第9話 あなたを知りたい
食事の用意が整った頃には、私の気持ちも落ち着いていた。
まったく……今日は何回赤くなればいいのだろう。
少々憤慨しながらも、目の前に広がる光景に心を奪われてしまう。
「どうぞ、ごゆっくりお召し上がり下さい。また何品か温かい物はそのつどお運び致しますね」
そう言って、女将さんは部屋をあとにした。
「さすが海が近いだけあって、すごく豪華だよね。この舟盛りなんて最高っ!」
年甲斐もなく興奮しまくりだ。だって私、飲むのも大好きだけど、それはやっぱり美味しい食べ物があっての事。
こんな料理、近所の食事処や居酒屋ではなかなかお目にかかれない。
目をキラキラさせながら「この食材は何だろう?」とか「この魚、まだピクピクしてる!」と1人でウキウキしたいたら、彼がクスっと笑った。
「咲さん、そろそろ食べない?お腹すいちゃったよ」
「あっごめん。こんなの久しぶりで興奮しちゃって……うん、食べよう。いただきます」
「咲さんらしいね。いただきます」
二人微笑みながら、食事をはじめた。
あまりの美味しさに勝手に笑みがこぼれる。
箸を置きビールに手を伸ばそうとして、ふと視線を感じた。
前に座っている彼を見てみたら、ニコニコしながら私を見つめていた。
「な、なに?」
私、また何か知らないうちに変な事してた?
「相変わらず、美味しそうに食べるよね」
「そ、そうかなぁ…。だって美味しいもんは美味しいんだもん」
「じゃあ今日は車に感謝…かな。車が故障したなかったら、またこうして咲さんの幸せそうな笑顔見る事出来なかったでしょ?」
目をパチクリさせながら彼の顔を見る。もう……この年下くんは、今日一日でどれだけ私を喜ばせてくれるつもり?
まだ食事の途中なのにお腹がいっぱい……じゃなくて、急に胸がいっぱいになってしまった。
どうしてだろう?いつもの事なのに。なんか、泣きそう……。
涙を見せるのが嫌で、無理やりご飯を頬張った。
慌てたせいか、それとも気持ちのせいか、ご飯が喉を通らなくてゴホゴホと咽てしまう。
「大丈夫、咲さん?」
慌てたように近寄ってくる彼。
近寄らないでと言わんばかりに手で制してみたが、彼はそれをヒョイと交わし隣まで来て優しく背中を擦ってくれた。
もうダメだ。何かがプツンッと音をたてたかと思うと、ポロポロと大粒の涙が瞳から溢れ出した。
「え?泣いてる?」
彼が驚いたような声をだして、それから困ったように私の顔を覗き込んだ。
「僕、何か咲さんを泣かせるような事言ったかなぁ……」
「違う……違うの。翔平くんは、な…なにも悪く…ないから……」
声が詰まって上手く話せない。
そんな私を落ち着かせるように背中を撫で続けてくれる彼。
(そんなことされたら涙止まんなくなっちゃう……)
そして優しい声で聞いてきた。
「じゃあ何で泣いてるの?」
「な…何で……かな?…しいて…言うなら……嬉し…泣き?……」
途切れ途切れにそう言うのがやっとだった。
その言葉を聞いてか、彼が私をくるっと反転させてギュウッと抱きしめてた。
「ビックリした。嬉し泣き……か。だったら僕の胸でもっと泣いていいよ」
少し驚いたが、そのまま大人しく彼の胸に顔を埋めた。
では遠慮なく……。だって泣かせたのは翔平くん、君だから……。
旅館だからと声は堪えて、彼の胸でしこたま泣かせてもらった。
抱きしめている彼が、とても喜んでいるように感じた。
だってちょっと鼻歌なんか歌ってるんだもん。年下なのに余裕あるなぁ〜。
でもそんな彼を鼻歌を聴いていたら、涙も落ち着き始め、私にも平常心が戻ってきた。
彼の胸を両手で軽く押し、少しだけ身体を離して彼の顔を見上げた。
「目、真っ赤。ウサギみたいで可愛い」
「バカ……」
「あ〜あ〜、そんな事言っちゃうんだ。見てよ僕の服。咲さんの涙と鼻水でべちょべちょ」
「鼻水なんてつけてないっ!……涙は、ごめん」
「服通り越して、身体まで濡れちゃった」
「え?ほんとに?」
「責任もって身体洗ってもらわないとなぁ〜」
ニヤッとしながら私を見下ろしている彼。
また登場したか、小悪魔めっ!
「身体は自分で洗ってください。責任は別の事で」
「まっその話は後にして、早くご飯食べちゃおう」
また後で話すんですか……忘れちゃってくれてもいいんだけど。
まだ鼻をグズグズさせながら、座り直して食事を再開させた。
(あ……ちょっと冷えちゃってる)
天麩羅を口にし、申し訳ないように彼の顔をみた。
「咲さんの嬉し泣きが長かったから冷えちゃったね」
小悪魔がエスパーに変身!
どうしてそんなすぐに私の心の中が分かっちゃうんだろう……。
そんなに分かりやすく顔に出ちゃってるのかなぁ?と両手で自分の顔を触ってみる。
出てる訳ないか……。ぷぷっと自分に笑ってしまった。
「何笑ってるの?変な顔して!」
「変な顔は余分」
プゥと頬を膨らまし怒ってみせる。
「そんな膨れっ面しちゃって。大丈夫。そんな変な顔する咲さんも好きだから」
笑いながらそう言い、目の前の食事を食べだした。
そんな言葉を簡単に言ってしまう彼。時々(それは本心?)と思う事もあるけれど。
彼のそんな言動一つ一つに反応してしまう私って……初めて恋を知ってしまった乙女のようだ。
自分でも知らない自分。そんな私を引き出してしまう彼って……。
もう完全に彼に心を掴まれてしまったみたいだ。
彼から目が離せなくなってしまった。今日の私は何かがおかしい。
そんな私を見て、彼は少しだけ口角を上げて箸を置いた。
「どうした、咲?」
咲?……そう呼び捨てにされて私は大きく動揺し、そして自分の本当の気持ちを隠せなくなってしまった。
そして私に口から次に出た言葉……。
「もっとあなたを知りたい……もっと深く知りたい」
言ってから自分の言葉に驚いてしまったが、本心だけにしょうがない。
でもこの状況をどうしていいものか分からず、俯いていろいろ考えていた。
すると、いつの間に近くに来ていたのか、彼が横から私を抱きしめた。
「僕だって咲さんをもっと知りたいし、僕の事もたくさん知ってほしい。だから今日はいっぱい咲さんに触れさせて。そして僕にもいっぱい触れて…今日のこの時を忘れられなくなるくらい」
一度だけ頷き、彼の方に顔を向け目を閉じた。
でも彼はクスッと笑い軽く口づけしたかと思うと私から身体を離した。
「今はここまで。ほんとはすぐにでも押し倒しちゃいたいけど、真っ最中に仲居さんが片付けにきたらマズイでしょ」
「真っ最中って……」
「さっ、咲さんの気持ちが変わっちゃう前に食べ終えなきゃ」
そんなことを言ってニコニコしながら自分の席に戻る彼。
(私、もしかしたら間違った事口走ったかしら?)
今更ながらに失敗とも後悔とも、何とも複雑な気持ちになってしまった私。
はぁーと大きなため息をついたが、まったく気付く様子もなく食べ続ける彼。
さっき私にあんな情熱的な言葉を言ったのが嘘だったかのように、少年の顔をしている。
不覚にも(可愛い…)と思ってしまった。
まだ夜は長い。少し気持ちを落ち着けて、今はこの眼の前に広がる豪華な食事を食べる事にした。