一章ー1話
一章
風にたんぽぽの花が揺れる。
学校からの帰り道。白羽乙葉は、人通りのない道路の端にしゃがみこんでいた。
「…………」
花びらのように色づいた小さな唇から、物憂げな溜息が落ちる。
――と、その時。
「怪しい」
突如所降ってきた声と共に、頭頂部にごすっと遠慮のない手刀が振り下ろされた。
衝撃で、乙葉の華奢すぎる小さな身体がよろめく。
乙葉はなんとか尻餅を免れつつ、振り返った。
背後でこちらを見下ろしていたのは乙葉と同じセーラー服を着た二人組の少女だ。
「いきなりなにすんのよ、志穂!?」
立ちあがった乙葉は噛みつくように叫んだ。
可憐だが、かなり威勢いい声が通学路に響き渡る。
すると二人組のうち、短髪のほう――遠山志穂は、中途半端に浮かせていた手を下ろした。
「今時、道端の草花を眺めて溜息つくとか、ただの不審者じゃん。いくら見かけだけは文句なしの美少女でも、他人が見たら絶対気味悪がるよ」
「……“見かけだけは”ってどういう意味」
「どうもこうも、あんた、中身は野生児っていうか、仔猫の皮を被った猛獣っていうか」
「ちょっと! こんなか弱げな美少女のどこが猛獣……!」
「まあまあ乙ちゃん落ち着いて。そのたんぽぽ、持って帰って天ぷらにしてみようか?」
志穂の隣にいたお下げ髪の少女がやんわりと口を挟んだ。
彼女は堤凪沙という。大人しくて優しいが、たまに予想の斜め上の発言をする。
「凪沙、乙葉は肉食だからそんな草なんか食べないよ。好き嫌いしてたから背も胸も大きくならなかったんだね、きっと」
「よけいなお世話よ、あっちもこっちも今から発展するの! そもそも食べようと思ってたんぽぽ見てたわけないでしょ、どんだけ食い意地が張ってんのよー!」
乙葉はぶわっと涙目になって怒鳴った。
たしかにこの十六年近く、自分は「美少女」という呼び名を欲しいままにしてきた。
上品に整った顔貌。華奢な体格。透き通るほど白い肌。
それらを際立たせる、ふわふわと背中に流れる猫っ毛の長い髪。
すこし上を向いた鼻が気の強さを表しているが、それを抜きにしても十分に清楚な美少女だ。
それは子供頃から変わらない事実であり――ずっと体型がささやかなままのも、同じく悲しい事実だった。
性格が見かけを裏切るのもまた事実だ。
小さい頃から気が強くて喧嘩っ早い。
なにしろ、この人目を引く容姿は、小さい頃からなにかとトラブルの素にもなりやすかったのだ。厄介事やら陰湿な女子の嫌がらせやら不審者の一人や二人やらは、自分で対処できなければやっていられなかった。
おかげで、なかなかに逞しい性格をしている自覚はある。
(だからってたんぽぽは食べない!)
ここにしゃがんでいたのは、ちょっと考え事をしていただけだ。
決して野草によだれを垂らしていたわけではない。
「あーもう……ちょっと考え事してただけなのに、志穂のせいで台無しだわ……」
乙葉はぐしゃぐしゃと自分の髪をかき回した。
すると凪沙が志穂と顔を見合わせ、そっと手を伸ばして、乱れた髪を撫でつけてくれる。
「乙ちゃん、なにかあったの?」
「……べつに」
「べつにってことはないでしょうよ。考え事苦手なあんたがなに考えてたって? つうか、今日こそ放課後に告白するって言ってたけど、その結果はどうなってんの」
「………………」
「あぁー……やっぱり……」
「なにがやっぱり!? 言っとくけどフラれてないからね!」
「じゃあOK貰えたの? わあ、よかったね乙ちゃん!」
憐れみ深い顔をした志保と反対に、凪沙がぱあっと顔を輝かせる。
乙葉は「う」と詰まった。
「……そ、そういうわけでもないけど……」
「は? どういうこと」
「……………………告白、してない……から……」
乙葉は今朝、今日こそ好きな相手に気持ちを伝えると意気込んでいた。
相手は、高校に入学したばかりの頃に一目ぼれした同級生の男子生徒だ。
だが――結局果たせず、今はこうして、逃げるように学校を後にしてきている。
(……どうしたら、いいのかしら……)
たった一歩を踏み出すだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。
「そっか。じゃあ今度は勇気出して言えるといいね。……ね、乙ちゃん。乙ちゃんは見た目も中身も可愛いんだから、自信持って」
足元に視線を落としていた乙葉は、そんな凪沙の声に、はっと顔を上げた。
いつも優しい笑顔の幼馴染の隣で、もう一人の幼馴染はしゃあしゃあと言う。
「化けの皮が剥がれないうちに既成事実作っといた方がいいだろうしね。相手が、乙葉を見た目通りに清楚で物静かなお嬢だって誤解してくれてるうちにさ」
「……誤解ってなによ、失礼ね……」
乙葉は唇を尖らせて、ぶつくさと呟いた。
性格のせいなのか、あまりに高嶺の花すぎるのか、こんなに可愛いのに恋愛の経験をしたことがない自分だ。
今まで興味を持てる男子にも出会わなかった。
そしてこの春、高校に入学して――初めて、男の子に胸をときめかせた。
嫌われたくなくて、彼の前では精いっぱい猫を被ってきた。
だから相手は乙葉のことを、見た目通りの大人しい物静かな女子だと思っているはずだ。
そう、努力してきた。自分なりに頑張ってきた。
志保も凪沙もそれを分かっている。
だから、気は強いくせに肝心なところで小心者の乙葉を、責めず、急かさず、さらりと受け流してくれたのだろう。
いつものように、からかいながら、励ましながら。
だからといって素直に「ありがとう」なんて言える殊勝な性格でもない乙葉だ。
(わたし……)
二人の気持ちにちゃんと応えるためには。――そう、決意を固めよう。
「乙ちゃん? 早く帰ろう」
志穂と凪沙はこちらに背を向けて、もう歩きはじめていた。
一人立ち止まったままだった乙葉は、肩越しに振り返る二人に頭を振ってみせる。
「……わたし、やっぱり学校に戻る」
幼馴染たちは瞬きし、それぞれに表情を緩める。
「分かった。じゃあ先に帰ってるね。頑張って」
「週末は予定開いてるから、ヤケ食いぐらいなら付き合ってもいいよ」
なんでフラれること前提なのよ。
乙葉はそう言おうとし、だが口を閉ざした。
「志穂はいつも一言多いのよ。……じゃ、行ってくる」
(大丈夫)
革靴が軽やかにアスファルトを蹴る。
(大丈夫。……絶対、うまくやれる)
鼓動が速いのは、なにも走っているせいだけではない。
志保たちと別れて、乙葉は今、来た道を学校へと引き返していた。
途中、ふと思いつき、石塀の角を曲がって通学路から逸れる。
傾き始めた陽が照らす閑静な住宅街をしばらく進み、再び立ち止まったのは、民家も途切れた人気のない一画だ。
そこには、林に埋もれるように石の鳥居が佇んでいる。根元の石柱には『鏡野神社』と彫られ、奥に伸びる古い参道には、生い茂る木々が鬱蒼と葉影を落としていた。
その石造りの参道を進むと、やがて丈高い木々に囲まれた場所に出た。
どうやらここが境内らしい。
中央には熊笹に囲まれた丸い小さな池があり、その畔に古い社が佇んでいる。他に参拝客もなく、裏寂れた雰囲気だ。
乙葉は池を回り込んで社の前に立った。
ここの存在は知っていたものの実際に足を運んだのは初めてだ。境内には葉擦れだけが響き、想像以上の寂しさだった。
(一回くらい神頼みしようと思ったんだけど……この様子じゃ、ご利益なんかなさそうね)
そう溜息をついた時、社の閉じられた格子越しに、古ぼけた丸い鏡が見えた。
あれがご神体のようだ。
鏡面にはキズや凹凸が多く、所々が白く曇っている。
縁飾りの彫刻はなかなか精緻だが、それよりも錆が目立った。ご神体らしいところと言えば、年季の入った紙垂くらいのものだ。
なんとなく興味を引かれ、爪先立って、薄暗い社の中をしげしげと覗き込む。
すると、鏡面越しに自分の顔と目が合った。
古ぼけてはいるものの、鏡面には、乙葉とその背後に広がる神社の境内が映っている。
「…………」
こちらを見つめる自分を、乙葉もじっと見つめ返した。
そして息を落とし、爪先立ちを止めた。肩に掛けた学校鞄から財布を取りだす。
「せっかく来たし、やっぱり参拝くらいしておくわ。お賽銭奮発するから、そのご利益分くらいはちゃんと働いてよ? ネコババしたら神社ごと燃やすわよ」
仮にも神鏡に向かって罰当たりな脅しをかけ、朽ちかけた賽銭箱に小銭を放り込む。
からからと乾いた落下音を聞きながら、居住まいを正して柏手を打った。
目を閉じた。柏手の音が木々の梢に高く反響している。
(どうか…………)
背後で激しい水音が立った。
「な、なに……っ?」
びくっと肩を揺らして振り返ると、池の水面で、さかんに小さな波が立っていた。
渦の中心で一瞬だけ黒っぽいものが水面に突き出し、また沈む。小動物の足みたいだ。
(え、猫? ……溺れてる!?)
乙葉は慌てて鞄を放り出して水際へ走った。革靴と制服が濡れるのもかまわず、池の中に分け入る。小柄な自分でも腰までしか浸からない深さだが、小動物が溺れるには充分だ。
「きゃ……っ!?」
足の裏から、水底の感覚が消えた。
がくんっと体勢を崩した乙葉は、一気に頭まで水中に沈む。
一拍置いて目を開くと、水面ははるか上方だ。ゆらゆらと自分の髪が水中に漂っている。
(うそ、この池こんなに深かったっけ……っ!?)
先ほどまではたしかに水底に足がついていた。池の直径も小さかったはずだ。
それなのに、今や青く通った視界には水底どころか岸も見えない。
乙葉がもがく度に幾つもの泡が上方に立ち上っていき、瞳を凝らしても、溺れていたはずのなにかの姿も見えない。
(とにかく水面に上がらないと……!)
乙葉は広げた腕でぐっと水を掻いた。
「――――っ!」
水飛沫とともに水面から顔を出すと、大きく開いた口から新鮮な空気が肺に流れ込んだ。
「……っ?」
不意に、足の裏が地面を踏みしめた。水底だ。
気がつくと乙葉は自分の足でしっかり池の中に立っていた。水深は相変わらず腰までだ。
「は、あ? どうなってるのよ、一体……死ぬかと思っ……」
ごほごほと咳き込みながら、水の雫で霞む目を開いた時。
岸辺に聳える大樹に、一人の男性が寄りかかっているのに気づいた。
(……誰……)
精悍で、けれど典雅な雰囲気を纏う男性だった。歳は二十代半ばくらいだろうか。冬の陽射しのような淡い金色の髪を一つに束ね、広い肩から胸に無造作に流している。
無表情にこちらを見据える怜悧な瞳。その色は、薄氷のような青。
逞しくしなやかな長躯に纏うのは古風な装束だ。白い着物に袖のない白い上着を重ね、長い足も白い細身の袴に包まれており、飾り気のない印象を与える。
ぱちぱちと瞬いた乙葉は、頬を伝う水滴もそのままに、ぐるりと周囲を見回した。
水辺は深緑の木々に囲まれていた。
枝葉の隙間から差し込むうららかな陽光は、地面で咲き乱れる花々と、そこかしこを飛び交う蝶々や小鳥を柔らかく包んでいる。
(……ここ、鏡野神社……よね?)
見慣れない景色に呆然とした時、男性がゆったりと口を開いた。
「上がってはどうだ」
笑みを含んだ、艶のある低い声だった。思わず背中に甘い痺れが走る。
(……誰なの、この人)