三章ー5話
ほっと肩から力が抜け、乙葉は無言で、自分の頬に手をやった。
火照っている。鼓動が速い理由も分からなかった。
黎珪が現れたことに安堵した半面、すこしがっかりした理由も同様だ。
「こちらにいらっしゃったのですね。お探ししておりました。実は先ほど、主に別の来客がありまして……」
たどり着いた黎珪が言葉尻を濁す。それだけで惺壽は頷いた。
「存じております。四阿から車が見えました。我々も、早々に退散しようと思っていたところですよ」
「え? なんで急に……」
「お客人の気を損ねるわけにもいくまい」
先客は自分たちだ。それなのに、なぜ後から来た客に気を遣って帰る必要があるのだ。
疑問が表情に出ていたのか、黎珪が恐縮したように頭を下げた。
「どうかご容赦くださいませ、乙葉さま。私共は、沼垂主さまのお怒りを買うわけにはいかないのですわ。主の沽券に関わります」
「ぬ、沼垂主!? なんであの蛙……じゃなくて、あの人がここに!?」
「それは……沼垂主さまが主に、並々ならぬ想いを寄せていらっしゃるからでございましょう。この屋敷には、そういう殿方が引きも切らずにおいでになりますもの」
姿勢を正した黎珪は口元に袖を押し当てて微笑んだ。
(沼垂主が鈿女さんに恋してるって……蛙の分際で……)
とても相手にしてもらえるとは思えない。ご愁傷さまだ。
「たしかに、早く帰った方がいいわね。惺壽、ちょっとだけ待ってて。わたし、着替えてくるから」
すぐに頭を切り替えた乙葉だが、今度も黎珪に平謝りされてしまう。
「申し訳ありません、乙葉さま。乙葉さまのお着物をお借りしているこの姿が、なぜか先ほどから見えなくなっておりまして」
「え……そうなんですか」
乙葉の制服は、今、先ほどの少女たちの一人に貸している。
黒髪を二つの輪っかに結った子だ。
ちょうど体格が似ていて、着てみたいと言ったのだ。
「心配ですね。探すの手伝いましょうか?」
「いいえ、それには及びません。ですから、どうか、このまま惺壽さまとお帰りくださいまし。
お着物は後々、必ず、お屋敷までお返しに参りますから」
黎珪に再び深く頭を下げられる。
どうしても沼垂主と惺壽を鉢合わせさせたくないらしい。
二人の過去の因縁から、気を遣ってくれているのだろう。
彼女たちだって、心情的に引き留めたいのは惺壽のほうだろう。
それでも軍配が上がったのは沼垂主だ。
それは、ひとえに雲乃峰で得た権力のおかげ。
乙葉はきゅっと唇を噛んだ。
「……分かりました。制服のことは気にしないでください。戻ってこないと困るけど、すぐにじゃなくてもかまわないから」
「お心映えに感謝いたします。それでは、ごめんくださいませ」
涼やかな美貌をほっとしたように緩めた黎珪は、一礼し、小道を引き返していった。
「帰るぞ」
端的に言った惺壽が麒麟に変じる。
乙葉はその背に跨り、舞い散る李の花びらの中を、青空高く舞い上がった。
惺壽の四肢が虚空を蹴る度、深紅の長裙の裾がひらひらとあざやかになびく。
「……ねえ、惺壽。もしかして昔、沼垂主と揉めたのって……鈿女さんに理由があるの?」
「ご想像にお任せするさ」
曖昧な返答。だが、否定をするわけではない。
(やっぱり、正解なのかしら……)
昨日、沼垂主は惺壽を目にした時、明らかに怯えていた。
そして急に居丈高な態度になった。
まるで自分を大きく見せようとするみたいに。
それはなぜ?
沼垂主が惺壽になんらかの恐怖心を抱いているからだ。
たとえば、恋心を寄せる鈿女君を惺壽に奪われるかもしれないから、とか。
(たしかに惺壽がライバルだったら、勝てる気はしないだろうし……)
大して沼垂主は蛙崩れの小物男だ。いくら権力を持っていても、鈿女君自身が天照陽乃宮のお気に入りである以上、それが魅力的な切り札になるとは思えない。
――やっぱり、お二人は忍ぶ仲だということなんじゃない?
不意にそんな声が耳元によみがえった。
乙葉は惺壽の背についた手をぎゅっと握り、声を追い払うように話題を変える。
「ところで、わたしが天乃原に来た理由、なにか分かった?」
「おや。忘れていなかったとはね」
「当り前よ。一秒だって早く帰りたいと思ってるんだから。……できれば、沼垂主は頼りたくない。来た理由が分かれば、帰る方法も分かるかもしれないでしょ」
沼垂主は“乙葉”に気づいていない。
ということは、他のなんらかの理由で乙葉は天乃原に来た。
そこに元の世界に帰るためのヒントがある。
卑怯で色ボケした蛙男を頼るのは、本当に本当に最後の手段だ。
「乙女の頭の中をタダで覗き見したんだから、その分はきっちり働いてよね」
すべて乙葉のためにしてくれたことだが。
そういうのを全部棚上げして言うと、かすかなため息が聞こえた。
どこか疲れたようなそれに、乙葉はちょっと目を瞬かせる。
「……なに。どうしたの?」
「さて。どうだかね。……おまえは鏡乃社に詣でた最中だったと言っていたな」
天乃原に来る直前の、乙葉の行動について言っているのだろう。
「……そう、だけど」
「天人に所縁がある社からは、天乃原への道が開かれやすい。お前がこちらに来たのは、なんらかの理由で長年閉ざされていた戸が開かれたと考えるのが妥当だ」
「なんらかの理由って?」
「常ならば人の願いだ。中乃国の人間は、天人を“神”と崇め、敬い、時に縋るものだろう。その強い思いは時に天乃原へ道を作ることがある」
そうだったのか。
たしかに神社に参拝するたいていの理由は、“神さま”になにかを願う時だ。
「常ならば……ってことは、今回は当てはまらないの?」
「それはぜひ、俺もお聞かせ願いたいところだね」
「何が言いたいのよ?」
のらくらした返答にむっとする。
惺壽は息を落とすように答えた。
「おまえは、意中の男に想いを告げる道中、社に参ったと言っていたな」
「……ええ」
「そんな乙女が――“捨てられますように”と願った理由が分からない。天乃原への戸を叩くほどに、強く」
乙葉は凍り付いた。