四章ー7話
乙葉の分まで丁寧に鈿女君に辞去の挨拶を述べ、庭から屋敷へと引き返した惺壽は、ほどなくして、黎珪に付き添われた乙葉を見つけた。
不安げにちらちらと上目遣いにこちらを窺うのには気づかないふりをして、小柄な体を、麒麟に変じた背に乗せる。
黎珪に見送られて鈿女君の屋敷を後にした。
乙葉が躊躇いがちに声をかけてきたのは、しばらく経ってのことだった。
「……鈿女さん、怒ってなかった?」
「世話になっておきながら、ろくな挨拶もしない不躾な娘だと?」
「う」とつぶれたような声が上がったので、淡々と続けてやる。
「おまえに成り代わってよくよくお礼を申し上げたさ。そして、そのような些細なことを咎める方でもない」
「こ、今度から気をつけるわよ。……そうじゃなくて、もっと別のこと」
「別とは?」
「…………鈿女さん、わたしが惺壽に可愛がられてるって、へんな誤解してたから……」
「たしかに甚だしい誤解だ」
「茶化さないでよ。だから、その……惺壽と鈿女さんは恋人同士なんでしょ。だから、わたしと惺壽のことを誤解して……怒ってなかった?」
消え入りそうな声だった。
思わず、この自分が言葉に詰まるほど。
(先ほどからみょうに神妙にしているかと思えば……)
どうやら、そんな心配をしていたらしい。
それにしても、なぜ惺壽と鈿女君を恋仲だと思ったのかが疑問だ。
惺壽はわずかに首を巡らせ、ちらりと乙葉を見た。
見ただけだ。なにも言っていない。だが、細い肩が過剰なまでに大きく跳ねる。
「も、もうフラれちゃった?」
「いいや。……そもそも、男女のだの字も知らぬ小娘に気遣われるほど、朴念仁ではないつもりだが」
「知ってるわよ、惺壽が女の人の敵だってことは! ……でも、そう。フラれてないんだ。よかった。わたしのせいで鈿女さんにフラれたらどうしようって、心配だったから……」
とても安堵の声音ではなかった。むしろ打ち沈んだ雰囲気だ。
惺壽は再び前を見据えながら、ひそかに眉を顰める。
(……なにを考えている?)
乙葉がなにを思い悩んでいるのかまったく見当がつかない。
感情がそのまま顔や言動に出る、素直で単純な娘だと思っていたのに。
いや――違う。この娘はいつもこうだった。
(肝心なことほど口を閉ざす……か。普段の可愛げのない言動からは及びもつかないほど、頑なに)
自分が抱えている傷を、決して他人に悟らせようとしない。
胸の奥底に沈め、一人で必死に癒そうとしている。
今回、こうやって天乃原に迷い込んできたことが、いい例なのだ。
幼い恋を手放すために、乙葉は鏡乃社に赴いた。
神頼みしたわけではないと当の本人は言う。
その真偽は定かではない。真実、自分への発奮だったのかもしれない。
どちらにしろ、切実な願いだったことは確かだ。
『どうか捨てられますように』
幼い恋を手放すために、それほど強く自分を戒め、励まさなければならなかった。
その祈りは天を衝き、地上から天上へと、閉ざされていた古い道を繋いだ。
「……ねえ、惺壽」
不意にぽつりと声を掛けられ、惺壽ははっと物思いを中断した。
「惺壽と鈿女さんって、本当に恋人同士なの……?」
またぽつりと、乙葉は尋ねた。
どうあってもそれが気になるらしい。
「他人の恋路よりも自分の心配をしてはどうだい、お嬢さん」
ため息交じりに答えると、背後で「え?」と困惑の声が上がる。
「よほど俺が鈿女君に袖にされることを心配しているようだが、そもそも、なぜ俺たちの間柄を勘違いした?」
「勘違い? わたしはただ、惺壽と鈿女さんが昔、夜に二人きりで会ってたって、そういう話を聞いたから……」
「ああ……」
鈿女君の侍女辺りから聞いた話だろう。
あの晩、目撃者に気づけなかったのは自分の不手際だ。
(不手際ばかりとは言えないがね)
その噂のために、いたく心かき乱されてのたうち回った男が一人、いるのだから。
「ご想像にお任せするさ」
惺壽は結局、そう答えた。
あの夜更けに、鈿女君と惺壽が秘め事を紡いだのは事実だが、それを他人にぺらぺらと話すつもりはない。
乙葉は沈黙している。
相変わらず、どんな考えを巡らせているかは読み取れなかった。




