三章ー10話
だが解せないことがある。――恋敵を追い落としたいわけでないのならば。
(“捨てられ”たいのは、おまえか?)
心中で呟いていると、隣に並んだ乙葉は唇を尖らせながらぶつくさと言っている。
「…………ったく、真剣に人が話をしてんのに……あのね、わたしがお願いしたのは、わたしが初恋を捨てられますように、ってことだからね」
惺壽は静かに瞬いた。
「……諦めきれずに引き返した、と聞いた気がしたが?」
「そうよ。諦められなかった。でも、諦めなくちゃ。このままずるずる片思いしてたってどうにもならないでしょ」
今度は同意を求められたわけではない。
だが今度もやはり肯定は返さなかった。
「相手がおまえに振り向くまで待つという手もある」
「そうかもしれないけど……実は、そういう気長なことがすっごく苦手で」
「だろうな」
「どういう意味よ。……それに、他の誰かがフラれるのを待ってるのも、向いてないから」
小さく言葉が途切れる。
惺壽は肩を竦めた。
「だろうな」
かたわらでひそやかな笑い声がした。
「うん、そう。向いてない。だったらもう、諦めなくちゃ。……とりあえず、ちゃんとあの二人のことを確かめて、やっぱり『無理』だったら、その時はこの初恋はきっぱり諦めようって思って、引き返したのよ」
そしてその道中で鏡乃社に立ち寄り、天乃原に迷い込んだというわけだ。
惺壽はしばらく黙った。
やはり、自分の推測は間違っていないようだ。
沼垂主が意図したことでないのなら、乙葉は自力で天上へ続く戸を叩いた。
その強い願いでもって。
だが、まだ一つ疑問が残る。
「……神頼みをしたわけではないと言っていたな」
そう言っていたはずだ。だが、乙葉が強く何かを願ったのは確かなのだ。
「ええ。神さまなんて本気で信じてないもの。でもあんまり神社がぼろかったから、お賽銭を恵んであげたくなっちゃって。だからまあ、一応お参りのふりくらいはね。でも神頼みっていうより、自分頼みね。いざって時に怖気づかないように喝を入れたのよ」
乙葉はあっけらかんと言った。
その横顔に迷いも未練も探すことはできなかった。
惺壽は瞳を細める。
「……恋とも呼べまい」
「え?」
呟くと、風に広がる髪を押さえながら、乙葉が目を丸くした。
反対に惺壽は視線を外し、陽に輝く湖面に目をやる。
「いや。たかだが一人の恋敵に引き下がれる恋など、とうに忘れてしまったと思ってね」
「ああ、そういうこと。……惺壽にそんな純情な少年時代があったとは思えないけど……」
こんな時でさえ憎まれ口だ。だが惺壽は軽く肩を竦める。
「さて、どうだかね。案外、俺も初恋の爪痕にのたうち回ったかもしれない」
「でも忘れちゃったんでしょ?」
「そうだな。……もう思い出せもしない。その時はどれほど胸を焦がしたとしても、時が過ぎれば、傷ごとすべて去っていくものなのだろう」
こちらを見上げる瞳がはっと揺れるのが分かった。
惺壽は静かに、乙葉に視線戻す。
「そうして新しい恋を知るうちに、ふと気づくさ。真の恋情は、甘く、激しく、時に苦しく心乱すものだと。……それに比べれば、あの淡い恋心は恋とも呼べないままごとに過ぎなかった、と」
乙葉の唇が、なにか言いたげに薄く開いた。
しばらく間が空き、落ちたのは小さな呟きだ。
「……そう、かな……」
惺壽はそれには答えなかった。
決めるのは乙葉だ。自分ではない。
「なんにせよ、おまえの願いが強いものだったということは、よく分かった。その願いに応え、天乃原への戸が開かれたとしても不思議はなかろう。
「……じゃあ、なんでわたしが天乃原に来たのか、原因が分かったの?」
躊躇いがちな問いには、無慈悲だと承知しながら首を横に振る。
乙葉が天上を訪れた経緯について、一つの推測が、徐々に確信に変わりつつある。
だが確証を得たわけではない。
その段階で下手に希望を抱かせるのは酷だ。
「早く帰りたいのにな……」
あからさまに落ち込んだ細い肩を見下ろし、惺壽は一瞬黙考する。
「……戻ったところで、想い人が手に入るわけでもあるまい」
結局尋ねていた。決して嫌味ではない。純粋に心から湧き上がった疑問だ。
己にはなんの関わりもないと分かっていながら、口にせずにはいられなかったのだ。
それは乙葉も分かったらしく、俯いた横顔が不意に明るく笑う。
「だからよ。……嫌なことはさっさと終わらせなくちゃ」
「……そうか」
「そう。だから、なるべく早く元の世界に戻る方法を見つけて。お礼でも手伝いでも、わたしにできることはなんでもするから。お願い」
こちらをひたと見上げる瞳を、惺壽は無言で見下ろす。
乙葉はぱちぱちと怪訝そうに瞬いた。
そして突然、ずざざざっと音を立てて後ずさる。
「……つくづく突飛な娘だ。見ていて飽きることがない」
「だ、だってっ! またなんか変なこと企んでない!?」
「変とは?」
首を傾げると、やや離れた場所で仁王立ちしていた乙葉は、「へっ!?」と慌てている。
「変っていうのは……だ、だから、この間みたいに押し倒したりとかなんとか、そういうことで……い、言っとくけど、なんでもするの中にそういうのは含まれてないわよ」
「奇妙だな。たしかにあの夜は、俺を誘惑してその気にさせてくれると言ったはずだが」
「い、いちいちセクハラっぽい言い方しないで! あんなのは撤回です!」
顔を真っ赤にして乙葉が怒鳴る。
ころころと言うことが変わっている。まったく都合のいい娘だ。
「……おまえが強い想いを貫く相手は、俺以外の男というわけか」
聞こえなかったらしく、乙葉は不思議そうに瞬く。
「なんて言ったの?」
「……いや」
惺壽は短く答え、静かに立ちあがった。




