四章ー4.5話
首を巡らせた惺壽は、蒼天へと駆け上がった。
乙葉を置いてきた鈿女君の屋敷は、ここからは目と鼻の先だ。
だが向かう先は他にある。
蒼穹を高くのぼっていくと、やがて上空に巨大な雲が現れた。
惺壽は走り抜けた速度そのままに、巨雲の中に駆け込んだ。
刹那、身体を押し返すような抵抗を受けたが、なんなく突き破れる程度だ。
直後、一息に視界が開け、眼下遥かに、壮麗な宮城を見渡すことができる。
ここは雲乃峰。
天乃原を統べる、三柱乃神の住処だ。
今しがた走り抜けてきた巨雲は、雲乃峰を守る結界だった。
結界を通るには、ある程度の神力を備えることが条件となる。
麒麟や鳳凰のような高格の霊獣、あるいは高貴な天人たちがそれに適する。
低位の妖獣や他愛のない生き物たちは言うに及ばず、天乃原に生まれ育った天人であっても、みだりに参内することはできない。
雲乃峰は一種の箱庭だ。
繭のような巨雲の中に、山河のある土地が広がり、そこにぽつりぽつりと建物が点在している。
中でも賑わうのが、雲乃峰の南側に聳える、環状の白亜の高楼だ。翡翠の屋根が陽を弾くこの七重の高楼が、参内した貴人たちの詰め所だった。
この高楼より北側に足を運べるのは、宮城の主である天照陽乃宮と月読乃宮、そして寵を受け、特別に雲乃峰での生活を許された舞人や楽人など、ごく限られた者たちだけ。
ちなみに鈿女君もその一人だ。
天照陽乃宮の寵愛深い彼女は、雲峰の外にある屋敷と、下賜された雲乃峰内の離宮を行き来しているのだ。離宮には他にも、歌姫や楽士、曲芸師や絵描きなど、さまざまな芸に優れた者たちと、それを世話する侍女たちなどが暮らしている。
惺壽は、南側にある白亜の高楼を目指した。
七重の塔といっても、一階ずつの天井が高いので、建物は巨大だ。
円筒状の高楼の中央は吹き抜けなっており、その外円部分に房室が並んでいる。
房室の入り口はすべて、高楼の吹き抜け部分に面しており、戸の前に紅灯が吊るされていれば、そこには何某かの貴人が在室していることになる。
舞い降りたのは高楼の西側、甘い香りの漂う紅梅の梅林近くだった。
ちらほらと屯していた何人かが、麒麟から人型に変じた惺壽に気づいたようだ。
「おや、あれは……」
「ほ。珍しい。陽乃宮の再三のお呼び出しにも応じなかったというのに……」
じろじろと物珍しがる視線がぶつけられる中、素知らぬ顔で、高楼へと歩き出した。吉祥獣と百花の彫刻が施された門をくぐると、黒檀の観音扉は両側とも開かれていた。
ちょうどその奥からせかせかと出てくる人影にきづき、惺壽は足を止めた。
屋外に出てきたところで、相手もこちらに気づいたようだ。
「ぎょえ……っ」
「これは奇遇だ。またお目にかかろうとは思いもしませんでした」
つぶれた蛙のような鳴き声を上げた沼垂主に、惺壽は飄々と嘯いた。
わざわざこの男に会うためだけに雲乃峰に出向いたなどと、おくびにも出さない。
沼垂主は限界まで目を剥いていた。
顔から血の気が引き、小太り気味の全身が震えている。
自分を前にした時、この男は大抵こうなる。
それにしても今日は反応が過剰だ。
一つの確信を抱き、惺壽はわずかに瞳を細めた。
その時だ。
「惺壽? ……惺壽じゃないか。まさか君が雲乃峰に姿を見せるなんて!」
背後で、場違いなほど明るい声が上がった。
肩越しに振り返ると、絢爛な衣装を纏った梛雉が朱金色の髪を揺らしながら歩いてくる。
「やっと参内する気になったんだね。嬉しいな。また君とここで会えるなんて奇跡だよ」
「どうやら宗旨替えしたと見えるな、梛雉。あいにく俺はお前と違い、女人を捨てて男の相手をするつもりはないんだが」
「あはは。いくら君が相手でも、男を口説く趣味は私にもないよ。甘い言葉は女性にこそ捧げるべきだからね。……こんな所で一体何をしているの? せっかくだがら、天照陽乃宮に顔をお見せして差し上げたら……あ、それとも月読乃宮へのご挨拶が先かな」
「ま、待て……!」
気安い会話を断ち切り、苦し気な声を上げたのは沼垂主だった。
惺壽と梛雉は揃ってそちらを向く。
「これは沼垂主どの。たいへんご無沙汰をしておりますが、ご機嫌はいかがですか」
梛雉は誰に対しても変わらない、陽気な笑みを向けていた。
対する沼垂主は口ごもる。
「う、うぅむ……?」
「左様ですか。それはよかった。……それで惺壽はこれからどうするんだい? 月読乃宮に謁見するなら、私も付き添うけれど」
楽し気に申し出た梛雉をちらりと見返し、惺壽は首を横に振った。
「いや、たまたま気が向いてここまで足を運んだけだ。一回りしたらすぐに退出するさ」
「そう……残念だな。ああ、でも、惺壽が久しぶりに雲乃峰に参内したことは、月読乃宮にちゃんとご報告しておくよ。また君にお目かけくださる、いい機会になるかもしれない」
それにはなんとも答えず、惺壽はただ肩を竦めた。
「では、これにて御前を失敬」
沼垂主に軽く申し訳程度に会釈し、外へと門をくぐったところで麒麟に変じる。
すでにここでの用件は果たした。
とんぼ返りで、鈿女君の元に乙葉を迎えにいくのだ。
――惺壽が場を去った後、高楼の前には梛雉と沼垂主が取り残されていた。
「あ、あやつ……まさか、儂を脅しにきたのでは……」
惺壽が消えた方向を見つめたまま、震える沼垂主の肩に、梛雉が労わるように手を置く。
「大丈夫。たとえ彼がそのつもりだとしても、その前に、あの乙女を中乃国に送り返してしまえばよいのです。証拠がなければ、誰もあなたを罰したりはできないのですから」
「そ、そうだが、しかし……! お主は信用できん! 儂の肩を持つような真似をしておきながら、よりにもよって月読乃宮に奴を売り込もうとしとるではないか!」
「しーっ、静かに。……私はただ、無用な波風が立つ前に事を収めたいだけです。それはひいてはあなたのためになるでしょう。そして長年の友人も引き立ててやりたいと思うのは、また別の問題なのですよ。どうか、この友情をご理解ください」
困ったように微笑まれ、沼垂主は不承不承に口を噤んだ。
不手際で人間の娘が天上に迷い込んだと知らせてきたのは、外ならぬこの優男だ。一概に敵とは癒えない。そして頼みにできるのは、内情を知るこの男だけだ。
「わ、儂は一体どうすればいいのだ……」
「落ち着いてください。あなたにも分かっているでしょう。なにもかも、あの人間の乙女を取り戻せば収まりがつく。……もう、なりふり構っていられないのでは? うかうかしていたら、せっかく得た月読乃宮の信頼を失うことにもなりかねませんよ」
心底から案じるような声が、沼垂主の心を深く抉った。




