二章ー7話
(沼垂主の側にいれば、元の世界に戻れる可能性が高くなる)
最大のチャンスだ。
あの助平な目つきを我慢して、沼垂主と一緒に行くべきだ。
だが――ふと、引っかかった。
(沼垂主はわたしのことを、“わたし”だって気づいてない……?)
乙葉は人間だ。本来ならば、この世界にはいないはずの存在。
そんな乙葉をここに呼び寄せたはずの沼垂主は、だが、乙葉を人間だと認識してるとは思えない。――それはなぜ?
(本当に、わたしがこっちに来たのは、ただの事故だったとか?)
ならば、沼垂主に頼めば、意外とあっさり元の世界に帰らせてくれるかも。
乙葉は惺壽を見上げた。
惺壽もこちらを見下ろしている。
「蛙とは行きたくない」
きっぱりと言うと、薄青い瞳が柔らかい光を浮かべた気がする。
「……失礼。やはりこれを手放すことはできないようだ。貴人の寵を賜れば至上の栄華も思いのままだというのに、俺なしには生きていけぬと泣いて駄々をこねるもので」
不敵な笑みを浮かべた惺壽が、乙葉をそっと離しながら、滔々と告げる。
(一言もそんなこと言ってないけど)
心の中だけで突っ込みを入れつつ、乙葉もひしっと彼の腕にしがみついてみせる。
「そういうわけです、沼垂主どの。申し訳ありませんが、この娘は諦めていただきたい」
「い、いるか、誰が貴様の使い古した女など! そ、そんなどこの馬の骨とも知れぬ端女、四品の獣でありながら、他人の食い残しを漁るような、卑しい性根の貴様にこそ似合いだ!」
「寛大な御心配りに感謝いたします。ではお言葉通り、この娘は私が連れ帰っても?」
罵られながらも平静に、そして念押しのように惺壽が尋ねる。
沼垂主が本当に乙葉を認識していないのか、反応を確かめようとしているみたいだ。
だが、沼垂主は相変わらず金切声で怒鳴っただけだった。
「よいと言っている! ちょっと、その娘足にくらっときただけだ! もう用はない!」
「……それでは、失敬」
惺壽は静かに黙礼し、踵を返そうとした。
肩を抱かれた乙葉も、大人しく彼に従う。
「待たんか」
もう用はないと言っておきながら、居丈高な声が呼び止めた。
「まだ、なにか」
ゆっくり振り返った惺壽が、短いながらも慇懃に尋ねると、沼垂主は腹を突き出した。
「折よく騎獣を探していてな。ちょうどよいわ。貴様がなれ」
「……はあっ!?」
騎獣になれとはつまり、自分を惺壽の背に乗せろということか。
ついに剣呑な声を上げた乙葉だが、制するように惺壽の手に肩を押さえられた。
「おそれながら、高貴な貴人には騎獣など必要ありますまい。御身とてお渡りの際には、大勢の従者と、飼い馴らした妖獣に車を牽かせていらっしゃったはずだ」
「ふん、それでも騎獣が一頭必要なのよ。双角の麒麟の背に乗れば、さぞや見栄えもするだろうて。……まさかお主、儂がその娘を譲ってやったこと、もう忘れたとは言うまいな?」
(こっ、……この、くそエロ蛙……っっ!! 絶対頼ったりしない……!)
この短時間で沼垂主の人となりを把握した気がした。
欲深く、利己的で、卑怯者。
なにがあっても、最終的には沼垂主を頼れば中乃国に戻れると思っていた。
だが、その可能性は、今、潰えた。
いくら頼んでも沼垂主はただでは取り合ってくれないだろう。
見返りを要求してくるに違いない。
そして損見返りに耐えたところで、本当に望みを叶えてくれるかどうか。
(惺壽、もうこんな奴アテにしないから、やっつけてよ! がつんと!!)
後々のことを考えると沼垂主と禍根を作っておくのは得策ではない。
そうはいっても、我慢の限界だ。馬になれなんて言われて惺壽も不愉快だろう。
抗議を込めて傍らの惺壽を見上げた乙葉は、ふと瞬いた。
ああ、彼は――――
「……ひどい……」
俯いてぽつりと呟く。
二人分の視線が突き刺さるのが分かった。
「ぬ、沼垂主さんは、天乃原で一番偉い人にも信頼されて、誰に対しても分け隔てなく優しくて、公平で、心が広くて、とても立派な方だって聞いてたのに……信じてたのに……」
乙葉はさめざめと泣きだした。俯いた耳に、沼垂主の間抜けな声が聞こえる。
「げ、げろ。おい、娘。信じてたのに、なんだ。儂は噂通り立派な貴人であるぞ!」
「で、でも、惺壽に馬になれって言ってるんでしょう? ひどいわ。こんな顔がいいだけで超絶性格が悪い惺壽にだって、沼垂主さんならきっと優しくしてくれるって信じてたのに。い、いくら惺壽が顔だけよくて、手が早くて口が悪くておまけに性格も意地も悪くても……!」
「…………痛み入るね」
隣で、ちょっと白けたような声が上がった。
だが乙葉はそんなことには構わず、えぐえぐと可愛い泣き声を上げる。
「どうしよう……わ、わたし、沼垂主さんがこんなにひどい人だなんて知ったら、もう生きていけない……! きっと他のみんなだって悲しむわ……!」
「お、おおおおい、儂はそんなこと言っとらん! 騎獣になれなどと言っとらんぞ!」
「本当っ?」
調子のいい撤回の言葉に、乙葉も調子よくぱあっと笑顔を上げた。
「なーんだ、わたしのただの聞き間違いだったのね。うふふふ、よかったぁ」
畳みかけるように笑いながら、隣の惺壽にひしっとしがみつく。
「……大した役者ぶりだな」
頭上から呆れた声が降ってきたが、それも笑顔で無視だ。
どこか遠くから「沼垂主さまー!」という泣きそうな呼び声が響いた。
惺壽がどこかを見透かすように目を細め、乙葉の肩を抱きなおす。
「御供が主を探し当てたようだ。それでは、我々もこれで失敬。……ああ、天虎ならば心配はご無用です。この近辺にはもうおりませんので、道々、襲われる心配はないでしょう。……再び戻ってこなければ、の話ですが」
惺壽は乙葉の肩を抱いたまま、踵を返して歩き始めた。