四章ー8話
「俺も一つ聞かせてもらおうか。なぜ、初恋の男について鈿女君に話す気になった? 昨日の今日だろう」
昨日、失恋を打ち明けた時、乙葉はまだ傷心の只中にいるように見えた。
それなのに、今日はもう、初めて恋をした男の思い出を他人に語っている。
その心境の変化が不可解だ。
たかが小娘の失恋話。取り立てて己には関わりがない。
だが気が付けば、そう尋ねていたのだった。
返答までに、また少し間が空く。
「……わたしが好きな人は惺壽とは正反対の人だって、鈿女さんに分かってほしかったのよ。そしたら、わたしはライバ――ええと、恋敵じゃないんだって、安心してもらえると思ったから」
惺壽は一つ息を落とす。
(お人よしと言おうか……ずいぶんと世渡り下手な娘だ)
すべて、惺壽を気遣ったがゆえの、苦渋の選択だったというわけか。
だとすれば、二度と乙葉が初恋の男について語ることはないだろう。
つまり自分は、それがどんな男だったのかを知り得ることはない。
「……俺とは正反対、ね」
分かったことと言えばそれくらいだ。なんの参考にもなりはしない。
「今、なにか言った?」
背後の乙葉が声を張り上げた。風にかき消されでもしたのだろう。
「……いや。気にするな」
「? そう。……ところで、惺壽はさっきどこに行ってたの?」
どうやら質問はまだ続きそうだ。
どこか重苦しかった空気を断ち切るように、惺壽は平静のように言ってのけた。
「おや。不在にお気づきだったのかい。お迎えに上がっても冷たくあしらわれたのでね、てっきり俺のことなど忘れるほど、女人同士のお喋りに興じていたかと思っていたが」
「あ……っ、そ、それは」
「だとすれば、俺を待ちわびて心細い思いをした……と、そういうわけかな」
「己惚れないでっ!」
威勢のいい怒声が上がった。
くつくつと低い笑い声を漏らす惺壽の背上で、乙葉は「もおおぉ……!」と悔し気に歯噛みをしている。見ずとも分かった。耳まで赤く染まっていると。
「――雲乃峰だ。親愛なる沼垂主どののに拝謁を賜りにね」
笑いの余韻のままに答えた。また息を呑む気配がある。
「もしかして……わたしのことと関係ある?」
「ああ、たぶんに。……だが、今はまだ話せることはない」
「…………」
「少々厄介なことになっている。もうしばらく、なにも聞かずに待っていろ」
「……分かった。待ってる。惺壽を信用してるわ」
小さく、だがきっぱりした言葉に、知らず知らず惺壽の唇の端が緩んだ。
(素直なことだ。出会った頃は警戒心をむき出しにしていたというのに)
迷い果て、怯えて毛を逆立てていた猫の仔に、今ではすっかり懐かれた心持だ。
(………………)
惺壽は目を細める。やがて、馴染み深い我が家が見えてきた。
乙葉を背に乗せたまま、降下を始める。
身軽く欄干を超えて降り立ったのは、いつもの湖面に面した部屋だ。
促す前に、乙葉は惺壽の背から降りた。手に一つずつ脱いだ履物を持っている。
そして不意に視線を湖に巡らせ、ぽつりと呟いたのだ。
「……あ。そっか……」
「なんだ?」
人型を取った惺壽が怪訝そうな顔で尋ねれば、焦ったような笑顔でこちらを振り仰いだ。
「え!? ええっと、うん、なんでもないから気にしないで。……じゃあわたし、部屋に戻るから……!」
「待て」
走り出そうとした乙葉は、上半身だけこちらを振り返った態勢で動きを止める。
大きな瞳が不思議そうに見上げてくる。
惺壽は静かに乙葉に歩み寄った。
白い頬に手を伸ばし、覆いかぶさるように乱れた、ふわふわと長い髪をそっと指先で梳く。
「? なに――……って、いった……!」
顔を顰めた乙葉から手を引っ込めると、指先に一本、ふわふわと柔らかな髪がまとわりついている。
不運にも抜けたそれをつまみ、乙葉の目の前に掲げてみせた。
「失礼。いかに暴れ馬とはいえ、毛並みくらいは整えてやろうかと思ったんだが」
「誰が暴れ馬……まさか今の、わざじゃないわよね? 無言の嫌味!?」
「さあ」
「さあってなんなのよー! 新技を編み出してんじゃないわよ! ……もおおぉ、二度と惺壽に心配されないように、今度から身だしなみにも気を付けます! これでいい!? ふんっ!」
荒々しく鼻息をついた乙葉は、今度こそずっかずっかと大股に部屋を出る。
元気のいい足音が遠ざかるのを聞きながら、惺壽は、手に持ったままの乙葉の髪に視線を落とした。
不運ではなく、故意に抜いたと知れば、あの娘はまた怒り狂うだろうか。
それも――こんな理由でと分かれば、なおさらに。
(……すでに一度、道ができている。あの娘の記憶を辿るのは難くない)
以前、天乃原を訪れる直前の記憶を覗くため、乙葉と同調を済ませている。
二度目は簡単だ。この髪の一筋で介入することができる。
(…………なんのために?)
高い神力を持つ天人は、他人に同調し、精神を繋げる行為くらいは、なんなく果たす。
だが、出来ることとすることは別の問題だ。いかに容易いとはいえ、みだりに他人の記憶や心を覗くのは、やはり褒められたものではない。
やむを得ない事情があり、当人同士が了承した場合にのみというのが暗黙の了解だ。惺壽自身、実際に同調した数はごく少ない。
好奇心で他人の心を知りたいと思ったことがない。品がないという理由でもあり、そこまで他者に執着しなかったという理由でもある。
だというのに――なぜだろう。
自分は今、無許可に乙葉の心を覗こうとしている。
初恋の相手というのが、どんな男なのかを知るためだけに。




