三章ー8話
はっと振り返る。
(惺壽……)
いつのまにか戸口に惺壽が姿を現していた。無表情だ。ただ眼差しは鈿女君を捉えている。
「惺壽。どこにいたんだい。鈿女君がいらっしゃっていたというのに」
息を吹き返したのか、責めるように言ったのは梛雉だ。
「少し出ていた。まさか、このような辺鄙な場所に客人があるとも思わなくてね。……ようこそおいで下さいました、鈿女君。ご来訪に気づきもせず、不作法な真似を」
こちらに歩いてきた惺壽が、鈿女君の前に立つ。
並んだ二人を見て、また、乙葉の胸がすこしだけ疼いた。
艶やかな美男美女だ。しっとりと落ち着いた雰囲気がよく似通っている。
背の高い惺壽を見上げ、鈿女君は嫣然と微笑む。
「お気になさらないで。突然訪ねてきたのは妾のほう。それに、もうお暇するところよ」
「それはいけない。まだ、なんのもてなしもしていません」
「ありがとう。けれど、まだ寄らなければならない所もあるから」
惺壽は淡々と頷いた。
「では、せめてもの償いに、そこまでお送りしましょう」
そう言い、さっさと湖のほうに歩いていく。
(あ……)
逆光の中に、白い装束の背が遠ざかっていく様が、ひどく眩しく見えた。。
「御機嫌よう、乙葉さん。……梛雉どのもお達者で」
「お優しいお言葉、胸に沁みます……」
最後ににっこり乙葉に笑いかけた鈿女君が、取って付けたように梛雉にも声をかけ、彼はひきつった笑みを返している。
乙葉が気の利いた言葉を返す前に、鈿女君は鮮やかな深紅の長裙の裾を翻した。
彼女が螺鈿の車に乗り込む間、惺壽は欄干のそばに立って見守っている。
やがて美しい天女の姿を隠すように、前方の御簾がするすると下ろされる。
惺壽の長身が光に包まれた。獣に変じた彼は、ぶんと頭を振って虚空へ四肢を躍らせる。
足音高く天空に駆け上がる麒麟を追いかけ、鈿女君と従者の行列を乗せた金色の巨大な雲もゆるやかに上昇していく。
乙葉は制服の包みを抱えたまま、欄干に走り寄った。
湖上に身を乗り出せば、鈿女君一行と彼らを先導する惺壽の姿はすでに小さく見える。
「やあ、速いねぇ。相変わらず」
いつの間にか梛雉が隣に並び、同じく空を仰いでいた。
「……そうね。逃げ足も速そう」
ぽつりと言うと、「そうかもね」と楽しそうな相槌がある。
梛雉の笑顔は明るい。なにも心配ではないのだろうか。
(……そもそも、わたしはなんの心配をしてるの?)
欄干についた片手をきゅっと握りしめても、答えは出ない。
「あ、帰ってきたみたいだね」
梛雉の声が上がり、乙葉もはっと空を見上げた。
白い雲の合間から、一頭の優美な獣がこちら目がけて駆けてくる。
部屋の欄干を飛び越したところで、麒麟の全身が白い光を放った。
並んで立つ乙葉たちからすこし離れた場所に、人型をとった惺壽が降り立つ。
「お帰り。早かったね」
にこやかに声をかけたのはやはり梛雉だ。
惺壽は彼をちらと一瞥しただけで、返事もせず、今度は乙葉に視線を移した。
薄青い瞳は凪いでいる。なんの感情も映さない。
乙葉も黙って彼を見返した。――だが、視線に耐えきれず、俯く。
「……お帰り」
ごくごく小さく言い、乙葉は踵を返した。
二人分の視線を背中に感じながらも、足早に室内をつっきる。
廊下に出てからは小走りだった。
寝室代わりの部屋に飛び込み、今朝と同じように後ろ手に木戸を閉める。
「……なにやってんのよ、わたし……」
惺壽に会うためにこの部屋を出たのに、結局、話もしないまま逃げ帰ってきてしまった。
だめだなぁ、と自分の額にこつんと拳を当てる。
「…………しおれちゃう……」
呟きがぽつりと、小さな部屋に落ちた。
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長裙を揺らしながら駆けていく小さな背中を見送り、惺壽は一つ息をついた。
「やっぱり乙葉嬢と喧嘩したみたいだね。仲良くやっているかと思ったのに」
視界の端で、やれやれというように梛雉が肩を落としている。
「無駄口を叩くための来訪ならば、即刻お引き取り願おうか」
「あれ……考えすぎかな。なんだか今日は皆が私に冷たい気がするのだけれど」
「ようやく気付いただけだろう」
言い捨て、惺壽は欄干に浅く腰かけた。梛雉は気にしたふうもなく笑っている。
「ひどいなぁ、相変わらず。……あ、そうだ。鈿女君が乙葉嬢を屋敷にご招待していたよ。残念ながら私はお供を禁じられてしまったから、君、必ず彼女を連れていってあげてね」
「……鈿女君に?」
「うん。昨日もお邪魔していたんだって? 道理で……乙葉嬢の装いが華やかだったわけだ。中乃国の風変わりな着物も似合うけれど、あの姿も花の精のように愛らしかったね」
ふと梛雉を見た。
「ん、なんだい? そんなに改めて見つめられると照れてしまうよ」
「……いや。相変わらず息をするように女人を讃えることができる男だと思ってね」
「はは。心から湧き上がってくる思いをそのまま言葉にしているだけだよ?」
梛雉は楽しそうに笑っている。この男にはあまり嫌味も通じない。
惺壽は呆れ交じりの息をつきながら、続ける。
「……それほど気に入っているのなら、いつでも引き取っていただいてかまわないが?」
「乙葉嬢を? まだ言っているのかい。それができるなら、とっくにそうしているよ。けれど君も知っているとおり、私の屋敷には兄や妹がいるから、彼女を匿うには不向きだよ」
一人でここに住み着いている惺壽と違い、梛雉は仲の良い家族と共に住処を構えている。
そして根っから社交的な鳳凰一族を訪れる客も多く、彼の屋敷はいつも賑やかだ。
小娘一人と言えど、存在を隠し通して乙葉を住まわせるのは困難だ。
「……ならば、さっさと中乃国に送り返すよう、手を打ってほしいものだね」
「もちろん。ゆっくりとだけれど、確実に事を進めているよ。沼垂主どのの企みを暴く日も近い。その暁にはきっと、乙葉嬢も中乃国に帰してあげられるだろう」
にこやかに頷いた梛雉を見つめる。そしておもむろに視線を外した。




