第8話 嬉しい?ハプニング
しばらく何も話さず寄り添っていたが少し寒くなって身体を震わせると、彼がサッと肩を抱き「そろそろ行こうか?」と声をかけてくれた。車に戻りエンジンをかけてくれる。次第に車内が暖かくなってきて、ホッと一息ついた。
「次のインターで下りて、海まで行ってみる?」
「久しぶりに海見たいかも」
「じゃあ決定!」
明日は日曜だし、帰るのが遅くなっても構わない。もっともっと彼と一緒にいたかった。
最初からそうするつもりだったらしい彼は、砂浜が綺麗なことで有名な海に連れて行ってくれた。
手を繋いでその砂浜を歩いた。遠浅の海が月明かりに照らされてキラキラ輝いている。
ふと、ここに着いてから彼がほとんど声を発していないのに気付き、ちらっと顔を見てみると、いつになく真剣な顔をしていた。
「どうかした?」
どうしても気になりそう声をかけると、意を決したような表情で私を見つめてきた。
「ねえ咲さん……今晩、僕の家に泊まっていかない?」
えっ?それって……。どういうこと?
心臓がきゅんっと跳ねた。そして動揺した。
でも心は勝手に私を動かす。彼から目を離さぬまま、コクンと頷いてしまった。
ホッとしたのか彼が小さく息を吐き、緊張して硬く握っていた手を緩めた。
「どこかで食事してから帰ろう」
「うん……」
車に戻って彼がエンジンをかけようとした……が、カチカチ音がするだけでエンジンがかからない。
「ちょっと待ってて」そう言うと車から出てボンネットを開けて調べだした。
しばらくして戻ってくると、彼が困ったような顔をした。
「バッテリーじゃないと思うんだ、変えたばかりだし。だとしたら故障……」
「えぇっ故障!帰れないの?」
「たぶん」
たぶんって……。こんなとこで帰れなくなるなんて……。1人でパニックになってる私をよそに、彼はテキパキと何件かに連絡をし始め、あっという間にこの後の予定を決めてしまう。
「もう少ししたら、この近所の修理工場の人が車を取りに来てくれることになったから。で、僕たちは
いつまでもここにこうしてる訳にもいかないし、今晩は一番近い温泉宿に泊まることにしたけど。いい?」
「いい?って……。それって決定事項でしょう……」
少し呆れながらそう言った。彼、そう言うところは強引だから。
「僕の事、分かってきたみたいだね」
ニヤニヤ笑いながら私の頭をなでなでする彼。
はいはい、わかりますよ。小悪魔君、再登場!
そうしていると一台のタクシーがやってきた。彼に促されてそれに乗り込む。
「○○温泉の○○旅館まで、お願いします」
運転手に目的地を告げた。すると私にピタリと寄り添い耳元に顔を近づけてきた。
そして小さい声で囁く。
「僕の家じゃなくてごめんね。でも、温泉の方が良かったかも」
「な、なにが?」
「着いてからの、お楽しみ」
またお楽しみですか……。今度のお楽しみは少しばかり心臓に悪い。
温泉という響きに動揺している私がいる。きっと彼は私の同様に気付いているだ。意地悪小悪魔。
私の顔を見てニコニコしている彼を見て、もう諦めた。
だって私は、そんな彼も……好き?みたいだから。
旅館に着くと、すぐに女将さんらしき人物が入り口から駆け寄ってきた。
「野口様でございますか?大変お疲れになったでしょう。さあさあ、どうぞ中に」
とても感じの良さそうな人だ。気持ちがとても落ち着く。
「はい、ありがとうございます。咲さん、行こう」
「うん」
泊まる予定ではなかったから、特に大きな荷物もない。小走りに彼の後を着いていく。
フロントに着くと、宿泊名簿に名前を書き出した。
『 野口翔平 ・野口咲 』
顔が一気に赤くなる。そ、それって夫婦みたいなんですけどっ。
勝手に顔がニタニタしてしまう。気付かれないように俯いていると、女将さんが近づいてきた。
「お顔が赤いようですけど、どこかお辛いところはありませんか?」
きゃーーーーーーっ!!バレてたっ!!恥ずかしいーーーーーっ!!
彼はきっと、私がこうなる事を分かっててやってるんだ。
「だ、大丈夫です!」
声、上擦っちゃってるし。
彼に助けを求めようと顔を見ると……彼、声を堪えて笑ってるし!
恐るべし、年下小悪魔。
「遠慮せず何でもおっしゃって下さいね。ではお部屋にご案内いたします」
なんとも柔らかい笑みを湛えてそう言ってくれるから、申し訳ない。
あの小悪魔め、あとでガツンと言ってやらねば。
彼の顔をキッと睨み、女将さんの後をついて行った。
「こちらのお部屋になります」
急だったわりに、かなり広めの素敵な部屋だった。奥の縁側部分からは海が一望できた。
その縁側からもう一間あるのか、扉があった。どんな部屋か気になりそっと開けてみると……。
結構な人数が入れそうな露天風呂。素敵なチェアーもおいてあって、ゆったりくつろげるスペースもある。
今流行の『露天風呂付客室』ってやつだ。
慌てて彼の元まで行き口をパクパクさせていると、ポンッと頭に手をのせられた。
「気に入ってくれた?ここの旅館、前に雑誌で見ていつか来たいなぁって思ってたんだ。
さっき思い出してさぁ。連絡してみたら、この部屋空いてるって言うから」
それを聞いていた女将さんが嬉しそうにお茶を出してくれた。
「とても人気のお部屋なので空いてる日はほとんど無いんですよ。でも空いていて良かった。お客様に泊まっていただけて、私も嬉しいです」
そりゃあ私だって嬉しい。こんな部屋に泊まれるなんて夢のようだ。
でも、でも、こう言う部屋ってお値段が……。
少し涙目になって彼を見ていたら、頭をそのまま撫でられた。
「ではお食事はすぐに用意してもよろしいでしょうか?お風呂に入られますなら、時間おくこともできますが?」
「時間も時間なんで食事を先にします。いいでしょうか?」
女将さんは「はい、結構ですよ」と頷き、部屋を出て行った。
「翔平くん!この部屋、一泊いくら?」
焦ってしまい、唐突に聞いてしまった。
おでこを指でピンッと弾かれる。
「痛っ!」
「そんなこと聞かれて金額言う男がいると思う?」
「だ、だって……」
「僕が咲さんと泊まりたいって思ったんだからいいでしょ。嬉しくないの?」
「嬉しい……けど」
「ならいいじゃん。それに、誰にも邪魔されず一緒にお風呂は入れるしね?」
はぁ?今、一緒にって言った?私の聞き間違いじゃないよね?
「無理っ!そんなの恥ずかし過ぎる」
「そっかぁ〜残念〜」
って、ぜんぜん残念そうじゃないんですけどっ!その顔は、絶対に何かを企んでるでしょ。
そしてその態度で、私はフロントでの一件を思い出した。
「翔平くん。フロントでの、あ、あれは何?野口咲って書いたでしょっ!」
ちょっときつく言い過ぎたかな?なんて思っていたんだけど、彼のほうが一枚上手だった。
「そう遠くない未来に野口になるんだし、気にしない気にしない」
「………」
ダメだ。今日の彼には何を言っても敵いっこない。うん、無駄な事はしない方が良さそうだ。
ふかふかの座布団にちょこんと座って、女将さんの淹れてくれたお茶を飲む。
彼もそんな私を見て苦笑しながら、お茶を一口すする。
「咲さん。どんな咲さんも好きだけど、やっぱり笑顔の咲さんがいいな」
「じゃあ、私が笑顔になれるような事して下さい」
「え〜、僕はしてるつもりなんだけど……」
そう言って悲しそうに俯いてしまった。
あれ?私が悪い?ちょっと大人気なかった?
彼の傍まで歩いていき横に座って様子を窺った。
すると彼はニヤッと不屈な笑みを湛えてこちらを向き、私の顔を両手で挟み込んだ。
「もう咲さんは、すぐに騙されちゃうんだから。そんなんじゃ僕の思うつぼだねっ!」
やられたーーーっ。そうだ、今日の彼は小悪魔だった……。
すっかり彼のペースにハマッてしまっている。
でも…。なんか面白くなってきた。勝手に笑い声が漏れてしまう。
「翔平くん、面白いかも」
「そう?でも今頃気付くなんて遅い!僕はいつだって咲さんに笑っててほしくて頑張ってるんだから」
そっかぁ、頑張ってくれてるんだ。私の為に。
じゃあ私も頑張らないといけないね。
両頬を彼の手に挟まれたまま、目を閉じてみた。
彼の手が一瞬ビクッと動いた。そして彼の気配が近づいてきた。
「それ、キス誘ってる?」
目を閉じたまま薄っすら笑い「さぁ?」と小首を傾げたみる。
彼もちょっと笑った気がした。
もうすぐで彼の唇が触れる……と思ったその時。
「お待たせしました〜」
女将さんの威勢のいい声が部屋に響き渡った。
その後しばらく私はまた顔を真っ赤にしていたのは、言わずと知れたこと。
彼はいつもの調子に戻っているし……。この、千両役者小悪魔!
そんな二人の様子を見て、ふふっと笑いながら食事の用意を整えてくれている女将さん。
私はいつになったら、女将さんみたいに素敵な女性になれるのかしら……。
30過ぎてるのに、まだまだ子供みたいだ。