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二章ー9話

 その夜。


 空は濃紺の色に染め抜かれ、幾千もの星々と銀色の月が輝いている。

 惺壽は湖面に面した馴染みの部屋で、いつもの場所に腰を下ろし、夜風に淡い金の束ね髪をなびかせていた。

 室内は静かだ。ときおり水面がざわめく音だけが響いている。

 闇の向こうから重厚な羽音が響き、伏せていた目をゆっくりと上げる。

「御機嫌よう。乙葉嬢の姿が見えないけれど、まだ喧嘩しているのかい?」

 朗らかに響く声。

 室内に舞い降りた鳳凰が、月光を背に、きらびやかな青年の姿を取る。

「夜更けに出歩く不埒者はお前くらいのものだ、梛雉。……小娘の子守を押し付けて、今夜はどちらの美女を泣かせてきたのか、ぜひお聞かせ願いたいね」

 惺壽は冷ややかに目を細めた。

 昼間の疲労と心労がこたえたのか、乙葉は早々に床に就いている。

 それを除いても夜が更けて長い。梛雉の訪れはあまりに時間外れだ。乙葉の面倒を見る気があるのか、ないのか。

 だが、丹精込めた皮肉を言ったところで、当の本人は暢気なものだった。

「人聞きが悪いな。私は一度も女人を不幸にしたことなんてないのに。……でも、そう。喧嘩についてなにも言わなかったということは、乙葉嬢とは仲直りをしたんだね。よかった」

 皮肉を躱された挙句、逆に揚げ足を取られて、惺壽は肩を竦めた。

「たまたま、あの娘と沼垂主が顔を合わせた」

「え」

「互いに互いの存在に気づいていなかった。あの様子では、人目を憚る芝居とも思えない。……やはりおまえの推論は、空理でしかなかったということだろう」

 

 あの二人は初対面だとしか考えられなかった。

 乙葉はともかく、沼垂主が意図をもって人間を天乃原に呼び寄せたのなら、異なる様子を見せたはずだ。素知らぬふりができるほど腹芸に長けた男でもない。


 「ええと、それはまあ想定の範囲内ではあるけれど。……あの二人が出会ったということは、沼垂主どのが、この屋敷を訪れたということ?」

「出かける間際に追いすがられて、あの娘を連れて出る羽目になっただけだ」 

「ああ、そうだろうね。……え? ということは、君、乙葉嬢を背に乗せたの?」

 惺壽はちらりと視線を上げた。

「やかましくとも愚かではないと思っていたが、どうやら買い被りすぎていたらしい」

「あ、ごめん。聞くまでもないことだったね。すぐには信じられなくて……」

 気まずそうに口ごもった梛雉だが、すぐにくすくすとおかしそうに忍び笑った。

「へえ。乙葉嬢は惺壽に乗ったんだ。さすが、君の頬を張り飛ばした女性だね」

 なにかあらぬ方向に誤解をしていそうだが、惺壽は黙殺に留めた。

 なにを言ったところで、この男にとっては弁解にしか聞こえない。

 躍起になっていると思われるのも不本意だ。

「天虎に襲われた、と言っていたが」

 代わりにそう言うと、梛雉はぴたりと笑いを収めた。

「襲われたって、沼垂主どのが? ……それはまた……珍しいね……」

 

 そう、珍しい事態だ。

 天虎は十数頭で群れを作り、単頭で行動することはまずない。

 人が滅多に近寄らない岩場や、辺境の森に住処を定め、必要な時、必要な分だけ、群れ一丸となって狩りをする。

 よほど飢えてでもいない限り、むやみな殺生は行わない。

  

 その天虎が、たった一頭で、明らかに沼垂主に狙いを定めたのだ。


 もし腹が減っていたのならば、車から落ちた沼垂主には目もくれず、その場に残った従者たちを屠ればいいだけのこと。執拗に一匹の獲物を追い回すなど尋常ではない。

(極めつけは、あの娘にも牙をむいた、と……)

 天虎は乙葉にも狙いを定めた。そばに双角である惺壽がいたにもかかわらず。

 妖獣といっても知能の高い種族だ。

 敵わぬ敵に遭遇すれば速やかに忌避をするはずだった。

 だが、天虎は乙葉にも襲い掛かった。

 惺壽に手ひどくあしらわれ、逃げ去る際の、憎悪に燃えた天虎の瞳。

「…………」

 二度と血迷った真似をしないよう、天虎には相当な痛手を与えた。

 絶命するほどの深手でもないはずだが――無事に傷を癒す塒にたどり着いただろうか。

(……この性分も因果だな)

 自分自身を情が深いとは思わない。

 むしろ醒めた性質だと自覚している。

 その証のように、惺壽は今までなにかに固執したことはなかった。

 

 多くの貴人たちが目の色を変える、名声、富、権力。

 ほかの何物さえ目に映らなくなるような、激しい恋情。

 

 ――経験したことがない。欲しいと思ったことも。

 

 たしかに美女たちとの艶事は刺激的だ。

 色めいた駆け引きが難解になればなるほど、熱く胸を焦がしもする。

 だがそれも一時の征服欲だ。過ぎてしまえば後にはなにも残らない。


 不実、あるいは冷淡――惺壽は紛れもなくそういう性分だ。


(だというのに、己で打ち払った獣を、わざわざ案じなくてはならないとはね)

 敵を撃退しただけだ。

 罪悪感を抱く必要も、天虎を心配してやる義理もない。

 頭ではそう理解していても、仁獣という生まれながらの性がそれを許さないのだ。

「……おまえは? 雲乃峰で、沼垂主について分かったことはないのか」

 埒もない思考を断ち切り、尋ねる。

 珍しく眉間を寄せていた梛雉は、はっとしたように「ああ、うん……」と頷いた。

「鳳凰が饒舌な囀りを忘れるとは珍しい」

「私だって言葉に迷うことはあるよ。とくに女性の前ではね……っと、じゃなくて。……うん、沼垂主どののことだよね」

 いつもの無駄口を復活させつつ、なんとか話が本題に戻る。

「とくに変わったことはないみたいだ。ただ、月読乃宮から直々に勅命を賜ったという噂を聞いた。内容までは分からなかったけれど、近々のことだよ」


 月読乃宮と言えば、天乃原の夜を統べる貴人中の貴人だ。

 その月読乃宮が沼垂主になにかを命じるのは、さして珍しいことではない。

 あの 強きにへつらい弱気を虐げる天乃浮橋の番人は、月読乃宮の側近、またの名を腰巾着だからだ。


「……“噂”の出所は、相変わらずの寝物語か?」

 ちらりと冷たい目を向けると、梛雉は屈託なく笑いながら「えー?」と首を傾げた。

 やはり誰かを――おそらく沼垂主に仕える下女あたりを誑かして、話を聞きだしたらしい。それが梛雉の常套手段だ。この深更の来訪といい、長引く何かがあったのだろう。

(沼垂主は、人間が天乃原に迷い込んだことを把握していないと思って、間違いはない……)

 だが、天上と地上を結べるのはあの男だけ。

 そして異様な行動を見せる漆黒の妖獣、天虎。

 この両者を結ぶ謎。その答えは?

 

 そして、そう―――あの娘がもたらした、新たな謎も。


 先ほど乙葉の心に同調した時に見えたもの。

 鏡乃社に向かって手を合わせ、静かに目を閉じ、心の中で唱えた言葉。



『どうか――………………捨てられますように……』

 


 祈りの言葉を理解できない。

「惺壽、私はそろそろお暇するよ。また今度、次は乙葉嬢の花の顔を拝める刻限に来るから。それじゃあね。御機嫌よう」

 俯いて黙考していると、梛雉は辞去を告げ、さっさと鳳凰に変じて夜空に舞い上がった。

 月夜に羽音が遠ざかっていく。

 惺壽はもう一度、息をついた。

(あれも厄介な男だ)

 それに加えて、あの中乃国の娘。 

(……どうやら、とんだ性悪だったようだな)

 天上の美女たちと数々の浮名を流してきたこの自分を手こずらせるとは、青臭い初心な小娘に見えて、その実、なかなかに油断のならない娘かもしれない。



*     *      *



天乃原を支える中枢、雲乃峰。

その白亜の宮城の回廊を、沼垂主は一人、憤然と歩いていた。

「あ、あの男、妻を迎えるだと……!? この期に及んで、どの面を下げて……!」

恨み言が、円柱の柱が支える天井に低く反響している。――と、柱の陰から。

「御機嫌よう、沼垂主どの。そんなに思いつめた顔をなさってどうなさったのです?」

 絢爛な衣装を細身にまとった青年が、にこやかに姿を見せた。

 沼垂主は口をひん曲げる。現れたのは、自分が大嫌いな部類の男だからだ。

「何の用だ。珍しい。……む、さては儂を笑いにきたのか? あの男が若くて可愛い女子を妻に迎えると知って、儂が妬むとでも思ったか!」

 その様を笑いにきたに違いない。

 なにしろこの青年は、あの男と長年の友なのだ。

 だが青年は、驚いた顔をして尋ねたのだった。

「妻……とは、もしや今、彼が手元に置いている可憐な乙女のことですか?」

「他に誰がおる! いくら眺めとったって、儂は妬んだりはせんぞ! 早う去ねぃ!」

 声を荒げる沼垂主を物ともせず、青年は冷静に考え込むように口元に手を当てる。

「……彼が、娶るほどに彼女を気に入ったとは知りませんでした。これはいけない」

「……ん?」

 本格的に様子がおかしいと気づき、眉を上げた沼垂主に、さらに青年が歩み寄ってきた。

「私は彼とは長い友人ですが、さすがに今度ばかりは彼をを祝福するわけにはいかない。思いとどまらせなければ。……どうか、沼垂主どのにもお力添えをいただけないでしょうか」

 右手をそっと両手で握られた。

 憎いほど整った美貌が控えめに微笑みかけてくる。

 男相手だ。嬉しくはない――はずなのに、なぜか頬がほわんと熱くなった沼垂主だ。

「ち、力添え? ふん、なぜ儂があんな男のために」

「しかし、これはあなたにも関わりのあることですよ」

 動揺を隠そうとして胸を張ったが、それも途中で遮られた。

「実はあの可愛らしい乙女は、中乃国からやって来た人間のお嬢さん――ですから」

 内緒話のように身を屈めてきた青年が、耳元にくすぐったい囁きを落とす。

目前で彼の朱金色の髪がさらりと揺れ、沼垂主の顔から血の気が引いた。


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