二章ー8話
「沼垂主があそこまで嫌な奴だとは思わなかった……」
左右を白雲の波が過ぎていく。
麒麟姿に変じた惺壽に跨り、乙葉は雲海上を駆けている最中だった。
「なんていうのかしら、こう……小物? どんだけ計算高くて腹黒で手ごわそうな奴かと思ってたら、あんなのただのエロ蛙じゃない。小物感丸出し」
独り言のつもりでぶつぶつ言っていると、意外にも惺壽の合いの手が入った。
「そのわりに、たいそう愛らしく媚びを売っていたようだが」
「やりたくてやったわけじゃないわよ。ただ、命令を直接断るより、ああやって撤回させた方が面倒事になりにくいでしょ。あとからヘンな因縁つけられても嫌だし」
惺壽の態度はあくまで礼儀正しかった。
少なくとも建前上は、沼垂主を敬う姿勢を貫くつもりだったのだろう。
だとしたら、たとえ理不尽な命令であっても、頑なに拒絶するより、本人に取り下げさせる方が角が立たないはずだ。
そういうわけでの、乙葉のあの泣き真似攻撃である。
我ながら迫真の演技だった。
「おや、俺のためだったとは光栄だ。だが心配いただかずとも、それなりにあしらったさ。ああいう手合いをまともに相手するほど、懐深くはないのでね」
「……知ってる。道端の生ゴミにたかる蠅を見るような目をしてたもんね」
乙葉は頷いた。あの時、惺壽の横顔を見上げてすぐに悟ったのだ。
――ああ、この人、これっぽっちも沼垂主に関心がないんだな、と。
(傲慢っていうか不遜っていうか……これもある意味、性格悪いって言えるんだろうけど……仮にも昔ひどい目に合わされた相手に、あれほど冷静にしてられるものなの?)
惺壽は沼垂主に価値を見出していない。
徹底的に見下しているのだ。真面目に取り合う気もしないほど。
たしかに沼垂主に尊敬の余地は見いだせなかった。
それでも惺壽にとっては、過去に一悶着あった相手だろう。
内心はどうあれ、あれだけ慇懃に振舞える胸の内は窺い知れない。
「それほどの言われようとは傷つくな。おまえとて、他人をとやかく言える筋合いか?」
「これっぽちも傷ついてないくせに。……筋合いって、なんのこと?」
「その口の悪さを覗かせもしない、芝居だよ。あれほど白々しく純情ぶられると、普段の可愛げのなさを知る身としては、いさかか居心地悪くもあったが」
「褒めるのか貶すのかどっちかにして」
「手放しの賛辞だが? 常々あれくらい淑やかにしていれば、どんな男の心を捕らえるのも、さして難しくはあるまい」
からかうような声音だった。
乙葉はぷいっとそっぽを向く。
「……わざわざ惺壽に教えてもらわなくても、そのくらい分かってる」
「それは失敬。面と向かって大胆な誘いをかけられたのでね。もっと根本的な男の扱い方は知らないのかと、少々心配になったもので」
「う……」
たしかに、あんな果たし状みたいな宣告をつきつけなくても、もっとか弱く振舞っていれば、惺壽も同情して手を貸してくれたのかもしれない。
「……ふ、ふふん。いいわ。誘惑なんてしなくても、惺壽には貸しを一つ作ったから」
「貸し?」
「さっき沼垂主を撃退してあげたじゃない。そのお返しに、わたしがさっさと中乃国に戻れるよう協力してよ」
「なるほど。……さて。目の前でおまえが天虎に食われるところをただ眺めていれば、その借りを作ることもなかったわけか。どうやら下手を打ったようだ」
「ぐ……」
そうだった。特大の借りを作ったのは自分のほうだ。
しかもまだ礼も言っていない。
そして、この流れで思い出したように言うのもきまり悪い。
「……た、助けてくれてありがとう。本当に感謝シテマス……」
「心のない謝辞、痛み入る。だが麒麟は仁の獣だ。手のかかる小娘と言えど、食い殺されるのを黙って見ていられる性分ではなくてね。感謝されるほどのことでもない」
「……あっそ。感謝しなくていいなら、借りに思う必要も無いってことよね? じゃあ、やっぱりわたしには一つ貸しがある」
「さて。沼垂主の魔の手から救ってやったことは存分に感謝されようか」
「あ、あれはー……惺壽も勝手にわたしのことを妻にするとか言ったし、人前で堂々とセクハラしたし、おあいこってことで!」
「あいにく中乃国の言葉に馴染みはなくてね」
「あっ、セクハラ? ……ええと、絶対やっちゃいけないことよ! そのセクハラを惺壽はしたの! だからわたしには貸しが一つある! これでどう!?」
我ながらごり押しだ。ひそかに冷汗をかいている。
惺壽も呆れたのか、しばらく沈黙していた。ややあって小さく呟く。
「…………さして関わりがあるとは思えないが……」
「え?」
意味が分からず、乙葉は目を瞬かせた。
だが惺壽はそれには答えない。代わりに、ため息交じりにこう言ったのだ。
「どれほど力になるかは不明だが、借り分くらいは骨を折ろうか」
「本当に!? や、嘘だって言われても困るけど! ……ど、どういう心境の変化……?」
「そちらに殊勝な礼を言われた以上、こちらが礼を欠くわけにもいくまい」
いつもどおり、飄々とした返事がある。本当のところはどうだか分からない。
乙葉は身体をすこし前に倒し、横から惺壽の顔を覗き込んだ。
「ありがと。……助かる」
薄青い瞳がちらりとこちらを見、また前を向く。
「日頃からそれくらい機嫌よく願いたいものだね」
「惺壽が怒らせなきゃいいのよ。……早速だけど、沼垂主はわたしが人間だって気づいてなかったわよね」
「そのようだな」
内心ほっとした。
少なくとも惺壽には、自分と沼垂主は結託していないことを信じてもらえたようだ。
「じゃあ、次の質問。それはどうしてだと思う?」
「さて」
「早いわね。真面目に考えてる?」
「心当たりがないものは答えようがないだろう。沼垂主が意図的におまえを呼び寄せたわけではない。それならば、あるいは……」
心当たりがないと言いながら、なにか考えがあるらしい。
「……天上に迷い込む直前、おまえはなにをしていた?」
「……え」
「どのような場所から、なにを行い、ここへやって来た」
「それは……」
乙葉は言い淀んだ。
怪訝に思ったのか、惺壽がすこしこちらを振り返る。
「なんだ。本当に仄暗い事情でも抱えていたとでも?」
「ち、違うわよ。……わたし、は、……神社に参拝して、気づいたら、ここにいて……」
「神社……社か。名は?」
「鏡野神社。……知ってるの?」
そういえば梛雉に尋ねた時も、心当たりがあるような素振りだった。
「かつて天乃原と中乃国の交流が開かれていた御世、ある天人が中乃国を訪れた際、天からの客人を迎えた人間たちが、彼の天人を崇め、敬い、祀るために開いた社だと聞いている」
「え、そうなの? じゃあ鏡野神社の神さまって、やっぱり天乃原の天人なんだ」
「遠い昔の話だ。その天人は不運にも地上で病を得て、天上に舞い戻った。すでに生を終えている。……願いの内容は?」
「え?」
「鏡乃社に、なにを願ったのかと聞いている」
乙葉はまたしてもすぐに返事ができなかった。
「……神社には、好きな人に告白に行く前に寄って、そのことについてお願いを……」
精いっぱいの抵抗とばかりに遠回しに答える。
変な間が空いた。
「…………それはそれは」
「な、なによ。わたしがそんな理由でお願い事しにいくのは意外だって?」
「まだなにも言っていないだろう。早まりは己を滅ぼすだけだ」
くつくつと愉快そうに笑われ、乙葉は真っ赤な顔で口を噤んだ。
(……まだ言ってないだけで、なんか言うつもりだったくせに)
意地の悪い惺壽のことだ。からかうつもりだったに違いない。
「だが、無駄足を運んだやも知れないな」
「無駄足って……鏡野神社に行ったことが?」
「鏡乃社の祭神は、とうに天乃原に戻っていた。だとすれば、社はもぬけの殻だろう」
「ああ……そういうことになるわね」
「いくら熱心に詣でたところで、そもそも願いを聞き届ける相手がいない。となれば、無駄足だったわけだ」
茶化すような言い方だった。
やっぱり乙葉が神社に足を運んだ理由をからかいたいのだ。
「……べつに、いいわ。本気で神頼みしにいったわけじゃないから」
素っ気なく言い捨てて、説明を再開する。
「それでね。お参りの途中で池に入って、溺れたの。それで浮き上がったら天乃原にいた」
「なぜ、池に?」
「なにか溺れてたのよ。よく見えなかったけど、たぶん猫かなにかだと思う……」
とうとう姿は見えずじまいだった。あの溺れていた動物は無事だろうか。
ぼんやりしていると、白い雲の海の合間に、深い緑色が見えた。
惺壽の屋敷を囲む森だ。無事に帰り着いたらしい。
「……どう思う?」
「お前の記憶を辿る」
「え……き、記憶を辿るって、神社に参拝した時の記憶を!?」
面喰った乙葉を背に乗せ、惺壽は一路、屋敷を目指して下降し始めた。
「話を聞くだけではどうにも心許ない。おまえの心に同調し、記憶を辿る。お前が見た景色と同じものを見れば、すこしは要領も得られるだろう」
抵抗の間もなく、惺壽はふわりと欄干を飛び越えた。
降り立ったのは、いつもの湖に面する部屋だ。
促される前に自分で惺壽の背を降りた乙葉だが、動揺をこらえきれずにいた。
「さて――難儀ではあるが、始めようか」
硬直した背中に、そんな静かな声がかかった。
振り返ると、さっさと人型になった惺壽は、定位置――敷物の上に座っている。
「座れ」
脇息に頬杖をついた彼は、顎をしゃくって自分の前を示す。
「……記憶を辿ったら、あの時わたしが考えてたことを全部、惺壽に知られるの?」
「試さなければ分からない。俺とおまえがどれだけ同調できるかは、相性に左右される」
「……わたしと惺壽の相性って、最悪だと思うんだけど」
だとすれば、一切合切を丸裸にされるわけではないだろうか。
ぽつりと憎まれ口を叩くと、惺壽も頷く。
「否定はしない。こちらとしても、あまり期待しないでいただけるとありがたいね」
いつも通りの言い草だ。
乙葉は躊躇い、だが思い切って彼の元へ歩き進む。
「乙女の頭の中を覗くなんて、それも立派なセクハラだからね」
「決してしてはならぬこと、か?」
「そう。……だから何見たって、あとでからかったりしないでよ」
惺壽の前に着き、くるりと向きを変えて、彼に背を向ける格好で腰を下ろした。
「そちらを向けとは言っていないが」
「向かい合えとも言われてない」
つんけん言った。
向かい合って座ると、心の奥底まで覗き見られてしまいそうで怖かった。
「……早くして。床、冷たいの」
惺壽は敷物の上だが、乙葉が座っているのは床だ。
スカートの生地越しにもひんやりと床の冷たさが伝わる。これが日差しのぬくもりのない夜のことなら、きっと凍えただろう。
背後の惺壽がやれやれと肩を落とす気配がした。
そっと、乙葉の後頭部に彼の手が添えられる。
「目を閉じて、心を楽に。無理になにかを思い出そうとする必要はない。何物にも縛られず、凝らず、伸びやかに――俺の訪れを拒むことのないように」
静かに命じる声に目を閉じた乙葉は、ふっと浮遊する感覚を味わった。
たしかに肉体の感覚はあるのに、そこから“乙葉”がはみ出しているような感覚。
(あ……)
閉じた瞼の裏。そこに、次々とコマ送りの映像が浮かんでくる。
学校へと走り出した時の、通学路の風景。
見送る志保と凪沙の笑顔。
沈んでいく夕日と、林に埋もれた鏡野神社の鳥居。
鬱蒼とした茂みの中に伸びる古い石の参道。
――よみがえる。
熊笹に囲まれた澄んだ水鏡。
社の格子戸越しに見た古い神鏡。
そこに映った、自分の顔。
朽ちた賽銭箱に放り込んだ小銭の、からからという落下音まで聞こえる。
そして、目を閉じて祈った。
『どうか――………………』
∻ ∻ ∻ ∻ ∻ ∻ ∻
目を閉じ、乙葉の記憶を辿った惺壽は、ふっと瞼を押し上げた。
乙葉の後頭部がすぐ目の前にある。
負担がかかりすぎたのか、細い肩がわずかに上下していた。
「……………」
惺壽は瞬きし、小さな頭に添えていた手をそっと放した。
ややあって、乙葉が緩慢な動きでこちらを振り返る。頬の色がますます白い。
「苦しいか」
尋ねると、長い睫毛が二、三度上下し、ぼんやりしていた瞳が焦点を結んだ。
「ううん、平気……なにか分かった?」
乙葉はどこか夢見るような口調で尋ねた。同調の余韻だろう。
「たしかになにか溺れていたようだが、やはり姿は見えなかった。お前が話したことが偽りではなかった……と、収穫といえばその程度だ」
「……本当に? 本当に、それだけしか分からなかった?」
大きな瞳が探るようにこちらを見上げる。
「……他に気がかりでも?」
惺壽は脇息に頬杖を突きなおし、静かに尋ね返した。
すると乙葉は戸惑ったように視線をさ迷わせる。
「……べつに。なにも」
きゅっと結ばれた小さな唇は、端的にそう紡いだだけだった。