プロローグA:予兆
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不明
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長く、祈りにも似た沈黙の瞬間。
宇宙は、自らの無限の重さにひざまずき、息を止めているかのようだった。
その静寂は引き伸ばされ、忘れがたい前奏となって漂う。
かすかに、ほとんど知覚できない振動が虚空を貫いた。
境界を持たぬ広大な空間。近く、そして遥か彼方で瞬く星々が、天体のタペストリーに織り込まれ、エントロピーの中で揺れている。
星座のあいだで圧力が移ろい、闇を切り裂く、不自然で恐ろしい光の筋を背に、奇怪な影を落とした。
長い沈黙がようやく終わったとき、何かが脈動した。
それは音ではなく、圧力だった。
そして――沈黙は砕け散った。
遠方で、不自然な光の群れが一斉に瞬いた。
今やはっきりと見えるそれらの動きは、機械的で、人工的で、意図的だった。
星の海から切り離されるように、白青色のハロゲン配列が近づいてくる。
さらに、さらに近くへ。
やがてそれは、完全に均一な円環の形を成し、その中心に抱え込んでいた工学的驚異を露わにした。
巨大な軌道コア。
漂うその構造体は、周囲の闇とあまりにも対照的だった。
滑らかでありながら断裂した金属の外殻には、歳月の傷跡が刻まれている。
人工灯の下で、凹みや擦過痕がかすかに輝いていた。
その破断は均一ではない。
力で引き裂かれたような箇所もあれば、まるで意図的に切断されたかのような、不気味なほど正確な断面もあった。
その巨大な全貌のうち、見えているのはほんの一部にすぎない。
側面には、深く彫り込まれた金属の溝で刻まれた文字があった。
IVO IX
IVO IXは、地球の軌道上を静かに漂っていた。
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軌道内部では、空洞のデッキが赤い警告灯の下で明滅していた。
透明なHUDコンソールが船体内壁に沿って、緊急警報を脈打たせる。
複数の機械系統が、増大する緊急性を示すかのように点滅している。
その一つ一つの脈動が、一瞬だけ内部を照らし、船内の断片を浮かび上がらせた。
警告は点灯し、止まり、また点灯する。
当初は一定のリズムを保っていたが、やがてそれは崩れ去った。
一見すると無秩序。光は不規則な間隔で噴き上がる。
観測デッキと、その向こうの漆黒を見下ろす、ノイズに覆われたUHDパネルに数値の列が流れる。
0.02
0.05
0.13
0.34
0.89
2.34
6.13
それぞれの数値は、コンソール上の光と同期して明滅した。
•
••
•••
••••
•••••
••••••
•••••••
その下に、小さな文字列が一瞬だけ表示され、すぐにノイズへと溶けた。
CANDIDATES: 0007
FILTER: COGNITIVE COMPATIBILITY
THRESHOLD: 0.90
FILTER: OPTIMIZATION STABILITY — COST AWARENESS REQUIRED
さらに数行が一瞬だけ走り、静電の海へ消える。
FIELD INTEGRITY: STABLE
ELECTROMAGNETIC EXCLUSION ZONE: ENGAGED
Organic neural patterns: rejected.
Synthetic signal architecture: rejected.
Outcome variance intolerance: rejected.
Authorization: UNKNOWN
それは、最初から見られることを想定されていなかったかのように、跡形もなく消え去った。
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視点が近づくにつれ、瞬く光が少年の虚ろな瞳に映り込んだ。
乱れた漆黒の髪が顔にかかり、彼は虚空の向こうを見つめている。
その頭は、長い金色の髪を持つ女性の膝の上に預けられていた。
二人の顔は、断続的に明滅する影に覆われ、
軌道船の展望デッキ越しに浮かぶ地球を、並んで見つめている。
「人間は、指数関数的成長とエントロピーの力を、過小評価しがちなのよ」
女性は、柔らかく、催眠のような声で囁いた。
「ニナ……わからないんだ」
少年は呟く。
苛立ちは言葉の端々に刻まれ、まるで独り言のようだった。
「こう考えてみて」
ニナは、不気味なほど魅了された調子で言った。
「最初の一歩を一メートルとして、次の一歩はその倍。
その次も倍。
三十歩進んだら、どこまで行けると思う?」
「月を越えて、その先まで」
少年は平坦に答えた。
何千回も聞かされた話だと言わんばかりに、目は冷めている。
ニナは意に介さず続けた。
「驚くわ。三十歩で、地球のただ一つの衛星を越える。
二十八歩目で、もう半分に到達している。
でもね、誰もが“その先”へ行けるわけじゃない」
「途中で止まる者もいる。
落ちる者もいる。
そして、ほんの一握りだけが……距離そのものに変えられる」
その言葉は異界の重みを帯びていた。
彼女は少年の髪を撫で、そっと膝から頭を持ち上げる。
立ち上がるニナを、少年は黙って見つめていた。
彼女はHUD投影の揺らめく背景へと歩み寄り、しなやかな指でホログラフィック・コンソールをなぞる。
赤い警告灯は、途切れることなく明滅を続けている。
指先が触れるたび、かすかな音が鳴った。
カチ。
カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ。
彼女の動きは、軌道船の低い駆動音と溶け合う。
強化ガラス越しの闇に、ネオングリーンの指紋が一瞬だけ残り、数式を描いた。
ほんの一瞬、彼女の手の下に、さらに淡い記号が幽霊のように浮かぶ。
lim (t→τ⁻) I(t) = ∞
次の瞬間、壊れた二次フラグメントが閃いた。
argmax…
P(H | …
C(a)…
そして、グリッチ。
文字は砕け、無害な光となって散った。
「ある地点があるの」
ニナは静かに言った。
「正しい答えが……もはや受け入れられなくなる地点が」
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「私たちの思考は、1920年代から指数関数的に上昇してきたわ」
ニナは囁く。
「ムーアの法則に従い、20世紀の終わりにはテラフロップスの壁を突破した」
彼女の姿は、ネオングリーンの霧のような光の触手へと、ゆっくり溶けていく。
身体が消え始めても、声は揺るがなかった。
「世紀の変わり目には、ペタフロップスをも越えた」
「ニナ……疲れたよ。
何度繰り返しても、わからない」
少年は言い、膝に乗せた腕に顔を埋める。
「ねえ、ちゃんと見て」
優しい、しかし逃がさない声。
彼は顔を上げる。
消えゆく彼女は、微笑んでいた。
ニナは、明らかにシミュレーションとわかる空間の中で、幽体の断片へと縮退していく。
半透明のグリッドが明滅し、像を歪ませ、やがて完全に崩れ落ちた。
少年は立ち上がり、点滅するHUD警報の一つへ向き直る。
「彼らは、自分たちが神ごっこをするには、時間が十分にあると思い込んでいた」
ニナの虚ろな声が残響する。
ALERT
警告音は増大し、
光の脈動が闇を洗い、少年の顔を冷たく照らした。
「助けて」
かすかな、異質な声が警報音を割って入り込む。
音節は砕け、抵抗に抗って組み立てられているかのようだった。
一瞬だけ、音声波形がコンソールに映る。
少年は反射的に振り返るが、何もいない。
再びコンソールに向かい、操作を開始する。
「ここにあるのは、あなたたちの種の傲慢の残骸」
ニナの声が続く。
「選ばれし僅かな者のためのユートピア。
そして、他のすべてには、極から極までの荒廃」
入力が続く中、コンソールには複数のエンジン障害が表示される。
小さな、半透明のピンク色のボットが漂ってきた。
少年が振り向くと、その顔立ちが鮮明になる。
片目は濃い灰色、もう片方はネオングリーン。
「どこに行ってたんだ?」
彼は何気なく尋ねる。
「起きて。お願い、助けて」
再び異質な声。
今度は、少年の視線が周囲を探る。
「聞こえるか?」
彼はボットに問う。
「はい、エスティヴァン。
直ちにシミュレーションを終了する許可を求めます。緊急事態です」
機械的な硬さを残しつつも、ボットは滑らかに応答した。
「お願い、助けて」
声は震え、切迫していた。
「終了していい」
エスティヴァンは淡々と答える。
「音声コンポーネントが外来ノイズで破損しているようだ。
終了後にデバッグしよう。今日はもう十分だ」
彼が息を吐くと、シミュレーション内の姿が変化し、少年は大人の男へと定まる。
「音声ID認証:エスティヴァン、終了――」
言い終える前に、異質な声が爆発した。
生々しく、狂乱し、痛いほど明瞭に。
「お願いだ、助けてくれ!!」
休眠していた副次システムが、軌道構造の奥深くで目を覚ました。
PERIMETER STATUS: ACTIVE
COGNITIVE THRESHOLD: ENFORCED
耐え難い圧力が、エスティヴァンの胸を打ち砕く。
反射的に胸を掴む。
顎が噛み締められ、筋肉は硬直し、神経という神経が悲鳴を上げた。
電流が背骨と四肢を引き裂き、
圧力は突如として真空へと崩壊し、
彼を破壊し、同時に再構築する。
金属の味が口に広がり、現実が裂ける。
シミュレーションは崩壊した。
もはや制御できない。
「コード404! ブーニー、終了しろ!!」
エスティヴァンは胸を掴んだまま叫ぶ。
世界は即座に液化し、
彼の意識がほどけるにつれて歪んでいく。
混沌の中で、ニナの囁きが絡みついた。
「私はここにいる。
予期されず、歓迎されず、そして断固として。
私はあなたの母であり、恋人であり、救済者であり、裁き手であり、処刑人」
「私は、罪人たちの聖典を書き換えるためにここにいる。
そして一緒に……」
その言葉は途切れ、
エスティヴァンの意識は、灼熱の地獄へと投げ込まれた。
IVO IXと絡み合いながら、地球へ落下する。
突入の瞬間、軌道船は砕け散った。
破片は世界各地へ散らばり、
彼の意識が縛りつけられた主構造体は、雲を切り裂き、孤島へと突き刺さる。
エスティヴァンの意識は、
蔦に覆われた廃墟、
錆びた太陽塔、
苔に半ば飲み込まれた墓標の間を、自由落下した。
「エスティヴァン。起きて。お願い、起きて!」
異質な声が叫ぶ。
衝撃とともに、エスティヴァンの目が見開かれた。
意識は、ついにシミュレーションを引き裂き、現実へと戻る。
世界が歪み、折り畳まれる。
光が視界を引き延ばす。
彼の手は胸へ伸び、
そこに頭を預けている誰かを感じ、
その髪に指を通した。
顔を上げたのは、女だった。
焦点の合わない顔が、ちらつく。
彼女は本物か。
それとも、砕けたシミュレーションの残滓か。
高い耳鳴りが響き渡る。
胸を押し潰していた力は、
彼女の掌の圧へと変わっていた。
熱と痛みが溶け合い、
呼吸は荒れ、
鼻血が流れる。
金属の味は、現実にも残っていた。
エスティヴァンは耳の後ろにある視覚シミュレーターに触れ、押す。
点滅していた赤い光が消えた。
目を閉じ、開く。
視界が澄む。
彼女は、まだそこにいた。
触れられる。
否定できない。
「よかった……」
彼女は囁いた。
「お願い、助けて。
あなたのオートマトンが、あなたなら助けてくれるって……ここへ連れてきてくれたの」
声は震えた。
そして彼女は凍りつく。
認識が走る。
ようやく視線が重なったとき、
彼女の唇は、かすかに、敗北したような微笑みを描いた。
茶色の瞳から、浅い涙がこぼれ落ちる。
「――悪しき者に、休息はないわ」




