三章ー1話
三章
朝日の中、乙葉は床の上にむっくり起き上がった。
ため息をついて立ちあがる。
寝る間も着たままだった制服に見苦しいほど大きな皴は見当たらず、肌も髪も清潔だ。天乃原を満たす神気のおかげらしい。そうそう不潔にはならないようだ。
革靴を持って部屋を出た。
いつもの湖面に面した部屋へと長い廊下を歩き、適当なところで靴を履いて外に降りる。
そのまま建物沿いに進んでいくと、狙い通り湖の畔に出た。
横を見れば、やや高い位置に欄干があった。
ここは、例の部屋の隣なのだ。
こうして外から見ると、壁のない部屋は、露台のように湖に張り出しているのが分かる。
ゆるやかに傾斜した水際ぎりぎりまで進んだ乙葉は、しゃがみ込んで、両手で水を掬った。
透き通ったきれいな水だ。
それを確認し、ぱしゃっと顔を洗う。
息を吐きながら顔を上げれば、濡れた頬に朝の風が少し冷たい。
スカートのポケットからタオルハンカチを取り出し、水滴を拭いながら、ふと呟いた。
「そういえば、惺壽ってお風呂とかはどうしてるのかしら……」
「沐浴ならばおまえと同じように済ませているが、それがなにか?」
「わ……っ」
突然頭上から降ってきた声に飛び上がりそうになった。
欄干に後ろ向きに腰かけた惺壽がこちらを見下ろしている。
「い、いたの。おはよう……わたしと同じようにって?」
立ちあがりながら尋ねると、惺壽は無言で、ちらりと視線を遠くに投げた。
行方を目で追えば、目に映るのは青く澄んだ湖だ。
「湖がお風呂代わり? ……見かけによらず、野性的なことしてるのね」
「半分は獣だ。必要なら、おまえも気兼ねなく済ませるといい」
「え、えーと……せっかくだけど、遠慮しとくわ。さすがに誰かに見られたら……ていうか、惺壽に覗かれる可能性大なのに、悠々とお風呂を楽しむ気分には……」
「それは失敬。気が回らなかったようだ。沐浴を装って誘わなくとも、お望みとあらばいつでもお相手致しますよ」
「そんな話はしてませんっ!」
真っ赤な顔で怒鳴った。
乙葉を面白そうに見下ろした惺壽が、欄干から立ちあがる。
「さて、日課も無事に終えたことだ。……そろそろ出かけようか」
日課ってなんだ。まさかこのセクハラまがいのからかいのことか。
惺壽が麒麟に姿を終え、ふわりと飛び降りてきたから、乙葉は目を瞬かせた。
「出かけるって……わたしも? 連れてってくれるの?」
「昨日のように縋られても厄介だ。無為な徒労は極力避けたい」
少し前肢を折って、小柄な乙葉が背に乗りやすいように屈んでくれる。
乙葉は一瞬、まごついてしまった。
なんだろう。いつものように嫌味を言われているのに、とても嬉しい。
「……じゃ、じゃあ、遠慮なく。お邪魔します……」
頬が熱い気がして、惺壽に顔を見られる前に、そそくさと彼の背に跨った。
目線がぐんと高くなり、一呼吸おいて惺壽が虚空を蹴った。
たちまち風が頬を切る。
「どこ行くの?」
「着けば分かる」
向かい風にふわふわと髪をなびかせ、乙葉は白い雲の海を見渡した。
その時、雲と雲の合間でなにかがちかりと光を放ったのに気づく。
(なにかしら、あれ。なにかの……屋根?)
建物があるようだ。
少し伸びあがった乙葉に応えるように、折よく雲が切れて、視界が開ける。
「わ、街がある……!」
垣間見えた建物は、賑やかな繁華街にそびえる一棟だったのだ。
もちろん雲の上に広がる街だ。
朱や翡翠色で彩られた建物が、紅灯の吊られた大路を挟むように並んでいる。
まっすぐ伸びる大路には、行き交う多くの天人たちの姿が点のように見えた。
まさしく雲上の都。
風情ある街を囲むように、雄大な山河もある。
「水を差すようだが、目的の場所ではないぞ」
はしゃいでいた乙葉は、そんな冷静な忠告に唇を尖らせる。
「分かってるわよ。あんなに人の多いところに行って、わたしが人間だってバレたら大変だし。でもせっかく来たんだし、異世界の楽しい思い出も作っときたいわ」
「物見遊山に来たわけではあるまいに」
「こうなったら開き直るしかないでしょ。もう来ちゃったものは仕方ないんだから」
「身も蓋もないが道理だ」
惺壽はいっそう速度を上げた。
雲上の都が遠ざかっていく。
白雲には、一頭の疾駆する獣の影法師が映るだけだ。
「まだ遠いの?」
尋ねた直後だった。唐突に雲海が途絶えた。
ぽっかり穴が開いたように、青い空中が開けている。
そこには一つの巨大な雲が浮かんでいた。
「………………すごい。お城みたい」
乙葉はひたすらぽかんと、雲の上に聳える荘厳な建物を見つめた。
絵本で見た竜宮城みたいな建物だ。
周囲を城壁のような白い塀に囲まれている。
ちょうど乙葉たちの真正面に両開きの門扉が設けられ、その朱色の門扉ですら見上げるほど大きい。
(どんな人が住んでるのかしら……)
不意に、ぴったりと閉じられていた門扉が静かに内側に開かれた。
足を止めていた惺壽が、ゆっくりと走り始める。
「勝手に入って怒られない?」
「招いているのはあちらのほうだ」
尻込みしつつ尋ねたが、惺壽の返事はあっさりしたものだ。
緩やかな速度で二人は門扉の合間をすり抜ける。
門の向こうには、百花繚乱の花園が広がっていた。
「…………季節に関係なく花が咲いてる……?」
はらはらと花びらをこぼす桃の花。
すっと凛々しい菖蒲。
甘い匂いをふりまく金木犀に、よく手入れのされた椿の生垣。
それぞれの四季の花々がなんの違和感もなく咲き誇っている。
花園の一角には小さな池もあり、その上には湾曲した深紅の橋が架かっていた。
池の水面に飛沫が立った。目を凝らせば、錦鯉のような魚が悠々と泳いでいる。
大きな蝶々がふわりふわりと視界を行き過ぎ、まるで桃源郷のような風景だ。
「鈿女君が丹精込めて整えた、ご自慢の園林だからな」
「鈿女君? ……あ、ごめん。すぐ降りるわ」
石畳に四肢をついていたことに気づき、惺壽の背から慌てて降りる。
その背後から、ぱたぱたと複数の足音が走り寄ってきた。
「ようこそお越しくださいました、惺壽さま」
若い女性の声だ。振り返ると、二、三人の女性たちが屋敷の方からやってくる。
年頃にばらつきはあるが、皆、似たような袷の古風な上着と、襞のある長いスカートのような下ばきを身に着け、幅の広い帯を巻いていた。髪の結い上げ方もそれぞれに個性的だ。
「鈿女君にお目通りを願えますか」
人型を取った惺壽が、女性の一人に声をかける。
口調は丁寧だが、昨日、沼垂主に大した時のような慇懃無礼さはなく、もっと砕けて親しみのある声だ。
だが尋ねられた女性は、惺壽ではなく乙葉の顔をじっと見ている。
他の人たちも同様だ。
(……? あ、まさか)
不思議そうに向けられる視線に、慌てて惺壽の陰にさっと隠れた。
(人間だってバレたんじゃないの?)
惺壽の顔を不安げに見上げる。彼もすこし顔を傾けて、こちらを見た。
視線が合うと、唇の端にかすかな笑みが刻まれる。