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カウンセラー  作者: 阿波野治


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前編

 クラスメイトの一之瀬りりあが自殺した。

 校庭で全校集会が行われているさなかに、四階建ての校舎の屋上から飛び降りて、死んだ。

 屋上に遺書は遺されていなかった。

 ――全校集会が終わった直後、次の授業の担当ではない長谷川が教室まで来たかと思うと、騒がしく休憩時間を過ごす生徒一同を着席させ、しかつめらしい顔でそう告げた。

 物音を聞いてグラウンドに駆けつけた教員が地面に横たわる彼女を発見、119番通報、搬送先の病院で死亡が確認されたのだそうだ。

 四十一歳、現代国語を受け持つクラス担任の長谷川は、親父ギャグを好む愉快な男性教師だが、報告するあいだ、不謹慎なジョークはいっさい慎んだ。

 つまり、伝えられた情報は事実。

 一之瀬りりあは、もうこの世の人ではないのだ。


 長い前髪でいつも表情をなかば隠した、大人しくて、地味で、目立たない女子生徒。

 僕・佐伯剣から見た一之瀬りりあは、簡潔にまとめるとそんな感じだ。

 ただしこれらの感想は、一之瀬りりあの死が明らかになって、「そういえば、一之瀬ってどんな子だったっけ?」と考えてみて、やっと浮かんだものばかり。

 大人しくて、地味で、目立たない。そんな特徴を持つゆえに、存在感がむちゃくちゃ希薄。僕にとっては単なるクラスメイトの一人でしかなかった。

 だから、一之瀬りりあについて語れることはなに一つない。

 ――と、言いたいところだけど。

 実は、ある。数少ない、ほとんどゼロと言ってしまってもいいくらいに乏しい一之瀬りりあとの思い出の中に、あるのだ。

 一つだけ、自殺した原因についての心当たりが。


 今日は臨時休校になったから速やかに帰宅するように、と長谷川が命じて、臨時のホームルームが終わった。

 教室から出て昇降口に向かうクラスメイトたちの足取りは鈍く、雰囲気は暗い。

 どの顔もうつむいている。浮かぶ表情はひたすら陰鬱。全員が全員黙っているわけではないが、口数は少ない。

 とぼとぼと歩きながら僕が考えるのは、一之瀬りりあのこと。

 思い返してみれば、彼女が休み時間に誰かとおしゃべりをしている姿はあまり見たことがない。皆無ではないが、ほぼほぼなかった。

 休み時間、彼女はたいていスマホをいじっていた。

 クラスに親しい友人はいなかったのかな、という印象だ。

 孤独。

 一之瀬りりあは孤独だった。

 でも、一人で過ごすのは苦にならない、むしろ大人数でわいわい騒ぐのは苦手、という人種も世の中には一定数いる。……僕がそうであるように。一之瀬りりあが僕と同類なのかはわからないけど、孤独感に苛まれていたのが自殺の原因、とは言い切れないんじゃないか。

 ただ、自分が通う学校の校舎の屋上から飛び降りたのだから、学校関係でなにか悩みを抱えていた可能性が高いのではないか、と思う。

 学生が学校で巻き込まれるトラブルで真っ先に思い浮かぶのは、いじめ。

 でも、彼女は該当者ではなかった。

 被害者になっていたのであれば、悪い意味でもっと僕の印象に残っていたはずだ、というのがその根拠だ。

 インターネットを舞台にした、当事者以外の人間は気づきにくい形のいじめだった可能性もある。ただ、同じクラスの人間が標的になっていたのであれば、噂くらいは僕の耳にも入ったはずだ。それもなかったということは、なかったと断定してもいい気がする。

 一之瀬りりあは孤独だったが、いじめられていたわけではない。

「だったら――」

 彼女は、なにが原因で校舎の屋上から飛び降りたんだ?


 通学路の三分の二近くを消化した。

 閑静な住宅地。僕以外に帰宅しているS学園の生徒は一人も見かけない。

 僕だけ歩くのが遅いせいだ。

 僕は他のみんなよりも、ほんの少しだけ、一之瀬りりあと深い繋がりを持っている。その分、みんなよりも強いショックを受けたせいで、足の動きが鈍っている。結果、他のみんなが帰宅完了した今でも、一人だけ帰宅途中。

 環境、精神状態、ともに考えごとをするにはちょうどいい。

 この機会を利用して、彼女の死に自分なりに向き合いたかった。

 深く思案に沈みたいというよりも、とにかく一之瀬りりあについて考えたい。身近な人の死に向き合うのは精神的にきついから、せめて家に帰るまでのあいだだけでも。

 しかし、現時点では満足に目的を果たせていない。

 集中力が散漫になってしまい、考えることに専念できないのだ。

 原因は二つある。

 一つは、死というテーマの重さ。

 もう一つは、彼女について知っている情報が少なすぎて、なにを思案の足掛かりにすればいいかがわからないこと。

 佐伯家に帰り着くまで、残り約二百メートル。道のりを消化するまでにとても目的を果たせそうにない。

 孤独だが平凡な僕にとって、死は縁遠いもので、だから集中できないのだろうか。

 一之瀬りりあは、自殺したことを除けば、ごくごく平凡な人間に思えるのだけど。


 僕は足を止めて顔を上げた。

 気がかりな響きの異音を聴き取ったからだ。

 音源は、前方。

 奏でているのは、こちらに向かって走ってくる誰か。

 現在地は、幅がそう広くない道路。路面はアスファルトで舗装されていて、歩道と車道が峻別されていない。等間隔に電信柱が立っていて、左右はほぼ民家。

 第一に思ったのは、なにか急用があって走っているのかな、ということ。

 第二に意識したのは、ぶつからないようにやり過ごさなければ、ということ。

 第三に、道の狭さ。

 道幅は普通車同士がなんとかすれ違えるくらいしかない。人と人がすれ違う余裕はあるが、走ってくる人物の速度と勢いは尋常ではない。

 靴音が大きくなるのに比例して、「ぶつからないようにやり過ごそう」は「自分の命を守らないと」へと変化していく。大げさなようだが、本当にそれくらいの勢いなのだ。

 道の両サイドは民家。成人男性の背丈以上のフェンスが立ちふさがっていて、今すぐに敷地内への退避を完了するのは物理的に不可能だ。

 僕は道の脇へと退き、スクールバッグを胸に抱いて背中をフェンスに押しつけ、通り道を最大限広く確保する。そして、走ってくる人物に改めて注目した。

 瞬間、背筋を駆け上る悪寒。

 道の真ん中を走っているその人物の軌道が、だんだん僕がいるほうへとずれてきている。

「えっ、あのっ、ちょっ……」

 人間は想定外の出来事に弱い。対策を講じたあとで襲ってきた予想外には、もっと弱い。あたふたしているあいだにも見る見る距離は縮まり、体に激しい衝撃。僕にはなじみのない、人工の芳香が弾けた。

 フェンスとは似て非なる硬い感触を背中に覚えて、地面に仰向けに倒れたのだと自覚する。

 ……重みを感じる。容易にははねのけられないと、はねのけようと試みるまでもなく確信できる重さ。

 瞼を開く。

 女の子が僕の腹にのっかっていた。

 ハーフパンツから突き出したむっちりとした白い太ももが、僕の胴体を強くも弱くもなく挟み込んでいる。

 上は、鮮やかなピンク色のキャミソール。肩紐だけ白く見えると思ったら、ブラジャーの肩紐だった。

 髪の毛は亜麻色で、髪型はポニーテールだと確認。さらには顔を確かめるべく直視して、息を呑む。

 大きな瞳いっぱいに涙をためているのだ。

 僕と同年代。気が強そうだが、脆さと繊細さも同居した、端正な目鼻立ち。

 しかしその二つの情報も、得たばかりの情報の前では霞む。

 不意に、視線が重なった。

 泣いている事実よりも、潤んだ瞳に見つめられたことに、僕の心臓はきゅっと縮まる。

 少女は洟をすすった。手の甲で鼻を一回、目元を二回、それぞれ拭ってから、立ち上がって僕を重みから解放する。立ち位置は僕の腰のすぐ右。少女はさらにもう一回、鼻とも頬ともつかない箇所を雑に拭い、

「ん」

 僕に向かって右手を差し伸べた。計三か所、体から分泌されるものを拭ったのとは反対の手を。

 許可された選択肢は一つしかない気がして、その手を握る。生きている人間の体温を感じた。女の子の柔らかさだ、とも思った。

 驚いたのは、引っ張り上げる力の弱さ。

 改めて見返した顔は、相変わらず美人で。両目には、今にもあふれんばかりに涙がたまっていて。

 そんな少女の力に頼るわけにはいかないと、九十九パーセント自分の力で立ち上がる。

 二つの手はぱっと同時に離れる。

 潤んだ瞳にまともに見つめられて、反射的に視線を逸らしそうになったが、ぐっと堪えた。僕はこめかみを指でかきながら、

「えっと……。あの、ぶつかって、ごめんなさい。君が泣いているのは、たぶん僕が――」

「おっぱい揉む?」

 少女の声が弁明の言葉を遮った。

 僕は「はい?」と軽く首を突き出す。

「おっぱい揉む?」

「いや、だからなんで――」

 少女が間合いを詰めてきた。反射的に半歩後退した直後、右手が素早く伸びて右手首を掴まれた。

 少女は有無を言わさない力で僕の手を引き寄せ、胸部の膨らみへ押しつけた。

 掌に覚えた初体験の感触に、一瞬呼吸が止まる。

 視界に映ったのは、不服そうに、挑むように、ふてくされたように、顎をぐっと引き、唇を斜めに歪め、上目づかいに僕を睨む少女の顔。

 その顔は次第に歪みを増していき、抑えがたいまでに膨らんだ感情がこじ開けたとでもいうように、桃色の唇が薄く開く。

 次の瞬間、押された。

 手首を解放した少女の手が、僕の胸を突いたのだ。

 強い力ではなかった。一歩、二歩と後退して踏み止まる。

 次の瞬間、僕の真横を一陣のつむじ風が吹き抜けた。

 体ごと振り返った僕は、走り去る少女の後ろ姿を見た。

 亜麻色のポニーテールが右に左に揺れている。手の振りかたは全力疾走するときのそれだ。見る見る背中が遠ざかる。

「ねえ! ちょっと!」

 張り上げた声には見向きもせずに、少女は曲がり角に消えた。

「……なんだったんだ」

 ひとりごちた直後、地面になにかが落ちていることに気がつく。色はショッキングピンク。掌サイズの、少し厚みのある平たい物体。

 財布だ。ぶつかったときに少女が落としたのだろう。拾い上げると、厚みのわりに軽い。

 手にしたまま、少女が走り去った方角を一瞥し、中身を確認する。

 少々の小銭と二枚のレシートの他に、プリクラが入っていた。

 縦長で、長辺が十センチ強、短辺がその半分から三分の二くらいのサイズ。右側が縦に真っ直ぐに破られていて、生き残ったスペースに二人の少女が写っている。

 プリクラの宿命か、顔に加工が施されているが、間違いない。左側に映っているのは、さっきのポニーテールの少女だ。少し凝ったピースサイン、といった形に右手を変えて、得意げに白い歯を見せている。

 そして、隣の少女。

 黒髪ショートボブ、長めの前髪、遠慮がちで控えめな微笑み。

 間違いない。一之瀬りりあだ。

 写真にはこんな文字が刻まれている。

『さいきょー姉妹見参!

 けんか上等!

 ここあ&りりあ&』


 スマホを確認すると、午前十一時半を回っていた。

 現在地で待機し始めてから、早くも半時間。

 ポニーテールの少女とぶつかった細道、財布が落ちていたすぐそばの民家のフェンスに背中を預けて、僕は待っている。

 手にはショッキングピンクの財布。プリクラはちゃんと元のポケットに戻してある。

 交番の場所なら知っている。僕の自宅からはわりと近い。だから、届けてもよかった。一般常識を考えれば、むしろそうするべきだろう。

 でも僕は、あの子を待ちたかった。あの子に会いたかった。

 臨時休校になったから暇だから、というのもある。泣いていたのが僕とぶつかったせいなら、その償いもしたい。

 でも、最大の動機はそれらとは別にある。

 現在地は公道で、真後ろは民家の敷地。その民家の住人は、幸い今は留守にしているようだが、歩行者や車は普通に道を通る。居心地が悪かったが、辛抱強く待った。

 あと何分粘ったら、諦めて交番に行こうか。

 そんな弱気がちらつき出してから、一分も経っていなかったと思う。

「ちょっと!」

 突然耳元で爆ぜた大声に、僕は「ひゃあ」と情けない声をもらしてしまった。財布を取り落としそうになったが、二回お手玉してなんとか掴み直す。

「あんた、あたしの財布知らない? あんたとぶつかったときに落としたと思うんだけど。ていうか、なんでまだ現場に――あっ!」

 財布を指差し、再び大声。目にもとまらぬ素早い手つきでピンク色のそれを奪い取り、胸に押し当てて僕を睨みつける。

 間違いない。小一時間前に僕とぶつかったポニーテールの少女だ。

 瞳に宿る強い感情に気圧されて、思わず一歩後ずさる。

 罵倒されそうな気がして身構えたが、少女は僕から視線を切って財布の中を検めた。真っ先にプリクラの有無を確認し、ほっとした表情を顔に灯す。

「大事なものだったんだね。交番に届けようか迷ったけど、直接渡せてよかったよ」

 少女が財布をハーフパンツのポケットにおさめたところで、そう声をかける。

 瞬間、彼女の眉が十度から四十五度へと跳ね上がった。柔和な印象が一瞬にして跡形もなく消え、攻撃的なそれへと様変わりした。

「は? ふざけんなよ、カス。あたしはさっきまで交番行ってたの。二度手間になったんだけど! なに出来の悪い忠犬みたいに現場で待ってんだよ。届けろよ、交番に。常識でしょうが」

「ご、ごめんなさい……」

 剣幕に押されてさらに一歩下がる。少女の右手が動いたので反射的に身構えたが、財布をポケットにきちんと押し込んだだけだった。

「なにびびってんの? 別にそこまで怒っていないから。無駄足踏まされたのはむかついたけど、財布を拾ってくれたことには感謝してる。サンキューね」

「あ、どういたしまして」

「いちいち頭下げんなって。謝ればすむと思っているビジネスマンかなにか? 気持ち悪い」

 少女は大きくため息をついた。聞こえよがしのため息というやつだ。

「お金なんて、小学生の小遣い程度しか入っていないよ。でも、お金以上に大事なものも入っているから」

「プリクラだよね。左端に君が写っていて、反対の端がやぶれている」

「……やっぱり見たか」

 芝居がかった挙動で肩を落として、今度は短くため息。

「いや、別に困りはしないんだけどさ。今まであたしだけの秘密だったから、それを赤の他人に暴かれたっていうのは、なんていうか気持ち的にこう――って、なによ、その物欲しげな目は。財布を拾ったお礼が欲しいってこと?」

「もらえるなら、ぜひ」

「拾った人には何割渡す決まりだっけ。でも財布の中身は五百円くらいだから、半分だとしても缶ジュース二本分――」

「違う、違う。プリクラについて教えてほしいんだ」

「は? なんで?」

「クラスメイトが写っていたから。一之瀬りりあさん」

 その名前を出した瞬間、少女の顔は明らかに強張った。

 少女と会って話をすれば、一之瀬りりあの死についてなにか情報が得られるかもしれない。それが、僕が財布を交番に届けなかった一番の理由だ。

「『さいきょー姉妹』って書いていたよね。一之瀬さんってもしかして、君の妹なの?」

「惜しい。姉だよ、双子の姉。これも書いてたと思うけど、あたしの名前はここあ。かわいい響きでしょ?」

 うなずくと、ここあはすかさず、

「名乗ったんだから、名乗ってよ。それが礼儀ってものでしょ」

「佐伯剣。剣はソードの剣ね。さっき言ったように、一之瀬りりあさんとはクラスメイトなんだ」

「ぶつかったときは制服だったよね。りりあの自殺の件の説明が学校であって、その帰りだった、という理解でいいのかな」

「そのとおりだよ。先生の説明では、四階建ての校舎の屋上から飛び降りて、病院で死亡が確認されたって」

「そっか。あたしが医者と警察から受けた説明と同じだね」

「えっと、その……お悔み申し上げます」

 僕は頭を下げる。若干タイミングが唐突だった気もするが、そのセリフだけは言っておきたかった。

 ここあは無言だ。いつの間にか、彼女の目には透明な雫がたまっている。

 恐ろしいものを見てしまったような、いけないことをしまったような気持ちになり、顔を背ける。

 流れるのは、沈黙。気まずい無声状態。

「じゃあ、僕はこれで」と告げて立ち去ってしまおうか、なんて思いも過ぎったが、さすがに冷たすぎる。双子の姉に今朝自殺されたばかりの女の子にしていい対応じゃない。

 姉妹。

 人によって距離感は当然違ってくるのだろうが、一之瀬りりあ・ここあの姉妹は、仲睦まじい部類に入りそうだ。

 二人は、いっしょにプリクラを撮っている。

 ここあは、死んだ姉を想って涙を流した。

 実際は姉妹喧嘩が絶えなかったのだとしても、その二つの事実だけで、姉妹の仲は良好だったと認定してもいいはずだ。

 ここあのためになにかしてあげたい。

 一之瀬りりあの死の真相について知りたいのと同等か、もしかするとそれ以上の強さで、そう思う。

 ここあの顔色をうかがうと、ちょうど顔を上げた彼女とがっつり目が合った。

「なに? あたしの顔にごみでもついてるの?」

「えっと……。一之瀬さんは今、とてもつらいと思うから、だからその――」

「付き合ってよ」

「えっ?」

「家に帰りたくないけど、やることは特にないからさ。佐伯の学校、りりあが自殺した影響で休校になったんだよね。暇なんだったら、いっしょに食事しよう。まだ少し早いけど、昼食」

「ああ、うん。それはまあ、いいけど」

「なに、その嫌そうな顔は」

 思いきり眉をひそめて睨んでくる。

「いや、そんなつもりは。もともとこんな顔だから。個性的な……」

「そう、それは気の毒。でも、それもやめてくれない」

「え?」

「そのびくびくした態度! 腹が立つから。りりあのクラスメイトなんだから、当然同い年でしょ。だったら敬語禁止ね。あと、あたしのことは下の名前で呼んで。『一之瀬さん』だとりりあもそうだよね、ってなるでしょ」

「呼び捨てなんだ」

「当り前。ねえ、佐伯はどこかいい店知らない? チェーンの飲食店が何軒か近所にあるのは知ってるけど、そういうところって絶対人が多いでしょ。うるさくて嫌なんだよね」

「多くはなくない? まだ正午になっていないし」

「ありきたりな店には行きたくないってこと。行間読めよ、行間。いらいらするなぁ、もう」

「あ……ごめん」

「謝るな! そういうのはやめろって警告したばかりでしょうが。三歩歩けば記憶失う鳥かよ。一歩も歩いていないのに失念するなっての」

 ……圧されている。僕が慰める立場のはずなのに、慰められる側のここあに。

「まあ、いいや。行くぞ、ほら」

 顎をしゃくって歩き出したので、ついていく。

 波乱万丈な時間が待ち構えている予感がした。


 りりあが死んだ。

 通っている高校の校舎の屋上から飛び降りて、十六歳で帰らぬ人となった。

 遺書すら遺さずに逝ってしまった。

 生まれたときからずっと、あの子の一番近くで生きてきたあたしに、原因がわからないはずがない。

 あいつだ。あの女以外に考えられない。

 大切な人を突然亡くした悲しみと喪失感は尋常じゃなかった。

 それでいて、小一時間後にはどん底の精神状態から脱せたのは、「双子の姉の死の真相を知る」という明確な目標が生まれていたからに他ならない。

 ただ、敵はあまりにも強大で。

 認めるのは悔しいけど、あたし一人の力では太刀打ちできなくて。

 でも、あたしの力になってくれそうな人間は存在しない。

 いったん抑え込むのに成功していた悲しみと喪失感がぶり返して、自暴自棄になって、平日昼間の人もまばらな駅前交差点であたしは突如として足を止め、声のかぎり絶叫した。そして、しゃにむに駆け出した。どこへ行きたいのか、なにから逃げたいのか、自分でもわからないままに。

 閑静な住宅地まで来たところで制服姿の少年とぶつかって、また走って、走り疲れて歩みを止めて、財布を落としたことに気がついた。

 キャッシュレスのご時世だし、現金なんて数百円しか入っていない。

 でも財布には、金よりもはるかに大切なものも入っている。りりあといっしょに撮ったプリクラが。

 現場に引き返そうかとも考えたけど、財布は少年とぶつかったさいに落とした。真面目っぽい彼ならきちんと交番に届けているはずだと考えて、目的地を変更した。

 でも、届いていなかった。

 現場に行ってみたら、冴えない顔をした少年があたしを待ち構えていた。あたしとぶつかった、あの少年が。

 再会したときは私服に着替えていたけど、そういえばぶつかったときの彼は、りりあが通う高校の制服を着ていた。

 立ち話をしてみた結果、なんとその少年――佐伯剣は、りりあのクラスメイトだった。

 あたしは運命を信じない。でも、自分に好都合なものはとことん利用してやろうって考える。

 喧嘩は弱そうだし、頭が切れるって感じでもない。ちょっと話をしてみたかぎり、お世辞にも話術は巧みとはいえないし、強靭な精神力の持ち主でもなさそうだ。

 協力者として見た場合、ランクとしてはたぶん最弱。

 なんなら、他の候補者を一からあたったほうがいいんじゃないの、くらいの。

 だとしても、あたしはこの偶然に乗っかってみようと思った。

 ひとまず、あたしたちがするべきは――。


「佐伯、腹ごしらえしよう。なにか食べたいものはある?」

 歩き出して約五分、沈黙を破ったのはここあだった。

「うーん、特にないかな」

「うわっ、なにそれ。そういうオールオッケー的な返事、寛大に見えて無責任だから、一番テンション下がる。あんた、つまんないことしか言えない呪いにでもかかってるの?」

「かかってないよ。食べたいものが浮かばないって、そんなにだめなことなのかな」

「もうちょっと面白いこと言ってよ。ウィットのきいたさぁ」

「僕には難しいよ」

「ほんと情けないな。絶対に女にもてないでしょ」

「それは放っておいてよ。そう言う一……ここあはなにが食べたいの?」

「がっつりしたものがいいな。肉とか、揚げ物とか。でも矛盾するようだけど、量か質かだったら後者なんだよね。もちろん、ある程度のボリュームを確保するのが絶対条件だけど。どうせ食べるなら、ありきたりなチェーン店じゃなくて、個人経営の薄汚い店でもなくて、若くてちゃらちゃらした女の客がいないようなところがいいな」

「注文多っ。むちゃくちゃこだわるね」

 若くてちゃらちゃらしているって自分のことじゃないの? そう思ったけど、口にはしない。今のところ、ため口で気軽にやりとりできているけど、ちょっとした失言で暴力的なリアクションが返ってきそうな怖さはある。

「前の二つはわかるけど、若い女性がいる店は嫌って、どういう理屈なの」

「そういう店は見映えばかりに気をつかって、肝心の味は全然美味しくないから。あと、皿が異様にでかくて、余白にソースで落書きしてる」

「凄い偏見だね。嫌な思い出でもあるの?」

「いや、マジでそんな感じだから。さては佐伯、おしゃれなカフェとか行ったことないな」

「恥ずかしながら、ないよ。ここあはカフェ巡りが趣味なの?」

「嫌いではないけど、そもそもこの町におしゃれなカフェってあんまりないから」

「やっぱり偏見じゃないか」

「おしゃれかは別として、たまに行ったりはするから。……って、ツッコミ役やらせないでよ。あたしはボケたいの」

 無駄話なども交えながら言葉を交わす中で、テラス席があるカフェで食事をとろう、というふうに話がまとまってきた。

「おっ! あった、あった」

 商業施設が数多く建ち並ぶ通りに入ってすぐ、テラス席が設けられたカフェを見つけた。ここあは僕に確認もとらずに入店したので、それに続く。店内はおしゃれだが敷居は高くない印象で、客もそこそこ入っている。

 僕たちはテラス席の空席に向かい合って座り、メニューを広げる。特定の国や地域の料理ではなく、ポピュラーな洋食を幅広く取り揃えました、というラインナップだ。

「おっ、エビカツサンドだって。あたし、これにしよっかな。エビってさ、なんかそれだけでもうテンション上がらない?」

「わかる。料理にエビが入っていると、それだけで格段に魅力的に見えるよね」

「だよね、だよね。トンカツサンドは――残念ながらないね。和食だからかな。……ん? トンカツって和食だっけ? それとも洋食?」

「ないってことは和食扱いなのかもね。文明開化のときに外国から入ってきたはずだから、洋食っぽいけど」

「じゃあ、かき揚げも洋食だね。かき揚げサンドはメニューにないから」

「なんで急にかき揚げ?」

「トンカツと同じで、洋食か和食かよくわからない揚げ物でしょ。佐伯はかき揚げの具材だとなにが好き? あたしはサツマイモかな」

「いいね、サツマイモ。僕は、なんだろう。にんじんとか?」

「にんじんって……。山ほどある候補の中でそれを選ぶ? なんか違くない?」

「ぱっと浮かんだのがそれだったんだよ。いいでしょ、にんじん。火を通すと甘くなるし、栄養価も高くて」

「なに、その必死な弁明は。もしかしてあんた、前世はうさぎ? それともにんじん農家の跡取り息子?」

「前世は知らない。親は、地方公務員とパートタイマーだよ。むちゃくちゃ平凡でしょ」

「公務員か。いいじゃん、安定してて。佐伯も安定感ある料理選び、見せてくれるんでしょうね」

「普通に食べたいものを選ぶよ」

 ここあは食べたそうにしていたエビカツサンドはスルーし、スクランブルエッグサンドとペペロンチーノを選んだ。

 普通に食べたかったので、代わりに僕がエビカツサンドを注文する。

 エビカツサンドは、むちゃくちゃ美味しかった。

「まずまずじゃん。さすがは皿が大きすぎないだけある」

 一方のここあもなかなかの高評価だ。

「今まであまり経験がなかったけど、日の当たる屋外で友だちといっしょに食事って、いいね。凄く新鮮だし、楽しいよ」

 今日の天候に触れるような軽い気持ちでそう言ってみる。

 ここあはスパゲティを大量に巻きつけたフォークを虚空に止め、「なに急に言い出してんの、こいつ」的な目で僕の顔を見た。

「ヘミングウェイの小説にあった、パリのカフェで食事をするシーンを思い出したよ。『日はまた昇る』だったかな。といってもこまかい描写までは覚えてなくて、主人公一行がカフェかどこかで食事をする場面が描かれていたな、程度の記憶しかないんだけど」

「ヘミングウェイって、作家?」

「そうだよ。アーネスト・ヘミングウェイ。超がつくほど有名なアメリカの作家で、代表作は――」

「いや、知らんしいらん。あたし本に興味ないから」

 ここあはペペロンチーノを口に押し込み、咀嚼のち嚥下してから語を継ぐ。

「作品名を列挙されてもわからないから、その作家の個人的な面白エピソードでも教えてよ、文学少年」

「いや、文学少年というほどでもないけど。ヘミングウェイのエピソード、か。あまり詳しくないけど、男らしい作家っていうイメージはあるかな。闘牛が好きで、狩りとか釣りとかも趣味だったみたいだね。だけど最後は猟銃で自殺――」

 はっとして息を止める。

 道を行き交う自動車の走行音さえ聞こえなくなった。

 ここあはアイスコーヒーのストローに口につけてフリーズしている。表情が消えた顔が少し持ち上がり、僕を見返した。

「どうしたの? 急にしゃべるのをやめちゃって」

「いや、その……」

 グラスがテーブルに置かれ、氷の音を奏でられた。椅子の背もたれに背中を預け、腕組みし、空を仰いでため息。すぐにポーズを解いて上体を真っ直ぐにする。

「少しのあいだくらい、嫌なことを忘れて食事を楽しみたかったんだけど、無理か。なんとなくわかっていたけど、やっぱり小手先の誤魔化しは……」

 ひとり言のようなここあのつぶやきは、僕を責めるのではなく、己の過ちを静かに悔やんでいた。

 僕は思い知らされた。

 その表現が間違いだというのなら、思い出したと言い換えよう。

 一之瀬りりあの自殺がここあに与えたダメージは、あまりにも大きすぎる。ただのクラスメイトの関係でしかない棒が受けたのものとは比べものにならない。

 ……沈黙が息苦しい。

「佐伯が自殺って単語を口にした瞬間、固まっちゃったよね。琥珀の中の昆虫みたいになっちゃった」

 弾けるようなみずみずしさは微塵も感じられない、平らな印象の声が沈黙を破った。

「佐伯が話を振ってきたらそのときは話そうかな、みたいなつもりでいたんだけど、やっぱりだめだ。まあ、平気なんだったら事前に言っているよね。姉のことは全然気にしていないから、りりあのことでなにか知りたいこと、話したいことがあれば遠慮なく言って、とかなんとか。それがなかった時点で――まあ、そうだよね。いっしょに暮して、あんなことになって――はぁ……」

 ため息。それとともに顔をうつむける。というよりも、項垂れた。

 僕は最初、無力感を覚えながらそれを見つめることしかできずにいた。でも、沈黙が長引くにつれて、手を拱いているのは違うな、と思い直した。

 死が絡んでいると思われるだけに、踏み込むのは勇気がいる。

 でも、やっぱり、困っている人間を放っておけない。

 正義感が強いとか義侠心があるということじゃない。つらそうな姿を見続けるのは、こっちだってしんどいじゃないか。

「ねえ、ここあ」

 エビカツサンドを皿に置き、僕はおもむろに切り出した。フォークをとろうとしていたここあの手が止まった。

「僕を食事に誘った理由はなんなのかな。財布を拾ったお礼がしたいから? ……本当にそれだけなの? 違うよね。もしかしてだけど、なにか僕にしてほしいこと、あるんじゃないのかな」

 ここあのまばたきの頻度が多くなった。眼差しの方向は僕の顔だけど、僕ではないなにかを見据え、そのなにかについて思案を巡らせているような、そんな表情にも見える。

 ここあはおもむろに小さくうなずくと、フォークに巻きつけていたペペロンチーノを口に押し込んだ。

「ご明察。というか、まあ、察さないほうが馬鹿かな。思惑がなければ、今日知り合ったばかりの男子をごはんに誘ったりしないもんね。イケメンならともかく、佐伯みたいな冴えない男子を」

「罵倒するくらいなら、質問に答えてほしかったな」

「冷静に言い返したってことは、このくらいの悪口を言っても問題なしってことね。佐伯、あんた童貞でしょ」

「ちょっと!」

「おっと、ごめん。今はふざけるところじゃなかったね。質問の回答だけど、あるよ。佐伯にちょっとしてもらいたいことがあって」

「してもらいたいこと?」

「本当はすぱっと切り出すつもりだったんだけど、思いのほか話しにくくてさ。だから、場所を替えよう。さっさと食べてさっさと出発しようぜ」


「ここあはどこに行こうとしているわけ? ここあが僕にしてもらいたいことって、けっきょくなんなの?」

 斜め前を歩くここあの背筋の伸びた上半身に向かって、僕はおもむろに問うた。

 食事を終えて店を出たここあは、大通りをしばらく道なりに進んでから脇道に入った。僕の自宅や、彼女が財布を落とした場所から遠ざかる方向。歩調はゆったりとしていて全然急いでいない。

「なに急に。てか、訊くの遅っ」

 肩越しに振り返り、少し眉根を寄せて僕の顔を見つめながらの発言だ。

「ごめん、考えごとをしていたから」

「なによ、考えごとって」

 ここあは足を緩めて僕の隣に並んだかと思うと、耳元に唇を近づけ、

「いやらしいこと? わざとあたしの後ろ歩いていたもんね。お尻を眺めるためでしょ」

「言いがかりはやめてよ。行き先がわからないから、ついていっているだけだから」

「胸を見るよりも、後ろから心置きなく尻を眺めるほうがいいっていう、陰キャ精神ね。あさましい。尻フェチの可能性もあるかもだけど」

「だから、違うってば」

「やっぱりおっぱい派? あたしの乳揉んだもんねぇ。出会って十秒で」

「あれはここあが無理やり――」

「どう? 気持ちよかった?」

「唖然呆然だよ。感想を持つ以前の問題だ」

「では、ここで佐伯に質問です。あたしはなんのために佐伯におっぱいを触らせたでしょうか?」

「それよりも目的地を教えてくれないかな。場所を替えるって言ったけど、ここあは僕をどこに連れて行こうとしているの? 教えてくれないんだったら、僕の役目はもう終わったと見なして、帰るよ」

「もう、怒んないでよ。ノリ悪いなぁ」

 小さく舌打ちして僕の耳から唇を遠ざける。

「別にやばいところじゃないよ。入居者がいないアパートがあるの。周りに人がいない静かな環境でゆっくり話をしたくて」

 ここあはハーフパンツの尻ポケットに手を突っ込み、ご当地キャラのストラップがついた鍵を顔の横にかざしてみせた。

「……犯罪の香りがするんだけど」

「合法だよ。うちの親が大家をやっている、というかやっていたアパート」

「えっ、マジで? 不動産王?」

「亡くなったおじいちゃんが経営しているアパートを親が引き継いだの。入居者が一人もいなくなったから、耐震基準の問題もあって取り壊しが決まって。でもまだ解体工事が始まる前だから、自由に使っても差し支えないわけ。近隣住人からは大家の娘って認識されているから、入っても別に『工事前になにかやることがあるのかな』って思うだけじゃないかな。ちなみに、鍵は勝手に借りてる」

「それは普通に犯罪なのでは?」

「親のものは子どものものでしょ。佐伯もあるよね? 親の財布から万札を無断で借りたこと」

「ないよ。普通は頼まない? まあ頼んだとしても、たいていは断られるけど。高校生になってからは、『欲しいものがあるならバイトしなさい』の一言でばっさりと」

「佐伯家、なんか普通だね。面白味なくない?」

「異常よりはましだよ。ここあの家は面白味があったの?」

「壊れてるよ。家族構成が変わっても状態は昔からずっと同じで、壊れたまま。第三者から見れば面白いだろうね」

 壊れている。その言葉が持つシンプルなインパクトの強さに、僕は相槌も打てない。

「お察しのとおり、りりあが校舎から飛び降りた遠因は、うちの家族が、一之瀬家が壊れていたから。部屋に着いてからは、そのあたりの事情を語りつつ、佐伯に頼みたいことがなにかを伝える形になると思う。それから、りりあが生きていたころの話もしたい。あの子がどんな子だったのかを、佐伯にも知ってもらいたい。だから、目的は一つともいえるし、二つともいえるし、三つでもあるって感じ」

 ここあは多少無理をしたように表情を和らげる。

「やめてよ、そんなシリアスな顔。あたしはもっと明るく語りたいの。こんな暗い雰囲気のまま空気を吸ったり吐いたりしていたら、精神をやられて死んじゃうって」

 それに続けてなにか言おうとしたが、発語はなかった。

 暗い雰囲気は嫌。ごもっともだと思う。

 でもここあは、おそらくは無意識に、無理に明るく振る舞おうとしている。その方針は、彼女が望んでいる雰囲気を遠ざけてしまうだけの結果しか生まないのでは?

 そう思ったが、言えなかった。

 言えるわけがないじゃないか。姉を自殺という形で失ったばかりの人に、そんな心ないことは。

 しばらく無言の歩行が続いた。


「あれだよ。あそこにずらっと建っているやつがそう」

 いきなり強く背中を叩かれたと思ったら、ここあの細い人差し指は前方を指している。

 アパートと聞いて、三階から五階建てくらいの建物をなんとなく想像していたのだが、粗末な木造平屋が何棟か連なった建物群だった。長屋、という言葉を僕は思い浮かべた。

「ぼろすぎてびびった?」

 建物を指差したままここあは問う。なぜかにやにやしている。

「老朽化してるね。取り壊すのも仕方ないかな、レベルで」

「なにせおじいちゃんあばあちゃんの代から建っているからね。住人が何人かいたけど追い出して、新しいアパートを建てるんだって。そのほうが儲かるから」

「新しく、きれいな建物を建てるんだね」

「そういうこと。ぼろくて家賃も安いから、わけありの連中しか借りてくれなかったんだ。生活保護受給者とかね。おばあちゃんが軽度の認知症だったから、それにつけ込んで一か月分の家賃を誤魔化そうとするアホとかもいて」

「それは、なんていうか……」

「底辺だよね、底辺。社会の最下層のドブ。うちの親も、ようやく負の遺産を清算する気になったってわけ。……一番大きくてやっかいなごみは手つかずだけど」

 ここあが真っ直ぐに歩み寄ったのは、もっとも手前にある一戸。

 長屋は間近で見ると、遠目から見たときよりもみすぼらしく見える。

 ここあが鍵を開ける。建てつけの悪い木戸が醜い音を立ててぎくしゃくと開く。

 中は埃っぽくて、薄暗くて、狭い。全室をひととおり見て回った感じ、全体的に年季が入っていて、ごみが落ちていないのに薄汚かった。そりゃ取り壊しも決まるよね、というような。

「どう? あたしの秘密基地は。やばいっしょ?」

「やばいね。好き好んで住みたくはないかな。和式トイレだし」

「風呂は狭いしね。あ、ちなみに水道は通っているから、嫌な思いをしながらうんこもできるよ。風呂だって一人さびしく入れる」

「謹んで辞退するよ」

「ちなみに、裏口のドアの鍵は壊れていて施錠できないし、トイレットペーパーは買い忘れて残り一ロールしかない」

「最悪じゃないか」

 僕たちは和室に移動した。人が住んでいたころは居間だっただろう一室で、四畳半の中央に白いローテーブルが置かれている。僕たちはそれを挟んで腰を下ろす。座布団も敷物の敷かれていないが、清潔さは特に問題なさそうだ。

「秘密基地ということは、たまにここに来て過ごしているんだね」

「そうだよ。たまにじゃなくて、わりかし頻繁かもしれない。こんな場所でも家よりはましだから。時と場合によってはね」

「でも生活感っていうか、誰かが使っている感はあまりないね」

「どうせもうすぐ取り壊しになるから、物をたくさん置いておくのは抵抗があって。もう少し過ごしやすく改造したい気持ちはあるんだけど」

 ここあは天板に肘をついてこちらに身を乗り出した。胸元から白く透き通った谷間が覗く。姉妹では最大ではないかもしれないが、充分にでかい。

「じゃあ、話を始めちゃおうかな。もったいぶるようなことでもないし。流れの中で『佐伯にこうしてほしい』って言ってほしい? それとも、先に言ってから説明する?」

「じゃあ……流れの中で」

「やっぱり。びびりっぽいもんね、佐伯は」

 どこかほっとしているようにも見える顔つきで、ここあは語り始めた。


「あたしの家族は壊れているって言ったけど、本当の意味で壊れているのは一人なんじゃないかって思う。それはあたしのことじゃないし、りりあも該当しない。両親も、子どもの目から見れば歪んだところもあるけど、客観的に見れば、異常だと決めつけるには遠いんじゃないかな」

「壊れているのは、つまり――」

「あたしの一番上の姉だよ。名前はあくあ。歪みに歪みまくって一周回ってもとに戻ったかと思ったらまた歪んだ、狂いに狂った女、それがあくあなの」

「あくあっていうのは、プリクラの一番右に写っていたけど、破られちゃった?」

「正解。破られたっていうか、あたしが破ったの。姉妹が三人揃って写っているものはあの一枚しかないんだけど、腸が煮えくり返るようなことがあった日に、怒りに任せて。……思い出したくないから、この場でわざわざ詳しく話したりはしないけどね」

 吐き出した言葉が募れば募るほど、ここあの顔に滲む憎しみの色が濃くなっていく。

「あくあは事あるごとに家族に暴力を振るう女で、学校では問題児、家では暴君。高校を退学させられてからは暴力的な言動がエスカレートして。好き好んで標的にしたのは、気が弱いりりあ。被害に遭ったのは、家族全員。殴られたら絶対にやり返すあたしに対しても平然と殴ってきたし、親にも手を上げた。体格が上の父親にも殴りかかっていたからね。感情的になってつい手が出るとかじゃなくて、髪の毛を掴んで顔面に拳を叩き込むとかしてた。とにかく度を越して凶暴なの、あくあという女は」

 僕の鼓動は少し速まった。

 脳裏で映像が明滅している。一之瀬りりあにまつわる「あの映像」が。

 あくあが家族に対して日常的に暴力を振るっているのだとしたら、つまり、りりあは――。

「だからって両親に同情できないのは、あの人たち、りりあがなにをされてもなにも行動を起こさないんだよね。あくあを厳しく叱りつけるとか、然るべき機関に相談するとか、いっしょにどこかに逃げて避難するとか、手段がないわけじゃないのに。

 父親はあいつにどんなに殴られても、黙って部屋から出て行くだけ。

 母親に至っては、殴られたら条件反射で謝る。なにも悪いことはしていないのに、だよ? 馬鹿じゃないのって思うし、そういう下手に出る対応があいつを増長させている気がして、腹立たしかった。なに余計な真似してんのお母さんって」

「……そっか。ここあは僕に『すぐに謝るのはやめろ』って何度か怒ったけど、そういう経験があったからだったんだね」

「母親と佐伯を重ねたとかではないけど、その経験の影響があるのは事実だと思う。あたしはどちらかというと、目には目を歯には歯を、悪事を働いた人間は同情の余地があっても厳しく罰するべきだって考えるタイプだから。悪事と呼べるほどの行為じゃなくても、やむを得ずに犯してしまった過ちだとしてもね。

 生まれついての性格というよりも、あくあっていう怪物と共生する中で確立された信念であり、処世術なんだろうね。

 あたしはとにかくやられっぱなしは嫌だった。だって、相手から殴りたいだけ殴られて、文句の一つも言わずにすごすごと引き下がるなんて、情けないじゃん。不様じゃん。ましてや、悪いことをしてもいないのに頭を下げるなんて、最悪だよ。死んだほうがましって思っちゃう。だから、あくあになにか言われるたびに言い返したし、殴られるたびに殴り返した。絶対に、意地でも、壊れた女なんかに負けたくなかった」

「負けん気が強いんだね。ご両親と違って」

「そうだね。それは生まれつき。でも、あたしがそういう対応をとった要因としては、危機感のほうが大きかった気がする。完膚なきまでにやられたことこそなかったけど、ずっと胸の片隅にあったの。いつかあくあに殺されるんじゃないかって。

 ……いや、違うな。どう言えばいいんだろう。殴られ続ける日常を送ることで、心がぼろぼろになって、それが遠回しの死因になる、みたいな」

 僕は息を呑んだ。

 繋がった、と思ったのだ。

 僕の内心を察したらしく、ここあはいかめしい表情でうなずいた。

「その顔、気づいた? ――そう、りりあはあくあに殺されたの。直接的じゃなくて、間接的に」

「お姉さんからの日常的な暴力に耐えかねて、ということだよね」

「そういうこと。でも、なんで飛び降りたのが校舎の屋上だったのかはわからない。りりあがあたしに学校について話してくれることはもちろんあったけど、自殺を匂わせるような発言をした覚えはないんだよね。テストの点数、いろいろな行事について、教師のクセやクラスメイトの面白い発言……。どれもこれも当たり障りのない話題だった。

 充実した高校生活ではなかったんだろうね。親しい友だちもいなかったみたいだし。学校は特に魅力的な場というわけではないけど、十六歳で就職するのはなにか違うし、せっかく親が学費を払ってくれるって言っているんだから、消去法で通っておこうかな、みたいな。だってそうでしょ? 学校が死ぬほど楽しいなら、そんな場所を死に場所に選ぶはずがない」

 静かに憤るといった口ぶりでここあは断言した。

 胸が痛い。ほんの少し、息苦しい。

 僕はりりあと同じ学校に通い、同じクラスに所属するという関係だ。

 りりあが自ら命を絶った責任の一端は佐伯剣にもある――ここあから遠回しにそう言われた気がした。

「りりあの死については、現時点ではわからないことだらけ。でも、確実にあくあが絡んでいる。だったら、あくあから直接訊き出すしかない。問い質すしかない。それがあたしの目的」

「訊き出す……」

「なに、そのリアクション。もしかして、復讐してほしいとでも言うと思った?」

 ここあは少し白けたような表情で見つめてくる。

「ちらっと思ったかな」

「あたしはあくあと違って理性的な人間だから。右の頬を殴られて左の頬を差し出すようなお人好しじゃないけど、秒で殴り返したりはしない。でも、か弱い妹の無防備な右頬を殴り飛ばした動機は知りたい。それだけだから」

「あくまでも平和的な解決を目指していますよ、と」

「基本的にはね」

「安心した。でも、そもそもの疑問なんだけど、どうして僕に任せようと?」

「頼れる人間が佐伯くらいしかいないからだよ。両親は役立たずだし、頼りになりそうな友だちはいないし。佐伯は頼りない感じはするけど、嫌と言いつつやってくれそうな雰囲気はあるから」

「気が弱くて断りたくても断れない、みたいな」

「そうとも言う」

「僕みたいな人間に頼らざるを得ないということは、もう自力での解決は……」

「諦めてるよ。気持ちよく言い切っちゃうのも情けないけど、無理なものは無理だから。りりあが自殺したっていう連絡が来てから、あくあを問い詰めたんだけど、いつものように暴れて、でもその暴れかたが今日は尋常じゃなくて。事情を訊き出すことは叶わなかったけど、あくあが深く関与しているって確信した。だから、なにがなんでも訊き出したいの」

「いきさつはよくわかったよ。でも、もう一つ質問なんだけど」

「なに?」

「ここあは挑戦したけど無理だったんだよね。外者の僕が『事情を訊きたいので、教えてくれませんか』って願い出たところで、どうにかなる相手なのかな」

「無理でしょ。だって他人じゃん」

「なに馬鹿なこと言ってんの」と言わんばかりの、冷めた目つきでの即答だ。

「だよね。普通に考えたらそうだよ。それなのに、どうして僕に?」

「だから、あんたしか頼れる人間がいないんだってば」

 語気が強まった。眉の角度も上がっている。

 沈黙が数秒間流れて、ここあはため息をついた。再びしゃべり出したときには表情に冷静さを取り戻している。

「現状ではあんたに頼るしかないの。他に頼れる人間がいないから。だから、引き受けてほしい。引き受けるべき。――引き受けてくれるよね?」

「いや、それはちょっと……」

「えっ、なんで? どう考えても快諾する流れでしょうが」

 ここあの声がひと回り大きくなった。

「あくあは凶暴だ、あくあは恐ろしい、みたいなことを、ここあはさんざん語ったじゃないか。そんなふうに脅されたら、当たり前だけど怖いよ。積極的に会いたくないな、関わり合いになりたくないなって思う。僕は臆病な人間だけど、性格に関係なく誰だってそう思ったと思うよ」

「それもそうか。……くそっ。もう少し言い回しを考えるべきだったな」

 ここあはふてくされたような顔で押し黙った。

 少し後ろめたい気持ちになったけど、彼女は大人しく引き下がる女じゃなかった。

「第一ラウンドは作戦負けか。現状をストレートに訴えすぎたあたしの負け。でも、諦めないからね、佐伯」

「なにを企んでいるの? 怖いなぁ。……まさか、殴って無理やり従わせるつもりじゃないよね」

「しないよ。あくあじゃあるまいし、そんなことは絶対にしない。そうじゃなくて、りりあだよ」

「え?」

「佐伯にりりあの魅力を知ってもらって、りりあのために一肌脱ぎたいって思わせる。今度はこの作戦でいくから」

 ここあはローテーブルの天板を両手で押して立ち上がる。

「じゃあ佐伯、出ようか。移動しよう」

「なんで? ていうか、もう? 来たばかりなのに」

「話題にふさわしい環境ってものがあるでしょ。明るくておしゃれなカフェでは親睦を深める。おんぼろ秘密基地ではシリアスな話。じゃあ、かわいい双子のお姉ちゃんの魅力を知ってもらいたいときは? 外でしょ。薄暗い秘密基地じゃなくて、まだ明るい屋外。ニュアンス、わかるよね?」

「まあ、わからなくはないけど」

「じゃあ、行こう。歩きながらりりあのこと、いろいろ語ってあげる」


 今日は朝からいろいろあったが、まだ昼下がりの午後二時過ぎ。

「佐伯、どこ行く? ただ歩くだけなのも味気ないから、設定した目的地に向かいつつ道中も楽しむ、みたいな感じにしたいんだよね。散歩によさそうな場所、近場にあったかな」

「M公園とか?」

「ああ、あそこね。のんびり歩けてよさそうだけど、でも遠いよね。ちょっとだるいかも」

「本当にノープランなんだね」

「目的地に関してはね」

 僕たちの歩調はのんびりしている。向かっているのは、一応M公園の方角ではある。

「佐伯はりりあとクラスメイトだったんだよね。仲はよかったの?」

「いや、まったく。そもそも話をしたことすらほぼなくて。単なるクラスメイトって感じ」

 ここあとしては、手始めにジャブを放ったくらいの感覚なのだろう。しかし、僕はいきなり懐に踏み込まれたように感じて、少しどもってしまった。

「あの映像」の話に繋がってきそうだから、りりあとの関係を訊かれるのは正直、プレッシャーだ。

「そっか。まあ、そうだよね。仲がよかったら、佐伯はもっとショックを受けていたはずだもんね。でも、仲よくなくても教室での様子くらいはわかるでしょ。どんな子だった?」

「大人しかったよ。休み時間とかでも、誰かと雑談をする姿はあまり見かけたことはなかった。ずっとスマホを触っていたね。それ以外の印象は特に、って感じ」

「存在感がなかったわけね。あんた以外のクラスメイトはりりあをどう認識していたのかな」

「たぶん僕と同じじゃないかな。悪口陰口を言っている生徒は見たことないし。言葉は悪いけど、空気みたいな」

「……なるほどねぇ」

 ここあは複雑な表情を見せ、十秒くらい押し黙った。

「悪口陰口はなかったということは、いじめはなかったわけね?」

「なかったと思う。一之瀬さんに対する暴力も暴言も、見たことがないし聞いたこともないよ」

 問われなかったが、ネット上でいじめを受けている噂も聞いたことがない、と説明を追加しておく。

 ここあは考え込むような顔つきで相槌を打ち、僕が話し終えるとともに小さなため息をついた。

「やっぱり原因はあくあかな。学校を死に場所に選んだ謎が残るけど」

 目だけを横に動かして僕を睨み、またため息。

「ちょっとあてが外れたかな。腐ってもクラスメイトでしょ? 新年度が始まって二か月でしょ? もうちょっと情報を訊き出せると思ったんだけどな」

 力になれなくてごめん、と言いかけて、謝られるのが嫌いだったと思い出す。言葉を呑み込む。

 そして、気がつく。

「さっきからなんか、質問ばかりされてるね。普通に答えちゃってたけど」

「どうしたの、急に。訊かれたらやばい事実でも隠してるの?」

「いや、そうじゃなくて。僕たちが秘密基地を出たのは、一之瀬さんがここあのことを僕に話すためだったよね。それなのに、別の目的のために口を動かしている」

「別によくない? ちょっとした脱線くらい。あたしにとっては必要な情報ではあるわけだし」

「まあ、そうなんだけど」

「期待に反して、今のところろくな答えが返ってきていないけどね。収穫が全然ない」

「……ごめん」

「謝らないでよ。残念だとは思うけど、別に恨んでいるとかでは――あっ!」

 ここあが唐突に声を上げた。

 振り向いた僕に、彼女は前方を指差してみせる。

 桜色の屋根のこぢんまりした店が建っている。そよ風に揺れる幟につづられているのは、「ソフトクリーム 300円」の文言。

「あのソフトクリーム屋さん、三回くらい食べたことがあるんだけど、美味しいんだよねー。クオリティがマジで高くて」

「もしかして、食べたい?」

「食べたい! 三回ともりりあといっしょに食べた思い出の店だから」

 ここあは満面の笑みだ。明るくて、屈託がなくて、こっちまでうきうきしてくるような。

「いいね。食べよう」

「乗り気じゃん。食いしん坊だ」

「甘いものは別腹だから。でも、ここあは大丈夫なの? 甘いものは別腹理論が適用されないくらいたくさん食べてたけど」

「りりあとの思い出がある分、別腹の容量もでかくなってんの」

「なるほどね」

 僕たちは自動ドアを潜る。イートインスペースも備わった、そう広くはないが明るい店内。ボードに表示されたメニューを見ようとすると、

「バニラ味を二つお願いします。テイクアウトで」

 ここあはさっさと注文をすませてしまった。

「もしかして、りりあといっしょに食べていたのって、バニラ味?」

「そう。初めての店で、食べたいものが特に決まってないときって、看板メニューを選びがちでしょ。この店だとバニラ味。そしたらとびきり美味しくて、以来食べるのはバニラばかり。他にもいちごとかチョコとか、専門店だけあって味のバリエーションは豊富なんだけどね」

 支払いは割り勘ですませた。すぐに注文の品が完成した。商品を手に店の外へ。

「んまい! やっぱり美味しすぎる!」

 ここあはソフトクリームをがんがん食べ進めながらべた褒めする。自動ドアを潜る前からすでに口をつけるという、行儀の悪い真似をしていたが、目くじらを立てるのは野暮というものだろう。

「どうよ、佐伯。美味しいでしょ?」

「うん、むちゃくちゃ美味い。バニラの味が濃厚で、甘さが程よくて。ここあがはまるのも納得したよ」

 僕たちはソフトクリームを賞味しつつ、M公園の方角へ足を進める。

「ここ、二年くらい前までペットショップがあって」

 ここあは唇についたクリームを舐めとり、顎をしゃくった。チェーンの百円ショップが建っていて、広い駐車場の七・八割ほど車が停まっている。

「りりあといっしょにこのへんまで遊びに来たときは、いつも寄ってた。お互い特別に動物好きってわけじゃないんだけどね。家で飼いたいっていう話も出た記憶ないし。ガラスケースに入っている動物を十分くらい眺めて、帰る。ただそれだけなんだけど、定番のお出かけスポットだったんだよね。懐かしいなぁ」

「そうだったんだ。僕はペットショップがあったこと自体知らなかったよ」

「需要がなかったみたいで、けっこう早くつぶれちゃったからね。でも、あたしとりりあにはあった。一回、ソフトクリームを食べながら店に入ろうとして、りりあに制止されたことあるよ。『ソフトクリームなんて食べながら動物に会いに行ったら、羨ましがられて吠えられちゃうよ』って」

「その止めかた、なんかかわいいね。店内は飲食禁止だからだめ、じゃなくて」

「でしょ? かわいいでしょ。どこそこに遊びに行こうとか、なにかしようとか、提案して行動するのはあたしなんだけど、保護者みたいなムーブをするのはりりあなんだよね。役割分担ができあがっちゃってた。しっかり者なんだか、頼りないんだか、よくわかんなかったな、あの子は。でも、むちゃくちゃ馬が合うんだよね。食べ物とか音楽の好みも似ていたし。ぴったりではないんだけど、共通点が多いの。凸凹コンビみたいな」

「僕はきょうだいがいないから羨ましいなって思うよ。そういう友だちみたいな仲睦まじいきょうだいは」

「羨ましいでしょー。佐伯も欲しかったら、お父さんお母さんに頼むことね」

「いや、それはさすがに厳しいよ。十六歳差だと、きょうだいっていうよりも親子みたいになりそうだよね」

 きょうだいがいないから、羨ましい。

 友だちみたいな仲睦まじいきょうだい。

 危うい発言だったな、と思う。ここあは双子の姉を失ったし、一つ上の姉と現在進行形で対立しているのだから。

 ただ、受け答えをする彼女はいたって平然としているし、明るい。感情を押し殺しているわけでもなさそうだ。

 現実逃避が上手くなっている――。

 そんな皮肉っぽい考えが過ぎり、切なさが込み上げた。それに少し遅れて、そんな捻くれた見方をした自分を嫌悪する気持ちが追いかけてきた。

 そうだよ。

 現実逃避をするくらい、いいじゃないか。急に姉妹に死なれた現実を受け止めきれるのは、よっぽど心が強い人間か、心が壊れている人間だけだ。

 思い出の味を賞味して、楽しい思い出話をして、笑顔になる。

 それでいい。今のところは、それで。

 ソフトクリームの功績は偉大だ。食べ始めたのが引き金になって、ここあの口から盛んにりりあの思い出が語られるようになった。

「りりあは信号無視を絶対にしない子だった。車が全然通っていなかったとしても、危ないよ、青に変わるまで待とうって。そういう馬鹿真面目な態度にいらいらするときもあったけど、赤信号を平然と無視して横断歩道を自転車で渡るじじいとかばばあとかを見るたびに、うちのりりあは偉いなって誇らしく思ったよ」

 赤信号に引っかかったさいに、ふと思い出したようにそう話したり。

「うちはどうも音痴の家系らしくてね。カラオケは友だち付き合いのために嫌々参加することもある、程度の関わりなんだけど、一回だけりりあと二人で行ったことがあって。下手だったよ。むちゃくちゃ下手。でもりりあ、恥ずかしそうに小声で、もじもじしながら歌うのがかわいくて。マイクの力を借りているのに小声なんだよ? あり得なくない? かわいすぎでしょ」

 カラオケ店の前を通ったときに、とっておきの話がある、と言わんばかりの口ぶりでそんなエピソードを語ったり。

「あたし、雨が降るか微妙なときとか、小雨の予報のときとかは傘は持ち歩かない主義なのね。面倒くさいから。でもりりあは、『濡れちゃうと困るから、どっちかわからないときは持っていくようにしないと』って口酸っぱく言うの。持っていくだけでも面倒くさいよ、濡れたら乾かせばいいじゃんって返しても、しつこく注意してきて。あの子、ああ見えて強情なところがあるから。

 で、本当に雨が降り出したときは、必ず教室まで迎えに来てくれて。走って帰ろうとしたら追いかけてきたこともあったよ。水たまりの水を跳ねさせながら全力ダッシュで。転ばせてびしょ濡れにするのも心苦しいから、傘の下に入ったけどね。あたしはどうせ自分では差さないから、もう一本持ってくるんじゃなくて、相合傘をしてくれるの。

 雨の日は楽しかった記憶があるなー。年端のいかない子どもみたいにはしゃいじゃうんだよね。ブロック塀を這っているカタツムリを捕まえて、りりあに押しつけるとかして。あの子、虫とかそういう系の生き物は大の苦手だから」

 雨の日の思い出話を語ったとき、僕たちの上空は見事な快晴だった。

 では、なにがきっかけになったのかと周囲を見回して、見つけた正解に僕は微笑する。近くに建つ民家の玄関先の壁に、子ども用の黄色い傘が立てかけられていたのだ。

 一つ過去を思い出して語るうちに関連する過去を思い出し、それについて語っているとまた別の過去を、というふうに話は連綿と繋がっていく。

 おかげで、一之瀬りりあに対する解像度が上がった。

 大人しくて控えめ、という印象を僕は持っていたが、ここあも同じ認識らしい。

 一方で、ここあの行きすぎた行為に苦言を呈する、制止する、フォローするといった思いやりのある振る舞いも、時と場合によっては見せていた。

 こちらは、学校にいるときには目にしたことがなかった姿だ。

 一之瀬りりあの彼女らしいところ、彼女らしくないところ、さまざまな一面を知ったことで、脳内に保存していた彼女にまつわる映像を、今までとは違った気持ちで眺められるようになった。

 たとえば、休み時間、誰とも話さずに自席でスマホをいじっているシーン。

 今までは、空き時間にちょっとした雑談をする相手すらいないから、孤独感を誤魔化すためにスマホに向き合っているのだろうと僕は解釈していた。

 ここあの話を聞いたあとでは、捉えかたががらりと変わった。

 読書とか好きそうだし、電子書籍で恋愛小説でも読んでいたのかも。あるいは、撮りだめしてあるノラネコの画像でも眺めていたとか。クラスに親しい友だちがいなかったのは事実かもしれない。でも、それを恥じるんじゃなくて、一人でもできることを自然体で楽しみ、彼女なりに充実した休み時間を過ごしていたんじゃないかな。

 モノクロだった映像が、色彩鮮やかなカラー映像に変わった。

 しゃべっているのはもっぱらここあだけど、無理に自分も参加したいとは思わない。

 愛していた――いや、今も愛している人について楽しく語っているここあを、横から見ている、聞いている、それだけで満足だ。

 ここあは本当にりりあのことが好きなんだな、と微笑ましかった、

 でも、ポジティブな気分一色ではない。

 一之瀬りりあの命が失われてしまったのは、もしかすると僕にも責任の一端があるかもしれない。

 そんな思いが、どうしても消えてくれないのだ。


「うわー! 最悪……」

 互いがソフトクリームを食べ終えるか終えないかのタイミングでのここあの声。

 何事かと注目すると、彼女は眉間にしわを寄せて僕を見返した。左手にはあと一口か二口といった残量のコーン。一方の右手は一部が白く汚れている。

「手、洗いたい。佐伯はティッシュ持ってないの?」

「持ってない。コンビニとかのトイレを借りるしかないね」

 道なりに歩いていると、アパートが目にとまった。六階建て。建物の正面は芝生広場になっていて、子ども向けの遊具などが置いてあるのだが、その隅に手洗い場があった。

「勝手に入っていいのかな。オープンな雰囲気ではあるけど」

「だめだと思うけど、無視しよう。死ぬほど手を洗いたいから」

「相変わらず自分勝手だよね。一之瀬さんがいたら絶対に怒られてるよ」

「怒られようが怒られまいが、あたしが洗うと決めたからには洗うの」

 ここあは手早く目的を果たした。敷地の入口で待つ僕のもとにすぐに引き返してくるのではなく、手洗い場のすぐ脇でアパートを見上げている。

「ここあ、どうしたの? なにか気になるものでも?」

「屋上まで上ってみない? ていうか、上ろう」

 屋上。

 その単語を聞いた瞬間、僕の周りの空気の温度が少し下がった気がした。周囲で聞こえていた音も遠のいた。

「……ここあはもしかして、最初からここに来るつもりだったの?」

「まさか。偶然見かけただけの、なんの縁もゆかりもないアパートだよ」

「じゃあ、どうして? 屋上、本当は――」

「いいから上ろう。ほら、行くよ」

 なおもためらっていると、ここあはおもむろに僕へと歩み寄り、まだ濡れている手を僕のシャツの裾になすりつけた。どこか意味深に僕に微笑みかけ、アパートへと歩を進める。

 戸惑い、ためらいながらも、彼女に続く。

 ここあの頭の中は、はっきり言って読めない。

 仲がよかった姉が死んだ、屋上。飛び降りた現場ではないとはいえ、同じ屋上。できれば近づきたくない場所のはずなのに。

 ここあが先頭、僕がその後ろという隊列で外階段を上る。

 僕に頼みごとをしたのも、あくあに対する怒りと憎悪をたぎらせているのも、すべて現実に向き合っているからこそ。

 そういう人間は自ら死を選ばない、気がする。ここあの性格も考えても、それは信じてもいいと思う。

 ただ、ソフトクリームを舐め、りりあの思い出話をしながら歩いていたときとは、明らかに雰囲気が変わった。

 緊迫感がほのかに漂い始めたのだ。

 たとえば僕がなにかつまらない冗談を口にしたとすれば、これまではいっしょになって馬鹿笑いをしていたのが、「耳障りだ」と怒りを表明しそうな。

 最後の物理的関門たる重厚な鉄のドアは、不用心なことに無施錠だった。

 僕たちを出迎えたのは、地上よりも六階分近くなった蒼穹と太陽。

 味気ないコンクリートの床が一面に広がっている。広さはバスケットコート二面分くらい。

 空間を囲繞しているのは、僕たちの背丈よりも高いが、乗り越えようとすれば乗り越えられそうな高さの金網フェンス。

 荒涼とした眺めに、僕はな厳粛な気持ちになる。

「一之瀬りりあは飛び降り自殺をした」という事実が胸を圧し、少し息苦しい。

 その場から一歩も動けない僕とは対照的に、ここあはすたすたとフェンスへ向かう。

 動き出した瞬間はひやりとしたが、足取りはしっかりとしている。

 ここあは金網フェンスにしがみつき、下界を見下ろす。

 かしゃり、という音が、僕を金縛りから解き放った。

 少し深めに息を吐き、足音を立てないように歩いてここあの横に並ぶ。横顔を見つめる。

 第一印象としては、物憂げ。

 なにかに思いを馳せているような。ここではない世界に存在するなにかを見つめているような。

 いや、なにかじゃない。わかりきったことじゃないか。

 りりあだ。ここあは現実世界に生きながら、現実世界には存在しないりりあを見ている。

「ここあ、大丈夫?」

「ん? なにが?」

「だって、屋上は一之瀬さんが……」

「知ってるよ。でも、別にこの屋上から飛び降りたわけじゃない。距離だって離れているし、階数だって違う。四階建てだって聞いたけど」

「そうだね、四階建ての校舎の屋上からだった。ここあはどうして、このアパートの屋上まで行こうと思ったの?」

「近づきたかったからだよ。りりあが死んだ状況に近づきたかったから。

 でも、いざ来てみると、全然実感湧かないな。校舎じゃないとか、建物が四階建てじゃないとか、たぶんそういうちっぽけなことじゃなくて、もっと根本的ななにかが違うんだろうね」

 僕もここあに倣って金網フェンスの網目越しに世界を見下ろしてみる。

 ここあが言う「根本的ななにか」がどこかに落ちていないだろうか、という気持ちで。

 僕たちが上ったアパートは、ソフトクリームの店があった通りから少し入った場所に建っている。

 僕たちが貼りついているフェンスが面しているのは、通りの反対側。

 住宅が多い。割合としてはアパートやマンションよりも、断然一軒家。

 上からだと庭の全容がよく見える。狭い庭、広い庭、雑草が繁茂し放題の庭、庭木や花壇や家庭菜園が整備された庭。

 道を歩いている通行人や自転車もちらほら見かける。

 一言で評せと無茶振りをされたとすれば、強いて挙げるなら、のどか。いい意味でと言うべきか、それともよくも悪くもと言うべきなのかは、正直かなり微妙なところだけど。

 生活があるな、と思う。

 ただし、僕たちがいる世界からは遠い。隔たりを感じる。

 この景色が、自殺を決意したりりあの目にどう映り、なにを感じさせたのかは、想像力を働かせることでしか近づけない。

 彼女は、絶対に僕と同じ景色を見てはいないのだから、想像するのは無意味なのかもしれない、とも思う。

 それを承知の上で、あえてりりあの心に起きた変化を想像するなら――たぶん、自殺の意思が揺らぐことはなかったんじゃないか。

 見下ろした地上が示したのは、優しい無関心。

 りりあの心がいっそう陰ることはなかったにせよ、やっぱり飛び降りるのはやめておこう、という方向に気持ちは動かなかった気がする。

 同じく、反発心を生きる力に転換することも。

 一言でいえば、本質的に自分の力にはなってくれなさそうな感じ。

 だから、怒りも悲しみもない。

「力になってくれない」と悟った瞬間、もどちらかの感情が込み上げたのだとしても、すぐに鎮静してしまったのではないか。

 肩にこもっていた力は少し抜けたと思う。ただし、行おうとしていることに支障がない程度に。

 ……僕は自分勝手に想像しすぎているだろうか?

「こうやって地上を見下ろしてさ」

 かしゃり、と金網が鳴る。

 屋上に来て初めて、ここあが僕に顔を向け、口を開いた。

「跳ぶ前になにを考えていたのかな、とか、怖かったのかな、とか。いろいろ想像してみたんだけど、しっくりくるものとは出会えないね。全然ぴんとこない」

 少し眉根を寄せた顔で、もどかしそうに頭を振る。

 口元はどうやら微笑もうとしているらしいが、形になっていない。

 僕は思う。

 もしかするとここあは、「屋上に上る」という選択肢を思いついた時点で、屋上に行ってみさえすれば、なんとなくりりあの気持ちがわかるはずだと踏んでいたのかもしれない。

 でも実際は、現実は――。

「佐伯、どう? ちょっとはわかった? 自殺直前のりりあの心境」

「……どうだろう。想像してみたけど、一之瀬さんというよりも、僕が自殺するときの心理になってしまうよ。僕が飛び降り自殺をすることになった場合の心の中に。一之瀬さんの場合にも当てはまるかと問われても、自信をもって首を縦には振れないよ」

「だったら、参考までにそれを教えて。佐伯がどう感じたのかを」

「包み隠さずに言うと……。自殺する前に、僕たちみたいに景色を見下ろしたとしても、自殺をやめる理由は見つけられなかったと思う」

「……そっか」

 ここあは小さくため息をつき、金網の外へと顔ごと視線を戻した。

 直後、なにかを思い出したように双眸を少し大きくした。そうかと思うと、表情を引きしめてこちらを向き、真面目くさった口調で、

「双子の姉の気持ちがわからないって、やっぱりやばいかな?」

「無理もないんじゃないかな。だって、りりあが自殺を決行した理由がそもそも不明なんだから」

「……そっか」

 またため息。今度は肩を落とすしぐさつきだ。

 今度も、すぐに金網越しの世界へと顔を戻した。

 無力感を噛みしめている顔つき。景色以外に意識が向いている人間特有の眼差し。

 僕も中断する前と同じ景色を見下ろす。

 閑静な住宅地。のどかな風景。

 心が躍り出すことも、世界を変えるなにかが下りてくることもなさそうな眺め。

 二度目の「そっか」以来、ここあはずっと口をつぐんでいる。

 横顔を何度かうかがったが、ぼーっとしているようで集中しているような、そんな顔つきがずっと維持されている。

 長くなりそうだけど、文句もため息も吐き出さずに、ここあの気がすむまで付き合うつもりだ。


 物思いに耽ってしまう。

 耽るだけの時間と、心のゆとり。その両方を確保できたのは、りりあが死んでからは、このアパートの屋上に来た今が初めてだ。

 黙ると気分が沈んでしまいそうだから、なるべくしゃべっていたかったんだけど、つい口をつぐんでしまった。

 でも、結果オーライ。次から次へと考えや想いが胸に浮かんできたおかげで、ネガティブな感情に心を囚われる事態は免れた。

 佐伯はあたしを放っておいてくれている。あいつはなんだかんだ、空気を読むのが上手い。

 りりあのことを語るのが、彼といっしょに町を歩くことにしたそもそもの目的だった。でも、語りすぎても悲しくなるだけな気がして、ときに意識的に、ときに無意識に、アウトプットする言葉の数に制限をかけている。

 あの子はあたしの双子の姉妹。あくあという共通の強大な敵と戦ってきた、同志でもある。

 りりあが自殺したと聞いた直後の悲しみは、絶大だった。

 体が千々に引き裂かれるような。この世の終焉が来たような。生涯で味わう悲しみと絶望がまとめて襲いかかってきたような。

 自分でも大げさだと思うけど、それくらい巨大な感情だった。

 あの危機を乗り越えて、よくぞこうして佐伯といっしょに過ごせているなって、自分で自分に感心してしまう。

 あまりにも普通すぎて自覚が薄かったけど、冷静に考えるとこれはマジで凄いことだ。

 あくあと日常をともにして、精神力が鍛えられたおかげかもしれない。

 本来、大切な人を亡くした人間が立ち直るには、もっと長い時間をかけるのが普通だと思う。

 専門家や身近な人間なんかの力だって借りないといけないだろう。

 でもあたしは、こんなにも短時間に、佐伯一人の力を借りただけで、その難題を見事にクリアした。

 完璧に立ち直れていないのはわかっている。でも、傷が完全に塞がるまで待っていられない。そろそろ行かなくちゃ。りりあから賞賛されたように、あくあから侮蔑混じりに言われたように、あたしは元気と行動力だけが取り柄なんだから。

 さっきからずっと、佐伯からの視線を感じることだしね。


「佐伯、そろそろ帰ろう」

 おもむろに金網フェンスから体を引き剝がし、全身を使った伸びをして、僕のほうを向いてのここあの呼びかけだ。

 声をかけられるまで、僕はここあが貼りついていたのとは対面のフェンスにもたれて胡坐をかき、彼女の尻を眺めていた。スマホをいじるとか、他にもいろいろやったけど、なんだかんだそうしている時間が一番長かったと思う。

 いつの間にか、西の空はうっすらと赤らんでいる。

「ところで、佐伯は前向きになってくれた? あくあからりりあが自殺した事情を訊き出す件」

「あ……忘れてた」

「なんのために一人になる時間を作ったと思ってるの、まったく。座禅を組んでおいてこの体たらくはないでしょ」

「座禅はしてないから。待っているあいだはたしかにいろいろやったけど、座禅はレパートリーの中になかったからね」

「いろいろって、具体的には?」

「それは……」

「どうせエロい妄想してたんでしょ。無防備なあたしをバックから犯すとか」

 そこまで過激ではなかったが、いかがわしい部類の空想をしたのは事実なので反論できない。

 ここあは腰に両手を当ててため息をつくという、芝居がかったしぐさをした。僕は気を取り直すように空咳をしてから、

「真面目に答えると、気持ちは多少前向きになった、かもしれない」

「じゃあ、頼まれてくれる?」

「まだ抵抗はあるね。まだ怖いよ。だって、りりあに対する親しみは深まっても、君のお姉さんに対する恐怖心が減退したわけじゃないから」

「ああ、なるほどね」

「ここあに協力したい気持ちはあるよ。時間が経つにつれてだんだん高まってきている。でも、あくあに関わりたくない気持ちは不動だよ。最初に比べるといくらか和らいだけど」

「あと何押しくらい必要?」

「十押し、くらいかな」

「は? 多すぎなんだけど」

「自慢じゃないけど、僕はびびりなんだ」

 情けないセリフだと思いながらも、我が身の安全に関わることはきちんと主張しておこうと、せいいっぱい毅然とそう言葉を返した。

 ここあは長々とため息をついた。

「場所を替えて説得を続行しようかな。眺めが変われば佐伯の気持ちも変わるかもしれないし」

「次はどこに行くつもり?」

「秘密基地に帰る。暗くなるし、そろそろ食事がしたいしね。途中でコンビニとかに寄って晩ごはんと明日の朝食を買おう。もちろん、食後のデザートも」

「なんか食べてばかりだなぁ」

「ばーか。それが生きるってことでしょ」


 帰り道、背の低いビルとビルに挟まれて心療内科が建っているのが目にとまった。

 看板にもっとも大きくつづられている文言は「〇×クリニック」だが、注釈するように隅に小さく「心療内科」と記銘されていたので、そうだとわかった。

 一之瀬さんも心療内科の診察を受けていれば、もしかしたら――。

 後の祭りだと理解していても、そんなたらればを思ってしまう。

「なんか無性に食べたくなるんだよねー、揚げ物の総菜って。アジフライとかメンチカツとか。絶対にちゃんとした飲食店で食べるほうが美味しいのに、なぜかスーパーに売っている――」

 緩やかに沈んでいく僕の心など知りもしないで、ここあは夕食に食べたいものについてべらべらしゃべっている。

 能天気というか、なんというか……。

 でも、りりあの死に囚われて、浮かない顔をしているよりも千倍ましだから、僕は相槌を打つ。

 心療内科。

 僕自身も家族も世話になった経験がないし、親戚知人が通院しているという話を聞いたこともない。

 主にフィクションの物語などに描かれた情報などを参考に構築された、僕の心療内科に対するイメージは、気軽に入れる精神科。

 入口に設置されたハードルは決して高くないと思うのだが、それすらもりりあは越えられなかったのだろうか?

 あるいは、診察を受けた甲斐なく屋上から跳んだとか。

 たしかだと思えるのは、ただ一つ。

 仮に、生前にりりあから悩みを相談されていたとしても、僕はきっとカウンセラーの役割を果たせなかったに違いない。


「イカのお寿司チェックぅ!」

 ここあは声高らかに宣言し、バラエティ番組にゲスト出演した若手芸人も顔負けのハイテンションで拍手する。むちゃくちゃにこにこしている。

 互いの食べ物の好みなど、他愛もない話をしながら、たっぷり時間をかけて二人分の夕食と朝食をスーパーマーケットで買い込み、今は秘密基地だ。

 ローテーブルの上に所狭しと並べられているのは、買ったばかりの夕食。

 多種多様な総菜が法則性なく大集合した中、その中央に燦然と輝く、イカの寿司。

「佐伯、気になる? イカのお寿司チェック。なんだと思う?」

「いや、知らないけど」

「スーパーで売っている寿司の味はピンキリだよね。でも、味が合格点かそうでないかを見分ける方法が一つあるの。それはずばり、イカを食べてみること。身が固ければ不合格で、柔らかければ合格。一発でわかっちゃうってわけ」

「なんだ。食べる前からわかるとかじゃないんだ」

「それはもう超能力の範疇だから。じゃあ、さっそくチェックといきますか。いただきまーす」

 ぱちん、と気持ちいい音を立てて割り箸を割り、十個入りのパックからイカを掴み取る。掴んでから口に入れるまでが速い。

 嚥下されると同時、笑顔の花がぱっと咲いた。

「美味しい! 柔らかいやつだ。佐伯も食べなよ」

 ここあはイカの寿司を一点集中で攻める。寿司はその一パックしか買っていないので、競争になる。僕は一個分の遅れをとったが、巻き返して最終的に食べたのは五個ずつ。それからはランダムに料理に箸が伸びた。

 食事は進む。

 世界はどんどん暗くなる。

 容器は空になり次第片づけていき、スペースが確保できたところでスマホを置いた。ライト機能が作動している。LEDライトの光量は、夜が始まったばかりの世界には明るすぎるくらいだ。ここあいわく、秘密基地の夜はいつもこれで乗り切っているという。

「ぶっちゃけ、冴えたアイディアは浮かんでいないんだよね」

 食事の勢いに落ち着きが見られるようになったころ、唐突にここあがつぶやいた。辛さ控えめのエビチリを食べながらの発言だ。

「佐伯に納得してもらう方法のことね。どうすれば、あくあから訊き出す大役を引き受けてくれるのかっていう」

「無理やり従わせるんじゃなくて、納得してから実行させるなんて、平和的だね」

「まあね。確認しておきたいんだけど、りりあの魂を救ってあげたい気持ちはある? あたしの思い出話を聞いて、その気持ちは高まった?」

「高まったよ。自殺したのは本当に不幸なことだと思うし、かわいそうだと思う。自分にもできることがあるならぜひやりたいって思うよ」

「だったら、あくあに訊いてよ? りりあとのあいだになにがあったのかって」

「まあ、訊くだけならいいけど――」

「おっ! ついに承諾?」

「ここあの頼みたいことって、訊いてそれでおしまいじゃなくて、あくあが答えるまでがセットだよね。ようするに、ここあが納得できるような答えを、君のお姉さんが吐くまで粘り強く訊き出せ、ということでしょ」

「当り前。じゃないと意味ないもん」

「だったら、無理だ。難しいよ」

「なんで? まだやってもいないのに、どうしてそう決めつけるの?」

「未来のことはわからないけど、推測ならできる。あくあはりりあを自殺に追い込んだ元凶なんでしょ? 姉妹や家族に日常的に暴力を振るうなやつなんでしょ? そして、今朝、りりあの自殺を知ったここあが問い質しても答えなかった。だったら、僕には無理だよ。部外者の僕が急に現れて急に教えろって迫っても、真実が明らかにされることは絶対にないよ。断言してもいい」

「その言い分はもう聞いてる。あたしが訊きたいのは、駄目元で挑戦してみないのはなんでなのかってこと」

「あくあが怖いからに決まってるだろ」

 いや、その情けないセリフを力強く言い切るのは、どうなの? 自分でもそう思ったが、勢いに任せて最後まで言ってしまう。

「もともとも怖かったけど、さらに高まったよ。父親の顔面を平気で殴るとか、あくあがいかに凶暴なやつなのかをここあが話してくれたおかげでね。断られるだけならまだいいけど、問いをぶつけた瞬間に暴力を振るわれそうだから、一之瀬あくあには近づきたいとすら思わない。……言っていて自分でも情けないけど、それが本音だよ」

 ここあは春雨サラダを掴んだ箸を虚空で止めて僕の顔を正視した。見下したような。小馬鹿にしたような。それでいて、ほんの少し同情してみせるような、そんな表情。

 彼女は僕から視線を外し、春雨サラダを三口続けて食べてから言った。

「そういうことね。おっけー、把握、把握。じゃあ訊くけど、どうすればいいと思う?」

「どうすれば恐怖を克服できるかということ?」

「そう、それ」

「えっと、どうだろう。……特になにも思い浮かばない、かな」

「鈍いなぁ、佐伯は」

 ここあは肩を竦めて頭を左右に振った。

「一桁の掛け算よりも簡単だよ。りりあを好きになってもらうためにはりりあのことを知る必要があったように、あくあのことを知ればいい。そうすれば恐怖も薄らぐよ。あくあに面と向かって問い質せるくらいにはなるんじゃない? たぶんだけど」

「なるほど……」

 相手は血の繋がった妹を自殺に追い込むような女だ。知ったところで恐怖の克服に繋がるのか、むしろ逆効果なんじゃないかという気もしたが、無策に甘んじるよりはましだろう。

「それはいい案かもしれないね。うん、悪くない案だと思う。じゃあさっそく――」

「ごめん。あたし、あいつのこと教えたくないから。というか、言及するのも嫌」

「……は?」

「だって、あいつのこと嫌いだし。悪いけど、佐伯が一人でどんな人間なのか見てきてよ。住所は教える。あくあはあたしの家にいるから」

「ちょっと、なんで急に非協力的になってるの」

「言ったばかりのように、あくあが嫌いだからだよ。言っとくけど、譲歩する気はないからね」

 口調は冷ややかというほどではないがどこかそっけない。僕に目も合わせてくれなくなった。正面を向き合っているから偶発的に重なることもあるが、すぐに逸らしてしまう。無駄なやりとりを拒む雰囲気がひしひしと感じられる。

 本当に、心底嫌なのだ。

「ここあの気持ちはわかったよ。双子のお姉さんが自殺した元凶なんだから、強い拒絶感を抱くのも無理もないと思う。じゃあ、リサーチする人間は僕一人だと仮定して、どう行動すればいいわけ?」

「簡単だよ。一之瀬家に行って、インターフォンを鳴らして、応対に出たあいつに訊けばいい。あの女はたぶん出ないと思うけど」

「だめじゃん」

「いっしょに作戦を考えよう。そういう形でなら協力してあげてもいいよ」

 こうして作戦会議が始まった。

 明らかに現実的ではない机上の空論から、場の雰囲気にそぐわないがここあの発言としてはふさわしい冗談、大なり小なり実効性がありそうなものまで、さまざまな案を好き勝手に、無責任に出し合う。本気で採用に値するアイディアを見出そうとしているというよりも、自由気ままにアウトプットしているうちに当たりが出てきてくれ、という神頼み。

「クラスメイト代表としてプリントかなにかを届けにきた、というのはどうだろう?」

 自信満々な僕の提案に、ここあは少し眉根を寄せて小首をかしげる。

「死者相手にそれはちょっとまずくない? 不謹慎っていうか、不自然に思われる」

「それもそうか……。じゃあ、僕はここあさんの同級生で、今日はここあさんが休んでいたのでプリントを持ってきました、というのは?」

「それは無理。だって、あたし学校行ってないもん。不登校じゃなくて、そもそもどの学校にも入学していないっていう意味ね。中卒クソニートだから」

「……マジか」

「なにか不満でも?」

「いや、まったく。学校に行っていないことがどうこうじゃなくて、ああ僕、ここあのことなにも知らないなって思って。知り合ってからけっこう時間が経つし、かなり話もしているのに、初耳の情報だったから」

「けっこう? たかが六、七時間じゃない。せいぜい一日の四分の一だよ? そんな短時間で、あたしがどんなやつなのかがわかるわけないって。わかるって主張するんだとしたら、絶対に嘘だよね。血よりも真っ赤な嘘」

 ここあは軽やかにさわやかに笑い飛ばした。

「あたしたちはこれからもしばらくはいっしょなんだから、いっしょにいるうちに否応にも解像度は上がるでしょ。そんなくだらないことを気に病む暇があるんだったら、佐伯も頭使って。いいアイディア、考えようぜ」

「……うん。そうするよ」

 けっきょく、食事が片づくまでになに一つ決まらなかった。

「これからもしばらくはいっしょ」と言ってくれたのは、素直にうれしかったけど。


「ていうかさ」

 なんの用があるのか、台所でなにかしているここあに向かって僕は声を送る。

 夕食がすみ。作戦会議は単なる無駄話へと堕した。間もなくそれにも飽き、互いにスマホをいじり始めたが、それにも若干飽きが来つつある、という現状。

「んー? なにー?」

 返ってきた声の方向から、いつの間にか風呂場に移動しているのだとわかった。

「僕、なんでこの家にいるのかな」

「決まってんじゃん。泊まるためだよ」

「帰りたいんだけど。家族も心配してる」

「嘘つけ。電話とかラインは来た?」

「それは、来てないけど」

「ほら見ろ。もう泊まっちゃいなよ。宿泊の準備は万端整っているから。布団もあるしね。一人分」

 整ってないじゃん、と心の中でつぶやく。

 じょぼぼぼぼ、という水音が聞こえてきた。湯船に湯を張っている音だ。

「いつの間にか巻き込まれていたけど、別に泊まる理由はないよね。僕がいいと思うやりかたであくあとコンタクトをとって訊き出す、というのが最終決定だよね? だったらもう解散でいいんじゃないかな」

「いや、まだ教えてないことがあるよ。一之瀬家がどこにあるのか」

「あ、そうか。じゃあ、教えて。教えてもらったら明日行ってきて、またここに帰ってきて報告するよ」

「だめ。教えない」

「は?」

 少し、水音が大きくなった。

「なんで? 教えるだけだよ? ここあにデメリットないと思うんだけど」

「さびしいからに決まってんじゃん。だってりりあ、死んじゃったんだよ?」

 僕は軽く息を呑み、口をつぐむ。

 ……ずるい。ずるいよ、ここあ。その理由を掲げられたら、断れないじゃないか。

「りりあに死なれたばかりの状況で、一人きりで秘密基地で夜を過ごすって、地獄だよ。電気も通っていないし。孤独と喪失感を誤魔化してくれる存在、あたしには佐伯くらいしかいないのに、どっか行っちゃわれたら困るよ。佐伯は困らなくても、あたしは困る」

「……ごめん。気づかなかった僕がアホだった」

「気にしなくていいよ。悪意があってとぼけたんだったら殴ってたけど。で、佐伯はどうするの?」

「親に電話してみる。よくよく考えたら、なにがなんでも家に帰らなきゃいけないわけではないしね」

「親、厳しいの?」

「わからない。友だちの家に泊まったことないから」

「へえ! それはさびしい」

「なんでちょっとうれしそうなんだよ。放っておいてくれ」

「さびしい同士仲よくしましょうってこと」

 からかうような調子ではあるが、こちらを見下したような響きは感じられない。

 ここあの受け答えは、いっときよりも少し優しくなっている、気がする。

 会話しているあいだ、ここあはずっと風呂場にいたので助かった。僕がそういう姿を見せると、あいつは確定で笑いものにしてくるから。

 もしかすると、ここあも照れていて、だから長々と風呂場にとどまっているのかもしれない。


 母親に電話で「友だちの家に泊りたいんだけど」と告げると、僕が犯罪に巻き込まれているのかと疑ったようで、質問攻めにしてきた。

 受け答えは、無難にこなせたと思う。上手く言おうとして逆に演技くさくなるとか、こういうときに犯しがちな愚を回避したのが大きかったと思う。

「明日も学校は休みみたいだけど、晩ごはんの時間までには必ず帰ってくるようにね」

 そんな母親らしい言葉を最後に、親子の通話は終わった。

「苦戦してたね。でも説得成功おめでとう」

 通話途中から戸口にたたずんで盗み聞き、もとい堂々と聞いていたここあが拍手をした。

「大事にされてるんだねー。よっ、箱入り息子!」

「入れられていたとしても、せいぜいボロボロのダンボール箱だよ。僕が普段しない行動をとったから、母さんが心配性を発揮しちゃってさ」

「だとしても、いいじゃん。少々うざくても、うちみたいに狂っているよりもずっといいよ」

 布が擦れる音に顔を上げると、ここあがキャミソールを脱いだところだった。

 キャミソールの下は黒のブラジャーだけだ。胸は着衣状態のときよりも大きく感じられる。

「……なにやってんだ」

「いっしょにお風呂入ろう。そうしたら、あたしの家がどこかを教えてあげる」

「なんだよ、その交換条件。意味わからん」

「照れてるんだ。かわいいねー。で、入るの? 入らないの?」

「ここあさ、そういう脅すような不平等な取引持ちかけてくるの、多くないか」

「かもね」

「……ずるいな」

「褒めてくれてありがとう」

 にかっと白い歯を見せ、腰に両手を宛てて胸を張る。すぐさま僕に背を向け、

「どうせ入るでしょ? 裸、見たいでしょ? さっさと入ってくれば」


 真っ暗な脱衣所からすりガラス越しに見た風呂場にはほのかな明かりが灯っている。中にスマホを持ち込み、ライト機能をオンにしているのだろう。

 ……入りづらいな。

 そう思う僕が全裸なら、待ち構えているここあも全裸。だからこその、ためらい。

 体にタオルを巻いている? あいつはそんな小細工をするような女じゃない。

 体にタオルを巻いて入る? あいつはそんな小細工を許すような女じゃない。

 しかし、約束してしまった以上、「やっぱりやめます」は通用しないわけで。

 一之瀬の住所を教えてもらうためには、気乗りがしないこともやらなければいけないわけで。

 嫌とは言い条、同年代の異性の生まれたままの姿を拝みたい欲望、入浴をともにしたい願望は、健全な思春期男子である僕にはしっかり備わっているわけで。

「――行くか」

 長々と息を吐いて腹を決め、ドアを開く。

「おっ」

 真っ先に飛んできたのは、僕を待ち構え、待ち侘びてもいたらしい人の声。視線はしっかりと僕の股間を捉えている。

 その視線が上昇し、僕の視線と重なり、ここあはにやける。

「……なんすか?」

「いや、なんていうか――うん」

 先客は右手で口元を隠して笑いを押し殺した。

 ここあは湯船の中でふんぞり返っている。透明の湯面越しに、ハーフパンツを履いていたときよりも細く見える脚が沈んでいる。

 ついでに、股間の繁みも見えた。

 胸の膨らみは半分以上湯面から露出している。

 当たり前だけど、全裸だ。

 視線を切ってしゃがみ、かけ湯をする。いつもしているのに、動きがぎこちなくなる。ここあが無遠慮に凝視してくるせいだ。

 むずがゆい。落ち着かない。しかい抗議の声を上げる気力はないという、我ながら情けない精神状態。

 バスタブに入るさいには、縁をまたぐために脚を開く。必然に股間のものをさらけ出すことになる。隠しながらだと、「またいで中に入る」という行為の難易度が嘘みたいに跳ね上がり、挙動はポンコツロボットのそれに近づく。開き直って堂々と振る舞ったほうが楽なのに、自分の一挙手一投足を意識してしまう。

 ここあが水中でゆっくりと脚を動かして膝を立てた。生じた隙間に僕は体を押し込む。そう窮屈ではないが、体と体が触れ合わずにすむ物理的なゆとりがあるわけではない。

 隙間に体がおさまる。向かい合う形だ。小島のように浮かぶ膝頭。小島と呼ぶにはいささか刺激的すぎる一対の膨らみ。にやついた顔。入浴中ということで、髪の毛は後頭部で団子状にまとめられている。

 ここあは恥じらうそぶりはいっさい見せない。

「どうしたの、佐伯。人の顔をまじまじと見ちゃって」

「見てないよ」

「じゃあ、なにを見ていたの。おっぱい?」

「顔だけど、まじまじとは見ていないっていう意味だよ」

「それだけじゃないよね。入るとき、あたしの体を見ていたよね。舐めるように。そのせいでバスタブに入る動作がむちゃくちゃスローになってた」

「むちゃくちゃではないだろ。見てもいないし。暗いから慎重になっていただけだよ」

「どうだか」

 ここあが両脚を伸ばし、僕の脚に軽く押しつけてくる。逃げ場がないので、弱い圧力を受け入れるしか選択肢がない。湯とはまた違うぬくもりが伝わってくる。

「で、どう? 今まさにあたしと混浴している感想は」

「……なんでこうなったのか、さっぱりわからない」

「そんなの、親睦を深めるために決まってるでしょ。裸の付き合いってやつ」

「裸じゃなくても親睦は深められるだろ。ていうかさ、そこまでしなくても、僕たちの仲は充分に深まってないかな」

「いや、まだまだ。深ければ深いほどいいものだからね、男女の仲は」

「語弊がある言いかただね。友情と言い換えてほしいな」

「男と女の繋がりではあるじゃない。で、あたしのおっぱい、どう?」

「……はあ?」

「はあ、じゃない。言葉どおりの意味で訊いてるの」

 ここあは僕を蹴ろうとしたが、脚を動かすだけのスペースが足りない。その部位が押しつけられたまま動いたのが物理的に伝わってきただけだ。

 ただ、状況が状況だけに、そんなささいな動き一つだけでも体温は上昇する。湯に浸かってまだ五分ほどだが、もっと熱い湯に半時間くらい浸かっているみたいだ。

「なにもつけていない状態だと、着衣状態とはかなり印象が違うでしょ。感想、どうぞ」

「それは……。大きいな、とは思うよ」

 なにを真面目に答えているんだ、僕は。

「形、きれいでしょ。大きさと形の大きさが両立した理想のおっぱいだと思うんだよね。もう少し大きいと、どうしても重量に屈しがちになっちゃう。あと、乳輪はどうかな? きれいなピンク色で、そそるでしょう? 整った形と相俟って」

「僕にどう答えてほしいんだよ。話したいことがあるならさっさと本題に入ってくれ」

「えっ! そんなにお気に召さなかった?」

「いや……そんなことはない。きれいではある、と思うよ」

 ほんと、なにを言っているんだ、僕は。

「美しいけど、美しすぎて直視しがたくて、感想が言うのが恥ずかしくて、ついぶっきらぼうな言いかたになってしまった。そういうこと?」

「だから、自分が言ってほしいセリフを言わせようとするの、やめろって」

「どうしたいと思った? 舐めたい? 触りたい? おっぱいを揉むときは脇の下から手を通す派? それとも腕ごと抱きしめたいタイプ?」

「もういいよ。なんなんだよ、この話の流れは……」

 満足に出てきてくれない言葉に代わって、湯面を叩くことでいら立ちを表現しようとしたつもりが、中途半端な弱い一撃になった。

 それをひっくるめて、僕のリアクションが愉快でならない、愉快なやりとりを長く続けたかったから我慢していたが、それも我限界だというように、ここあは朗らかな笑い声を浴室内に響かせた。

 抗議の意味を込めて睨んでやったが、顔は直視できない。直視しがたいんじゃない。どうしても胸の膨らみに視線が吸い寄せられてしまうのだ。

 情けないような。いっそのこと、開き直って魅惑的な映像を堪能したいような。

 自分でも自分の気持ちをどう表現すればいいかがわからなくて、物理的にはもちろん、心理的にも無抵抗に、年齢よりも幼く感じられる笑い声をただ聞いている。

 いや、マジでなんなんだろう、この時間は……。

「じゃあ、あたしの感想もいい? 佐伯の裸を見た感想」

「えっ、なにそれ。怖っ。やめろよ……」

「あ、そういうリアクションなんだ」

「そりゃそうでしょ。嬉々として訊きたがるここあが異常なんだよ」

「あたしはそうは思わないけどなー。気にならない? 他人からの評価」

「裸を批評されたくないよ。自慢できるようなものを持っているわけでもないし」

「たしかに、普通だったよね。佐伯のちんちんのサイズ」

「ピンポイントかよ」

「女の子が気になるところなんてそこ一点でしょ。いいよね、男子は。おっぱいとあそこ、二か所も見所がある。で、ちんちんに話を戻すと」

「戻すな」

「印象論で申し訳ないけど、ちんちんってだいたいどれも同じに見えるんだよね。同じものは一本としてないのはわかるんだけど、顕著な違いがないっていうか。ちんぽがたくさん用意されていて、その中から佐伯のちんぽを選び出しなさいっていう問題が出されたとしたら、あたし正解踏める自信ないよ。絶対無理」

「なんだよ、その狂ったシチュエーションは。この世の終わりだよ」

「たとえだって、たとえ。逆にさ、男から見るとどうなの? 女の子のおっぱいとかあそこって、区別つく?」

「上は、わりとわかるかもしれない。無数の中から選び出しなさい、的なテストが仮にあったとすれば、男が対象の場合よりは正解率は高いんじゃないかな。下は、隠れている部分も多いし、男の下よりもわかりにくいと思う」

「……うわ。なに真面目に答えてんの? きもっ」

「ここあが答えろって言ったからだろ!」

 この流れだと大丈夫だと思ったのに。……くそっ、恥ずかしいな。

「とにかく、ありがとう。男女差がわかって勉強になったよ。むちゃくちゃ参考になった」

「親睦を深めるのが目的じゃなかったのかよ」

「こういうくだらないやりとりも役に立っているんじゃない? あたし、楽しくて好きだけどな」

 ここあは両手を組んで頭上に突き出し、ぐっと伸ばす。使っているのは上半身だけだが、全身で伸びをする猫を僕は連想した。

 なんというか、自然体だ。

 今過ごしている時間が楽しいんだろうな、と伝わってくる。

 その姿は、互いが置かれている状況も、裸のことも忘れて、まっさらな気持ちで見とれてしまうような魅力がある。

 この状況でそんな瞬間が訪れたことが信じられなくて、呆然としてしまって、見とれる時間は長引く。

「じゃあさ、いっしょに行こうよ。あたしの家まで。あ、もちろん今からじゃなくて、明日の朝ね」

「えっ……。なに、急に」

 呆然とした直後の発言だったので、完全に不意に突かれた。声があと一歩で裏返るところだった。

「あたしのあとから入ったくせに、もうのぼせてんの? あくあからりりあの自殺の原因を訊き出す件だよ」

「……ああ」

「あたしは付き添いとしてあんたといっしょに行って、帰ってくる。でも、あいつに会うのは佐伯だけ。どうやってコンタクトをとるかを考えて、実際に訊き出すのも佐伯。これでどう? このやりかたなら、あたしは大嫌いなあくあと顔を合わせずにすむし、佐伯は単騎で敵陣に乗り込むよりも心細くない。なかなかいい案だと思うんだけど」

「折衷案ということだね。どうせ同行するなら、呼び出すところまでやってくれよって思わないでもないけど」

「でも、心強くはあるでしょ? ひとりぼっちで敵陣に乗り込むよりはましなんじゃない?」

「そうだね。じゃあ、それでお願いしようかな」

「おっけー、決まりね。――ああ、そうそう。一つ気になっていたことがあるから、妥協した見返りに答えてよ」

「……それ、一之瀬さんのことと関係ある?」

「あるよ。むちゃくちゃ関係ある。教えてほしいのは、あたしに協力してくれる理由」

「え?」

「言葉どおりの意味。

 たしかに、あたしは強引だったよ。佐伯はりりあのクラスメイトだっていう繋がりもある。でも、しょせんはクラスメイトでしかなくて、親しい友だちとかでは全然ない。むしろ、どういう女の子なのか印象すら残っていない、限りなく薄い関係なんだよね。そして、今日知り合ったばかりのあたしとは、りりあ以上に薄っぺらな関係。それらにプラスして、相手をしなきゃいけないのは怖い、こわーいあくあだから、言ってみれば三重苦みたいなもの。

 たしかにあんたは嫌がったよ。怖がって、嫌がって、怖がって、嫌がって――でも最終的には首を縦に振った。さっき決まったばかりのとおり、あたしのためにあくあに事情を訊きに行くことに同意してくれた。

 押しに弱いとか、お人好しとか、性格的なことを差し引いても、ちょっと人がよすぎる気がするんだよね。佐伯には、りりあの問題解決のために動かなければいけない、なんらかの理由があるとしかあたしには思えない。

 まだ秘密にしているくらいだから、あんたにとってけっこう重要なことなんだよね。だとしても――いや、だからこそ、あたしに教えて。明日はあくあの根城に乗り込む日だし、あんたにとってあたしはかけがえのない相棒でしょ。知る権利、あると思うけどな」

 話し始めたときのここあは、目も口も眉も、ようする顔全体で笑っていたと思う。でも、いつの間にか真剣な面持ちに変わっている。

 険しい表情ではない。むしろ、ほのかに笑っている。それなのに、真剣さが伝わってくる。そんな表情で、そんな目で、一心に僕を見つめてくる。決して脅迫的ではないが、応えなければ、と強く思わせる眼差し。

 ――さっきから僕の脳裏をあれがちらついている。一之瀬りりあにまつわる、忘れられたくても忘れられない、あの映像が。

 認めざるを得ない。

 僕がここあに協力しているのは、あの映像の呪縛から解放されたいからでもあるのだ、と。

 ……でも。

 本当のことを言ってしまってもいいのだろうか? 真実を知ったら、ここあは怒り出すんじゃないか?

 ここあは、急かすこともなければ、やっぱり答えなくてもいいよと許すわけでもなく、ほのかに笑った顔で僕を見つめ続けている。

 ごくり、と喉が鳴る。

「……非日常を味わいたかったからだよ」

「非日常って、どういうこと?」

「行動をともにしていたからわかっていると思うけど、僕は平凡な人間だ。必然的に日常生活も平凡。思春期の男子として当然――いや、女子でもかな。刺激を求める気持ちは当然あるんだけど、平凡ゆえに平凡の枠を超えられなくて。だから、ここあと行動したら面白いことになるんじゃないか、スリルあふれる非日常が体験できるかもしれないって思ったんだよ。君が落とした財布を交番に届けるんじゃなくて、落とした場所で待っていたのは、そういう動機があったからなんだ」

 嘘を言っているわけじゃない。一から十まで説明していないだけで、「非日常を体験したい」というのも歴とした僕の願望で、ここあに協力する動機の一つ。だから、話し相手の目をしっかりと見ながら、どもることなくきっぱりと言い切れた。

「スリルあふれる非日常を体験したい、か。それ、日常がすでに非日常なあたしからしたら、すごく贅沢な願望だね。ちょっといらっとしちゃうくらい身勝手な願望」

 それがここあの感想だった。あと一歩で眉をひそめそうな顔つき。それでいて、怒りも呆れも笑いもしない。

「そういうことなら、明日はぜひ協力してよ。あんたが望むような体験があたしたちを待ち受けていること請け合いだから」

「もちろん。もう約束したからね」

「佐伯らしからぬ力強い返事じゃん。長々と話をした甲斐があったね」

 ここあはいきなり立ち上がった。僕が入っていることを考慮していないような大ざっぱな挙動。思わず身構えたが、脚が触れ合った以外の接触はなく、バスタブから出た。風呂椅子に腰を下ろして僕に微笑みかけ、

「洗いっこしよ。あたしが先行ね!」

「先行って、どっちが先なの。洗うほうなのか、洗われるほうなのか」

「洗われるほうに決まってるでしょ。ほら、出てきて」

 自分の背中の腰に近いあたりをぺしぺしと軽く平手で打つ。背中から洗い始めろ、という意味らしい。

「えー、嫌だよ」

「えーってなによ。なんで嫌なの?」

「……恥ずかしいだろ」

「そこはラッキーって思うところじゃないの? えっ、なんか、意外な反応なんですけど」

「ここあは変なところを触ってきそうだから。にやにやしながら余計な真似ばかり」

「いつどこで誰が触るって言ったの? それは佐伯の勝手な願望なんじゃないの。まあ、がっつり触るつもりなんだけど」

「おい」

「それ含めて洗いっこでしょうが。それとも、あたしがじっくりねっとり自分の体を洗うところを見学するだけにしとく?」

「そうするよ。僕の番もあるから、なるべく手早くね」

「なんでそんな嫌がるわけ? ちょっとショックなんだけど」

「理由はもう説明したよね。絶対にしないからな、洗いっこなんて」

「呆れた。なんのための混浴だか」

 反射的に「親睦を深めるためだろ」と言い返しかけて、そうじゃない、と気がつく。

 ここあからすれば、たしかに「親睦を深めるため」なのかもしれない。

 でも、すっかり忘れていたが、僕がいっしょに入ることに決めたのは、「ひとりがさびしい」と吐露したここあの気持ちに応えるため。

 もちろん、満年齢十六歳の男子らしい下心もあるけど、その割合も無視できないくらい大きいんだけど、一番の理由はそれだ。

 だったら譲歩して要求に応えるべき、なんて思いかけたが、混浴を果たした時点で欲望は叶えた。そして、同じ湯船に浸かっているあいだの、我ながら苦笑を禁じ得ない知能指数低めのやりとり。

 ここあだってもう満足しているはずだから、やっぱり譲歩はなしだ。

「まさか佐伯がここまでむっつりとはね。本当はしたいくせに」

「やらないものはやらないから。さっさと洗ってくれ」

「はいはい。……あーあ。洗いっこしてくれたら家までついていってあげることにすればよかったかなぁ。またミスっちゃったな、あたし」

 ぶつくさ言いながらタオルにボディーソープを含ませ、体を洗い始める。

 その後も、意味深な流し目をくれながらもったいぶった手つきでタオルを操るここあにツッコミを入れたり、洗っている最中の僕に襲いかかってきたここあを阻止したりと、賑やかに時間は消費されていく。

 風呂から上がると、入ってからすでに一時間以上が経っていた。僕にしては異例中の異例の長風呂に、驚いたあとで噴き出してしまった。

 入浴を終えるタイミングがここあも同じだったら、きっと顔を見合わせて笑い合っていたに違いない。


 佐伯はむちゃくちゃ素早く、体を拭くのと着衣とをすませて脱衣所をあとにした。

「長々と混浴しておいて恥ずかしいって……。まったく、かわいいやつだな」

 ひとりごち、湯船の中でぐっと伸びをする。下ろすとき、両腕を思いきり湯面に叩きつけた。勢いのわりに中途半端な規模の水しぶきが顔にかかった。その顔に、弛緩した笑みが貼りついているのが鏡に映っている。

 楽しい。充実している。

 もちろん、楽しくて充実した時間を過ごせると思ったからこそ、佐伯といっしょに入ることにしたわけだけど、想像以上だった。

 佐伯はイケメンじゃない。巧みな話術の持ち主でもない。男の裸に一喜一憂するほど、あたしは初心じゃない。

 波長が合うんだ。リラックスして過ごせるし、くだらない会話も面白いように繋がる。馬鹿なことも下ネタも平気で言える。なにをやっても本気では怒らないだろうな、発言に苦言を呈することはあっても、あたしという人間に愛想を尽かすことはない、という安心感がある。

 会話はキャッチボールに例えられるけど、佐伯の場合、ミスなくやりとりできるとか、高速でやりとりできるとかじゃない。強く投げすぎることも暴投することもあるけど、楽しいからずっと続けていたくなる。

 湯はぬるくなってしまったけど、長く浸かっているのには好都合だ。あたしはバスタブの中でだらりと体を伸ばし、鼻歌を歌う。

 取りとめなく思案を巡らせる。そうする中で気がついたのが、りりあと佐伯は似ているところが多い、ということ。

 陰陽のどちらかにわけるとすれば、陰。大人しくて、控えめで、からかいたくなるようなところがあるけど、だからといってどんな言葉をかけてもだんまりというわけじゃなくて、言い返すときはきっちりと言い返してくる。ただし、暴言は吐かない。言動が全般的に穏やかで、いっしょにいて安心できる。引っ張るタイプではないけど、誠実に対応してくれる。いい人感がひしひしと伝わってくる。

 目的達成のためだけじゃなくて、傷心のあたしを癒すための力にもなってくれる。

 本当に、佐伯には感謝してもしきれない。

「ま、面と向かって礼は言ってやらないけどね」

 口のあたりまで湯に沈み込み、組み合わせた両手の隙間から水を発射する。勢いよく噴水するつもりだったのだけど、打ち上げ失敗したロケットみたいにちょっと上に飛んだだけだった。


 電気がなかった時代の就寝時間は早かったんだろうな、と思う。

 電気が通っていなくて、しかも暗いとなると、本当になにもやることがない。

「スマホいじってばかりもなんだし、もう寝る?」

 提案は僕からした。

 さっきから会話が途絶えていて、だらだらとネットサーフィンをするだけ。電池の残量だってもう残り少ない。起きている意味は、はっきり言って皆無だ。

「そうだね。こういうときって、実際に感じている以上に疲れているものだから」

 ここあの返答の声はだらけきっている。

 四畳の和室の真ん中、ローテーブルを脇にどけて布団を二枚並べている。ただ、もともとここあが泊まる用の一式しか置いていなかったので、厚手の掛け布団を敷布団の代わりに敷き、掛け布団は毛布と薄手の布団。

 今が六月でよかった。この一言に尽きる。

 二枚の布団の間隔は三十センチくらい。横になってみると、近すぎず遠すぎずという実感だ。

 風呂場でのことを考えると、布団をくっつけて敷こうとか、いっそのこと一枚に統一しようとか、バカップル的なやりとり、もとい茶番があるだろうなと想定していたのだが、いっさいなかった。

 混浴したことでおなかいっぱいになったのかもしれないし、今日一日いろいろありすぎて疲れているからかもしれない。残念なような、ほっとしたような……。

「同意してくれるんだ。てっきり、就寝時間早すぎ、小学生じゃあるまいし、とかなんとか言われるかと思ったけど」

「今日はマジでいろいろあったからね」

 ここあは声を伴った大きめのあくびをした。

「じゃあ、もう寝ようか。僕にちょっかいかけるのはやめてよ」

「それは、なに? してほしいからあえてそう言ったってこと?」

「してほしくないからお願いしたんだよ」

 くだらないやりとりが続くかと思ったが、こちらがスマホ画面をブラックアウトすると、ここあも同じことをした。布団に潜り込む音。そして静寂。

 ようやく落ち着ける時間がやって来たらしい。

 今日あったことを振り返ろうとしたが、思うように集中力を保てない。

 要因はいろいろあると思う。強いて一言でまとめるなら、ここあが言っていたように「いろいろあったから」になるのだろう。

 そして、明日もいろいろある。あってほしくないが、おそらく、いやきっとある。

 振り返るのは、明日、すべてが終わったあとでいい。

 今日はもう、寝よう。

「あたしね、今日は予想外のことが三つもあって」

 無音状態になってしばらくして、急にここあが口を開いた。ボリュームは抑制されているが、発音は明瞭。ひとり言ではなく、明らかに僕を意識しての発言だ。

「まず一つ目が、りりあの自殺。

 りりあとあくあの仲がよくないのは、ずっと昔からわかっていたの。あくあが一方的にりりあを虐待するだけの関係だから、『仲がよくない』っていう表現はなにかしっくりこないけど」

 ここあは少し笑った。疲れている人間の笑いかただ。

「やばいかも、やばいことになるかもって、ずっと前から危機感を抱いていたんだけど、まさか自殺するなんて思いもよらなかった。あの子はあたしに相談もしていたし、なんだかんだ強い子だと思っていたけど、双子とはいえしょせんは他人ってことなのかな。

 あくあのことをわかりたい気持ち、あくあにあたしのことをわかってほしい気持ち、両方あったと思うよ。少なくとも、あたしにはあった。

 ……でも、あたしにはあくあに対する嫌悪感が根本にあって。あくあ本人や、あくあに関係するすべてから遠ざかりたい気持ちがあって。今になって振り返れば、それがりりあへの対応に悪影響を及ぼしていたんだね。目には見えないけど、ほんの少しずつ誠実さを欠くというか、ベストを尽くせていない対応が重なって、重なって、その結果が自殺。ようするに、あの子が自殺した責任の何パーセントかはあたしにあるんじゃないかなって。今までは百パーセントあくあのせい、あくあだけが悪いんだって思っていたけど、どうもそうとは言い切れないぞって。

 あくあが日常的に、常習的に馬鹿なことをやらなければ、たぶん、いや絶対に、りりあが自ら命を投げ出すことはなかった。その意味であくあの責任は重いし、諸悪の根源はあくあっていう思いは消えていないよ。だけど、あたしの責任でもあるのかなって思うと、うーんってなるよね。考え込んじゃう。飛び降りる決め手となった、わけではないと思う。……そう信じたいけど、ベストを尽くせなかったせいで死期を早めちゃった可能性は、あるんじゃないかな」

 どう答えればいいかわからない。

 人が深い苦しみの中にいるとき、どんな慰めも心には届かないものなのかもしれない。

 息を吸って吐く頻度さえ落としてここあの言葉を聞きながら、そんなことを思う。

 下手な言葉をかけると、感情的になって強い言葉をぶつけてきそうな、そんな危うさを今の彼女からは感じる。

 でも、僕は怒りをぶつけられるのが怖いんじゃない。

 怒らずにはいられないほど傷つけてしまうのが怖いんだ。

 僕は深く、深く沈黙する。

 話を振られてもすぐにはしゃべり出せないんじゃないか、レベルの深みにまで沈み込む。

 僕は、無力だ。

「おっと、ごめん。予想外のことが三つあったって話だよね。

 二つめはね、佐伯。あなたに声をかけて、行動をともにして、今こうして隣り合った布団の上で寝ていることだよ。

 たしかに、あくあの件はもはや一人の手には負えないってもともと感じていて、自殺したと知らされてからは気が動転して、とにかく誰かの助けを借りたかった。それが具体的に誰なのかは全然イメージできていなかったんだけど、まさか初対面の同い年の男子とはね。しかも常識的で、それなりに親切で、欠点はいろいろあるけどいいやつだなんて。ボケたらツッコんでくれるし、文句言いつつも言うことを聞いてくれるし」

 ここあは声を出さずに笑ったらしい。暗くて顔が見えなくても、雰囲気でわかる。

 ひとりのさびしさをまぎらわせるという、風呂場で僕が意識した役割。

 それを別のところでも果たせた、という発見。

 重たい話のあとで、ここあが笑ってくれたこと。

 二つの事実に、強張っていた心がほんの少し緩んだ。しかしそれも束の間、彼女の声がシリアスなものに戻る。

「三つめは、大切な人に死なれても相応の悲しみを抱けないこと。

 今日、外を歩きながらりりあの話をしたよね。出かける前はね、あたし、絶対に泣くと思っていたの。思い出とかを語っているうちに、込み上げてくるものがあって、感極まっちゃうんじゃないかなって。でも、そんなことはなかった。

 うるっとくる場面ならあったよ? 佐伯が気づいていたかはわからないけど、ちょっと言葉に詰まるとか、自覚しているだけでもわりとあったよ。でも、なんていうか、全部我慢できる範疇なんだよね。揺れるけど乱れない、乱れたとしてもすぐに元に戻る、みたいな。

 別に、涙を流さないイコール悲しみを感じていない、なんて言うつもりはないよ。実際、こぼれ落ちなかっただけで涙ぐんではいたからね。確実に感極まっていたし。でも、号泣はしなかったし、込み上げてくる感情に言葉が詰まることもなかった。佐伯とぶつかったときは涙が出ていたけど、あれは衝突した弾みで出ちゃったようなものだし。

 だから正直、ちょっと違和感あったな。我ながら違和感を覚えた。あれっ、あたしって冷たいやつだったの? りりあのことが大切じゃないの? ……みたいな」

「案外、そんなものじゃないかな」

 言葉が途切れるや否や、思い切って口を挟んだ。気軽に会話できるとは言いがたい空気だが、沈黙してしまうと余計に話しづらくなるとだけだと思ったから。

「子どものころって、身近な人間の死をまだ経験がしたことがないから、死を実質以上に深刻なものに捉えちゃうんだよ。だから、実際に身近な人の死を経験したときにギャップを感じて、悲しむよりも戸惑っちゃうんじゃないかな」

「……佐伯」

「唐突で申し訳ないけど、僕の死んだおじちゃんのことを話してもいい?」

「いいよ。むしろ聞きたい。どうせすぐには眠れなさそうだし」

「わかった。長くかかる話とかでは全然ないんだけど」

 頭の中で話すべきことを軽く整え、それから語り出す。

「中一のときに、僕の父方の祖父が亡くなったんだ。交通事故に巻き込まれて、重症を負ってずっと意識不明だったんだけど、一か月くらい入院した末に亡くなって。顔を合わせるのは、盆や正月に家に遊びに行くときくらいで、親密とかでは全然なかったんだよ。だから、亡くなったって急に報告されても実感が湧かなくて。

 両親といっしょにおじいちゃんの家に駆けつけたんだけど、冷たくなって布団に横たわっている姿を見たとたん、ぼろぼろ泣いちゃって。でも、葬儀に参加しているあいだはずっと冷静で、涙が流れることもなくて。お別れのときが刻一刻と近づいても、悲しみが込み上げてくるどころか、逆に落ち着きを増していって。火葬場で骨が焼き上がるのを待っているあいだは、不謹慎だけどあくびもしていたよ。たしかに待ち時間が長くて退屈だったけど、それを差し引いても、前々日に号泣していたとはとても思えない態度だったね。小説を読んでいると、主人公が葬儀に参列するシーンがよく出てくるけど、心境は全然違っていたよ。フィクションと現実は別物だって言われたら、そのとおりとしか言えないんだけど。

 ようするになにが言いたいかというと、身内の死ってそんなものじゃないかな。ひどい事故に巻き込まれて、実質的に死ぬのを待つだけだったおじちゃんが亡くなったのと、双子の姉妹が自殺してしまったのとでは、もちろん話が違うよ。悲しみや喪失感の度合いも全然違うだろうし、比較するのはナンセンスなのはわかってる。でも、親しい人間が死んだけど泣けない、むちゃくちゃ悲しいわけではなかったとしても、異常ではないと思うよ。……うん、僕はそう思うな」

 部屋に再び静寂が下りた。ため息のような声がすぐさまそれを破る。

「なんだ。シンプルに思い出話をしているのかと思ったら、あたしを慰めてくれていたんだ」

「うん。今の僕にできること、それくらいしかないし」

「でも、あまりにも平然としすぎてないかな。どう思う?」

「冷静なほうではあると思う。でも、それはここあが強い人だからであって、異常だからではないんじゃないかな。ここあの場合、悲しみはあとから来るのかもしれないね」

「それはちょっとやだなぁ。できれば明るく楽しく生きていきたいのに」

 ここあは弱々しく笑った。

「でも、ありがとう。話をしているうちにちょっと楽になった」

「どういたしまして」

 会話は途絶えた。

 ここあはもう話しかけてこない。

 僕は毛布を顎まで引き上げて瞼を閉じる。

 明日の朝が、僕たちにとってよいものでありますように――そう祈らずにはいられなかった。

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