後編
目覚めると、隣の布団から静かな息づかいが聞こえてくる。
外ではスズメが鳴いている。秘密基地のすぐ近くの地面をついばんでいるようなさえずりの音量、距離感。
朝チュンというネットスラングがあるが、僕たちのあいだにはなにもなかった。
残念ながら、遺憾ながら、本当になにもなかった。
僕が読んだことのある小説に、似たようなシチュエーションが描かれていた作品があったことを思い出す。作者は夏目漱石で、タイトルは『三四郎』。あの作品で、女性と一夜をともにしながら手を出さなかった主人公の青年は、女性から「意気地なし」と冷笑されていたっけ。
苦笑いしたいような、そうするのもなにか情けないような、複雑な気持ちで上体を起こす。すると、ちょうどここあも体を起こしたところで、視線ががっつりと重なった。
「おはよう」
「……おはよう」
声を聞いたのを境に、僕の意識から急速に雲が退いていく。
眠たそうな顔を柔らかく変形させて、ここあが微笑む。
顔に微笑みが浮かんだのを僕は自覚する。
真似たわけじゃなくて、自然とそんなふうに表情が変化していた。
今日という一日が始まる。
昨日が出会いなら、今日は戦いの日だ。
菓子パンとコーヒー牛乳で朝食をすませ、手早く身支度を整えて秘密基地を出発する。
「こういうときはさっさと行動に移るに越したことはないからね」
移動開始直後のここあの発言だ。
今日の彼女は桜色の半袖のTシャツを着ている。下はハーフパンツ、髪型はポニーテールと、この二点は昨日と変わらない。
「だね。やる気があるときに動かないと」
朝九時過ぎ。そう早いわけではないが、起床してから出発するまでが慌ただしかったので、なんとなく早朝感はある。
「普段ならもう学校が始まっている時間だね。学校が通常どおりあるんだったら、外泊は絶対に許可してくれなかっただろうな、うちの親は。ていうか、いつから再開なんだろう」
「さあね。佐伯があくあに会っているあいだ、学校まで様子を探りに行ってこようか? あたし、高校の場所は知ってるから」
「見守っていてよ。心細いから」
「佐伯、授業参観に親が来ないとふてくされるタイプでしょ」
「それとこれとは話が違うよ。……怖いんだよ、ここあのお姉さん。まだ顔も知らないけど、話を聞いたかぎり、なにをしてくるかわからない感じが」
「まあ、死にはしないんじゃない? 話が通じるか通じないかが問題なだけで」
「それって、死なない程度に暴力を振るわれる可能性があるってことだよね。……不安だなぁ」
「杞憂に終わる可能性もあるし、ほどほどに肩の力を抜いてぶつかればいいと思うよ」
「なんか、他人事みたいな言いかただね」
「だって、やるのはあんただし。なに? 今さら怖気づいたっていうの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
住宅、住宅、ときどき田畑。そんな環境を、僕たちは勇み立って秘密基地を発ったわりにのんびりと歩いている。早すぎない朝の独特の緩い空気感がそうさせるのかもしれない。
しかし、昨日決めた作戦についての最終確認を行っているうちに、徐々に緊張感が増していく。いや、本来僕たちを支配して然るべき緊張感を回復していく、と表現するべきか。
決戦のときは近い。
犬猿の仲のここあではなくて、部外者の僕が調停役を受け持ったのに免じて、一時的なのだとしてもかまわないから、あくあには素直で物分かりのいい人になってほしい。
……なってくれればいいんだけど。
歩き続けて約半時間、僕たちは一之瀬家に到着した。
外観は平凡、大きくも小さくもない、ごく普通の二階建ての一軒家だ。前後左右の区画がすべて更地になっているから、ぽつんと孤立して建っている印象を受ける。
「どう? ラスボスの根城感、ある?」
にやつきながらも、底に緊張感を漂わせた表情をこちらに向けながら、ここあが問う。
「いや、普通の家だね。ごく普通の住宅。あの中にお姉さんがいるんだよね?」
「いるよ。あいつはひきこもりだから。家の外にいるほうが珍しいっていうか、ここ二・三年は一歩も出ていないと思う。だから確実にいるよ」
「……やらなきゃいけないのか」
つく予定のなかったため息をついてしまった。しかも、聞こえよがし感たっぷりの大きめのやつを。
「嫌そうだね」
「僕一人でやるんだよね?」
「もちろん。あたし、佐伯ががんばっているあいだは隠れているから。女神みたいに見守ってる。あそこの家の生垣の陰で」
斜め後方を指差す。今現在いる住宅地の雰囲気に溶け込んだ一軒家で、一之瀬家からは十五メートルほど離れている。
走ればあっという間にたどり着ける距離とはいえ、少し心細い。実際に一人にされると、かなり心細くなりそうだ。
「言っておくけど、ステレオタイプのひきこもりをイメージしていたら痛い目遭うよ。あいつはそんなひ弱じゃない。猛獣と戦うつもりでレッツトライ!」
「ねえ、ちょっと。直前になって不安がらせるようなことを言わないでくれるかな」
「だって事実だし。言っておかないと文句垂れるでしょ、佐伯のことだから」
「できればもっと早く言ってほしかったな」
「ほら、言ってほしいじゃん」
「そういうことじゃなくて――ああ、もう!」
破れかぶれな気持ちで玄関ドアを睨みつける。焦げ茶色の、なんの変哲もない木製ドア。
あの向こう側に広がる世界に、一之瀬あくあがいる。
りりあを日常的に虐待し、自殺に追い込んだ女が。
「行ってくる。すぐに終わらせる。のんびり見物でもしてて」
「期待してる。あたしたちで悪夢に終止符を打とう。頼んだ……!」
背中をばちんと強烈に叩く。静かな昼前の住宅地に銃声にも似た音が響いた。
僕は歯茎が見えるほどくっきりと微笑む。
ここあは「幸運を祈る」とばかりにサムズアップし、すたすたと歩いて離れていく。
その姿が生垣の向こうに隠れるのを見届けずに、一之瀬家の玄関ドアへと歩を進める。逡巡しても緊張が高まるだけだ。ひと思いにインターフォンを鳴らしてしまう。
機械音が鳴り、余韻が薄れ、静寂。
永遠にでも続いていきそうで。緊張感が凄まじくて。
逃げ出せるものなら逃げ出したい。
だが、逃げるわけにはいかない。ここまで来て、逃げるわけには。
現実世界でも音が途絶えているのか、緊張のあまり一時的に聞こえなくなっているのか、それすらも判然としない。
静寂の中、耳を澄ませる。
足音は聞こえない。人の気配も感じない。
あくあはひきこもり生活が長く、今は二階の元の自室を捨てて、一階のリビングを自室代わりにしている――ここあはそう言っていた。
リビングは一階にあるはずだから、訪問者を応対する意思があくあにあるなら、そろそろインターフォンを介して応答するなり、その手間を省いて玄関ドアを開けるなりしてもおかしくない頃合いだ。
それにもかかわらず、音沙汰なし。
最初から応対する意思がない?
それとも、訪問したのが見知らぬ若い男だから警戒している?
だんだん集中力が切れてきた。無意識に上半身をドアに近づけていたことに気がつき、遠ざけた、次の瞬間、
『お前、誰?』
軽く鳥肌が立った。
低音だが、たしかに若い女性のものとわかる声。
一之瀬あくあだ。
「あ、えっと……。一之瀬りりあさんのご家族のかた、ですか?」
返事は、ない。
順番を間違えたことに、その沈黙を聞いた瞬間に気がついた。
「ごめんなさい、申し遅れました。僕は一之瀬りりあさんのクラスメイトで、佐伯といいます。一之瀬さんの分のプリントを持っていくように担任の先生に言いつけられたので、持ってきました。ご家族のかたに受け取ってほしいのですが」
反応は、ない。
伝えるべきことは伝えたので、黙って返答を待つべきか。
それとも、警戒心を解くためになんらかの言葉を追加するべきなのか。
判断がつかず、僕は黙り込む。しかし、その沈黙にもすぐに耐えられなくなる。
「プリントを届けたいだけなんです。開けてください。お願いします」
このアプローチ、「郵便受けにでも入れておいて」と返されたら終わりじゃね?
そう気がついたのと、玄関ドアが開いたのはほぼ同時だった。
開き始めは低速だった。しかし三十度ほどまで開いたところで急加速し、あっという間に全開に。
現れたのは、長身痩躯の素っ裸の女。
身長百七十二センチの僕よりも少し高い。
一目見た瞬間のサイズ感から、男だ、と思った。
否定したのは、胸部から突き出した大層ご立派な剥き出しの膨らみ。
その上の顔は、冷気が漲った三白眼で僕を見下ろしている。
僕は息を呑んだ。
大女は胸を張るようにして頭上に両手を上げていたのだが、その両手に金属バットが握りしめられているのだ。
僕の視線の先で、バットのヘッドが動いた。
世界がスローモーションになる。
振り下ろす軌道。推測される着弾地点は、僕の脳天。
「あああああ!」
素早く回れ右し、不格好なヘッドスライディングをするように跳んだ。
胸に硬い衝撃。痛さというよりも熱さにうめく。地面に擦ったのだ。視界に映る一之瀬家の門は遠く、全然跳べていないと知る。
首を捩じって肩越しに振り向く。蛙のように開いた僕の両脚のあいだ、コンクリートの地面に金属バットが突き立っていた。
跳ぶ前にちょうど僕が立っていた地点。
背筋が寒くなった。
女がバットを振りかざす。
一歩、こちらに踏み込む。
僕は俊敏に四つん這いの体勢になり、高速ではいはいをして遠ざかる。
空気が縦に切り裂かれる音。
次の瞬間、尻の柔らかい部分に、ふざけた同級生の男子に軽く殴られた程度の衝撃。
振り下ろす一撃がかすったのだ。
立ち上がって逃げようとしたが、焦ったせいで手を滑らせ、顎から地面に叩きつけられる。
この場から遠ざかりたい気持ちは急速に減退し、敵の現状を把握したい欲求が上回った。
横方向に転がって仰向けになる。
敵はまた一歩踏み込んできた。
僕の脚と脚のあいだに女の右足が下ろされる。
攻撃の態勢に入る前兆。
バットを振りかぶる。
バッターなのにピッチャーのように。スイカ割りをするのだとすれば、破片は何メートル飛ぶのかという高さに。
僕は窮屈ながらも素早く、なおかつ力強く右足を動かし、僕の両脚のあいだにある右脚に足払いをかけた。
女の体が大きく前傾する。
女は金属バットを杖代わりに転倒を阻止しようとした。僕の右手のすぐ横に下ろされた凶器のヘッドは、斜めからの着地となった。不安定な角度では体重を支えきれず、女は前のめりに地面に倒れる。金属バットが手から離れ、ちょうど僕の右手の近くにまで転がってきた。
僕はそれを手に俊敏に立ち上がる。
しかし、逃走というコマンドを選ばなかったのは失策だった。
敵を叩きのめそうとしたのではない。確実に逃げ切るために、何発か攻撃を加えてから逃げようと考えただけなのだが、這いつくばる女の姿を一目見た瞬間、恐怖から全身が硬直してしまう。
女が体勢を立て直した。身のこなしがスムーズで、動いた、と思った次の瞬間にはもう立ち上がっている。
ただ、こちらには金属バットがある。その認識が、ささやかながらも勇気を付与してくれた。
僕は凶器を両手に握り、構える。
上半身はかすかに震え、下半身は逃げ腰だ。
ただ、闘争心はある。
来るなら、来い。
しかし、女は予想外の行動をとる。
こちらに背を向けたかと思うと、開きっぱなしのドアから家の中に入っていたのだ。普通の歩行と速足の中間の足取りで。
申し訳程度に緊張感が緩む。
逃げたのだ、と思った。武器を奪われ、失ったから、退散したのだと。
予想に反し、女は三十秒足らずで戻ってきた。なにかを右手に握りしめて玄関ドアから姿を見せ、大股でこちらへと歩み寄ってくる。
傘。
雨の日にコンビニに足を運べば、店頭の傘置き場に一本は置いてあるような、なんの変哲もない透明なビニール傘。
足の裏あたりで発生した寒気が、脚を経由して胴体を駆け上り、頸部を通過して脳天から抜けた。
女はフリーだった左手でも傘を掴み、腰をぐっと落として武器を後方に引く。
突きの構え。
速やかにこの場から離脱しなかった後悔の念が込み上げる。
女の体が動く。
「だあああ!」
とっさに、しゃがんだ。
一瞬ののち、頭上を風の筋が高速で通過し、僕の短い髪の毛を浮き上がらせた。
顔。
というよりも、目だ。
狙ってきた。突こうとした。ビニール傘の先端で。固く閉ざされた扉をぶち破ろうとするように、ありったけの力を込めて。
こいつ、マジで僕を殺る気だ……!
今度は傘を振り下ろしてきた。バットを横に倒して受け止める。手が痺れるような衝撃。
攻撃は連続して放たれる。凄まじい力での連打。一撃ごとに体が地面に沈み込むかのようだ。あっという間に、あと三十センチほどで尻が地面につくところまで追い込まれた。凄まじい音が頭上で響き続けている。どう考えてもビニール傘のほうが脆いのに、バットのほうが先にいかれてしまいそうだ。
防戦一方。
反撃の余地、なし。
このままだと、負ける。殺される。
唐突に猛攻がやんだ。
はっとして顔を上げる。
再び、突きの構え。
かわせない、と直感した。
凶器を突き出す動きがスローモーションに見える。
殺られる――。
と思った、そのときだった。
「佐伯っ! 無事なの!」
飛んできた大声が僕の鼓膜を震わせた。
ここあの声だ。
大きさか。声の主か。どちらが原因かは定かではないが、女は硬直した。攻撃が放たれる寸前で止まった。
呆けたような顔を目がけてバットを投げつける。
女は傘でガードしたが、攻撃の勢いを殺しきれなかったようで、よろめくように一歩二歩と後退する。
その隙に僕は立ち上がり、全力疾走した。
もちろん、門の外を目指して。
敷地を出るまではあっという間だった。肩越しに振り返ると、女はその場に立ち尽くしていた。
顔を進行方向に戻し、加速する。
脇目は振らない。逃走に全意識を注ぎ込む。ここあの助けを無駄にするわけにはいかない。
追ってくる気配はない。民家の生垣まであと数歩というところで振り返ったが、女の姿はなかった。
生垣の陰からここあが現れ、一之瀬家から遠ざかる方角を目指して走り出した。飛び出した瞬間に僕を一瞥し、以後は僕には見向きもせずに。
僕はここあと競争するように走る。互いに黙ってただ四肢を振る。
やがて僕たちの脚は止まる。
乱れに乱れていた呼吸をなんとか整え、あたりを見回す。一之瀬家があった地区と似たような雰囲気の住宅地だ。
「ここ、どこ?」
「うちの近く。徒歩だと五分もかからないんじゃない」
「そっか。かなり走った気がしたけど」
逃げるのに必死で時間感覚が狂ったのかもしれない。そう考えたところで、はっとしてここあの顔を見る。
「あの女は、あくあは、どうなった?」
「振り切ったよ。ていうか、そもそも追ってきてない。あいつは内弁慶なところがあるから、家から離れてしまえばこっちのもの。佐伯が呼吸を整えているあいだにちょっと道を引き返して、家の中の引っ込んだことも確認ずみだから」
「……そうだったんだ。ずっと近くにいてくれた気がしたけど」
「とにかくもう大丈夫。追ってきていないと見せかけて時間差で追いかけてくる、なんてこともないから。あいつはそういうやつじゃない。同居しているあたしが言うんだから間違いないよ」
「安心したよ。さっきはありがとう。マジで助かった」
「やけに素直じゃん。佐伯らしくないね」
「もともと君よりも素直だよ。仮に君よりも素直じゃなかったとしても、あの場面を助けてくれたんだから感謝の気持ちしかないって。……あいつ、マジで僕を殺そうとした」
ここあは真剣な面持ちでうなずく。
「やばい、やばいとは聞かされていたけど、あそこまでとはね。……でも、ここあはなんで助けてくれたの? あくあの前に出るのをあんなに嫌がっていたのに」
「殺されそうになっていたんだから、嫌でも決まってるでしょ。あんな場面を見ちゃったら助けるしかない。細かいことを言えば、生垣で身を隠しながら叫んだだけだから、別にあいつの面前に姿をさらしたわけじゃないしね」
改めて感謝の念を示すように深くうなずいたものの、胸の片隅では違和感がうごめいている。
生垣からでも玄関付近の様子は見えた。僕は何回か悲鳴を上げたし、バットと傘がぶつかり合う音は大きく響いていた。
僕が防戦一方で、ささいなミス一つで殺されかねない窮地に立たされているという情報は、かなり早い段階でここあに届いていたはずだ。
そのわりには、助けに入るのが遅かった気がする。
……なにかもやもやする。
「佐伯、とりあえず移動しよう。ここじゃ落ち着かない。落ち着ける場所に行って、腹ごしらえをしながら、今回の失敗について意見を交換しよう」
あくあは生まれつきの異常者ではなかった。
暴力的、というわけでもなかったと思う。
むしろ、どちらかと言えば物静かで穏やか。あたしとりりあよりも三つ年上なのもあって、いっしょになって遊ぶというよりも、少し離れた場所から見守ってくれていた印象が強い。優しくて頼りがいのあるお姉ちゃん。月並みな表現だけど、あの人ほどその評価がふさわしい人もいなかった。
初めて異常な暴力が行使されたのは、何年前だっただろう。
あたしたち三姉妹は自宅近くの公園で遊んでいた。近くに遊具がたくさん置かれている別の公園がある関係で、他の子どもたちからはあまり人気はなかったけど、遊具をひとり占めしやすいというメリットがある。なにより、あちらの公園にはない砂場があった。
その日、あたしとりりあは砂場で砂の城作りに励んでいた。とにかくでかくて高い山を作ろうとするあたしに、細部の装飾にこだわりを見せるりりあ。遊びかたは違えども、夢中になって砂とたわむれるところはさすが双子、というところだろうか。
無我夢中で遊んでいたあたしたちの手は、あたしたちを呼ぶ声を聞いて止まった。
『お母さんから電話あったよ。もうじき晩ごはんができるから帰っておいで、だって』
一人ベンチに座っていたあくあが、スマホ片手にそう告げたのだ。
あたしは返事もせずに砂遊びを続けた。当時からすでに食い意地が張っていたけど、そのときは遊びたい気持ちのほうが強かったから。
一方の生真面目なりりあは、「はーい」といかにも優等生って感じの返事をした。だけどうらはらに、遊びをやめようとはしない。
まだ遊んでいたかったのはりりあも同じ。あの子のことだから、あくあや母親に対して、申し訳なく思う気持ちはきっと持っていたはずだ。でも、いっしょに遊んでいるあたしが遊び続けているから、「ここあがもう少し遊ぶみたいだから、わたしも」という気持ちになったんだと思う。
あくあがベンチから立ち上がり、砂場へと歩み寄ってくる姿を、あたしは視界の端に捉えた。ゆっくりした歩調、穏やかな足運びで、怒っている様子は全然なかった。
だけど、あたしたちのもとに到着した三姉妹の長姉は、妹たちが予想もしていなかった行動をとる。
いきなり、無言で、砂の城を思いきり蹴飛ばしたのだ。
服や髪の毛にかかった砂を払おうともせずに、あたしは愕然としてあくあを見上げた。たぶん、りりあも似たようなリアクションだったと思う。
あくあは満面の笑みで二人の妹に告げた。
『りりあも、ここあも、くだらないことしていないで帰ろう。帰ってごはん、食べよう』
あたしは意味がわからなかった。あたしとりりあがいっしょに遊ぶとき、夢中になるあまりあくあや両親の命令を無視するなんて、よくあることだ。あのときのあくあは特別不機嫌というわけではなかったのに、なぜ?
その日を境に、あくあは家族に対して暴力を振るうようになった。まずは気の弱いりりあがターゲットにされて、次にりりあを庇ったあたし、それから両親。
あたしは怖かったし、戸惑った。あの優しくて妹想いのあくあお姉ちゃんが、どうして急にこんな野蛮な真似を?
原因にはまったく心当たりがない。
あくあは中学生のときは休みがちで、高校生のときは一年も持たずに自主退学と、集団生活に苦労している印象はある。でも、なにかトラブルを起こした、あるいは巻き込まれたという話は聞いたことがない。なにより、妹たちに対しては模範的な優しさを見せていた。
あくあは突然おかしくなってしまった。
あたし自身も納得がいかないけど、そう結論するしかなかった。
暴力が常態化すると、ただただ戸惑い、ただただ恐怖するだけじゃなくて、理不尽な仕打ちに対する憤りを覚えるようになった。なんとしてでもやめさせなければ、と思った。反抗も、反撃も、抗議もした。原因を究明し、不幸に終止符を打つ方法を模索した。
しかし、止まらなかった。
やがて、一之瀬家の被害者たちを諦めが蝕み始めた。殴られたら殴り返し、蹴られたら声を荒らげて抗議することはあっても、心の奥では仕方がないことだと諦めていた。本当の意味での危機感を持てなかった。
そして、りりあが死んだ。
遅すぎたのかもしれない。だからといって手をこまねているのは嫌だ。佐伯剣という協力者を得て、あくあのもとに行ってもらったのだけど、呆気なく追い返された。
高校は中退。中退してからはひきこもり。
もしかしたら外部の人間からの働きかけに弱いんじゃないか、という期待があったのだけど、あえなく打ち砕かれた。見通しが甘かったと言わざるを得ない。
今、あたしと佐伯は道を歩いている。言葉は一言も交わさずに歩いている。
それが現状を表すすべてだった。
道中は会話が少なかった。
危機一髪、乗り越えられてほっとひと息、安堵感から自ずと口数が増えるのではなく、逆に減少。一之瀬家へ向かう道中と比べても少ない。
僕たちは基本的には賑やかにやってきたから、少しでも静かになると怖いくらいに静かになる。
雰囲気は暗いわけではないが、重い。
食事の話が出たときは早すぎると思ったが、早いもので正午まで半時間を切っている。
「どこ行く? ファストフード店でテイクアウトしてM公園で食べるとか?」
僕が屋外を提案したのは、重たい雰囲気を考慮し、少しでも明るく楽しく食事がしたかったからなのだが、
「ファミレスにしようよ。屋内で落ち着きたいし、いろいろ食べられるし」
やんわりと却下されてしまった。じゃあそっちにしよう、と僕は答える。
ささいなことかもしれないが、そんなところからも空気の悪さを感じた。
熱々の鉄板にのせられて、目玉焼きを被った照り焼きハンバーグが運ばれてきた。
二人とも同じものを注文した。ここあの食欲ならもう一・二品くらいは食べられそうだけど、さすがにそんな気分ではないのだろう。
「美味しいね」
「だよね」
そんな会話にも数えられないような会話があり、しばしフォークとナイフを操るだけの時間が流れる。
僕たちのあいだを漂う、ぎこちなさ。ここあの言動から漂う違和感。
それに騙されて、誤魔化されて、本題を見失っていたことに、熱いチーズにむせたのを引き金に思い出した。
ここあに「大丈夫?」と心配され、咳き込みながらもくり返しうなずいて大丈夫だと伝え、氷が浮かぶ水をグラスから喉へと流し込む。その冷たさに目が覚めて、思い出したのだ。
僕たちは無意識に現実逃避していたみたいだ。
しかし、気がついてしまったからには、もうその選択肢は選べない。
「ここあ。挑んでみてわかったよ。あくあは僕一人の手には負える相手ではないって」
おもむろに、単刀直入にそう切り出した。
一口分には少し大きすぎるハンバーグのかたまりを口に押し込んだばかりのここあは、咀嚼しながら僕を見返した。
唐突な発言に驚いている様子ではない。しかし、心がまったく揺れなかったわけでもないらしい、微妙な表情。
「僕がりりあのクラスメイトっていう申告を、あくあは信じたと思うんだよ。プリントを届けに来たっていう言い分は、もしかしたら怪訝に思ったかもしれないけど、とにかくりりあ関連でなにか用事があってやって来たりりあのクラスメイトなんだろうって。
それなのにあくあは、凶器を手に殴りかかってきた。僕を殺そうとした。
当時はとにかく生き残るために必死だったけど、安全な場所に避難して振り返ってみると、ただただ異常だなって思う。話が通じないんじゃなくて、会話するフェイズにさえ行けなかったんだから。
あの調子では、再訪したとしても進展があるとは思えないよ。正直、もう二度と行きたくない。トラウマ級の体験だよ、あれは」
ここあは黙って話を聞いている。表情から考えは読めないが、もう少し発言を続けることに異論はなさそうだ。
「くり返し言うよ。あくあは僕一人の手には負えない。実際にあいつと対峙してみてそう痛感した。でも、諦めたくない。ここあが欲しいものを手に入れる手助けがしたい。おこがましいかもしれないけど、それは僕の願いでもあるから」
一之瀬りりあの自殺を告げられて以来、しつこく脳裏にちらつくあの映像――。
「あれ」を目撃しながら、僕がなんの手も打たなかったせいで、りりあは自殺したのかもしれない。そんな思いをずっと抱えてきた。拭っても、拭っても、拭い去れなかった。
ここあに協力した最大の理由、それは、その苦悩から解き放たれるため。
その目的を果たすためにも、あくあには腑抜けのままでいてもらっては困る。
「そのためには、ここあの力が必要なんだ。だから、僕に貸してほしい。二人で力を合わせて立ち向かおうよ、ここあ」
一瞬、ここあが僕から視線を逸らした。
気持ちが、揺れているのだ。
絶好のチャンスだ――僕は畳みかけた。
「ここあは唯一、あくあの蛮行に対抗できる人だ。あくあは家族に暴力を振るうんだよね。ということは、もちろん君にも。だけど、屈していない。秘密基地に一時避難とかはしているみたいだけど、それでもあくあとの同居を続けている。それは凄いことだよ。実際にあくあに襲われて、殺されそうになったからわかる。あのあくあに屈しないのはむちゃくちゃ凄いことだって。屈しないここあは強い人なんだって」
いつの間にか、ここあの眉間には深いしわが寄っている。
具体的にどのくだりが彼女の気に障ったのか、僕はさっぱりわからない。
正直、嫌な予感がする。
でも、まだある。言いたいことがまだあるんだ。
「あくあに嫌悪感を持っているんだよね。不愉快で、遠ざかりたい気持ちを。それはわかるよ。くり返し言うように、僕も被害に遭ったから。僕の場合は『怖い』だけど、あのあくあに対して『怖い』じゃなくて、『不愉快』とか『嫌だ』止まりですんでいる。その時点で凄いよ。マジで凄いなって思う。
そんなここあだからこそ、協力してほしいんだ。あくあ相手にも決して怯まないここあの協力が。嫌な気持ちはわかるけど、でも、それを我慢して僕に手を貸してほしい。頼むよ、ここあ――」
「嫌だ」
その声は決してボリュームは大きくないが、くっきりと響いた。
はっとしてここあの顔を凝視する。
不快がるような、怒りを懸命に抑えつけているような、込み上げてくる涙と格闘しているような――僕に初めて見せる、複雑な表情が浮かんだ顔が僕を見返した。
「え……なんで?」
「嫌なものは嫌、だから」
「それはわかってる。でも、そこを乗り越えて、目的を果たすために協力していこうよ。僕も怖いのを我慢するし、ここあも不快感を我慢する。それでよくないかな」
返事がない。
ここあはにわかにフォークとナイフの動きを活発化させた。僕のことは見ようともしない。
活発というよりも、せわしない。苛立っているようでもあるし、焦っているようでもある。まるでやけ食いをしているような。
不満があるならはっきり口にする人のはずなのに、言わない。
やはり、おかしい。
「確認だけど、ここあはりりあの死の真相を知りたいんだよね? 自殺の原因を。あくあがりりあの死にどの程度の影響を与えたのかを」
「ん」
短く答える。食べる手と口の動きは止めない。スピードはさらに上昇している。
「なんとしてでも訊き出したいんだよね? でも、自分一人では難しい。だから他人の協力が必要。協力してくれそうな人間は、現状では僕しかいない。ここまでオッケー?」
「ん」
「僕には一人であくあに立ち向かって打ち負かす力はない。でも、君の力になりたい。協力して、りりあの死の真相を解き明かしたい。そう強く願っている。僕にとっても君の力が必要で、君にとっても僕の力が必要。だから、僕はあくあへの恐怖を克服しようと努力するべきだし、君はあくあへの嫌悪感を我慢するべき。そういうことだよね?」
「ん」
「……ちょっと、ここあ?」
手の動きが極限まで速くなる。口に運ぼうとした半分はこぼれて床に落ち、器からすくおうとした切り分けられたハンバーグや米粒のかたまりの半分も落ちる。テーブルが見る見る汚れていく。
「ここあ、落ち着いて。なんで急にやけになっているの。僕の発言のなにが――」
「嫌なものは嫌って言ってるでしょ!」
ここあはテーブルを思いきり平手で叩き、その勢いを借りたかのように憤然と立ち上がった。
音と迫力に身を竦めながらもここあの顔を見返す。
食べ物を口いっぱいに含んで膨らんだ、両の頬。
その滑稽さを吹き飛ばすかのように鋭い、眼差し。
今にもこぼれ落ちそうに潤んだ、瞳。
見つめ合ったまま咀嚼し、あまり減っていない段階で喉を大きくうごめかせて嚥下する。
ごくり、という音がくっきりと鳴り、眉尻が大きく下がる。空になったばかりの口が開かれ、
「食事代は全額佐伯が支払って。……ばいばい」
「えっ? ばいばいって、ちょっと!」
ここあは猛ダッシュしてテーブルから遠ざかる。通路を移動する客の何人かに肩をぶつけ、会計カウンターの前で従業員と衝突して転ばせた挙げ句に運搬していた料理を皿ごと床に落下させてけたたましい破砕音を響かせ、出入口を飛び出して駐車場を一直線に疾走、あっという間に姿が見えなくなった。
店内は騒然としている。
店員が慌てたように現場に駆けつけ、壊れた食器を片づけ始めた。
騒動に対する客たちの関心が次第に薄れ、本来のファミレスの雰囲気を取り戻していく中、僕はようやく我に返った。
フォークを操って目玉焼きの白身を手の親指の爪くらいの大きさに切り取り、ハンバーグのソースを拭うようにして口に運んだところで、再び我に返る。
「アホか、僕は。こんなことをしている場合じゃない!」
伝票を手に席を立ち、会計カウンターに直行する。
ここあの心になにが起きたのかは、はっきりとはわからない。でも、今は呑気に考察している場合ではない。
追いかけろ。
追いついて、問い質して、真実を話してもらえば、考える時間なんてとらなくてもいい。
会計を手早くすませて、僕は店を飛び出した。
正直言って、秘密基地は本命視していなかった。
僕に別れを告げる言葉を吐いたのに、一番ここあになじみ深そうな場所に帰っているはずがないな、と。
ただ、候補地の中で一番ファミレスから近かったから、駄目元で足を運んでみることにした。
秘密基地の玄関ドアには鍵がかかっていたが、窓は施錠されていなかった。遠慮なく不法侵入させてもらう。
ここあはいなかった。トイレにも、風呂場にも、ローテーブルが置かれた和室にも。
「どこに行ったんだよ、あいつは……」
いない可能性は高いと踏んではいたが、そうつぶやかずにはいられなかった。
たしかに、あくあは近づきがたい相手かもしれない。
だけど、一回の失敗で諦めるなんて。逃げ出すなんて。そんなの、お前らしくないじゃないか。
「行こう」
捜し出そう。見つけ出そう。
なんとしてでもここあに会って、あいつと本音を戦わせないと。
窓を軽やかに潜り抜けて僕は走った。
恐怖はあった。
ただ、ここあだって物理的な距離を保てば嫌悪感を抑え込めたように、僕も距離さえおけばトラウマに圧しつぶされずにすむ。
あくあに会いに行ったさい、ここあが僕を見守るときに頼りにした、民家の敷地を囲う生垣まで僕は来た。あのときにここあがスタンバイしていた場所につき、一之瀬家を見据える。
玄関ドアまでは直線距離にして十五メートルほど。鼓動が高鳴ることはないが、決して安心はできない距離感だ。
金属バットもビニール傘も玄関先から消えている。
片づけたのは、あくあしか考えられない。
あの怪物にも、そんな人間らしい真似をするだけの理性があるのだ。インターフォン越しに僕と会話だってした。「話が通じない」のは、あくまでも部分的に、なのだろう。
もしここあが自宅に帰っていたのなら、あくあとのあいだでなんらかのやりとりが交わされているはずだが、物音や人声などは聞こえてこない。
静かに話し合いをしている可能性は――あり得ないな。
ため息をつかずにはいられない。
秘密基地よりも見込みはあると踏んでいたが、二か所連続であてが外れた。
誰もいない、物も置かれていない一之瀬家は、いたって平凡な一軒家でしかない。
裸の女にバットや傘で襲いかかられる事件が起きたなんて、一人の無辜の少女が自死に追い込まれるまで虐待を受けていたなんて、とてもではないが信じられない。
「……でも」
僕はあくあに襲われた。ここあの助けがなかったら殺されていたかもしれない。
りりあはあくあから深刻な虐待を受けていたと、一之瀬家の一員であるここあが明言している。
そんな恐怖と狂気の家に、僕はもう一度赴かなければならない。
ここあと再会を果たせて、なおかつ彼女が願いを手放していなければ、ではあるが。
「――行かないと」
さっきから物思いに耽る時間が長すぎる。
僕は歩き出す。二度ほど一之瀬家を振り返ったあとは走行に切り替えた。
事件現場でおなじみの黄色いテープと関係者以外立ち入り禁止の看板、制服姿の警備員、高そうなカメラとマイクを装備したマスコミ関係者。
僕が通うS高校の正門前は物々しい雰囲気に包まれている。
当たり前だ。昨日の朝に生徒が一人、校舎の屋上から飛び降りて死亡したばかりなのだから。
無人ではないだろうな、という予想は当然していた。しかし、こんなにも大勢の部外者が集っているとは思わなかった。
僕は消えたここあの行き先として、僕やりりあが通うこのS高等学校の屋上を本命視していた。
ただ、この警備。このマスコミ。
強引でしたたかなここあといえども、屋上に辿り着くのは無理だろう。現場検証的な作業だって、たぶん現在進行形で行われているだろうし。
落胆したが、気持ちは全然萎えていない。
あいつが足を運びそうな場所にはまだ心当たりがある。
通りをひたすら直進し、途中で道を折れ、遊具が置かれた庭があるアパートの敷地に足を踏み入れる。
疲れもあって、途中からは歩行に切り替えていたが、階段を上り始めると自ずと駆け足になった。
第六感は大なり小なり誰にでも備わっている。
わかる。感じるのだ。
秘密基地でも、一之瀬家の近所でも、S高校でも感じることがなかった、彼女の気配を。
「――ここあ!」
鉄扉を開け放つと同時に名前を呼んだ。
人がいた。
亜麻色のポニーテールが風に揺れている。
ここあだ。屋上空間を囲繞する金網フェンスのてっぺんに腰を下ろしている。
フェンスの外側を向いて。
なにかを諦めたような虚ろな目で。
「ここあ! そんなところで、おまっ……早まるな!」
「早まってなんかないよ。ていうか、飛び降りるつもりなんてないし。むしろ、佐伯が興奮してフェンスを猿みたいに揺らして、あたしを落っことさないかを心配してる」
返ってきた声は、思っていたよりもはるかに地に足がついている。
目が覚めた思いだった。
改めて、ここあの顔を見つめる。彼女がこちらを向いたので、ほぼ正面からのアングルだ。
瞳は、もはや虚ろではない。
顔に浮かんでいるのは、ほのかな笑み。
自虐的で、強がるようで、か弱い印象だが、それでいて芯に強さが鎮座しているようにも感じられる、複雑な微笑。
「じゃあ、慌てなくてもいいんだね」
「もちろん。なるべく近い環境でりりあの気持ちを想像したくて、フェンスの向こう側に立って地上を見下ろそうと思ったんだけど、いざ上ったら、ここでもいいかって考えが変わって。ずっとぼーっと景色を見ていたんだ」
「そっか。その口ぶり、嘘は言っていないみたいだね。安心したよ」
「なんか妙に心配されているみたいだし、そろそろ下りようかな」
「手伝わなくても平気?」
「さすがに平気。上ったの、自分だし」
ここあは金網に手をかけ足をかけて数十センチ下り、跳んだ。僕の身長とほぼ同じと、安心できない高さに見えたが、いっさい躊躇なく。
靴底と床が衝突し、乾いた音が立った。着地の衝撃でしゃがむ姿勢になっていたが、すぐにすっくと立ち上がる。痛がるそぶりはまったく見せない。
強い人だ、と思う。
強引で図々しい性格も含めて、強い。
その強さに、これまで僕はずっと引っ張られてきた。
しかし、ファミレスで弱さを見せた。
昨日、二回涙を流したときを凌駕する、明確な弱さを。
「追いかけてきてくれて、ありがとうね。あたしは別に待っていないけど」
「どういたしまして。くり返しになるけど、ここあが無事でほっとしてる」
「どうしたの、佐伯。いつもなら『待ってへんのかい!』って痛烈なツッコミを入れてくるのに」
「関西弁ではツッコまないよ。ツッコミ自体をしなかったのは、なんでだろう。やっぱり、本気で不安だし、心配しているからじゃないかな」
「本当に?」
「本当に。だってほら、ここあが明らかに取り乱したのって、ファミレスのときが初めてだろ。あれはびっくりしたし、絶対に放っておけないなって。
それから、理由が知りたいと思った。二人で力を合わせてあくあに立ち向かおうって僕は呼びかけたけど、ここあは頑として首を縦には振らなかったよね。耳を貸してもくれなかった。ここあはあくあのことを嫌っている、だけでは説明がつかない気がして。それ以外のなんらかの要因があるんじゃないかって。
もしかしたら僕の勘違いなのかもしれないけど、隠していることがあるんだったら、洗いざらい話してほしい。話さないとなにもわからないし、逆に話してくれれば絶対に君を助けるから。もちろん、笑わないし、くだらないって斬り捨てたりしない。それは固く約束する。僕たち、まだ出会って二日目だけど、なんでも話せる関係だと思うんだよね。二人きりっていう環境だから、ファミレスよりも話しやすいと思うし」
言語化できない想いを瞳に込めて、ここあの顔をじっと見つめる。返事があるまでそうしているつもりで、まばたきすら抑えつけて一心に凝視する。
彼女は沈黙している。
僕の想いを笑わなかった。しかし、大きく心を動かされたようには見えない。
僕の中のずるさを見透かしているのだろうか。
自分に問う。これ以上、隠す理由は?
自分は答える。ある。打ち明けるのが怖い、という立派な理由が。
……でも。
でも、前に進むためなら話してもいい。
「わかったよ、ここあ。僕も秘密を打ち合けるから、その代わり君も協力できない理由を話して。実は、君に隠していたことがあるんだ」
目の前の少女の双眸が少し大きくなる。
口腔の唾を飲み込み、僕は思い切って言う。
「実は僕、知っていたんだ。……りりあの体に傷が刻まれていることを」
ごくり、と喉が鳴る音。
鳴ったのは僕ではなく、ここあの喉だ。
こちらまで緊張してしまうリアクションだが、僕は言葉を紡ぐ。
「衣替えがあって間もないころだから、ゴールデンウイーク明けだったと思う。休み時間で、僕は自分の机に座ってぼーっとしていたんだけど、何気なく一之瀬さんの席のほうを向いたんだよ。別に異変を感じたとかじゃないよ。一之瀬さんの顔を盗み見ようとか、そういう欲求に駆られたわけでもなくて、本当に何気なく。そうしたら、一之瀬さんも自分の席に座っていた。夏服の左袖に右手の指を差し入れて、二の腕をかいていたんだ。ちょっとかゆくなったから無意識にかいた、みたいな軽い感じだった。袖が定位置よりも少し上にずれていて、普通なら服に隠れている部分が露出していたんだけど、縦方向に細長い傷が刻まれていたんだよ。一方の端は服の内側に隠れていて見えなかったけど、見えている部分だけで五・六センチはあった。周りの肌と比べると少し白っぽく変色していたから、怪我をしているんだなって一目でわかった。
僕は心も体も固まってしまって、目が離せなくなって。そうしたら一之瀬さんが、視線を感じたんだろうね、腕をかくのをやめて僕のほうを向いたんだけど、僕がなにを見ているのかがすぐにわかったみたいで、顔が強張った。でもその表情は長続きしなくて――どう表現すればいいんだろう。困ったような、諦めたような、悲しそうな、一言で言い表すのが難しい複雑な表情になって。僕を見つめたまま、さり気なくっていう感じで、袖をきちんと下ろしたんだ。
一之瀬さんの身に具体的になにがあったのかはわからない。でも、きっと彼女にとってよくないことが起きて傷を負わされたんだって、一連の動作を見て僕は悟った。
同時に、気がついたんだ。僕は今まで、一之瀬りりあを存在感のない、地味で、大人しい生徒だと認識していたけど、その傷が、彼女を傷つけている誰かが、彼女をそういう人間にしたんだって」
ここあがだんだんうつむいていっているのは、彼女の顔を見ながらしゃべっていたので把握していた。僕がいったん言葉を切ったときには、表情が見えないくらいに顔を下に向けていた。
でも、僕は話すのをやめない。罪を告白するのは精神的にしんどいけど、やめたくない。
「自傷って普通は手首にするイメージがあるから、一之瀬さんは誰かにやられたんだと思った。いじめの被害には遭っていないみたいだから、考えられるのはDV、家族の誰かに痛めつけられているんじゃないかって僕は予想した。
……でも、なんの行動も起こさなかった」
声が震えた。
僕の罪。明確な罪。
一之瀬りりあというかけがえのない個人の自殺に繋がった、大罪。
「本当に助けが必要なら、僕に傷に気がついたのをきっかけに彼女のほうから行動を起こすはずだ、それをしないのは、彼女が置かれている状況はそう深刻じゃないかとか。親しい関係のクラスの女子とか、あるいは教師とかが彼女の異状に気がついて、なんらかの行動を起こすはずだとか。
いろいろ言い訳を自分の中で用意していたけど、本当は怖かったんだ。闇を抱えた人間と接することで、自分も闇に呑まれるんじゃないか、本来無関係の僕にまで危害が及ぶんじゃないか。そう考えてしまって、行動に移れなかったんだよ。声をかけられなかった。……助けられなかった。一之瀬さんが自分の二の腕をかいていたのは、傷跡がかゆかったからじゃなくて、誰かに助けを求める無意識のメッセージだった。それはわかっていたのに……」
無意識に握りしめていた両手にいっそう力を込める。掌に爪が食い込み、痛い。
「一之瀬さんの自殺を担任から伝えられた瞬間、僕のせいだと思った。あのとき僕がなにか行動を起こしていれば、彼女は校舎の屋上から飛び降りずにすんだんじゃないかって。一之瀬さんを傷つけている人間が悪いんだって、もちろん頭の中では理解していたけど、罪悪感は消せなくて。償いをしなければっていう思い。彼女の死の責任は僕にもあると誰かに知られて、責められるのが怖い、そんなのは嫌だ、逃げたいっていう思い。その二つが胸裏で渦巻いて、でもどうすればいいかわからなくて、沈んだ気持ちで帰宅していたら、道で君にぶつかったんだ。
昨日、ここあに協力する理由を訊かれたときは、スリルあふれる非日常を体験したかったからって答えたよね。それも理由の一つなのは間違いないんだけど、一番の理由はそれ――つまり、一之瀬さんを救えなかった罪悪感だったんだ」
言葉が止まり、視界が涙に滲む。大きく洟をすすり、語を継ぐ。
「僕のせいで、一之瀬さんを死なせて、しまってごめん。僕に責任があることを、今の今まで隠していてごめん。僕に勇気があったら、あのときに助けてあげられていたら、一之瀬さんはあんなことには――」
出し抜けに、頬に灼熱感。
全身、特に下半身からごっそり力が抜け、その場にしゃがみ込む。
焼けるように熱い頬を片手で押さえながら、顔を上げた。
現在進行形で熱に襲われているのに、寒気がした。
視界に映ったのは、憤怒の形相のここあだ。右手を震えるくらい強く握りしめ、固く歯を食いしばっている。頬には二筋の光るものが認められた。
あ、僕、殺される――。
予感とはうらはらに、彼女は上下の歯と右手の締めつけを緩めた。肩で息をする。そして、先ほどまで握り拳の形だった右手を使い、右、左と頬を拭った。
その手を下ろしたとき、ここあは切なげに顔をしかめた。その顔をゆっくりと左右に振り、
「……できない」
か細い、震えを帯びた声が、弱音を吐露した。
呆気にとられる僕に向かって、彼女は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「できないよ。一発殴るだけで、もう限界。本音を言えば、佐伯が死ぬまで殴り続けたいよ。どんなに抵抗されようが、謝られようが、殴り殺したい。りりあの仇をとりたい。
でも、無理だ。
だって、見殺しにしたのは、あたしも同じだから……」
僕は思わず殴られた箇所から手を離し、その手ともう片方の手で床を押すようにして、ここあのほうへと身を乗り出していた。
込み上げてきた感情に、ここあの言葉が止まる。心を整える、実質以上に長く感じられる沈黙を挟んで彼女が口にしたのは、
「怖いの。あたしはあくあが嫌いというよりも、怖い。あんたへの協力を拒んだのも、りりあを見殺しにしたのも、どちらも理由は同じ。あくあが怖いからなんだよ、佐伯」
怖い。恐れている。
ここあが、あくあを。
「もともとは双子の妹として、一番近い場所からりりあを守ってあげる立場にあたしは立っていたの。あくあの理不尽な暴力に対する盾になって、ときには反撃もして、あくあの横暴に断固として戦ってきた。でも、暴力は年々容赦がなくなって、力も増して、手に負えなくなって、りりあを守りきれないことも増えた。殴り合いに負けてばかりになった。……恐怖を感じるようになった。盾にならなければいけない場面なのに逃げるようになった。逃げ癖が一度ついてしまったらもうだめで、りりあをまともに守ってあげられなくなった。
秘密基地、『あたしの逃げ場』という意味のことは言ったと思うけど、『あたしとりりあの逃げ場』という言いかたはしなかったでしょ? なぜかというと、あの場所はあたしが一人で使っていたから。りりあを匿ったら、もしあくあが乗り込んできたときに、あたしまで標的にされて、秘密基地もめちゃくちゃにされてしまう。そんな事態を恐れて、あたし専用の隠れ家にして、りりあには存在を秘密にしていたの。ひとり占めしていたの。……ずるい女でしょ?」
たしかに、布団は一人分しかなかった。
当時はまったく違和感を覚えなかったが、本当は抱くべきだったのだ。
「遠くまで逃げるっていう発想は抱かなかったな。わたしのりりあと二人で、あくあの魔の手が及ばないような遠い場所まで逃げようっていう発想は。りりあは我が家に愛着を持っていて、それも要因の一つだったのはたしかだったけど、そんな愛着、無理やり引き剥がせばよかったんだ。
……今になってみればそう強く思うんだけど、りりあが生きていたときは『りりあがそう言うのなら』で終わってしまっていた。広い意味で、あくあの圧力に屈していた」
あくあの暴力的な振る舞い。それによる圧力。
実際にあくあの暴力にさらされた僕は、その恐ろしさが痛いくらいに理解できる。
しかし、ここあは「仕方ない」ではすませられないらしい。
「あたしはついさっき、徐々に圧力に屈していった結果逃げるようになった、みたいな言いかたをしたよね。だけど、正直に告白すると、文字どおりの意味で戦ったのはほんの子ども時代だけ。正確な時期までは覚えていないけど、十歳とか十一歳とか、そのくらいの年齢からはずっと、ずっと、あくあから逃げていたよ。逃げ続けるばかりだった。
ところで、佐伯は昨日お風呂であたしの裸、見たよね」
「えっ? いや、それは……」
「見たでしょ。で、どうだった? 傷一つなかったよね。痣一つなかったよね」
「傷、痣――うん、そうだね。全然見なかった」
「ようするに、逃げ続けていて攻撃自体を食らっていないから、傷も痣もクソもないってこと。りりあは、親しくもないクラスメイトに発見されるくらい目立つ、隠したくても隠しきれない大きな傷を負っているというのに」
語尾が震え、涙の分泌量が増した。なにか言おうとしているのか、唇はもどかしげにうごめいているのだが、発声が伴わない。
ここあはやがて諦め、項垂れて泣き始めた。静かに、時おり堪えきれないというように大きくしゃくり上げながら。
仕方ないよ。あくあは強いんだから。僕たちは弱いんだから。
心の中でつぶやく。つぶやいたあとで、いや、と弱気を否定する。
あくあは強い。
僕たちは弱い。
……たしかにそうだ。
だから、敵わない。
……本当にそうか?
「――違う! 違うよ、ここあ」
その声に、ここあははっとしたように顔を上げた。涙に濡れた、その弱々しい表情を臆することなく見つめながら、告げる。
「弱いからって、諦めちゃだめだ。二人で力を合わせて戦おう。協力して、立ち向かおう。一人で戦うよりも協力したほうが、絶対に勝利に近づけるんだから」
「一人より二人のほうが勝ちやすいなんて理屈、小学生でもわかるよ。……でも、無理だって」
「なんで? ここあはどうしてそう思うの?」
「だって、あたしは一度もあくあに勝ったことないんだよ? 何百回と戦ってきたのに、一回も。そんなあたしが、一回戦ったけど相手にもならなかったあんたと組んだところで、どうにかできるわけないでしょうが」
「いや、違うね」
食い気味に否定。さらには、早口気味に言葉を連ねる。
「君は負けて、負けて、負けすぎて、『あくあには絶対に勝てない』と思い込んでいるだけだ。あくあと一回戦ってみた感じ、彼女はたしかに強かった。強かったんだけど、でも、喧嘩慣れしているとか、格闘技のテクニックを持っているとか、そういう感じじゃなかったんだよね。強敵なのは間違いないけど、協力すれば勝てる可能性は充分にある。そのレベルの敵だったと思う」
ここあは黙って僕の言葉に耳をかたむけている。心が動いているのが感じられる。提案にぐんぐん惹かれているのが伝わってくる。
あとひと押しだ。
「話し合いが通じない相手なのは、一回目の訪問で痛いほどわかったよ。だから、今度は最初から戦うつもりでいこう。戦って、打ち負かして、あくあから真実を吐かせよう。ここあ、君はあくあへの恐怖心を克服するために全力を尽くしてほしい。克服できた君と僕の二人で戦えば、絶対に勝てる。勝てたら、欲しい情報だってきっと引き出せる。物理的に痛い思いは免れないだろうけど、それが怖い気持ちもわかるけど、それは僕も同じ。僕がいっしょに戦えば、食らうダメージも半分になる。そう考えると、なにもしないよりも協力して戦うほうが得策だって感じない? ……どうかな?」
僕はここで言葉を切った。気持ちが先走りすぎて、少々しゃべりすぎてしまったかもしれない。だから、黙って返事を待つ。返答があるまで、二時間でも三時間でも待つ覚悟だった。
でも、そんな必要はなかった。
「そこまで言われてやらないのは、女がすたるな。男がすたるってよく言うけど、この使いかたも間違っていないよね?」
ここあは目の縁にたまった雫を指で拭い、口角を持ち上げたのだ。
「もともと、あくあのことはぶっ飛ばしてやりたいって思っていたからね。やりたくてもできなかったから、泣く泣く諦めていただけで。でも、佐伯からいろいろとポジティブな励ましの言葉をもらって、一気にやる気が出てきたよ。今までうじうじしていたのがなんだったの、レベルで気力が漲ってきた」
「え……。ということは――」
「ああ、いいよ。あたしも戦う。くそったれあくあを、二人協力プレイでぶっつぶそうぜ」
微笑んだ顔のまま、手を差し伸べる。僕はその手を掴む。すぐさま引っ張り上げられた。力強かった。さっきまでの泣いていた姿からは想像もできないくらい、たくましくて頼もしい。
「殴ったの、ごめん。お詫びの方法考えたけど、なにも思い浮かばないや」
「いや、別にいいよ。ここあが僕にむかついたのも、殴りたくなったのも理解できるし」
長きにわたって怪物と同居して、その怪物のせいで双子の姉を亡くして……。むしろ、「あと三・四発くらい殴ってもいいよ」と許可してもいいくらいだ。まあ、実際にそれをやられたら戦う前から戦闘不能になりそうだから、思うだけにしておくが。
「じゃあ、二人揃ってリベンジしに行きますか」
ここあが腹にほどよく力が入った声で言う。
「そうだね。魔王の根城には、やっぱりパーティで乗り込まなくちゃ」
「パーティと言っても二人だけどね」
「一人よりも全然ましだよ」
「それ、言えてる」
僕たちはうなずき合い、屋上をあとにした。
「りりあが自殺したって聞かされたときは愕然としちゃったな。その可能性は、どうなんだろうね。常に頭の隅で意識していた気もするし、まったくの盲点だった気もする。りりあを亡くしたって実感が湧いたのは、この目で遺体を見たとき。呆然として死に顔を見つめていると、むらむらと怒りが湧いてきて。あいつのせいだと思ったよ。あくあがりりあを殺したんだ。あいつが直接りりあを殺めて、自殺に見せかけたっていう意味じゃないよ。あいつの日ごろの非道な振る舞いが積もりに積もって、りりあを自殺に追い込んだんだって。遺書は遺されていなかったみたいだけど、早い段階で確信していたよ。りりあが死んだ責任はあいつにあるって」
一之瀬家に行く前に、僕たちには寄るところがあった。その目的地に向かう道中、ここあは静穏な口調で語ってくれた。
「あくあに対する怒りはもちろんあったよ。でもね、その怒りは周りのありとあらゆる人間に対するものでもあったの。葬儀社の人間の他人行儀な振る舞い、悲しんだというよりもどこかほっとしたような両親のリアクション、りりあの死にはまったく無関心に日常を送る周りの人間たち……。
あたしだけが悲しんで、苦しんで、罪悪感を覚えて、しかもりりあはもう二度とあたしのもとには帰ってこない。なんなのこれは、死ぬならなんであくあじゃないんだよって、むちゃくちゃいらいらした。
佐伯と衝突したあとのあたし、やけに喧嘩腰だったでしょ? いら立っていたのは明らかにその影響だね。同時に、泣いたり、おっぱいを触らせたり、全般的に情緒不安定な挙動だったのは、りりあに死なれて心が不安定だったから。情緒不安定だからおっぱい触らせるなんて、言葉にすると馬鹿みたいだけど、理屈としてはマジでそういうことだからね」
言葉を切り、苦笑をこぼして僕を横目に見る。僕はただうなずく。
「でもね、佐伯。あんたがぶつかった場所で待っていてくれたのを見て、風向きが変わった。りりあとクラスメイトだとわかって、こいつならもしかしてっていう気持ちになった。
なにが『もしかして』なのか、自分でもわからなかったんだけど、佐伯の告白を聞いてようやくわかったよ。
あたしは、『自分のせいでりりあを死なせてしまった』っていう罪悪感を分かち合える人間が欲しかったんだ。その苦しみに苦しんでいるのは自分だけじゃないと知ることで、今よりも少し楽になりたかったんだ。
だから、佐伯、あんたの告白――『りりあの腕に傷を見つけても、なにも行動を起こさなかった』っていう告白は、あたしを救ったよ。佐伯はもしかしたら、自分が楽になるための告白だ、ずるい真似だって思っているかもしれないけど、それは違う。自分だけじゃなくてあたしまで救ったんだよ、佐伯は」
僕は涙腺が熱くなるのを感じた。追加の言葉はない。屋上で言いそびれたことはすべて言い尽くしたらしい。
やっぱり、もう三・四発、殴られていなければ割に合わないな。
口にはしなかったが、そう思った。
一之瀬家から直線距離にて約十五メートル、平凡な民家の敷地を囲う生垣のかたわらで、僕たちは足を止めた。
「じゃあ、行ってくる」
顔に浮かぶ緊張を少し和らげて、ここあは僕に告げる。
「いってらっしゃい」と返すと、小さくうなずいて歩き出す。迷いのない足取りで、一直線に我が家の玄関へ。
僕は生垣に身を隠し、首を突き出して様子をうかがう。
ここあは玄関に到着した。ドアの前で足を止め、開錠する。事情を知らない人間には、どこかに遊びに行っていた十代の女の子が帰宅し、鍵を開けているようにしか見えないだろう。
しかし、あの家には怪物が棲んでいる。
実の妹を自殺に追い込み、見知らぬ訪問者に凶器で殴りかかる、本物の怪物が。
ここあの右手が玄関ドアを押し開いたときの緊張感は凄まじかった。あくあに襲われたときの体験が頭にこびりついているからだが、出会い頭の急襲はなかったようだ。
ただ、安心はできない。
「あくあはリビングを自室代わりにしている」とここあは言っていた。
普通に考えれば、リビングは一階にあるわけで。
同じ一階にあるなら、玄関ドアを開けた音はおそらくリビングまで届いているわけで。
鍵がかかったドアが開いたのだから、開けたのはここあだとわかったはずで。
ここあは玄関ドアを開け放ったまま中に入っていく。角度と暗さの合わせ技で後ろ姿が見えなくなる。
僕は静かに移動を開始する。進む方向は、一之瀬家の玄関。
その手には、金属バットをしっかりと握りしめて。
『五分待って。五分のあいだに、なんとかしてあくあを玄関まで連れてきて、外に背を向ける形で立たせる。だから佐伯は背後から接近して、あくあの頭をぶん殴れ。気絶したら縛って、凶器で脅して、あたしたちが知りたい情報を吐かせよう』
それがここあが提案した「作戦」だ。
最初から話し合いは放棄し、暴力を行使するという、僕たちが合意した方針にもとづいた作戦。
決定後、僕たちは秘密基地まで行き、押し入れにしまってある金属バット二本を手に、一之瀬家へ向かた。
『なんでそんな物騒なものがあるの?』
『護身用。一本は拾って、一本は買った。買ったほうは佐伯が使っていいよ』
とのこと。
『あいつはりりあを自殺に追い込んだ。佐伯を本気で殺そうとした。あたしやあたしの両親だって、これまでさんざん痛い目に遭ってきている。そんな人間、暴力で報復されても文句を言う権利はない。目には目を、歯には歯を。自分がみんなにどれだけひどいことをしてきたか、痛い目に遭わせてきたか、身をもって味わってもらいましょうか』
僕が取り決めを破り、五分も待たずに待機場所を変えることにしたのは、いざというときに迅速に助太刀に入りたかったから。
事前に計画の修正を願い出るのではなく、作戦開始後になって独断で行動に踏み切ったのは、一人きりにされたことで、あくあと戦っているさなかの恐怖が甦ったから。
ジャングルの中をほふく前進して敵陣へ向かう兵士の気分だ。
多少玄関の様子を気にしつつ普通に歩いているだけなのに、目的地点までの距離がなかなか縮まらない。
開きっぱなしになったドア越しに見える家内の闇を凝視し、聞き耳を立てながら歩いているのだが、音沙汰がない。
僕の独断が作戦を台無しにする可能性を思うたびに、安全圏にまで引き返したい誘惑が胸を疼かせる。
ただ、進むときと同じく、引き返すのにも勇気が必要だ。
葛藤しているあいだも、僕の脚は機械的に動き続ける。抵抗感を覚えていたはずが、いつの間にか見えない力に引き寄せられている。
ドアから中を覗き込むか。ドアを防壁に待機するか。
玄関まで約二メートル。緊張感がいよいよ高まってきたときだった。
「あくあ!」
突然の怒鳴り声。
思わず身を竦めた。
周囲を見回したが、近くに隠れられそうなものはどこにもない。消去法で、開きっぱなしの玄関ドアの陰へと移動する。靴音を殺しながらも全力疾走したのは言うまでもない。
玄関ドアを開錠してから声が聞こえるまで、約一分。音源は、すぐそこ。つまり、玄関。
なぜドアを開けてすぐに姉の名を呼ばなかった? リビングまで行って叫ばなかった?
葛藤があった? ためらいがあった?
……恐怖のせいで?
「話がある。出てこい。たまには動いて玄関まで来いよ。びびってんじゃねぇよ、このクソ姉貴!」
ここあは明らかに無理をして声を張っている。その証拠に、少し震えているようにも聞こえる。ここあは、あくあと対峙する前からあくあと戦っている。
心臓が鼓動を速めていく。
「出てこい! 三十秒だけ待ってやる。言うことを聞かないと、こちらからお前の部屋に乗り込んでお前をぶっ殺す。ドアを破るくらい造作ないぜ。もうカウントダウンは始まっているからな」
ここあは黙った。怒鳴っていた分、静寂はよりいっそう深く感じられる。
あくあは要求に応えるのか。籠城を決め込むのか。仮にここあが、玄関に留まるのではなく、あくあがいるリビングまで自ら赴くという、計画にはない行動をとったとしたら、僕はどう動けばいいのか。
緊迫感の中、玄関ドアではない扉――もっと奥に設置された扉が開かれる音がした。
ぺた、ぺた、ぺた――足音が玄関に向かう。
床を踏みしめた足の裏が弱い吸着力を示しながら離れる音。
足音が止まる。玄関で止まる。
再び、静寂。
僕はここあとあくあが相対している光景を脳裏に描く。
一糸まとわぬ姿で、瞳に狂気を宿した三白眼で妹を睨むあくあ。金属バットを肩に担ぎ、姉を睨み返すここあ。
あくあは余裕綽々といった様子で口角を吊り上げている。対するここあは、体の震えを押し殺すようにきつく歯を食いしばっている。
「珍しいじゃないか、お前から呼び出しがあるなんて。いつも逃げ回ってばかりいるお前が。だるいけど、物珍しさに負けて来てやったぜ。なんの用だ」
少し不機嫌そうな、話し相手を見下したような、冷ややかな声。
まぎれもなくあくあの声だ。
「決まっているでしょ。りりあの件だよ」
「ああ、あいつか。でも、その話はすんだよな。あいつは勝手に飛び降りて死んだ、オレはなんの関係もないし、なにも知らない」
「あたしはそれですんでいないの。なんの関係もないしなにも知らないって、どう考えても違うよね。いっしょに住んでいたのに。……りりあのことをあんなにいじめていたのに。おかしいよ。絶対に納得できない」
「じゃあ、なんで昨日の朝に顔を合わせたときに食い下がらなかった? オレが愛用のバットをちょっと振り上げてみせただけで、なんで逃げるようにこの家を飛び出した? 話はあれで終わったとオレは見なしていたから、今さらなに言ってんのって感じなんだが? 玄関でお前、びびってんじゃねぇとかなんとかほざいていたけど、怖がっているのはどっちだよ。それとも、なにかわけがあって逃げたのか? だったら、説明してみろよ」
ここあはなにも言い返さない。
僕は下唇を噛み、金属バットのグリップを握る手に少し力を込める。
「今日の昼前、妙な男のガキがうちまで来たが、あれはお前の差し金か? 絶対にそうだよな。もう少しで殴り殺せるってときに、近くから聞こえてきたお前の声が邪魔をしたからな。なにがしたかったのかは知らないが、お前自身がやらなかったということは、ようするにオレに立ち向かう勇気がなかったってことだろ。そうかと思ったら、今度はオレの真似なんかして、バットを手に怒鳴り込んでくるし。見てのとおり、こっちは丸腰だってのに。どんだけびびってんだよ、お前は」
「当り前でしょ。たとえ凶器を持っていなくても、あんたはいつだって狂気的なんだから」
「まあ、武器あり同士なら勝負にならないし、ちょうどいいかもな。ほら、かかってこいよ」
声が途絶えた。
なにが起きているんだ?
固唾を呑み、神経を研ぎ澄ませて気配を探る。
靴底が床をこする音。一歩、僕がいる方向に移動したようだ。
あくあに「かかってこい」と挑発されて、後退。
……気圧されている?
「どうした、口だけか。武器を隠し持ってなんかいないぞ。見てのとおり裸だからな。攻撃、してみろよ。ほら」
「あたしは知りたいだけだ。りりあはなぜ自殺した? 答えろよ、あくあ!」
「また逃げるのか。そうやって言い訳しているが、ようするにオレに立ち向かう勇気がないだけじゃないか」
「違う! あたしは知りたいだけ。知りたいのに、あんたがどうしても教えてくれないから、仕方なくこんなものを振りかざしているんだ。あんたと違って、殴るのも蹴るのも暴言を吐くのも、あたしは好きじゃない。あんただって傷つきたくないでしょ。だから、言って。正直に、ありのままを話して。そうしたらそれで終わる。話を聞いたあとであんたをどうしようかなんて、そんなの、聞いてもいないのに決められるはずがない。だから――」
「べらべらうるせぇ!」
男性的な、野太い怒声が轟いた。僕がいる周囲の空気まで震えた。
「それが言い訳だって言ってるんだよ、ボケ。弱いくせに正義感振りかざしやがって、りりあ以上にむかつくんだよ。前々から叩きつぶしたかったけど、お前はすぐに逃げるからな。戦いたくても戦えなかったから、いい機会だ。ほら、殴れよ。なにが話し合いだ、ふざけるなよ。そんなものを持参してきておいて、話し合い? 違うね。殴りにきたんだろう? だったら、殴れ。なにをびびってんだ? 遠慮なく殴りかかってこい。りりあみたいにぐちゃぐちゃにしてやるよ」
「あくあ……!」
憎悪がこもった声が響いた直後、いきなり鈍い衝突音が響いた。
僕の呼吸は一瞬止まる。
玄関から、頭を先にしてここあが出てきた。
というよりも、すっ飛んできた。
背中から地面にぶつかり、弾みで縦方向に一回転して静止する。
大の字に倒れたここあは、茫然自失している。薄く開いた唇、自然体に開かれた指先、どちらも微動だにしない。
飛んできたのがここあだと認識した瞬間、僕は叫びそうになった。地面に倒れた次の瞬間には、駆け出そうとした。
しかし、表情を一目見た瞬間に動けなくなった。
……負けた。
ここあは、あくあに負けた。
僕が助太刀に入るのが遅れたせいで。
ここあがあくあと一対一になったのは、あくまでも玄関まで呼び寄せるため。一対一で戦ってあくあを打ち負かすためではないというのに。
協力してあくあに立ち向かう取り決めを交わしたのに、一対一でここあを戦わせてしまい、ここあは負けた。
なんという失策。
取り返しのつかない失策。
実質的に敗北を決定づける失策。
ここあは僕よりも腕っぷしが強く、僕のときとは違って武器を手に戦い、戦う相手は丸腰だったのに、勝てなかった。
だったら、無理だ。
一人になってしまった僕に、勝機はない。
「しょうもな」
金属音がほんのかすかに鳴る。
ここあが攻撃を受けたさいに取り落とした金属バットを、あくあが拾い上げたのだ。
「無様だな、ここあ」
呆れたような笑いを含んだ、あくあの声。響き出す、ぺた、ぺた――という足音。進行方向は、外。
出てくる。
おそらくは、ここあにとどめを刺すために。
無意識に、バットを握る両手に力がこもった。
その硬さに、目が覚めた。
負けた? そうかもしれない。
勝ち目がない? たぶん、そうなのだろう。
だからといって、見殺しにはできない。
逃げられるものなら、ここあの手を引いて逃げている。あくあはここあを臆病だと嘲ったが、僕だってそうなのだから。
でも、ここあは逃げられない。
一撃を食らって、大の字になって茫然自失して、僕の視線の先で横たわっている。
助けられる人間は、現状、僕しかいない。
僕に求められているのは、あくあを打ち負かすことじゃない。ここあを守ることだ。
「ここあ、お前はここで終わりだ」
ぺた。
「逃げ回られるのはうざいから、動けない今のうちに殺してやるよ」
ぺた。
「金属バットの正しい使いかた、オレが手本を見せてやる」
ぺた。
「仲よしのりりあのあとを追って、死ね」
ぺた。
視界にあくあが出現した。
一糸まとわぬ長身痩躯。右手には金属バット。
双眸はここあへと注がれている。
無警戒。無防備。
その頭に、振りかざした金属バットを力いっぱい叩き込めば、勝てるはずだった。人を凶器で殴った経験はないが、ここあを揺り起こして正気に戻して逃げるだけの隙くらいは捻出できるだろう、と。
しかし、動けなかった。
実行しようと思ったが、体が動かない。
まだ睨まれてもいないのに、僕は蛇に睨まれた蛙になっていた。
あるいは、昼前の交戦のトラウマが蛇のひと睨みだったのか。
僕を圧倒したあくあだ。基本的な戦闘力は絶対に高いんだけど、でもそれだけじゃない。
ここあは武器を手にしていた。それなのに、手ぶらのあくあになにもできず、一発殴られるか蹴られるかしただけで戦意喪失。
恐怖こそが最大の武器なのだ、と思い知る。
……知るのが遅すぎた。
蛙になってしまうと、攻撃だけではなく、逃走のコマンドまで選択できなくなるというのに。
――あくあがゆっくりと首を捩じってこちらを向いた。
「よお」
気安い関係の相手向けの、気安い挨拶。
うらはらに、感情のこもっていない平板な声。
冷めたい眼差し。
それとお似合いなようでもあり不釣り合いなようでもある、薄ら笑いが浮かんだ口角。
「よお」とおうむ返しに返答して、片手を顔の高さに上げることができたら、どんなに楽だっただろう。
また、怪物に相対してしまった。
しかも、今度は実質的に一人きりという状況で。
「人間、意外と人の気配には敏感なものだぜ。そこに身を潜めていたのには一億年前から気がついていたぞ、童貞」
「……どうも」
「邪魔が入ったとはいえ、オレの不意打ちを防いで、かわして、逃げ切った。なかなか凄いと思うよ。喧嘩慣れどころか運動慣れすらしていないようなのにな。ビギナーズラックみたいなものか? 運がよかったな、童貞」
「どうも、です」
「だが、残念だったな。ビギナーズラックを使えるのは一回きり。お前はもうストックを所持していない。
というわけで、二択だ。ここあを見捨てて逃げるか、それとも、オレと戦って負けるか。好きなほうを選べよ」
でも逃げたら、あなた、ここあを殺しますよね?
そう確認をとりたかったが、できない。
だって、僕を凝視する目は据わっている。
疑問の答えは教えられるまでもなくわかり切っているし、疑問を口にした瞬間に僕が葬り去られそうだ。
恐怖。
その源泉が、目の前に立ちはだかっている。物理的な逃げ道自体はあるのに、立ちはだかっていると感じる。
逃げたら、ここあは死ぬ。殺される。
……嫌だ。
ここあの命を守りたい。そのためには、あくあと戦って勝つしかない。
ただ、あくあの戦闘力を考えれば、戦う前から勝敗は決しているようなもの。
ただ負けるだけなら屈辱感を味わうだけですむが、あくあはそんな甘い敵じゃない。
交戦経験があるからこそわかる。あくあは敵の息の根を止めることをもって勝利と見なす人間だ。容赦とか情けとかいう言葉は、あくあの辞書のどこにも記載されていない。
前回は、幸運にも、ここあの助けが入ったおかげで逃げることができた。
しかしそのここあは、あくあからの拳か蹴りかの一撃で呆気なく屈した。
助けは期待できない。
僕があくあと戦ったら、確実に殺される。
そして、そのあとはここあが。
……あくあはにやにやしながら僕の顔を見ている。いじめっ子をなぶり者にする不良生徒の醜悪な嗜虐性が瞳に宿っている。それにプラスして、獰猛さ、冷酷さ。なけなしの理性を、それらの感情を抑え込むために費やしているが、その気になればいつでも解放できるんだぞと、半笑いで警告しているかのような。
愉悦している。僕の怯える姿を。葛藤に苦しむ様を。
ふざけるな、という憤りも、リアリティのある恐怖の前ではあってないようなものだ。
怖い。同時にプレッシャーでもある。狂気を孕んだにやにや笑いだからだろう。
回答を態度で示すのが遅れても、殺す。ありそうなことだ。というよりも、なんのためらいもなくやってのけるだろう。これまでの言動を判断材料に考えれば、一之瀬あくあはそういう人間だ。
言おう。
言ってしまおう。
「死にたくないので、ここあの命は諦めます。僕一人で逃げます。すみませんでした」――そう言って、楽になろう。
僕の唇は、脳内に用意した文章を朗読するために動きかけた。
そのとき、視界の端にここあの姿が映った。
息を呑んだ。
ここあは、僕を見ていた。
大の字になって顔を天に向けていたはずが、首を三十度ほど捩じって顔を僕に向けているのだ。
なにかを訴えている目ではない。瞳は依然として百パーセント虚ろ。なんの感情もメッセージも読み取れない。
ただ、一撃を食らって倒れて、茫然自失していた状態から、顔をこちらに向けた。
ここあは、僕になにかを訴えようとしている。
成り行き任せにしたいなら、なにせ戦意喪失した結果の茫然自失だ、わざわざ虚ろなだけの瞳を向ける労力を割こうとはしないはずだ。
つまり、ここあは現状を肯定していない。
僕がとろうとしている対応が正しいとは思っていない。
茫然自失、戦意喪失する中でも、顔を僕に向けた。その行為自体がメッセージなのだ。
ここあを見捨てる道を選びかけていた僕の心は急速に変化していく。
見捨てる? とんでもない!
二人いっしょに死ぬくらいなら、自分一人だけでいいから生き残りたい。
たしかにそのとおりだ。ごもっともの一言に尽きる。
でも、ここあはただの一人じゃない。
見捨てたら、死なれたら、絶対に後悔する。一人以上の価値を持つ人を失って過ごす余生は、たぶん、狂った猛獣に無残に虐殺されるよりもつらい。
それに、今はまだ立ち上がるどころか上体を起こすことすらできないのだとしても、近い未来には、今朝のように僕を助けてくれるかもしれない。
というか。
僕が戦う姿を見せることが、ここあの戦意を甦らせることに繋がるのでは?
ここあが復活して二対一になれば、勝機もあるのでは?
葛藤していたのが嘘のように、すんなりと当座の目標が定まった。
あくあと戦いながら、ここあの復活を待つ。それが僕の目標だ。
決意がなんらかの外見的な変化をもたらしたのか、あくあが「おっ?」というふうに目を少し大きくした。
緊張の中、僕は「あの」と切り出す。
声はかすれていない。震えてもいない。
ただそれだけで、また少し勇気が高まった。
「あなたと、戦いたいんですけど。やっぱり、その、ここあは見捨てたくないので」
我ながら間抜けな発言だと思う。この緊張感の中でよく言えたものだと、呆れもした。
あくあは口角を吊り上げる。
「面白い。オレの前まで出てこいよ。いつまでもドアの陰に隠れてなんかいないで」
「あ、はい」と蚊の鳴くような声で答えて、命令に従う。堂々とした足取りを心がけたつもりだが、上手くいった自信はない。
倒れたここあと仁王立ちするあくあ、好対照な二人の中間地点で足を止め、あくあに向き直る。
ここあを守るような位置に立ったことで、腹の底から闘争心が湧いてきた。
体温が緩やかに上昇する。右手は金属バットを、握っていない左手は拳を、それぞれ強く握りしめてあくあをねめつける。
敵は少し腰を落とし、右手の凶器を振りかざした。
僕はそれを模倣するような構えをとり、あくあへと突撃する。
間合いがあっという間に詰まる。あくあは双眸をかっと見開き、バットではなくそれで戦うかのように犬歯を剥き出しにし、凶器を振り下ろした。
上空から振ってくるようなその一撃を、下から叩き落そうとするように、いささか窮屈なスウィングながらもバットをぶつけていく。
二本のバットがX状に空中で静止した。
振り下ろす一撃を受け止めたのだ。
普通、振り上げるよりも振り下ろすほうが力を入れやすい。そして、あくあは今も圧力をかけ続けている。受け止めたバットごと僕を押しつぶそうとしている。
それを僕は耐えている。気を抜くと圧力に屈しそうな危うさを感じながらも、受け止めきった状態を維持できている。
自分でも信じられない。
あくあの一撃を、完璧に防いだ。
僕が驚くくらいだから、当然あくあも驚いている。信じられない気持ちは僕以上なのだろう、目が真ん丸だ。
心底驚いた人間ではないと作れない表情。
僕の前で初めて露骨にさらした、弱さを表現する表情。
そして僕は我に返る。
グリップをいっそう強く握りしめ、渾身の力でバットを押し返す。あくあの体が大きく横方向にぐらつく。バットとバットが離れる。左肩を無防備にこちらに向けたあくあが目の前にいる。
僕は武器を振りかざす。真上ではなく、斜めに。
間を置かず、無防備な肩を狙い、日本刀で斬りつけるように振るう。
あくあは素早く防御態勢に入る。体に衝突するぎりぎりで受け止める。甲高い金属音。
完璧な防御ではなかったゆえ、弾かれる。大きな体がまたふらつく。
その隙を狙い、もう一撃。
今度は間に合わず、鈍い衝突音。
あくあは「ぎゃっ」と悲鳴を上げて地面に崩れ落ちた。
僕の足元に跪くかのような姿勢。
あまりにも簡単に一撃が入ったように感じられて、僕は面食らった。鈍器が肉を強く打った音の生々しさが、消えたあとも耳孔に滞っているようで、攻撃の手が完全に止まる。
目が覚めたのは、足元で動きがあったのを目の端に捉えたから。
僕の一撃を食らって倒れたさいに、あくあはバットを取り落としかけていたらしい。その凶器を、僕の次なる攻撃に備えて、あるいは反撃に転じるべく、握り直そうとした。
反射的に僕の右足が動き、あくあに蹴りを放った。
目も口も開いた顔にクリーンヒットする。食らったほうは濁ったうめき声を上げて仰向けに転がる。
一歩踏み込む。同じ顔面に、今度はバットによる一撃をぶち込もうとしたが、思い直して三歩後退、間合いをとる。
あくあは立ち上がる。迅速に立ちたかったが体がついてこないような、そんな挙動に見えた。
肩で息をしている。
我が身に起きていることが信じられない、という顔。
瞳からは凶暴な闘争心は健在で、攻撃的な雰囲気は失われていないが、迷いが芽生えている。
その迷いは、恐れに見えなくもない。
信じられないのは僕だって同じだ。
初めて真正面からぶつかってみて、考えが変わりつつある。
なんというか、あくあは思っていたよりも――。
突然、あくあが咆哮した。
それを号砲に、バットを振り上げて突進してくる。
迫力に怯んだ。思わず一歩後退した。直後、真後ろにここあが倒れていることに気がつき、二歩目の足は地面に固定される。
迫りくるあくあを見据え、バットを構える。
武器を振るうのはこちらが早かった。あくあがそれに応じ、二本の凶器が矢継ぎ早に宙でぶつかり合って金属音を奏でる。
壮絶な打ち合いがくり広げられた。
出だしは僕が防戦に回った。迫力と手数の多さに押されたし、すぐ後ろにはここあの体が横たわっているという制約がある。
ただ、そのすべてを僕は受け止めきった。たしかに手数は多いが、充分に対応可能な範囲内。一撃に込められた力は弱くはないが、体勢を崩すほどではない。気を抜かなければ大怪我はしないと確信が持てる。緊張感の中にも奇妙な余裕がある。
防戦に徹しつつ、虎視眈々と反撃の機会をうかがっているうちに、あくあの攻撃が鈍ってきた。一撃を放ってから次の攻撃に移るまでのインターバルが長くなっているのだ。
一つ一つの動作を行うのも大儀そうで、動きに切れがない。口はもともと常時開きっぱなしだったが、その開きかたがだらしなく感じられる。
全体的に弛緩している。
明らかに疲弊している。
僕は、自覚のうえではなんともないのに。
気を張っているせいかと思ったが、それはあくあも同じのはずだ。
心臓が拍動するごとに違和感が膨らんでいく。
鈍った動きにいら立つかのように、あるいは誤魔化そうとするかのように、あくあは再び咆哮した。
敵は大きく振りかぶる。力を両手に凝集し、打ち下ろしてくる。
僕も吠えた。
両手でしっかりとグリップを握り、薙ぎ払うような一撃。
鈍重でもあり鋭利でもある金属音。
バットから手が離れ、地面の上を回転しながら遠ざかっていく。
僕ではなく、あくあが握りしめていたバットが。
敵は愕然としている。
その顔を目がけ、一撃。
めきょり、と嫌な音が立ち、あくあは仰向けにぶっ倒れた。
追撃の手は止めた。少し息が切れてきたし、あくあは倒れたままだ。
鼻血を垂らし、口を半分開け、愕然というよりも呆然としている。
「……あくあ、お前、思ったんだけど」
あくあははっとしたようにこちらを振り向いた。その顔に向かって僕は言う。
「お前、喧嘩弱いだろ」
あくあの口が大きく開いた。まるで急に顎に力が入らなくなったように。
ここあによると、あくあは長年ひきこもりがちな生活を送っている。だから、体力がない。見てのとおり、痩せている。だから、腕力もない。ハイティーンの女性にしては高身長だが、ただそれだけ。
今日の昼前に交戦したさいは一方的な展開だったが、あれは僕に戦う準備ができていなかったから。たしかにここあから警告は受けたが、「話が通じない」の意味を楽観的に捉え、話し合いそのものは行われると高を括っていた。そこへ、凶器を手にした大柄な女に強襲されたのだから、僕としてはどうしても逃げ腰になる。
あのとき僕があくあに圧倒されたのは、単純な腕力や戦闘力の差ではなく、不意をつかれた驚きと混乱、さらには恐怖が大きく作用した結果だったのだ。
だから、互いに武器を手に正々堂々と一騎打ちをしたら、僕が上回った。
体力も腕力もせいぜい人並み。掴み合いの喧嘩なんて、友だちとのふざけ合いがエスカレートしたときにごく短時間やるくらい。暴力的な行為とはほぼ無縁の僕でさえ、戦いをかなり有利に進められている。
ゆえに、「強くない」ではなくて「弱い」と評するにふさわしい。
あくあはまだ口をだらしなく開けている。
鼻血を処理するくらいの余力はあるはずだが、ずっとその顔のままだ。まばたきすらほとんど観測できない。
一度圧倒した相手に攻勢を許し、今地面に仰向けになっている現実を、現実だといまだに認められないらしい。
日常的に圧倒しているし、今日は一撃で倒したここあよりも、明らかに弱そうな男相手になぜ――そんな疑問で脳内が埋め尽くされているのだろう。
違うよ、と僕は心の中で返答する。
お前がここあやりりあや両親を支配できていた真の要因は暴力なんかじゃない。
恐怖だ。
恐怖の力を使い、腕力という手段での反抗を抑えつけていたから、心もとない体力と腕力でも、家族四人を屈服させ、支配できていた。
僕に対しても、最初はそのやりかたで成功した。二度目も上手くいきかけた。
しかし、いったん呪縛が解けると、必然にこの結果に逢着する。
あくあがまだ現実を呑み込めていないのは、敗北を実感できていないからだ。
だったら、痛みでわからせてやる。
ここあとりりあの恨みを晴らす意味も込めて。
「終わりだ、あくあ」
凶器を振り上げた、次の瞬間だった。
「佐伯!」
声とともに腕を掴まれた。
はっとして振り向くと、ここあがいつの間にか僕の背後に立っていた。眉根に力を込めた表情だ。
「ここあ! 大丈夫なの?」
「あたしは平気。体のほうはノーダメージみたいなもの。あくあが地面に倒れているのを見たら、なんか急に気力が復活して、大慌てで止めに入ったの」
呪縛が解けたのはここあも同じだったらしい。
「やめときなよ、佐伯。その一撃を食らわせたら、あくあは大丈夫じゃなくなるから。そんなこと、あたしはしてほしくないな」
「でも――」
ここあは無言で顎をしゃくる。
顔を前に戻すと、あくあは地面に横たわったまま、両手で頭を抱えて震えていた。
僕の目には、親から暴力による虐待を受け、部屋の隅で縮こまって身を震わせている子どもに見えた。
いや、たぶん、たいていの人間の目にはそう映る。
……そうか。
あくあは自分よりも弱い家族相手に一方的に暴力を振るうだけで、殴り合いの喧嘩をした経験は乏しいから、暴力に耐性がないのか。
気持ちは完全に萎えた。顔面を足で蹴ったりバットで殴ったりしたが、力が強すぎたかもしれない。女の子なんだから別の場所にしておくべきだった。そんな反省の念さえ込み上げてくる。
戦意が失われたのを察したらしく、ここあは僕の腕を解放した。
僕は凶器を振りかざしていた手を下ろし、ここあに向き直る。
「ここあ、ごめん。ていうか、ありがとう。もう少しで無意味な暴力を振るうところだった。本来の目的を見失っていたよ」
「そうそう。あくあを打ちのめす的なことはたしかに言ったけど、それは手段であって目的ではないからね」
僕たちはうなずき合い、同時に叫ぶ。
「「りりあが自殺した理由を訊き出さないと!」」
あくあは裸だ。なにより、平凡な住宅地に建つ平凡な一軒家の玄関先は、尋問の場にはふさわしくない。多少なりとも強引に秘匿事項を訊き出すなら、密室に限る。
というわけで、ひとまずあくあを無理やり立たせて、両サイドから肩を貸すスタイルで家の中に入る。
「もっとしっかり支えろよ。こっちは怪我人だぜ」
あくあは減らず口を叩いたし、体の預けかたや歩きかたは従順とはいえなかったが、本格的な抵抗はしなかった。
拍子抜けでもあったし、物悲しくもあった。
「二階に行こう。あたしの部屋がある」
靴を脱いで家に上がった直後のここあの発言だ。
階段に向かう道中に見たリビングと思われる空間は、ごみであふれ返っていた。ごみ袋の山ではなく、ごみの山。薄い透明の袋一枚を隔てているか否かの違いなのに、覆うものがないだけで妙に生々しい。腐敗が始まった生ごみの臭いと饐えた臭いが混ざり合ったような臭気も感じる。
「なにじろじろ見てんだ。さっさと歩け。クソしたいのか? てめえが座る便器はないから、てめえのパンツの中で排泄しやがれ」
僕がなにを見ているかに気がついたあくあが罵言を吐いた。威勢がいいのは言葉ばかりで、声からは覇気が感じられない。
ここあの促す視線に首肯で応じ、僕たちは階段を上がる。
二階の突き当たりにドアが閉ざされた部屋があり、その手前の一室がここあの自室だ。
内装はピンクの主張が強めで、年齢相応の女の子らしさが感じられる。少し意外に思ったが、そういえば昨日のキャミソールも今日のシャツもピンクだ。ベッドの枕元には、子ども時代から大切にしているものだろう、少しくたびれた動物のぬいぐるみが五・六体並べられている。本棚に陳列された書籍は少女向けのマンガが多い。
ごみだらけのリビングを見たあとだからなのかもしれないが、印象としては普通も普通。ごく普通の女の子の部屋だ。
普通に遊びに来たのであれば、僕の鼓動は高一男子らしく高鳴っただろうが、今は状況が状況だ。
あくあは突き飛ばされるようにして椅子に座らされた。内装に調和した、白を基調にピンクも入ったカラーリングの回転椅子。
浅く腰かける形となり、ずるずると滑り落ちていく体を、あくあはアームの先端を軽く掴んで繋ぎ止めた。座り直して姿勢を楽にしようとはしない。うつむいた顔は疲れているようにも、ふてくされているようにも見える。
尋問ってどういう要領で進めるんだろう、と思いながらここあに視線を転じると、
「縛るもの、とってくる。大丈夫だと思うけど、見張ってて」
そう言い残してさっさと部屋を出て行った。
あくあはうつむいたままじっとしている。話しかけてくるどころか顔を上げることすらない。
怪物感、ゼロ。
あくあは負けた。
そして、これから尋問が待っている。隠していた秘密を強制的に打ち明けさせられる。
今、あくあはなにを思っているのだろう。
「おまたせー」
ビニール紐を手にここあが戻ってきた。
やけに手際よくあくあを椅子に縛っていく。肌への食い込み具合を見たかぎり、緊縛といってもいい厳重さ。
もう縛る必要はないのではと思ったが、僕は黙っていた。なんとなく、ここあもそれは承知の上での措置のようだったから。
「ねえここあ、あくあに服を着てもらわなくてもいいの?」
「なによ、見物係。急に紳士ぶっちゃって」
「係ではないから」
「ツッコミを入れる余裕が出てきたのはいいことね。あたしだってあいつの裸なんて見たくないけど、非協力的だから着せるのも面倒じゃん。さっさと始めてさっさと終わらせたほうがいい」
あくあの前にしゃがみ、太ももを遠慮会釈なく平手で打つ。電流が通ったかのようにあくあの体が震え、強張る。
姉妹の斜め後ろにたたずむ僕を肩越しに一瞥し、ここあは険しい表情で姉に言う。
「佐伯への説明も兼ねて確認するよ。ちゃんと受け答えしないとぶっ飛ばすから。尋問されている立場なのを忘れないでね、クソったれなお姉ちゃん」
あくあの双眸がようやく妹の顔を捉えた。
「昨日の朝、りりあは校舎の屋上から飛び降りて死んだ。あたしのスマホに連絡があったから、病院まで駆けつけて死亡を確認したあと、親戚に対応を任せてあたしは家に帰った。あくあが日常的にりりあにしていたことを考えれば、原因はあくあとしか考えられない。でも、つらい思いを日々味わいながらも生きてきたりりあなのに、なぜ急に死を選んだのか。あくあがなにかいつもとは違う、いつもよりももっとひどい、死にたくなるようなことをりりあにしたのか。それとも、耐え忍ぶ限界が来たのが昨日の朝だったのか。遺書は遺されていなかったから、そこのところが不明で――」
「お前が行動を起こしていれば、こんなことにはならなかったのにな。オレに責任転嫁してんじゃねーよ」
あくあが悪態をついた。力なく縛られているのが嘘のような、芯に力がこもった声。口角にはにやにや笑いが浮かんでいる。びびりまくる僕と相対していたときに常に浮かんでいたのと同じ笑み。一之瀬あくあの代名詞のような笑みが。
僕ははっとしてここあの顔を見た。
ここあの顔は怒気に染まっていた。瞳に宿る光は現在進行形でどぎつさを強めていく。閉ざされた唇の内側では、上下の歯がきつく食いしばられていそうだ。
ここあの両手が無意識のようにゆっくりと動いて握りしめられ、さらには震え出した。怒りによる震え。爆発する寸前の震え。
しかし、噴火には至らなかった。
突然、肩の力を抜いたかと思うと、聞こえよがしにため息をついたのだ。
僕の視線に気がついたらしく、ここあはこちらを向く。その顔から怒りは消えている。厳密には、その感情の残滓が観測できるものの、ちょっとした弾みで再燃するような危うさは皆無。
ここあは姉に向き直る。
「あたしのせいにしたいならそれでかまわないから、真実を話して。ただし、事実をありのままに、くだらない偏見は交えずに。そうすれば、誰が悪いのか、なにが悪いのか、あんたも含めたみんなで意見を出し合えるからね。諸悪の根源が明らかになったとして、それからどうすればいいのかはまだわからないけど、とにかく話せ。そうしないとなにも始まらないから」
「ずいぶん理性的な物言いじゃないか、ここあ。馬鹿みたいにうわーって叫びながら殴りかかってきてくれたほうが、オレとしては断然面白かったんだけど」
「佐伯があんたを叩きのめした時点で、怒りの大半は消えたからね。自分の手で復讐を果たすんじゃなくて、誰かの手で果たしても気が晴れるとは思いもよらなかったな。十六年生きてきて初めて知ったよ」
「あたしをぶっ倒すのも人任せで、りりあの命も救うこともできない。そして、オレの口から真相を引き出せずにいる。ここあ、お前は本当に無能だな。一族の恥さらしだ」
「『恥さらしはあんたでしょ』って言ってほしいの? 挑発しても時間の無駄だから、さっさと答えちゃって」
「おっ、いらついてるね。効いてるじゃん、挑発」
「効いてはいるかもしれないけど、乗ってはいないから。……一つ訊くけど」
ここあは重心をかける脚を右から左に替えた。
ほんの少し、雰囲気が変わった。
そう感じたのはあくあも同じらしく、口元を少し引きしめた。
「あんたはどうして真相を話すのを嫌がるの? 今までのあんただったら、今あたしに対してさんざんやっているみたいに堂々と言ったはずだろ。りりあにどんなひどいことを言ったりしたりしたかとか、りりあに生きる価値はないとか、死んで当然だとか、死んでくれてせいせいしたとか、自殺する人間は心が弱いとか卑怯な行為だとか家族に対する裏切りとか扶養家族が一人減って両親も喜んでいるとか――そういう反吐が出るようなことを」
少し声が震えている。拳も震えている。
震わせている感情は、怒りよりも悲しみの成分が濃いように僕には感じられる。
これまでさんざん、似たようなことをあくあから言われてきたのだろう。悔しい思いをしてきたのだろう。ときには涙したことだってあったはずだ。
ここあはきっと、いや絶対に、今日でそれに終止符を打ちたいと願っている。
「だけど昨日の朝、りりあのことを感情的に問い質したあたしに対して、あんたは知らぬ存ぜぬの一点張りだった。どんな言い回しを使っても、屈辱感を押し殺して下手に出るように方針を転換しても、決して口を割ろうとはしなかった。なぜなの? なぜそう頑なに隠し通そうとするの? 姉妹であるあたしにすら打ち明けられない理由って、いったいなんなの?」
姉妹は無言で睨み合う。
一触即発の雰囲気はない。冷静に、真剣に、腹を探り合っている。
こんなときこそ、関係が遠い僕のような人間の出番ではないかとも思うのだが、場を支配する雰囲気が断乎としてそれを許さない。お前は黙って成り行きを見守っていろ、軽率な真似をしたらただではすまないぞと、暗に警告を発している。
先に痺れを切らしたのは、尋問する側だった。
「くり返しになるけど、あんたは負けた。負けたんだから、意地を張るのはもうやめて秘密を打ち明けて。そうすれば楽になれるかもしれないし。あんたがいったいどんな罪を犯したのかは知らないけど、背負ってあげられる妹があんたの目の前にいる。あたしがキレてあんたに殴りかかったとしても、あんたが撲殺される前に止めに入ってくれる男が隣にいる。あたしも、あんたがなにを言っても理性的に振る舞うってこの場で固く誓う。
ここまでの条件が整っているのに話さないって、あんたにとって損な選択だと思うんだけど、あんたはどう思う?」
「嫌だね。なにを言われようが話す気はない。死んでも口を割るつもりはないぜ」
「……冷静になっているからかな。いつもよりもずっとあんたの考えていることがわかる。『だったら死ねよ』ってあたしに言わせて、殴らせようとしているんでしょ。でも無駄だよ。何度も言うように、あたしは挑発には乗らない。いい加減素直になったら?」
「オレが考えていることはなんでもお見通し、無駄な抵抗はやめろってか。偉そうに」
「キレがなくなってきたね。挑発のキレが。あくあ、あんた、本当は打ち明けたくて、打ち明けたくて仕方ないんじゃないの?」
「……話せるかよ。話せるわけがない」
「じゃあ、話せない理由を教えてよ。さっき言ったように、あんたが話しやすい条件は整っていると思うけど、まだだめなの? なにが不満だっていうの?」
「まだ知らないし、怖いからだよ」
僕は愕然としてあくあの顔を見返した。ここあも同じようなリアクションを示した。
知らない。怖い。
あのあくあが、自分の弱みを自らさらけ出し、認めるような発言をした。
「知らないし怖いって、どういうこと?」
「復唱すんなよ、恥ずかしいな。まだ見ていないからだよ。だから、知らない。まだ知らない段階で予想したかぎりだと、オレにとって不都合な真実が白日の下にさらされそうだから、怖い。そういうことだよ。相変わらず理解力がないな、お前は」
「理解力がないあたしにもわかるように、もっとちゃんと説明して。持って回った言いかたをしないで、単刀直入に。どういうことなの?」
「遺書だよ」
その言葉には、いら立つここあを瞬時に黙らせるだけの力があった。
遺書。
死にゆく者が、生者に遺したメッセージ。
でも、僕の記憶がたしかなら――。
「遺書は現場には残されていなかったって聞いたけど、どういうこと?」
「あくまでも現場にはな。でも、存在しないわけじゃない」
「それって……」
「理解力ゼロのお前でももうわかっただろ。オレ宛だよ。りりあはオレに宛てて遺書を遺して、校舎から飛び降りたんだ」
あくあは僕とここあの手によって束縛から解放された。
自らの意思で、ここあの服を勝手に借りて身にまとった。昨日ここあが着ていたのと同じデザインのキャミソール。ただし、ピンク色ではなく空色だ。
四肢の自由を得て、さらには着衣したことで、数十分前まで凶器を振るっていた怪物は、見違えるほど人間らしくなった。
『遺書? 捨ててないよ。捨てるわけがない。今もちゃんと保管してある』
あくあはそう明言した。顔つき、声音、ともに彼女らしくもなく真面目くさっていて、真実を告げていると僕は感じた。
『ついてこいよ。いっしょに読もうぜ』
部屋を出たあくあが向かったのは、自室。僕が二階まで上がってきたときに見た、突き当たりの一室だ。
ドアが開かれる。
殺風景な室内だ。テーブルや箪笥など、どの家庭のどの部屋にもありそうな最低限の家具を除けば、余分なものはなに一つ置かれていない。あくあは一階のリビングを自室のように使っている。だからこその殺風景なのだろうが、それにしても、という感想は持った。
あくあは机の一番上の広い引き出しからなにかを取り出し、無言で妹に渡した。
真っ白な封筒。表、裏、どちらにもなにも書かれていない。
ここあの手が慎重に封筒を開ける。
現れたのは、水色の便箋。
二つ折りにされたそれを開くと、びっしりと文字がつづられている。
一番左上の文字は「あくあお姉ちゃんへ」。筆圧の弱い、丸みを帯びた文字。
「りりあの字だね。りりあが書いた文章で間違いない」
ここあと、いつの間にかその隣に移動していたあくあは、顔を見合わせてうなずいた。
「……で、誰が読むの?」
一同の顔を見回しながらここあが疑問を呈した。
「え? ここあが読むんじゃないの?」
と、僕。なんだか久々にしゃべった気がする。
「いや、だってこれ、あくあ宛だし。あくあが読んでよ」
「オレに宛てられたんだから、オレは聞く側だろ。読むのはお前ら二人のどちらかだ。佐伯とかいう名前の童貞、お前は勉強がそこそこできるくらいしか取り柄がなさそうだから、朗読は得意なんじゃねぇの? お前が読め、命令だ」
「ちょっと待って。僕はただのクラスメイトだよ? そんな薄い関係の人間じゃなくて、やっぱり家族が読むべきだよ。あくあさんこそ、本当は自分で読みたいんじゃないですか」
「んなわけねぇだろ。音読の一つもこなせないのか、情けないやつだなぁ。……しょうがない。ここあ、お友だちの責任をとってお前が読め。たしかお前、国語の成績よかったよな」
「毎学期五点満点中二くらいだったんだけど。佐伯の言うとおり名指しされた張本人が――と見せかけて、佐伯が読んで。思い出したけど、佐伯は小説を読むのが趣味じゃなかったっけ」
「あっ、馬鹿! この場面でそんなこと……」
「はい、決定ね。ほい、便箋」
「待て、待て。なんで血の繋がりのない僕が引き受けなきゃいけないんだ。やっぱりあくあさんかここあのどちらかが――」
三人のあいだで謎の言い合いが発生した。妥協点は一向に見えてこない。放っておけば永遠にでも続きそうだ。
「ああ、もう!」
ここあがじれったそうに声を荒らげた。
「まったくもう、みんなして、どうしてこうも責任をとりたがらないかな。――わかったよ。あたしが読む。あんたら二人はモアイ像みたく大人しく聞いてなさい」
世の中のありとあらゆるものにうんざり、という顔でため息をついたが、便箋を広げたときには凛とした表情に変わっている。
聴衆の、そして自らの脳髄に刻み込むように、くっきりした声、ゆったりめのテンポで、ここあは読み始めた。
『あくあお姉ちゃんへ。
わたしは今日、自殺することにしました。理由は、これ以上はあくお姉ちゃんにされていることに耐えられそうにないからです。
お姉ちゃんを昔みたいな優しくて思いやりのある女性に戻すのが、わたしの使命。そう思って今までがんばってきたけど、いつか絶対に叶うとわたし自身は信じていたけど、まさかわたしの心の限界が先に来るとは思ってもみませんでした。なにを言われてもへこたれない、めげない、絶対に膝を屈しない強い心。それだけはたしかだと思っていたのに。それだけが取り柄だと思っていたのに。「自分のことは自分が一番わかっている」とよく言われるけど、ちょっと違っていたみたい』
まだ読み始めたばかりだが、朗読者の声は早くも潤んでいる。洟をすする音が時おり混じる。
『自殺する理由、今の暮らしがつらいからなのはもちろんだけど、命と引き換えにお姉ちゃんに変わってほしい、戻ってほしいっていう気持ちもあるんだ。お姉ちゃんは強情だから、そうでもしないかぎり変化は期待できそうにないから。
何日か前、もう忘れちゃったけど、夕食の準備が遅くて殴られたときにわたし、お姉ちゃんに言ったよね。「お姉ちゃんが今よりも少しでもまともなお姉ちゃんになってくれないなら、変わろうっていう姿勢を見せてくれないなら、わたし、死んじゃうかもしれない」って。
でもお姉ちゃんは、床に倒れているわたしを何度も何度も蹴りながら、こう答えたよね。「お前はこの世界に必要ないから、さっさと死ね」って。
もともと自殺は考えていなかったんだけど、そういう選択肢もあるんだって、目から鱗が落ちた思いだった。ちょうどいいやって思って、自分の命を自分の手で終わらせることにしたの。あわよくば、わたしを自殺に追い込んでしまった罪悪感から、あのころのお姉ちゃんに戻ってくれればっていう目論見があったの』
言葉が止まる。ここあは目に光るものを指先で何度も拭いながら、あくあを睨みつける。
あくあはうつむいている。まばたきすらしていない。止まっている。ここあの朗読をただ聞くだけの存在と化している。
少し時間はかかったが、なんとか気持ちを立て直し、ここあは読むのを再開した。
『あくあお姉ちゃんのことだから、わたしが死んだからといって変わってくれるのかな、っていう疑問は正直ある。だけどいくらお姉ちゃんでも、少しは前向きな方向に変わってくれるはずだって信じているよ。あの強情なお姉ちゃんが少しでも変わってくれるのなら、自殺した甲斐があったって言えるんじゃないかな。死んじゃうから、変化した姿をこの目で見られないのが残念だけど。
それから、ある意味あくあお姉ちゃん以上に心配なのは、ここあのこと』
「ここあ」という名前を口にした瞬間、本人の双眸から涙があふれ出した。
あくあは顔を上げて妹の顔を直視した。
涙は止まらない。それでもここあはしゃべる。
声は聴き取れない。それでもしゃべる。
『ここあはわたしのことが大好きで、あくあお姉ちゃんのことが大嫌いだから、わたしが自殺したって知ったら、きっとお姉ちゃんを責めると思う。いつもわたしに話しているように、本当に殺してしまうかもしれない。でも、わたしは姉妹がいがみ合う未来は望んでいない。だから、お姉ちゃんは絶対に、ここあにこの遺書を見せて。わたしが自殺することにした理由を知ったら、ここあも納得するだろうし、今後二人が喧嘩することもなくなるんじゃないかな。……ちょっと楽観的すぎる気もするけどね』
途切れ途切れながらも紡いできた言葉が、とうとう続かなくなった。拭っても、拭っても、追いつかない。涙はぽたぽたと床をぬらす。激しくも切ないむせび泣き。
おもむろに、ここあは便箋を差し出した。
自分の姉ではなく、僕へと。
差し出されるままに受け取る。文章には続きがあると知り、僕は託された役割を理解する。
『自殺という選択肢を選んだ時点で、ここあはわたしのどんな説明にも納得しないし、悲しくて悔しい気持ちはずっと消えないと思う。ここあとは普段からたくさんお話をして、わたしの気持ちを理解してくれているし、いっそのことなにも書き遺さないでおこうかとも考えたんだけど、やっぱり少しだけここあ宛の言葉も書いておくね。
短いあいだだったけど、今までありがとう。あなたがいたから、わたしの人生は輝かしいものになった。あくあお姉ちゃんと仲直りして、仲よくしなくてもいいけど喧嘩はせずに過ごして、わたしの分まで長生きをしてね。大好きだよ』
横目にうかがったここあは、依然として泣きじゃくっている。
僕の言葉は聞こえているだろうか?
いや、そんなことはどうでもいい。
りりあがこうして書き遺してくれているんだから、好きなときに好きなだけ読み返せばいい。
『やっぱりここあ宛の遺書もちゃんと書いたほうがいい気もするけど、書き直すと命を絶つ意志が揺らぎそうだから、あくあお姉ちゃん宛だけにしておくね。
わたしはあくあお姉ちゃんのことを、最後まで信じているよ』
ここあは泣き、あくあは呆然と立ち尽くしている。
僕はを立てないように便箋を畳んで封筒に戻した。
どれくらいの時間が流れたのかはわからない。
というか、どうでもいい。
「一人になりたい。一人にさせて。ていうか、なるから」
洟を盛んにすすりながら、ここあは部屋を出て行った。
そして再び、あくあと二人きり。いまだに呆然と立ち尽くしている一之瀬家三姉妹の長女と。
「あの、あくあさん」
呼びかけると、呼びかけられたほうは顔を緩慢にこちらに向けた。
一言で表すなら、茫然自失。
伝わるのか。そもそも聞こえているのか。不安ではあったが、呼びかけに応じてくれたのだから心配は杞憂に終わると信じよう。
「大切なものを失ったことに気がついたあとって、今のあくあさんにみたいに途方に暮れてしまうものだと思う。でも、これからどうすればいいかがわかっているのは、不幸中の幸いなんじゃないかな。りりあさんがしてほしいって書いていたこと、やってみればいいんだよ。あくあさんはこれまでの人生で、自由気ままに振る舞うことが多かったみたいだけど、これからは少し我慢もしながら生きて。つらいほうがあとに来るから、メンタル的にはちょっとしんどいかもしれないけど、なかなか頼りになる妹もいるし。それから、一応僕も」
僕は白い歯を見せて微笑む。不自然ではない笑いかたで笑えた手応えがあった。
あくあはせわしなく目をしばたたかせている。
どうやら、僕の言葉は心に届いたらしい。
それを踏まえて、あくあはどう行動するだろう?
できればこうしてほしい、という大まかな希望はあるが、行動を決めるのは僕ではなくあくあ。
伝えるという役割は果たした。僕の出番は終わった。速やかに退場するべきだ。
「じゃあ、僕はここあのところへ行ってくるね」
りりあの自室は、あくあの部屋とは反対の廊下の突き当たりにあった。
ドアは閉まっている。耳を欹ててみたが、物音などは聞こえてこない。
「ここあ、ここにいるの?」
「いる。どうしてわかったの?」
声はまだ涙に侵されている。「いる」と「どうして」のあいだには大きく洟をすすった。ただ、口調は思いのほかしっかりしている。
「んー、なんとなく。入ってもいい? ちょっと話をしよう」
「えー、やだ。ドア越しだったらいいよ」
「なんで?」
「だって、メイクぐちょぐちょのべちゃべちゃだよ? どろどろのぐずぐずだよ?」
「いいよ。全然気にしてないから」
「いや、気にしろよ。かわいい顔のあたしと話すほうが絶対いいでしょ。煩悩丸出しの思春期男子として、そこはこだわってよ」
「えっ、怒られるの? かっこつけたセリフのつもりだったんだけど」
「ああ、なるほどね。下心が見え透いたから鼻についたわけだ。納得だ、納得」
僕は「なんでだよ」と言葉で不満を表明しつつも、うれしかった。ああ、やっぱりここあはこうでなくちゃ。
「じゃあ、ドア越しでもいいよ」
僕はそう答えて、ドアの開閉の邪魔にならない場所に胡坐をかく。フローリングの床の冷ややかさに、少し浮ついていた心がすっと大人しくなった。
「ここあがずっと知りたかったこと……。之瀬さんの自殺の原因が明らかになったわけだけど、どう感じた?」
「よかったと思うよ。よくないけど、でも、謎のまま終わるよりも断然まし。でも……うん。なんていうか――」
「複雑だよね」
「だね。なにせ、死んじゃったわけだから。帰ってくることはないわけだから。そういう道を選んじゃった、選ばせちゃったんだって思うと……」
漂い始めた重苦しい雰囲気を、ここあの「いや」という強めの声が払いのける。
「もう少しポジティブな話がしたいな、あたしは。これ以上暗いのはしんどいし、りりあもそれは望んでいないみたいだから」
ここあの声には適度な明るさがあった。だから僕は快く賛成の意を表明したうえで、こう話を振ってみる。
「遺書を読んでみて、一之瀬さん、責任感が強い人なんだなって思ったよ。物凄く真面目に、ひたむきに、自分ができることを精いっぱいやろうとしていた」
「そうそう。むちゃくちゃがんばり屋なの、あの子は。凄くしっかり者。一番上の姉があんな感じだし、りりあは控えめで大人しい子だから、あたしがちゃんとしなきゃ、引っ張らなきゃっていう意識はもともとあったの。だけど、本当に支えていたのはりりあだったね」
「僕、クラスメイトだけど交流はほとんどなかったから、一之瀬さんのことを知れてよかったって思う。もう会えないけど、でもよかった」
「りりあは交友関係が広い子じゃなかったから、佐伯みたいなことを言ってくれる人ができて、天国で喜んでいるんじゃないかな。……行き先は天国だよね?」
「もちろん! 一之瀬さんが地獄に行くなら、八十億人の地球人はほぼ全員地獄行きになっちゃうよ。
自殺を決意した人って、心が乱れて、支離滅裂なことを書き遺しそうなイメージがあるけど、とてもしっかりした文章だったよね。誰を責めるでもなく、心に響くような言葉を妹と姉に遺して」
「名文だったね。思わず泣いちゃった」
「無理もないよ。あんなに優しいメッセージを読まされたら」
「大変だなって思う。ああいうしっかりした子が先に行っちゃうと、残されたほうは」
「ここあはどうするもりでいるの? あくあとの関係は。一之瀬さんは仲よくやれって書いていたけど」
「そのつもりでいる。というか、こんなことになる前から、あたしは仲よくしようとしていたよ? そのための努力はずっとしていた。か弱いりりあを守るために、あくあの横暴には断固として屈しないっていう方針も立てていたから、できるだけ仲よくの方針が後回しにされることもあっただけで。あいつに厳しくしていたのは、あくまでも立ち直ってほしいからであって、叩きのめしたいわけではないから」
「なるほど。あくあに立ち直ってほしいっていう気持ちは、きっと姉妹共通のものなんだろうね」
「あくあ本人だけは例外な気もするけど」
「でも、一之瀬さんの遺書を読んだことで変わったんじゃない?」
「そう信じたいね」
「きっと変わるよ。だって遺書を読んでからのあくあ、凄く大人しかった。なにか思うところがあったんだと思う。考えが変わろうとしているんだと思う」
「客観的に見られる立場の佐伯がそう言うのなら、きっとそうなんだろうね。――わかった。きっとそうなるって信じて、これからはあいつと二人で生きていくよ」
「ポジティブな言葉が聞けて、安心したよ」
「安心したところで、佐伯、いっしょに考えない? 最後まで残った最大の謎について」
ここあはいったん言葉を切り、少し声を低めて語を継ぐ。
「飛び降りたの、なんで高校の校舎の屋上だったんだろう。確実に死ねる高い建物なら、他にもたくさんあるよね。駅前のビルとか、アパートとかマンションとか。昨日と今日、二日連続で上ったアパートだって、六階建てだから校舎よりも高い。学校よりも近い場所にだって何棟もある。それなのに、りりあはわざわざ学校を死に場所に選んだ。遺書になぜ学校で死ぬのかは書いていなかったから、生き残った人間が知恵を絞るしかない」
最後に残った最大の謎――たしかに、ここあの言うとおりだ。
でも、あくあと決着をつけて、改めてこの謎と向き合ってみると、次から次へと見えてくるものがあった。
「あたしが考えたのは、学校で嫌な思いをしていたから、当てつける目的であえて学校を死に場所に選んだ可能性。クラスメイトからいじめを受けていたとか、教師に目をつけられて日常的に嫌味を言われていたとか」
「すでに話したと思うけど、一之瀬さんに対するいじめはなかったよ。いじめられていたら、悪い意味で目立っていたはずだけど、彼女はそうじゃなかったから。そもそもうちのクラスに、ただ大人しいだけの女子をいじめるような生徒はいないし。教師に関しては、一之瀬さんは優等生だから、むしろかわいがられるタイプだと思う。教師から被害に遭っていたとは考えにくいよ」
「でも、佐伯はそもそも、りりあとは直接的な交流はほぼなかったんでしょ? あの子は苦しみを我慢するタイプだし、知らないところでなにかされていたとかは、普通にある気がするんだよね。ネット上でいじめられているっていう噂は聞いたことがない、という話だったけど、本当にそう言い切れるの? 佐伯の知らない場所で酷い目に遭っている可能性、普通に考えられない? 教師の場合も、嫌がらせはなかったとしても、セクハラとか」
「そうだね。絶対になかったと断言はできない。でもね、ここあ。一之瀬さんは遺書になにも書いていないんだよ。あくあに関して、そして君に関して、今まで口にしてこなかった想いを、あんなにもしっかりとした文章で書き遺したにもかかわらず、校舎から飛び降りることにした理由は一言も」
「あ……」
「学校に関係するちょっとした悩み、みたいなものはあったかもしれない。というよりも、当然あったと思う。でもそれは、思春期の人間なら誰でも、それこそ僕だって抱えているような、当人以外の人間にとってはくだらない悩み、ありふれた悩みであって、自殺の直接の要因ではなかったんじゃないかな」
「……なるほど。佐伯の話聞いてたら、それが正解な気がしてきた。でも、それが真実だとして、けっきょくなんで学校なの?」
「これも断言はできないんだけど」
そう前置きをしたうえで、考えを口にする。
一之瀬りりあが自殺してからずっと、断続的にではあるが、彼女の死について考えてきた。行ったり来たり、進んだり下がったりしながら考え続けて、徐々に見えていなかったことが見えてきたし、考えがまとまってきた。
そして今日、あくあの話を聞き、りりあの遺書の内容を知ったことで、完全に固まった。完璧に整理できた。
それを今、ここあに伝えよう。
「遺書を読んだかぎり、一之瀬さんは家族想いだよね。死を選んでしまうくらいに激しい暴力を振るってくるあくあに対してでさえ、恨み言を言うんじゃなくて心配をしていたくらいだから、文句なしの家族想いだ。だから自殺を考えたときに、ここあやあくあに迷惑をかけるような方法は選びたくなかったと思うんだよ。
たぶん一之瀬さんは、自分の死ぬところを家族が見たらショックを受けると考えて、自宅以外の場所で死ぬことにした。中途半端に生き残っても迷惑をかけるだけだから、確実に決行できて確実に死ねる場所と方法を選びたい。だから、通勤通学ラッシュで人が多い駅や、高くても立ち入ったことがないビルは除外した。前者は周りの人間に阻止される恐れがあるし、後者は屋上に通じるドアに鍵がかかっているとかして、そもそも入ることさえできない可能性があるからね。
検討した結果、一之瀬さんは確実に入ることができて、邪魔をする人間が周囲にいなくて、確実に死ねる高さがある、S高校の屋上から飛び降りることにした。ここあもあくあも学校には行っていないから、地面に叩きつけられる瞬間を姉や妹に目撃される心配はないしね。
たぶん、そういうことなんじゃないかな」
「……なるほど。佐伯の推理、正しい気がする」
「あくまでも推測で、確証はないんだけどね」
「佐伯。あんたさ、なんて言うか」
「なに?」
「カウンセラーを目指せば? 将来に就く職業として」
「は? なんでいきなり?」
「最初は『さすがは名探偵』って茶化そうとしたの。茶化すっていうか、普通に称賛? 謎の真相、あたしは全然わからなかったのに、佐伯はすらすらと見事な推理を披露してみせたから、凄いな、あたしには絶対無理だなって思って」
「見事、なのかな? 僕は一之瀬さんの家族じゃないから、一歩引いた場所から客観的に分析できたのがよかったのかもしれない。でも、なんでカウンセラーっていう言葉が出てきたの?」
「佐伯の推理はたしかに見事だけど、でも、推理の一つ一つに明確な根拠はないわけだよね」
「そうだね。これが正しいかなって思うものを選んでいっただけで」
「佐伯はそうやって謙遜するけど、あたしの心が楽になるような解釈を選んで『これが真実です』って言っているように、あたしは感じたんだよね。
たとえば、『りりあはクラスメイトからいじめを受けていたから、加害者に当てつけるために学校を死に場所に選んだ』って答えるよりも、『確実に死ぬために校舎から飛び降りることにした』って言ったほうが、あたしが食らう精神的なダメージは少なく抑えられるわけでしょ。佐伯は本音では、りりあは生徒あるいは教師と揉めていて、それも自殺の一因だと考えているんだけど、そう言っちゃうとあたしがさらに傷つくことになるから、わざと違う解釈が正しいかのように話したんじゃないかな、なんて思って。
真相がどうこうというよりも、遺族であるあたしの気持ちを最優先に考えて発言したんだから、探偵というよりもカウンセラーでしょ」
「いや、違う。それは違うよ、ここあ。僕は本当にそれが正しいと――」
「わかってるよ。あたしが佐伯を凄いやつに仕立て上げようとしているってことくらい、あたしにだってわかる。
でも、今くらいはそう思わせてよ。ドア越しにこうして佐伯の話を聞いているあいだ、あたしは心から安らかな気持ちでいられているんだから。そもそも佐伯がいなければ、あたしはずっとあくあに苦しめられて、挙げ句の果てにりりあと同じ道をたどっていたかもしれない。命の恩人なんだから、実質以上に凄いやつだって褒め称えるくらい、させて。佐伯だって、過大評価されてむず痒いかもしれないけど、悪い気分ではないでしょ?」
「……ここあ」
「佐伯、改めてありがとう。出会ったのは偶然だったけど、偶然出会ったのが佐伯でよかったって心から思うよ」
「僕もそう思う。刺激的な非日常を期待していたけど、まさかこんな二日間になるなんてね。紆余曲折あったけど、ここあを助けられてよかったよ。凄くほっとしてる。こちらこそ、ありがとう」
「どういたしまして」
ここあのその一言を最後に、僕たちがいる世界を沈黙が包んだ。少しくすぐったかったが、なごやかで、心地よくて、いつまでも浸っていたい、そんな沈黙。
僕たちはしばし身を委ねた。
ここあが途中まで送ってくれることになった。
「なにか外に用事でもあるの?」
という僕の問いに対してここあは、
「家にいるのはちょっと気詰まりだから。あくあといっしょにいるのもそうだけど、最近は自宅にあまり帰っていなかったしね」
とのこと。理由は納得できたが、今度はあくあのことが心配になってきた。
「ちょっとあくあにひと声かけてきてもいい? 念のためっていうか」
「なにしようと企んでいるの? 弱っているのにつけ込んでいやらしいことをするつもり?」
「そういう冗談を言えるならもう大丈夫だね」
あくあはまだここあの部屋にいた。一時間ほど前は自身が縛りつけられていた椅子に、今は膝を抱えて座っている。うつむいて足の爪をいじっている。
「あくあ、さん」
顔が持ち上がる。気が抜けたような顔が見返してくる。僕の存在を認識した瞬間、怪訝そうに少し眉根を接近させた。
「ここあと二人でちょっと外に出るので、あくあさんは一人で留守番になるんですけど、大丈夫ですか?」
「なんだ、それ。気持ち悪い心配しやがって。どういうつもりだよ、クソガキ」
「りりあさんのことがあったので、もしかしたらあくあさんがあとを追うんじゃないかと……」
「は? なにふざけたこと言ってんだ。馬鹿が」
不敵に口角を吊り上げ、僕に向かって中指を突き立てる。
「そんなに自殺が好きならお前が死ね。人を死に追いやった人間が自分を死に追いやるはずがないだろ、ばーか」
思わず顔が綻んだ。不謹慎だとは思ったが笑ってしまった。
この人は大丈夫だ。よくも悪くも、ではなくて、いい意味で。
残された姉妹は上手くやるだろう。
仲よく、ではないかもしれないが、死ぬことも殺されることもなく上手くやっていくだろう。
「心配しすぎたみたいですね。あくあさん、さようなら」
廊下に出たところで振り返ると、あくあは蠅か蚊を払うように右手を扇いだ。
僕は無言でそっとドアを閉めた。
やっと涙が止まった。
スマホを見ると、佐伯があくあを倒してから小一時間が経っている。
いまだに信じられない。
まさか、あくあの問題に決着がつくなんて。
あいつは反省の言葉を口にしたわけではなし、今後は家族に対する振る舞いや生活態度を正すと宣言したわけでもない。でも、りりあの遺書を聞いているときのあいつの表情を見るかぎり、今後は生きかたをがらりと変えるのは確実だ。もちろん、いい意味で。
まだ初潮も迎えていないガキのころから、二十歳が目と鼻の先まで迫った今に至るまで、ずっと貫いてきた生きかただ。性格的にも傲慢で、怠惰で、強情で、なにかを根本から変えるのを不得手とするタイプではあると思う。
だからきっと、歩みはナメクジのように遅いだろう。症状は一進一退をくり返し、寄り添う側の人間はいらいらさせられることも多々あるに違いない。
それでも、あの暴君が改心してくれるのは、被害者のあたしにとって歓迎するべきことだ。
逆効果になるかもしれないから、過度な期待はかけない。でも、なにがあったとしても、寄り添うという役割だけは捨てないでいようと思う。そして、りりあが願ったようなまともな人間に戻ったあかつきには、暴君時代も含めて、あくあにどんなに苦労させられたかを愚痴ってやろう。それをもって、あたしの復讐は完了するわけだ。
短かったけど、あたしに対するりりあの想いを知れたのもよかった。あるのとないのとでは大違いだ。
佐伯剣。
あいつがパーティに加わっただけで、あたしの世界がこんなにも変わるなんて!
「ここあ!」
噂をすれば影、廊下から佐伯の声が聞こえてきた。足音が近づいてくる。
感謝の言葉を面と向かって伝えるのは、やっぱり恥ずかしい。
でも、きっと、機会はこれきりじゃないから。
道中、僕とここあは他愛もない話をした。
りりあがいなくなったから家事はどうしよう、とか。
葬儀とか相続とか、考えるだけで面倒な事柄について話し合わなければいけないから憂鬱だ、とか。
一人欠けた分、あくあにもがんばってもらわなきゃいけないけど、期待薄だよね、とか。
両親を呼び戻したいけど、あくあがいるから難しいかな、とか。
そういえばお金下ろしてこなきゃいけないんだった、キャッシュカード家に忘れてきたから取りに戻らなきゃいけない、面倒くさっ、とか。
今日の夕飯なににしよう、とか。
そのすべてにりりあの死が関係していた。大なり小なり関係していた。それでいて、墓場の陰鬱さも地獄のおぞましさもない。
ここあは双子の姉の死を受け入れているように感じる。
しかも、無理なく、自然体で。
今後ささやかながらもよいことが待っている人のように、あるいはちょっとした親切を受けた直後の人のように、表情と声が朗らかなのだ。
ここあは大丈夫。
そんな確信を持てたことがうれしかった。姉のあくあも大丈夫だとたしかめたばかりだから、喜びは二倍だ。
三人家族が二人になったのだから、ここあ本人も言ったように、これから生活が大変になるだろう。困難も数多く待ち受けているに違いない。
でも、大丈夫。
どんな困難もきっと乗り越えられる。
「じゃあ、このへんでいい?」
ここあの足は交差点の歩道で止まった。
片側一車線。それなりの広さの歩道。ほどほどの交通量、まばらな歩行者の数。商店と民家の割合は一対一。きれいでも汚くもない、物好きな写真家でもわざわざ被写体には選ばないような風景。
激動の二日間を送ったあとの別れの場所としては平凡すぎるが、逆にそれがいい。
「いいよ。ここでお別れだね。二日間、ありがとう」
「どういたしまして。連絡先、教え合っておこう。ま、こっちからはあんまり連絡しないと思うけど」
「葬儀とかで忙しいしね」
「それもあるけど、普通の友だちみたいに毎日ラインでくだらないやりとりをするのは、なんか違う気がするんだよね。友だちといえば友だちの関係なんだろうけど、そういう意味の友だちじゃない」
「わかるよ――と言いたいところだけど、ごめん、ちょっとわからない。やってみる前から距離を置く理由、なくない? 結果的にそうなったのなら、それはまあ仕方ないかなって思うけど」
「それはそうだけど。上手く言えないけど、佐伯とそういうのは嫌なんだよ。べたべた慣れ合いの関係は」
「混浴を強制しておいて――いやまあ、あれは物理的な近さだけど」
上手く言えないなら深く追求しても無駄ということで、話題を切り上げてIDを交換する。
残念な気持ちはある。ちょっとどころかむちゃくちゃある。とはいえ、本人の意思が最優先。それをなによりも尊重しなければいけない。
ここあの性格だから、実際にはうっとうしいくらいメッセージを送ってきそうな気もするし。
「それから葬儀だけど、身内だけで済ませるつもりだから。佐伯は心の中でりりあの冥福を祈っておいてよ」
「そうだね。僕もそれが一番いいと思う」
「おやおや、どうした。やけに理解力がいいじゃん。まるで生まれ変わったみたい」
「生まれ変わったのはここあだろ」
「そうかもね。――ばいばい、佐伯」
僕に背を向け、肩越しに振り向いて満面に笑みで手を振り、軽やかに去っていく。
ここあはさっさと顔を前に戻したので、見えていないのはわかっていたが、僕は手を振り返した。そして、彼女とは逆方向に向かって歩き出した。
「最後まで苗字呼びだったな。佐伯、佐伯って」
苦笑いでひとりごちる。
「気のきいた別れの言葉も言えなかったし。一応、読書は人並み以上に嗜んでいるはずなんだけど」
ただし、落胆の気持ちは全然なくて。
心は、むしろ静かに高まっていて。
足取りは、ここあが去っていくときのそれのように軽やかで。
居ても立っても居られない気持ちで、スマホを取り出して電話をかける。
「母さん、今日の夕飯なに? いや、なんかおなか空いたから。昨日今日とちょっと友だちと外を歩き回っていて。えっ、誰の家に泊まったのか? そんなのどうでもいいじゃん。いや、隠すつもりはないよ。実はカプセルホテルに泊まったんだ。友だちの家じゃなくて。駅前にあるの、知らない? いやいや、嘘じゃないってば」
なにがあっても壊れそうにない、強いという意味ではなく壊れそうにない家族の一員と話していると、日常に戻ったな、という感じがひしひしとする。
行って、そして戻ってきたのだ。帰ってきたのだ。
起伏が少なくて、それゆえに退屈かもしれないが、捨てたものではない世界に。
激動の一日の翌日は、ここあからはなんの連絡なかった。
こちらからラインしようかとも思ったが、やめておいた。
翌々日、昼下がりでも夕方でもない中途半端な時間に、ここあからは初となるメッセージが届いた。
『あくあ、告別式で大泣きしてたよ。マジうける』
ここあが僕に連絡を寄越す意思があったこと、二日ぶりにここあの言葉を受け取れたこと、冗談を言えているくらいだから精神状態は悪いわけではないらしいこと、あくあとはそれなりに仲よくやっていること――四重くらいの意味で僕はうれしくなった。
『感情が出やすいタイプなのかな、あくあさんは。葬儀は今どのあたり? 返信する余裕はあるみたいだけど』
『今、火葬場にいるよ。骨が焼き上がるのを待ってる。待ち時間長すぎて悼む気持ちが薄れてきた』
『それは、まさに僕が体験したのと同じ状況だね』
『なにそれ』
『一回君に話したよね。父方のお祖父ちゃんが死んで泣いたけど、火葬場で待たされる時間が長すぎてあくびをしたっていう話。ここあが忘れちゃっているんだよ』
『あー、そんな話もしてたね。言われて思い出した。いろいろあったせいで失念しちゃってたんだな、きっと』
『そうだね、いろいろあったから。ここあはこの二日間、元気にやってた?』
『元気だよ。ついでにあくあも。斎場で出されたごはん普通に食べてた』
『服、着てる?』
『似合わない喪服着てる。あくあは痩せてるから死に装束のほうがぴったりなんじゃないの』
『そういうこと、本人に言っちゃだめだよ。また戦争になる』
『言わない、言わない。あくあが動いてくれないから、あいつの仕事まで押しつけられて休む暇もないくらい』
その暇ができたからこそ連絡を寄越してきたのだろうが、断続的に小さな用事を言いつけられているのか、それともここあの中では最優先事項ではないのか、チャットのように即座に返信が送られてくるわけではない。
顔が見えない。文章形式。やりとりに切れ目が生じる。
同じ会話とは言い条、対面のときとは状況がまるで違っていて、相手はまぎれもなくここあなのに別人と会話しているようで、強い戸惑いを覚えている僕がいた。
その戸惑いが返信の文章を打つ指を鈍らせ、間が空いたことでここあ側の間も引きずられるように拡大して、やりとりがどんどん間延びしていく。
きっと、それがここあの心理状態になんらかの影響を与えた、ということなんだと思う。
『ちょっと親戚に呼ばれてるから、行ってくる』
話の流れを無視して、そんな素っ気ない文章が送られてきた。
ここあは嘘をつかない。会話を切り上げるために用事をでっち上げたとは思わないが、時間をとられる用事ではないのではと感じた。
すっぱりと斬り捨てられたようで、上手い返しが見つからず、返信の文面を構築できない。
案の定、ここあからのラインは途絶えた。
出会いは劇的だったし、いっしょに過ごした二日間は充実していたが、けっきょくは他人同士のままだったのかな、僕たちは。
さびしかったし、納得がいかない思いもあったが、心は駆け足でその現実を受け入れていった。
クラスメイトたちは、一之瀬りりあの死を受け入れるというよりも忘れていった。
もともとりりあは交友関係が狭く、存在感のない少女だったうえに、葬儀は遺族の希望で身内のみで執り行われた。
ようするに、彼女の存在を忘れ去るにはこれ以上ないくらいの好条件が揃っていたわけだ。
自らが通う高校の校舎の屋上から飛び降りて死ぬという、センセーショナルさをものともしないほどの好条件が。
忘れていったのは僕も同じだ。
特殊な形で、間接的ではあるが深くりりあと関わったから、忘却の速度が人よりもいくらか遅いだけで。
ここあと日常的にやりとりしていれば、りりあの話題もときどきは出ただろうから、また違った展開になっていただろう。
しかしあいつは、火葬場からメッセージを送ってきて以来、いっさい連絡を寄越してこない。
近況報告や事情説明は特になかったから、忙しいとか、のっぴきならない事態に巻き込まれたとかじゃなくて、連絡をする意義を見出せないだけなのだろう。
自宅の場所は知っている。会いに行こうと思えば会いに行けるし、実際に会えたはずだが、今のところ一度も足を運んでいない。様子を見に行ったことすらない。
あくあに強襲されたトラウマのせいではない。気まずさはたしかにあるが、足を運ばない理由になるほどの大きさではない。
ここあはもう、僕が積極的に関わるような人ではないのかな。
なんとなく、そんな気がした。
上下ともに着衣を完了し、姿見の前に立ってみる。
「……誰だよ、この絶世の美女は」
似合っている。むちゃくちゃ似合っている。二卵性とはいえ双子の姉妹なのだから当然といえば当然なんだけど、まさかここまでしっくりくるなんて。
「ニートじゃなくて、高校生をやっておくべきだったかな? 捨てたものじゃないな、あたしも」
次から次へとモデルっぽいポーズをとって一人遊びをしたけど、すぐに我に返る。あたしはこれからお出かけするんだった。
そもそもこのコスチュームに身を包んだのは、とある場所へ行くため。一回着てみたかったというのもあるけど、やっぱりあの場所にはこの恰好でしょ、ということで。
「あくあー! ちょっと出かけるね。お昼までには帰ってくるから」
部屋の前まで行って声をかけたけど、返事はない。活動する気配がないから、たぶん寝ているのだろう。あくあも、最悪の時期と比べるとだいぶ真人間らしくなったけど、怠惰の極みみたいな生活はなかなか改善されない。
まあでも、ゆっくり、ゆっくり、やっていけばいいんじゃないかな。
「いってきます、りりあ」
靴を履いてそんな一言を残し、ドアを開けて外に出る。
真夏の日射しに貫かれ、あたしは「暑っ」とさっそく愚痴をこぼす。
でも、鏡の前に立ってみなくてもわかる。
気候に文句を垂れながらも、あたしの顔には活き活きとした表情が浮かんでいるって。
カレンダーは七月。
まだ梅雨は明けていないとはいえ、季節はすっかり夏。
夏休みに特に予定はないが、夏休みが来ること自体は楽しみ。異常気象に起因する暑さはつらいが、若いからまあ問題なし。そんな感じで日々を過ごしていた。
長期休暇を目前に控えたこの時期、エアコンの冷気が教室を満たしているとはいえ、授業はだるい。
クラス担任で現代国語教師の長谷川はいつものようにエネルギッシュに板書しているが、その熱さは授業の退屈さよりもある意味苦痛だ。まだ二時間目で、放課後はもちろん昼休みからも遠い。その事実がだるさを加速させる。
ここあと過ごした二日間がもたらした熱もようやく冷めてきて。
七月に入ったとはいえ、夏休みまでは少し遠くて。
僕の目を覚まさせるような、スリルあふれる非日常と出会えないだろうか、などと思うことが最近になって増えた。
スリルあふれる非日常――そう、あのときのような。
突然、教室の戸が勢いよく開いた。
長谷川の声がやんだ。教室にいる生徒全員とともに僕は出入口の戸を振り向く。そこにいたのは、
「佐伯! 廊下でたむろってた不良くんたちに訊いたら知らなくて、職員室で教えてもらって来たんだけど、席はどこ――あ、いた!」
亜麻色のポニーテール、我らがS高校の制服を着たその少女は、
「ここあ!」
思わず椅子を跳ね飛ばして起立していた。
クラスメイトたちの視線が僕とここあを行ったり来たりする。驚いたように、戸惑ったように。
長谷川は唖然としている。教師としてやるべきことは承知しているが、なかなか始動できないといった様子だ。ここあはこの高校の制服を着用しているが、普通ではないものを感じ取ったのだろう。
「てか、ここあ、おまっ……なんでここに?」
「佐伯、来て。いっしょに来てほしいところがあるんだ。ほら、早く」
リラックスした表情で僕を手招く。
クラスメイトたちの視線が僕に集まり出した。
ここあが教室に入ってきた。真っ直ぐに僕の机に歩み寄り、僕の腕をむんずと掴む。
「なにぼさっとしてんの。行くよ」
「行くって、どこへ?」
「決まってんじゃん」
満面の笑みでここあは答えた。
「この学校の屋上だよ」
「びっくりした」
声を張ったつもりはなかったのだが、授業中の廊下は声がよく響く。
しかしこのびっくりは、ここあが教室まで来たサプライズに比べれば、宇宙空間を漂うひとひらの塵も同然だ。
「そんなに? ほんとは期待してたんじゃないの? あたしがアポなしで会いに来ること。机に頬杖をついて、死んだ魚みたいな目で窓越しにグラウンドを眺めながら」
「いや、机は教室の真ん中へんだけど」
「比喩だよ、比喩。相変わらずこまかいよね、佐伯は。で、質問の答えは?」
「正直、最初はちょっと期待していたよ。でも、葬儀の日以降はラインも来なくなったから、べたべたした付き合いは望んでいないっていうのは本当なんだな、本人の意思は尊重しないとなって思って」
「真に受けたってことね。かわいいじゃん」
「僕からも質問。どうしてこのタイミングで会いに来たの?」
「まあ佐伯はわからないか。今日はりりあの四十九日だから、屋上まで冥福を祈りに来たの」
「なるほど。手ぶらだけど」
「こういうのは気持ちなのよ、気持ち」
CMに出演する女優みたいに白い歯を見せ、制服の胸を拳でとんとんと叩く。
「制服、似合うね。うちの生徒みたいに見える」
「でしょ? りりあの形見だからね」
「一之瀬さんの! そっか、形見か……」
「きれいだよね。飛び降りたときに着ていたのに、破れ目一つない。さすがに汚れはあったから洗濯したけど」
上から下へ、くり返し、くり返し、愛おしそうに夏服の胸を撫でる。その手つきに思わず見とれてしまう。
「お供え物に自販機でジュースでも買う?」
「いいね。一之瀬さんはなにが好きだったの」
「コーラ。ちなみに、姉妹は全員好きだよ」
「じゃあ買ってこよう。自販機の場所は知ってるから」
「いや、やっぱやめとこう。面倒くさいから」
「そんな理由で断念していいの?」
「いいの、いいの。こういうのは気持ちなんだから。次来たときにそのつもりになったら、そうすればいい」
「また来るつもりなんだ」
「学生なら出入り自由だしね」
「この学校の生徒しか無理だし、そもそもここあは学生じゃないでしょ」
などと話しているうちに屋上のドアの前まで来た。
重厚なような、薄っぺらなようなドア。それを開ければ目的地にたどり着けるのだが、
「……開かないんだけど」
がちゃがちゃと揺さぶっていた真鍮のドアノブから手を離し、ここあは肩を竦めた。
「まあ、当たり前だよね。自殺者が出たわけだから――」
「佐伯、ぶち破ろう」
「は?」
「施錠されているドアをこじ開けられるわけがないと思っているんでしょ、どうせ。でもさ、佐伯。二人でやったら不可能も可能になると思わない?」
試みが失敗に終わるとは毛頭思っていない、不敵なようでもあり間抜けなようでもある、満面の笑み。
それを見ていると、なぜだろう、本当にやれそうな気がしてきた。理屈をこねて手をこまねいているほうが馬鹿げている気がしてきた。
アイコンタクト。
うなずき合う。
ドアから距離をとる。
ぐっと腰を落として下半身にエネルギーをため、
『せー、のっ!』
突撃。
肩からドアにぶつかる。衝撃。激しくも鈍い音。体が前のめりになる。弱い衝撃。
世界が明るい。
我に返ったとき、僕は鉄製のドアの上に座り込んでいた。
灰色のその周囲の床は、白。コンクリートの無機質な白。
白を囲っているのは、ビターチョコレート色のフェンス。成人男性二人分と少しの高さ。手足をかけられるような部分はなく、乗り越えるのは一筋縄ではいかなそうだ。
その上は、空。
雲がまばらに散り、太陽が高く昇った、七月の蒼穹。
屋上。
視界の端に動くものがあった。
はっとして顔を上げると、ここあは亜麻色のポニーテールを左右に小さく揺らしながら、奥のフェンスに向かって真っ直ぐに進んでいた。
その足が空間の中央で止まる。そして、深呼吸でもするように軽く胸を突き出して両腕を大きく広げ、
「生きてる――――――――――――――!!!!!」
叫んだ。腹の底からの叫び。控えめに見積もっても金星には届いただろう、というような。
「生きて――」
もう一度叫ぼうとして、咳き込んだ。血でも吐いたのではというような激しさ。
駆け寄ろうと腰を上げると、ここあは咳を自力で封じ込めて体ごとこちらに振り向いた。
その顔に浮かんでいるのは、最上級に最高級にさわやかな微笑み。
それを見た僕の頭に流れ込んできたのは、もしかすると僕が知らないだけで、りりあもこんな元気いっぱいな一面を持っていて、ここあはりりあに代わって表現してみせたのではないか、という考えだった。
たぶん、僕の勝手な想像なのだろう。
仮にりりあがそんな性格だったとしても、りりあの代わりに、という意識はここあにはなかっただろう。
だとしても、うれしかった。
自分も笑顔になっているのがわかる。
ここあが満面の笑みを崩さずに手招きする。僕は彼女のもとに駆け寄る。
合流を果たした僕たちは、照れた者同士がよくやるように肘で互いをつつき合った。そして、四十九日ぶりに雑談に現を抜かした。
夏休みも近いね、どこに遊びに行こうか――そんな話を。




