第7話 ♪藤井香織 タバコトークを試みる
もう間もなく11時になろうかという頃だ。
私はまだ事務センターにいた。
一度はエレベーターで1階まで降りたものの、扉から出ることなく3階に戻ってきた。
POP室と同じフロアーにある事務員用の休憩所に、なぜか腰をおろしている。たらし天狗が言うには、こんな顔では売場にはとても行けないそうだ。
……果てしなく売場が遠い。 距離的には徒歩5分であるにもかかわらず、果てしなく道のりが遠いのだ。 今日中にたどり着けるのだろうか?
そんな不安に囚われつつも、とにかく手鏡で自分の顔を確認する。たらし天狗に大爆笑された顔だ。
それにしても、女の子の顔を笑うだけでもありえない所業なのに、大爆笑ってどういうことだ? ホンっっっとにアイツは紳士の風上にも置けない輩だ。 男として最低だ。
あぁ、なかなか腫れがひかない。……っていうか、ますますデメキン化している。
アイスノンをもう一度まぶたに当てなおす。
たらし天狗が2階の総務に行って借りてきてくれたシロモノだ。
にしても、不思議と怒っていなかったな……。
置いていかれる前の天狗の様子を思い返してみる。
泣いて売場に行けないなんて、怒鳴られても仕方が無い……そう覚悟していたけれど、アイスノンを片手に、たらし天狗はかなり心配してくれていた。
まぁ、半分は笑ってしまった引け目からだろうが、それでも怒られるよりはいい。
策を講じたわけではないが、デメキンが我を救った事になるのだろうか?
嬉しいのか、悲しいのか、複雑な心境である。
“ガチャ” 遠くで扉の開く音がする。 と同時に足音がこちらに向かってやってきた。
え? ま、マズイ! どうしよう。
あたふたして逃げ場を探したが、3階のどん詰まりにある休憩所にそんな場所は見当たらない。
しばらくすると タバコを持ったスージーが現われた。
目があった瞬間 “ぎょ!!”っとした顔になる。 ……そりゃそうだ。である。
『え? どうしたの?! ってまさか、もうクビ? 早過ぎない?』
んなわけないでしょ!!!
「置いていかれただけです!」
『あぁあ。 その顔じゃねぇ。 ムリないわ』
ムっ! そうですよ。 あなたも1週間前に大爆笑した顔です。
『で、平居は?』
「……仕事があるので本館に戻られました」
『へぇー。 ホントに置いてけぼりなんだ』
半分以上は スージーの責任だと思うんですけど!!
褒めるんなら、不意打ちとか止めてもらえます? 前日とか、時間はいくらでもあったでしょうに!
八つ当たり甚だしい思いを、スージーに視線でぶつけてみたが、如何せんデメキン状態である。 目が合った瞬間 “ぷっ” と吹き出されてしまった。
『ごめん。あっちむいててくれる?』
相変わらず無礼である。
そんな私の怒りのオーラを気に留める事なく、スージーがタバコを1本取り出し、ライターで火をつけようとした。
……が、その状態で固まる。
『あ、アンタ駄目だっけ? タバコ……』
口にタバコを咥えたまま話すので聞き取りづらかったが、意味はわかった。
「いえ、どうぞ」
事務センター内は、基本すべてのフロアーが禁煙となっているので、愛煙家はここでしかタバコを嗜めない。
会議終わりのお偉い方々がよくここでタバコを吹かしていたのを思い出す。 売場と違い、喫煙設備があるわけじゃないので、多人数で一斉に吸われると煙が3階全体に充満してしまうのだ。
その日は “燻製日和” と銘打ち、燻されないよう、決してPOP室の扉から出ないよう心掛けていた。……懐かしい思い出だ。
『喘息だったっけ?』
思い出に浸っていると、突然呼び戻された。気付くと、スージーは取り出したタバコを元のケースへすでに戻している。
『それって治るものなの?』
素朴な疑問を投げ掛けてきた。 私が会社を病欠した事がないからだろう。
「小児喘息だったんですよ。……小学校にあがるまでは、たびたび入院してたんですけど、中学のおわりには発作も出なくなりました。まぁ、これって治ったんですかね? 今は嘘のように元気です」
軽いガッツポーズを作って、健康をアピールしてみる。
そういえば、POP室に在籍していた頃は、こんなプライベートな話をする時間が全くなかった。忙しすぎて、雑談なんて許されなかったのだ。4年半も同じ部署で働いたのに、互いに知っている事は、本当に少ない。
『ほんと、アンタ嘘みたいに元気だよね』
あ……ソコ、普通は“大変だったね” じゃないですか?
いつもながら、労わりとか皆無ですよね。
「はぁ……すみません」
そう思うのになぜか謝ってしまう。 元とはいえ、上司だ。
『ねぇ。 喘息だから、そんなに目が腫れるの?』
は……? って、そんな話聞いた事がありませんよ!
「まったく関係ないです!!」
『フッ、バカね。……冗談じゃないの』
何を本気に……と言う顔をしてスージーが立ち上がった。
「え? あ、私、ホントに大丈夫ですけど」
立ち去ろうとするスージーに声を掛けた。ここ以外でタバコを吸える場所はない。
さらに言えば、ここに相応しく無い人間は私の方だ。
『気を遣ってタバコ吸うの、好きじゃないの』
さらりと毒を吐かれる。 うぅ、お邪魔ですみません。
『あ、そうだ。……アンタに言っておきたい事があったんだ』
まるで忘れてました。……といった感じでスージーがつぶやく。
……お! もしかして、ねぎらいの言葉パート2でしょうか?
先ほどは天狗がいたので、あんな褒め方になったのだろう。
今は二人だ。 では改めて、はい、どうぞ!
背筋を正して、スージーの言葉を待つ。
『どうでもいい事だけどさ。アンタ、見た目は元気に見えても、中身たいした事無いからね』
は? ええっと……それは……確実に褒めてないですよね?
え?! 私、貶されてますか?!!
『過信して無理すると、しっぺ返しくらうから。 気をつけなさい』
「え、あ、あの」
意味を聞き返そうにも、スージーはそう言って、さっさと休憩所を後にしてしまった。
……マジか。
まぶたの上にアイスノンを再び置き、今の言葉を咀嚼する。
ん? ああ、なるほど。
“君の体は案外弱いので、無理すると倒れるから気をつけろ” という事ではなかろうか。……たぶんだけど、いい方向に訳しておこう。
にしてもやっぱり、最後までわかりづらい人だな……。 できれば、普通に心配して欲しい。
誰も居なくなったベンチに、横になって少し考えてみる。
身近にいたときには、本当に嫌な事ばかりが目につくもので、正直スージーが嫌いだった。そのせいか、スージーのする事にまったく興味が湧かなかったし、関わりを持ちたいなど思いもしなかったのだ。
……でも。 もう少し、ちゃんとお話しておけばよかったかな。
後悔する気持ちが、胸の辺りをジワジワ締め付け始める。 けれど
……ま、いまさら言っても仕方ない事だよね。
反省するのも早いけれど、切り替えだって早いタイプ……それが私だ。
結局、深く考える事は止めにして、今は目を冷やす行為に専念する。
今はこの目をどうにかしなければならない。
……デメキンよぉー、ひっこめ!!
熱を持ったマブタに、さらに熱すぎる念を懇願するように送った。
読んで下さってありがとうございます。