第5話 ♪藤井香織 感謝の気持ちを伝える
9月1日運命の日
掛け時計の針が間もなく10時を指そうとしている。
あぁ、もうすぐやって来る……。
朝から緊張感がハンパない。ソワソワしてどうにも落ち着かず、作業台の前を行ったり来たりしていた。
『ちょっと、トイレに行ってくるから』
そんな私のソワソワ感がうつったのか、おもむろに立ち上がったスージーが、そう告げて部屋から出て行く。
そういえば、売場だと“トイレ”って言っちゃダメなんだよな……たしか“2番”
だっけ? 昼食が“1番”で…… あぁー、覚える事が多そうだ。
頭を抱えてため息をつくと、やけに大きく響いた。
一人きりになったPOP室。
これまでは機械の音やコピー機の音、ペンが紙をすべる音など何かしらの音が聞こえていた。 ……なのに今は、何の音もしない。
あと2週間、残務処理の為にスージーはこの静かな部屋に通う。
一人だと、すごく淋しいだろうな。
これまで使っていた部屋が死んだように静まり返っているのを見ると、いた堪れない思いでいっぱいになってくる。
もう泣かないって決めたのに……。
気持ちと裏腹に出てくる涙を、慌てて袖で拭う。
私は明日からこの部屋に通う事はない。 だからなのか、気を許すとすぐに感傷にひたってしまった。
POP室の事を考えるのはやめよう。どうにも泣いてしまう。
えぇっと。 ……天狗、まだ来ないのかな?
思考を無理やり変えることにした。
本当なら、異動辞令を受けた私が、直接移動先の4階へ行くのが普通だ。
ところが、たらし天狗-平居から “迎えに行くからPOP室で待ってろ” と昨日、お達しがあったのだ。
一見親切に聞こえるが何のことはない。開店時間前の忙しい時に、素人がウロチョロするなと言いたいのである。 ……たぶん。
10時頃って言ってたんだけどな……。
時計の針はすでに10時をまわっている。
とにかく、このソワソワ感を早く落ち着かせたい。もうすでに3ヶ月間も不安と緊張を味わってきたのだ。 心が限界である。
そうやって、天狗よさっさと来い!と思う反面……売場に行きたくないなーという後ろ向きな気持ちから、なるべく遅く来てー!と思っていたりもする。
自分でもよくわからない心持ちにげんなりしてきた。
“ガチャ”
突然ドアが開いた。
来た? 来た! やっと来た!!
いきなりのタイミングに、一瞬で背筋がピンと伸びた。緊張感がはしる。
が、入ってきたのはスージーだった。
トイレ速っ! 勘弁してよ。……マジ、疲れる。
一瞬で脱力してしまった。 作業台に上半身を倒し、思わずふにゃる。
『藤井、迎えが来たよ』
「はへ?」
顔だけ上げると、スージーの後ろにたらし天狗が立っていた。
にょぉぉぉぉぉ!!!!
これまた一瞬で、倒した上半身を元に戻し、慌てて緊張感を呼び戻した。
たぶん他人の目には、ヘタッピが操作するあやつり人形のように見えただろう。
たらし天狗が不審な眼差しをこちらに向けていた。
あぁ。初っぱなからしくじった……。
まるでやる気の無い人間に見られただろう。
あの、緊張して待っていた私は一体なんだったんだろうか。……悲しくなる。
とりあえず、手荷物を持って出口に向かった。
脳内BGMはド●ドナである。 まさに売られる子牛の気分だ。
『悪い、遅くなったな。 行こうか』
たらし天狗が踵を返し、部屋から出て行こうとする。それを慌てて呼び止めた。
「すいません! ちょっとだけ……じゃなくて、少しだけ待ってください」
もうすでに、私に対する印象は最悪だろう。
少しぐらい待たせても評価は変わらないはず。
振り返って、部屋の中を見回す。
4年と半年……泣き笑いしてきた大切な場所。
……お世話になりました。
感謝の思いを込めて一礼する。
続けて、スージーの姿を探す。
いつの間にか彼女は、パソコンの前に座って事務作業に没頭していた。
見送る気なんて言うものは、欠片も無い様子である。
……ほんっと好きだな、数字。
正直、スージーがPOPを作っているところを見たのは、入社して半年だけだった。私達がイラストレーターやフォトショップといったパソコンソフトでPOPを作製している中、スージーは、エクセルでナゾの数字を生み出し続けていたのだ。
そこから “スージー大島” と言う呼び名をつけた。
“仕事しろよ!” と言えない不満を、そうやって晴らしていたのが懐かしい。
定時で帰るスージー。
POPを作らないスージー。
なのに、仕事!仕事!とうるさいスージー。
どう鑑みてもいい上司とは思えない。
それでも、私がミスをした時、売場に一緒に謝りに行ってくれた。
文字について熱く語る私を、鼻であしらう事なく、最後までちゃんと聞いてくれた。
何よりこの人に、POPのイロハを教わった……。
「長い間お世話になりました」
腰から深く頭を下げる。
「ありがとうございました!」
……返事は無い。いつもどおりだ。
すると背中に優しく手が乗った。ポンポンと2回軽く叩かれる。
顔を上げると、たらし天狗がゆっくり頷いていた。
“大丈夫。ちゃんと届いてるよ”
そう言われている気がした。
それでも淋しさが残る。最後ぐらい「お疲れさま」って言ってほしかったな。
肩を落として先に出口からでた。 後ろからたらし天狗がついて来る。
落ちた気分のまま、エレベーターホールに足を向けたその瞬間。
『藤井!! しゃんとしな!』
急に後ろから怒鳴り声が聞こえてびっくりする。
慌てて振り返ると、スージーが見慣れた鬼の形相をして戸口に立っていた。
『アンタ、いい仕事してた! だから胸張って売場にいきな!』
最初、何を言われているのかわからなかった。
それでもジワジワとその言葉が、胸いっぱいに広がっていくのを感じた。
……初めて褒められた。 4年と半年もかかったけど。
最初で最後のお褒めの言葉に胸が苦しくなる。
そして間もなく涙で前が見えなくなった。
「ありがとう……ございました」
もう一度深く、一礼した。
♪―♪―♪
『いい上司だな……』
「それは、どうでしょうか……?」
エレベーターの籠の中で、たらし天狗が話しかけてきた。
投げ掛けに即答したが、今は付け加えようと思う。
「でも、とてもいい先輩でした」
POP室を出て行くのにあんなシチュエーションになるとは想像もしていなかった。
泣かないと誓ったばかりなのに……もうすでに目がデメキンになってしまっている。
……なんて事だ。 非常にマズい。
あまりにひどい状態だったので、たらし天狗に少し待ってもらい、トイレで顔を洗って目を冷やした次第だ。
少し落ち着いたのを確認してからエレベーターに乗り込んだのに、たらし天狗が余計な事を呟くから、いろいろ思い出してしまったのだ。またもや涙がじんわりとしみてくる。
自分に情けなさを感じながら、涙を止める為に、目を大きく開けて乾かしてみたりした。けれど、溢れる涙の量は一向に減りそうにない。
どうしてしまったんだ、私の涙腺。……蛇口機能が絶不調だぞ!!
あぁ。ホント、やる気はないし、デメキンだし、思いっきり待たせた挙句、さらに号泣って、たらし天狗からの評価は下がる一方だよ。
初日にこんな事で大丈夫だろうか? というかまだ売場にも到着していないのに……。
『それはそうと、そろそろ泣き止んでくれないかな』
言葉と同時に 白いハンカチが差し出された。
ムッ! 言われなくても努力してます。
しかも、たらし天狗がトイレで手を拭いたかも知れないハンカチで、涙など拭けません!
「けっこうです!」
そう言って、またも自分の袖で涙を拭った。ブラウスの袖はもうびっしょりである。
くぅ!!! ここからどうやって挽回していこう?
誰か、起死回生の策を私に授けてくれないかな……。
他力本願だが、切に願った。
読んで下さってありがとうございます。