一章ー2話
先ほどと同じ疑問を、今度はもっと警戒を強めて心の中で繰り返した。
奉納神楽でも舞いそうな格好をしている金髪の男性。
だがどうしても神職には見えない。
「……水の中が好きだから」
すこし顎を引いて答えると、男性は微笑むように瞳を細めた。
次の瞬間、彼は体重を感じさせない動きで大樹から身体を離す。
そのまま躊躇いなく池に踏み入れた男性に仰天した。
(近寄りたくないのに、向こうから近寄ってくるって……!)
なぜだ。とにかく逃げるべく水中で方向転換する。
だが片手を取られた。
バランスを崩した全身が後方に傾ぎ、固い胸板にぶつかって止まる。
「ちょっと、なにすん……っ!」
自分を抱き込んだ男性を見上げ、怒鳴ろうとした。
思わず息が止まる。
間近でこちらを見下ろす男性と目が合ったのだ。
堂々とした胸に抱き込まれ、謎めいた微笑が息を飲むほど凄艶だった。
冷たそうな薄青い瞳がきらめき、しっとりと濡れた淡い金の髪が逞しい首筋や肩口に乱れ張りついている。
匂い立つほど濃密な色香。――くらくらと、眩暈がしそうなほどの。
「は、離し……」
戦慄いた唇を、とん、と長い指が唇を押さえてきた。
ぱちりと瞬く。
その時、男性の肩越しに、青空を横切る黒い影の群れを見た気がした。
なんだろう。もっと目を凝らそうとした。
だが唇を押さえていた指が顎へと滑り、くいと上向かされて視界の角度が変わった。
次に目の前いっぱいに広がったのは、凄艶な美貌。
その形のよい唇がごく自然に降りてきた。
ゆっくりと――乙葉の唇のほうへ。
ゆるゆると瞳を見張った瞬間。
「惺壽、まだこんなところで油を売っているの。いいかげん哨戒に戻っ……っと、失礼。お取込み中だったようだね」
不意に第三者の声が明るく響き、乙葉はぱちぱちと瞬きした。
「――近いっ!」
右から左に平手を振れば、ばっちーんと豪快な平手打ちの音が響き渡った。
叩かれた衝動で、男性が拘束する力を一瞬緩めた。その隙に彼の手をふりほどいた乙葉は、水中で大きく飛びすさって、金髪の男性から距離を取る。
心臓がばくばく大騒ぎしていた。
まだ状況が整理できない。なにしろ頭の中は真白だ。
狼狽で顔を赤くしているこちらとは正反対に、男性は泰然としていた。
叩かれた頬を気にもせず、優雅な仕草で濡れた前髪をかき上げている。
そして、ちらりと背後を振り返った。
「……ずいぶん無粋な真似をするな、梛雉?」
男性が視線を向けた先――桃色の花が咲き乱れる岸辺に、いつの間にか、一人の豪奢な装束を纏った青年が佇んでいた。
歳は金髪の男性と同じくらいだろう。
だが精悍で硬質な雰囲気の彼とは反対に、こちらは優しげで甘く整った容貌の、貴公子然とした美青年だった。
腰に届くほど長い髪は黄金を溶かしたような朱色をし、穏やかそうな瞳も同じ朱金色。装束はやはり古めかしく、ふわりと裾が広がった極彩色の羽織や袴を身につけ、耳や手首には宝玉を連ねた装飾が多い。
「君がお役目を放りだしているから、ちょっとお仕置きをしたくなってね。けれど君の頬を張る女性がいるとは思わなかったよ。もしかして私の振る舞いで気を悪くしてしまっ……」
言いかけた青年は、金髪の男性の肩越しに乙葉に目を留め、不思議そうな笑顔になった。
「そちらが……新しいお相手? 珍しいね、君がこんなに無垢な人を選ぶなんて」
「無垢ね。単に青臭いだけかと思ったが、どうやら物は言いようらしい」
金髪の男性がそう答える。惺壽――というのがこの人の名前のようだが。
「しょ、初対面の人にいきなりそんなこと言われる筋合いは……!」
乙葉の関心が向いたのは別のところだった。怒りに任せて声は上げてみたものの、先ほどの動揺を引きずっているせいで最後まで言葉にはならない。
顔を真っ赤にしてまごついていると、惺壽は精悍な美貌に笑みを浮かべた。
「失敬。あいにく、あちらの男と違って綺麗事が口に出来ない性質でね」
「きれ……っ、もしかして喧嘩売ってるっ!?」
どんな嫌味だ。
今度こそ怒鳴った乙葉の耳に、岸辺からくすくすと笑い声が届く。
「元気のいいお嬢さんだね。お相手するのが楽しそうだ」
楽しそうに笑っているのは、梛雉と呼ばれた青年だ。
惺壽は岸へ引き返しながら、肩を竦めている。
「ならば、おまえに譲るさ。中乃国の乙女は初心でいらっしゃるようだ、俺の手には余る。純情な小娘を手懐けるのはお手のものだろう。せいぜい可愛がるといい」
「ちょっと、勝手に人をやりとりしないで……!」
抗議の声を上げかけた刹那。
突如瞬いた白い光に目を射られ、乙葉は反射的に目を瞑った。
瞼の裏を焼き尽くした光が消え、慌てて目を開くと、今度はぽかんと口を開く番だった。
(馬が空を飛んでる……?)
蒼天を、一頭の優美な獣が駆け上がっていく。
堂々と風に靡く鬣と尾は、淡く輝く金色。
頭には二本の短い角を戴き、しなやかな体躯を覆うのは青く透き通った鱗だ。
陽光を美しく弾くその鱗は、四肢が力強く空を蹴る度に、赤、黒、白、黄と複雑な輝きを放ち、まるで水晶のようだった。
「待った、惺壽! こちらのお嬢さんが中乃国の乙女っていうのは…………惺壽!」
同じく宙を見上げた梛雉が慌てた声を上げている。
まるで獣を引き留めようとしているみたいだが、天高く駆け上る獣はちらりと薄青い瞳を動かしてこちらを見下ろしただけで、すぐにその美しい姿は木々の梢の向こうに見えなくなった。
「……せい、じゅ?」
空を見上げたまま、乙葉はぽつりと呟く。惺壽と言えば、あの男性の名前だが。
(そういえば……あの金髪嫌味男、どこいったの?)
ふと、先ほどまでそこにいたはずの惺壽の姿が見当たらないことに気づいた。
まるで彼があの二本角の馬に変身し、空を駆け去っていったとしか思えない。
「いや、馬は空を飛ばないから! そもそも人間が馬になるはずないでしょ!?」
「惺壽は馬ではなく麒麟だよ。それに私たちは、ここ天乃原に住む天人だから」
一人突っ込みをしていたら、梛雉に困惑したような表情で言われた。
困惑させられているのはこちらも同じだ。――今、なんて言った?
「麒麟と天人……?」
名前だけなら知っている。絵巻物や伝説に出てくる、架空の生き物だ。
そう――どちらも現実にはいないはずの存在。
だが現に、不思議な獣は目の前にいた。
(ここ……どこ……?)
どくどくと鼓動が嫌な音を立てはじめる。
なんだか――なんだかすごく嫌な予感がする。
ざあっと、梢が不穏なざわめきを響かせた。
思わずびくっと肩を竦めた乙葉の前で、梛雉は柔和な面差しをはっとさせている。
「どうやらゆっくり話している暇はなさそうだね。お嬢さん、もうすぐこの雲は消えてしまう。そうなれば、たおやかな君は、いとも容易く蒼天の波深くに迷いこんでしまうだろう」
「雲が消える……?」
忙しなく瞬きをしていると、梛雉はにっこりと微笑んで、こちらに手を差し伸ばした。
「天乃原ではよくあることだよ。さあ、完全にこの場が崩れる前に、私と一緒に行こう」
とろけそうなほど甘い微笑みを見つめ、乙葉は水中でかちんと固まった。
雲が消える。この場が崩れる。――つまり、ここは雲の上だということだ。
(ままままさか、そんなことあるわけないわよ。ここが雲の上!?)
荒唐無稽な話を鵜呑みにして、出会ったばかりの、しかも胡散くさいほどの美男にほいほいついていくなんてとんでもない。
あとで痛いしっぺ返しがあうかもしれない。
「困ったね。なにが君を迷わせているんだろう」
葛藤していたらそんな声が聞こえ、はっと顔を上げた。
梛雉は本当に困ったような笑顔でこちらを見ている。
その表情に、乙葉を騙そうとする気配を見つけることはできない。
(どうしよう……)
彼を信じてついて行くべきか。
それとも、回れ右してここから一人で逃げるべきか。
もしここが本当に雲の上で、その雲が崩れるというのなら、空を飛べない自分は、まっさかさまに落下するしかない。
乙葉はぎゅっと身体の脇で拳を握った。
「こ、ここがどこなのか詳しく教えてほしいんだけど。……信用、していいのね?」
念押しのように見つめると、梛雉は優しげな朱金色の瞳をやんわりと笑ませた。
「もちろんだよ、お姫さま。この身を盾にしても君を危険な目に合わせはしない」
気障すぎる言葉が若干胡散くさかったが、乙葉は固い顔で頷いた。
ざぶざぶと水をかき分けながら、梛雉の待つ岸へ歩きはじめる。
(雲の上っていうのは冗談にしても、ここがどこなのか分からないと、家にも帰れないわ)
ここが鏡野神社の近辺でも、ましてや自宅の近所でもないのはたしかだ。
いつの間に移動したのかを考えるのは抜きにして、とにかく現在位置を正しく把握すべきだった。
(今はこの人を信用するしかないわ。……見かけ通り、いい人でありますように!)
池の岸辺で梛雉の手を借りて、ようやく乾いた地面に上がった。
髪も制服もぐっしょりだ。毛先やスカートの裾から幾つも水滴が滴り、すぐに足元には大きな水たまりが広がる。
「かわいそうに、そのままでは身体が冷え切ってしまうね」
「平気、寒くないから。それより、ここが崩れるってどういう……」
頬に張りつく髪をかき上げた乙葉は、突然、目前から放たれた淡紅色の光に口を噤んだ。
風もないのに梛雉の大袖がふわりとそよぎ、一瞬、その輪郭がぼやける。
気が付くと、目の前に大きな赤い鳥がいた。
すらりと長い首を持つ優雅な姿だ。
極上の天鷲絨のような羽は金彩をまぶしたような朱色をし、藍や翠色などが混じる色鮮やかな尾を裳のように長く引いている。
典雅で優美。そして――見上げるほど、でかい。
(も、無理……)
目の前が真っ暗になった。膝から崩れ落ちるのを自覚する。
(―――――だめよ、食われる!!)
仰け反った頭をぶんっと起こした。
生死が関わる時に可愛く失神などしていられない。
「どうかしたかい? すぐに済むから、すこしだけじっとしていてね」
赤い鳥が流暢な人語を喋った。たしかに喋った。
また眩暈がした乙葉だが、極彩色の両翼が羽ばたくように大きく広がるのを見て、とっさに両腕を顔の前に掲げる。
吹き飛ばされると思ったのだ。
だが、ふわりと頬を撫でたのは優しい微風だった。
乙葉は驚いて瞼を開き、自分の全身を見下ろした。髪も制服も完全に乾いている。
「さあ、これでいいかな」
赤い鳥が楽しげに言う。
どう見てもただの化け鳥だが、その歌うような声に覚えがある。
「……もしかして……梛雉、さん?」
こちらを見下ろす朱金色の瞳が、柔らかく細まった。
「そうだよ。惺壽は麒麟、そして私は鳳凰だからね。天人は半人半獣が多いから」
そう答えた鳥の顔が、なぜだろう。
甘い美貌の青年の微笑に重なって見えたのだ。
(あ…………ああぁぁー…………やっぱりー…………)
乙葉の中で、嫌な予感が、諦め混じりの確信へと変わった瞬間だった。
ここは自分が十六年間生きてきた世界ではない。
天人がいて、麒麟が空を駆け、美青年が喋る大鳥に化ける――異世界だ。
「さあ、乙女。私の背に乗ってごらん。とりあえず空を飛んでここを離れるから」
(空を飛ぶ……ふ、ふふふ。清々しいほどありえない……)
笑顔の梛雉に促され、もう自虐的な笑みしか浮かんでこない。
鳥の背に乗って空を飛ぶ。なんてファンタジーだろう。
だがこれは夢ではなく、現実だ。
一瞬だけぎゅっと目を瞑った乙葉は、ばちっと自分の頬を叩いた。
「ええい、こうなったら腹決めるわよ! 白羽乙葉、乗らせてもらいます!」
「お気の召すままに、乙葉嬢」
ちょっと乙葉は涙目だが、梛雉は歌うように答え、片翼をスロープのように広げる。遠慮なくそれを踏んでずかずかと彼の背に上り、鳳凰の首の根元辺りにちょこんと収まれば、まるで上等の絨毯に乗っているみたいな座り心地だ。
「さあ、しっかり掴まっていてね。大切な君を、雲の波間に見失ってしまわないように」
梛雉が言い、二、三度、華麗な翼を震わせた。
ふわりと浮遊が全身を包み、風が頬を切る。
鳳凰は、蒼天目指して高く舞い上がった。
白雲が視界の端を行き過ぎる。
息を飲んだ乙葉が振り返ると、きらめく泉の水面とそれを取り囲む森の緑は、すでに眼下に遠ざかっている。
森は唐突に途切れており、その周辺に広がるのは青い虚空と、たなびく雲の群れだ。
ふと気づけば、森の端はゆっくりと霧散していた。