三章ー7話
話の繋がりに違和感のある方は、2015年11月15・16日の活動報告をご参照の上、三章5話をご覧ください。
お手数おかけします。
その背後から、女性が一人、進み出てきた。両手に布包みを捧げ持っている。
「お着物をお借りしたままだと黎珪から聞いたのよ。ごめんなさいね。妾の屋敷で、お客さまを追いはぎに合わせてしまうなんて」
苦笑のように鈿女君が眉を顰めた。
彼女自ら、制服を返すために出向いてきたらしい。
「き、気にしないでください。わたしのほうこそ、こんなきれいな服を借りちゃったし……あ、これを返さなきゃ。すぐ着替えて持ってきますから、ちょっと待ってて……!」
荷物を受け取った乙葉は、あせあせと今自分が着ている借り物を示した。
だが、鈿女君は緩やかに首を横に振ったのだ。
「それには及ばないわ。すべて、そのままあなたが持っていてちょうだい」
「え……そ、そんな。頂く理由がありません。返します」
「ご迷惑をおかけしたお詫びよ」
「わたしは迷惑だなんて思ってません。それに服を借りたのは鈿女さんにじゃないし……」
ムキになったように声を上げた。鈿女君が面白そうに軽く目を見張る。
それではっとし、恥ずかしくなって顔を伏せる。
「……す、すみません。失礼な言い方して……でも、やっぱりこれは、ちゃんと持ち主に返したいから……」
なにを意固地になっているのだ。
厚意を頑なに突っぱねるほうが却って不作法なのに。
それでも施しみたいに上等な着物や宝石を与えられるのは――なんだか惨めだ。
しかもその相手が圧倒的なほど美しい女性では、なおさら。
顔を上げられないでいると、そっと、白い繊手が頬に触れてきた。
「愛らしい方。そう悲しい顔をしないで。あなたをいじめている気分になってしまうわ」
戸惑って顔を上げると、鈿女君は大輪の牡丹のごとく艶やかに微笑んでいる。
「あなたが正直な方だということはよく分かりました。でも妾も譲る気はないの。その着物は、お詫びとして受け取ってちょうだいな」
乙葉は食い下がろうとした。
開きかけた唇に、ほっそりした指が押し当てられる。
「ただし、お詫びの品をどう扱おうと、それはあなたの勝手。たとえば、こっそり元の持ちたちに返してしまっても、もう妾には関わりのないことだわ。……そうそう、また妾の屋敷に遊びにいらしてくださる? そして今度は、妾ともお茶とお菓子をご一緒してちょうだい。天上のめずらしいものをたくさん用意しておくから」
「………………」
こくんと頷いた乙葉から、鈿女君の指が離れていく。長い爪は深紅に染められていた。
(なんか、大人……だな……)
自分とは格が違う。鈿女君は、その雅やかな姿に相応しい器を備えた女性だ。
――だめだ。この人には勝てない。
心の隅で、ちらっとそんな声が上がった。
(は、……勝つ? ……なんのために?)
我ながらなにを考えているのだろう。
こんな綺麗な人に張り合おうとするほど、自分はバカじゃないし、思い上がってもいない。
心からそう思うのに――なぜだろう。胸の奥深くがざわついて仕方ないのは。
自分でも不可解で、乙葉はぎゅっと布包みを胸に抱きしめた。
「すごいな、乙葉嬢。鈿女君直々に招待されるなんて。鈿女君を訪れる人は数あれど、お誘いを頂けるのなんて、ほんの一握りなんだよ?」
梛雉が人懐っこい笑みで言う。
その明るい笑顔に、ほっと肩のこわばりが解けた。
「そ、そうなんだ。……えっと、梛雉も来る? 惺壽は、頼んでも連れていってくれるか分からないから……」
移動は誰かを頼るしかない。そして惺壽は気まぐれだ。頼んでも承諾してくれるかどうか。
(それに……惺壽と一緒に行ったら、またハーレム作るかもしれないし……)
その光景を見たくないのだ。――なぜ? なぜかは分からないけれど。
だが乙葉の提案を一蹴したのは、当の梛雉ではなく、つんと冷たい声だった。
「梛雉どのはだめよ。しばらく妾の屋敷には近づけないでちょうだい」
「それはまた……なぜです?」
梛雉がぱちりと瞬きをし、美しい藤色の瞳が棘を含んで彼を見やる。
「“なぜ”? ……ほほ、無邪気な方ね。あなたがとうとう妾のお気に入りの歌姫を泣かせたこと、知らないとでも思っていらっしゃるのかしら」
「なにか誤解があるようですね。海琉姫の許へはご機嫌伺いにしか参っていませんよ?」
「では、あなたがあの子の許を訪れたという日から、あの子が歌えなくなったのはなぜかしら。 歌い始めると必ず泣き出してしまうの。恋歌ともなれば手に負えないわ」
返事に窮した梛雉は、あくまで笑顔だ。だが若干苦し気にも見える。
「妾の侍女たちをからかって回るくらいの悪戯には目を瞑っても、今度ばかりは許さなくてよ」
鈿女君のひと睨みに、室内の気温がすうっと下がった。
(あの梛雉を黙らせるなんて……強い……)
そして美女の怒りは買うものではない。傍で見ているだけでも震えがくる。
「それでは、乙葉さん」
「は、はいっ!?」
急に話しかけられ、声がひっくり返った。
鈿女君はにこやかさを取り戻している。
「妾は失礼するわ。必ず、また遊びに来てちょうだいね」
「え……と、でも、惺壽がまだ……」
惺壽はまだ姿を見せない。鈿女君の訪れが乙葉に制服を返すためだったとしても、顔も合わせずに帰ってしまうのだろうか。
「そうね。一目会いしたかったけれど……仕方がないわ」
鈿女君がため息交じりに長い睫毛を伏せる。
その表情に乙葉の胸の奥で痛みが走った。
「――おや。麗しい方にそう言って頂けると、なにか誤解をしてしまいそうだ」
抑揚のない声が、背後から響いた。