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四章ー9話

(女人ならばさておき、男に興味をそそられる日が来ようとは我ながら驚嘆だが……)

いわば乙葉は、その男のために天乃原に迷い込んだと言っても過言ではない。

鏡乃社での祈りが差し迫ったものでなければ、道が繋がれることはなかったはずだ。

(おかげでこうして手を焼かされているんだ。……顔を見るくらいは許してもらおう)

 乙葉の出現のせいで、惺壽が理不尽な巻き添えを食っているのは事実だ。

 そもそもの元凶について知りたいと思うのは、不自然ではないかもしれない。

(あの娘には決して言えまいが……)

 そう――不作法な振る舞いなど、気づかれなければいいだけの話だ。

 

 惺壽は手の中の一筋を握り込み、瞼を下ろした。

 意識を集中させる。

 

 やがて暗闇の漂う脳裏に一つの映像が結ばれはじめた。


『く……っ、もうちょっとで手が届くのに……!』

 頭上の書物に必死に手をさし伸ばす自分がいる。

 いや、自分ではない。乙葉だ。


 同調に成功したらしい。

 惺壽は今、乙葉の過去の行動を追体験している。

 

 どうやらここは書庫のようだ。

 室内にはぎっしりと書物を収めた書棚が整然と並び、硝子窓から斜陽が差し込んでいる。風が吹く度に、窓に掛けられた薄緑色の日除けが揺れていた。


 『なんであんな高いところに置いてあるのよ、もおぉ……っ』

 乙葉の手は、書棚の中の一冊に届きそうで届かなかった。

 褪せた臙脂色の背表紙の古ぼけた書だ。さして高所ではない。惺壽の生身ならば容易いものの、乙葉の背丈では難しいだろう。

『うー……っ、こうなったらもう……!』

 乙葉がわずかに腰を落とした。

(飛び上がる気か)

 同調している惺壽は呆れた。

 さては梯子(ていし)を探しにいくのが面倒と見える。


『……これ?』

 見上げた視界の中、横合いから伸びた誰かの手が、目当ての書物を取り出した。

  

 飛び上がろうとしていた乙葉の驚きが伝わってくる。


 視界が反転。いつの間にか隣にいた人物を振り仰いでいる。


 少年が立っていた。

 柔和な面差しの華奢な少年だ。乙葉よりわずかに背丈が高く、脆弱なほど細身の身体を、黒一色の詰襟の衣服に包んでいる。


『ここの本棚、大きいよね。俺もしょっちゅう苦労するんだ。――はい』

 少年に書物を差し出される。変声期を過ぎていないらしく、柔らかな声だった。

 

 乙葉はぱちぱちと瞬いて少年と書物を見比べた後、慌ててそれを受け取る。

『あ、ありがとう……』

『どういたしまして。俺、図書委員だから、なにか困ったことがあったら遠慮なく言ってね。一組の森野って言います』

『あ、えっと、わたしは……』

『知ってる。七組の白羽さん』

『え?』

 乙葉の戸惑いが伝わってくる。

 

 少年ははにかんだように笑った。

『入学式の日に、すごい美少女がいるってクラスの男子たちが騒いでたから』

 

 繊細そうな微笑が、硝子越しの夕日に穏やかに映し出される。


『………………』


 乙葉の頬がじわじわと熱を帯びた。

 思考は分からない。ただ、心はひどく高揚している。

 

 

 ――ふっと映像が途切れた。


 同調が終わったのだ。

 瞼を押し上げると、陽光にきらめく澄んだ水面と馴染み深い部屋の内部が目に飛び込んでくる。


 あの少年が乙葉の初恋相手らしい。

 穏やかそうではあるが、特筆すべきところもない、ありふれた少年だ。

 なんとなれば、その他大勢に紛ぎれてしまいそうなほど影が薄い。

 

 そして、今の場面が二人の馴れ初めだろう。


 惺壽が意図してその記憶を辿ったわけではなく、森野という少年に関して、乙葉の中で最も鮮烈な記憶に招きこまれたのだ。


(……あれが?)

 なんの変哲もない出会いだった。

 初々しいと呼ぶにも退屈な、欠伸が出る一場面。

 

 乙葉の中で確固たる感情が芽生えた瞬間に変わりはない。

 そしてその感情は、後に、強く深くあの娘を揺さぶることになる。


『どうか捨てられますように』

 

 悲痛なほどの祈りだったはずだ。

 

 だが、天上に続く道を開かせるまでに思い込ませたのは、ただの少年だった。

 

 気は強くとも、しょせんは初心な小娘。なにに蹴躓くかは分からない。

 そして理屈抜きに一瞬で心を奪われる恋もあると、もちろん惺壽自身も理解はしている。

 

 だが、割り切れない。

 

 あの娘が惚れ込んだという男があまりに平凡な少年で、肩透かしだったのだろうか。――ただそれだけの理由か?


「………………」

 

 湖面の彼方に目をやる。

 


 胸の内に、ある感情を表す二文字が静かに浮かんで、消えた。




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