四章ー3話
「……ふふ、なんて顔をしていらっしゃるの? 少し、お出かけになっただけだと言ったでしょう。すぐに戻っていらっしゃるわ」
知らず知らず俯いていた乙葉は、楽しそうに笑う声に、はっと顔を上げた。
「あ……すみません。わたし……」
「謝らなくてもいいのよ。心から惺壽どのを慕ってらっしゃるのね。姿が見えないだけで、それほど不安そうにするなんて。……そんな純真さ、妾はいつ忘れてしまったのかしら」
艶やかな笑みで言った鈿女君は、背後の黎珪に目くばせした。
すると、黎珪は、いつの間にか持っていた螺鈿の小さな箱を手に、女主人に静かに歩み寄る。
鈿女君はその箱から、紺地に百花の金蒔絵が施された細長い筒を取り上げた。
煙管のようだ。
花形の壺の中で煙管の雁首に火をつけている彼女を見つめつつ、乙葉は深く息を吐いた。
(落ち着いて、わたし。惺壽が何考えてるか分からないのは、いつものことじゃない)
彼の行動はいつも読み切れない。考えるだけ無駄だ。
そのうちにふらっと戻ってきて、乙葉を彼の屋敷に連れて帰ってくれるだろう。
(戻ってくる……わよね?)
乙葉は腿の上できゅっと拳を握った。――ちょっと不安だった。
「さあ。遠慮しないで、なんでも好きなものを召し上がってちょうだいね。今は殿方は抜きにして、女同士、楽しいお喋りでもして過ごしましょう」
そう言いながらも、当の鈿女君は茶にも菓子にも手を付けず、優艶な仕草で煙管を吹かしている。雁首から細く紫煙が上がり、とろりと蠱惑的に甘い香りが周囲に漂い始めていた。
「い、いただきます……」
乙葉はそろそろと、手近な焼き菓子を自分の小皿に移した。
なんとなく居心地が悪い。
それを誤魔化すように、焼き菓子を小さく齧る。ほどよい甘さと弾力のある生地の中には、蜜で絡めた木の実がぎっしり詰め込まれていた。
「それにしても驚いたわ。あの惺壽どのに、これほど可愛がる相手ができるなんて」
「え……可愛がるって、誰を?」
「あなたに決まっているじゃない。他に誰がいるというの」
「わ、わたしっ? まさか。わたしが惺壽に可愛がられるわけがありません!」
「あら。どうして?」
面白がるように鈿女君が小首を傾げる。
「だ、だって……いつも喧嘩してるし、初めて出会った時なんて。いきなり惺壽の頬を引っ叩いたくらいだし……」
あの時は乙葉にもそれなりの理由があったが、まあお互いの第一印象が最悪だったことに違いはないだろう。その後もずっと、顔を合わせれば嫌味と憎まれ口の応酬だ。
(なんでこんな誤解が……まさか鈿女さん、わたしと惺壽の仲を疑ってる?)
鈿女君は、惺壽と恋仲なのかもしれないのだ。
だから乙葉を恋敵と誤解して、さりげなくこんな探りを入れているとか?
惺壽と乙葉は何でもないのに。ちょっと事情があるから一緒にいるだけだ。
その事実にいまさら気づき、そしてなぜか胸が痛んだ。
そんな乙葉の前で――鈿女君が目を真ん丸にした。一拍後、上品に噴き出す。
「引っ叩いた? あの惺壽どのを? まあ……」
高い笑い声を上げ始めた鈿女君の背後で、黎珪もくすくすと笑いをかみ殺している。二人の美女に笑われ、お菓子を持ったままの乙葉はかあっと顔を赤くした。
(そ、そんなに変なこと言ったっけ……?)
鈿女君も黎珪も笑い続けているので、焼き菓子の残りをぎゅむっと口に押し込む。
「ああ、おかしかった。ごめんなさいね、気を悪くしなかったかしら」
ようやく笑い収めた鈿女君が、常の艶やかな微笑を取り戻して尋ねる。
ちょうどお茶でお菓子を流し込んでいた乙葉は、慌てて湯呑を置いた。
「い、いえ。……でも、惺壽が引っ叩かれるのってそんなに珍しいんですか?」
「そうねぇ。少なくとも妾は聞いたことがないわね」
「……しょっちゅう女の人と修羅場になってそうなのに……」
そして女の人に一発お見舞いされて終わる。いくらでもありえそうなのに、惺壽のそういう姿が想像できない。なぜだろうか。
鈿女君は、低く笑って、傍らに置かれた煙草盆に灰を落としている。
「修羅場どころか、彼を恨みに思っている女なんて天乃原には一人もいやしないわ」
「……じゃあ、フラれるのはいつも惺壽のほう?」
意外なことに目をぱちくりさせていると、鈿女君はゆるやかに煙管を持ち帰る。
「いいえ。いつもお互いに納得ずくで恋が終わるの。惺壽どのは、後腐れのある恋は決してなさらない。すべて遊びと割り切って、選ばれるお相手もそういう賢い女性ばかり」
「自分の好きなタイプ……ええと、たまたま自分好みの綺麗な人だっただけなんじゃ?」
「そうかもしれないわ。ただでさえ目立つ方だもの、彼に幻想交じりの憧れを抱く女は星の数ほどもいる。……けれど、まあ、そういう人はたいてい見向きもされないわね」
鈿女君が煙管を咥える。
立ち上る紫煙を、乙葉は落ち着きなく見つめた。
(後腐れのある恋はしない……)
つまり――本気にならない恋ということだろうか。
たくさんの女性が胸を焦がす中で、惺壽に見いだされるのは割り切った恋ができる人。
その他大勢の中には、もしかしたら本気で彼を慕っている人もいるかもしれないのに。
そういう人は見向きもされない。
本気になればなるほど彼は遠ざかる。
「……一回でいいから振り向いてほしいって、そう思ってる人はどうしたらいいの……」
ぽつりと呟いていた。
べつに惺壽の恋愛嗜好を非難するわけじゃない.
でも――報われたいと思いながら、振り向かれもせずに終わる女性の気持ちは、よく分かる。
俯いた乙葉をどう思ったのか、鈿女君は細く煙を吐きながら微笑む。
「ええ。そういうもの悲しさもたくさんあるでしょう。けれど誰にも本気にならない以上、むやみに手折ったりしないのは、ある意味の優しさとも言えるかもしれないわ。あの方なりにけじめをつけていらっしゃるのよ」
「けじめ……ですか?」




