
青空に消えていく真珠色の獣の後ろ姿を見送りつつ、乙葉はそっと立ちあがる。
今度は爪先立ち、湖に張り出す部屋の中をのぞき込んでみた。
ちょうど目の高さに、部屋の床がある。
欄干の隙間から室内が見える。
部屋の中には惺壽がいた。
真珠色の麒麟が去っていった方角を見るともなしに見つめている。
遠くを見ていた薄青い双眸が、不意にこちらを向いた。
(わ……っ!)
目が合う。
条件反射のように乙葉はさっと床下に引っ込んだ。
足音がこちらに近づいてくるのが聞こえ、慌てて、両手を身体の後ろに回す。
直後、欄干のそばに惺壽が立った。
「…………」
「…………」
しばらく無言で上と下から見つめ合う。
(な、なんなのよ?)
視線の応酬が息苦しくなり、乙葉はちょっと顎を引いた。
なぜ、探るような目つきを向けられなければいけないのだろう。
惺壽は無表情だ。物言いたげな視線が――ひどく居心地が悪い。
なにかを責められている気分になってしまう。心当たりなんてないのに。
「……あ、い、言っとくけどわたし、盗み聞きなんてしてないわよ!? いくらなんでも、そこまでお行儀悪いことはしないから!」
来客との会話を立ち聞きしていたと誤解されたのかもしれない。
慌てて声を上げた乙葉に、惺壽は一つ瞬きをした。広い肩がわずかに落ちる。
「行儀が悪いのはどちらだか……」
「え?」
今度瞬いたのは乙葉のほうだ。
だが惺壽はゆるく首を横に振ったのだった。
「いや。……すこし出る。おまえは好きに過ごすといい」
乙葉は眉を曇らせた。
「なにかあったの?」
やる気がないのはいつものことだが、今の惺壽はひどく億劫そうだ。
先ほどの一角の麒麟が、悪い知らせでも持ってきたのだろうか。
不安に駆られて尋ねたが、惺壽はもう、いつもの平坦な顔を取り戻していた。
「気の荒い赫丑が街中に現れ、追い払うのに難儀をしているらしい」
「赫丑?」
「妖獣だ。双頭で鋭い牙を持つ。……天虎と同じく、人気の多い場所に姿を見せることはほとんどないんだがな」
どこか他人事のような口ぶりだが、追い払うとはつまり、荒事になるということだろう。
(大丈夫かしら……)
怪我をしなければいいが。
「…………き、気を付け、て」
乙葉はぼそぼそと上目づかいに言った。
(あ、あれ? もっと素直に言うつもりだったのに、なんで言えないの?)
心から惺壽を心配しているのに、するすると言葉が出てこないのだ。
不本意だ。機嫌悪く口を噤むと、惺壽は惺壽で涼やかに笑う。
「ご心配痛みいるが、赫丑ごときに手こずるわけにはいかなくてね。なにしろ我が屋敷には、さらに扱いの難しい珍獣がいるのだ。余力は残しておくべきだろう」
「猛獣って誰のこと!?」
噛みつくように言い返した瞬間、惺壽の全身が白い光を放った。
一瞬後、その姿は、青く輝く体躯の麒麟に変わっている。
「戻ったらせいぜい相手をしてやるさ。それまで拗ねずに待っていろ。……用心は怠るな」
そう言い残し、惺壽は四肢を躍らせて、空へ駆け上がった。
虚空を蹴る高らかな蹄の音が遠ざかっていく。
湖の畔に佇んだままの乙葉は、ただ彼を見送るしかなかった。
「相手してほしくもないし、拗ねたりもしないわよ。……そもそも、用心ってするって一体なにに……?」




