黄の飛躍
記録は続くのに、世界はどこか遠ざかっていくようだった。
僕は介入を試みた。
海には吸収率の異なる青を、
大地には反射特性を調整した緑を加えた。
だが、それらは広がらなかった。
構造として固定されず、ただ凍結した水溜りとして存在するだけだった。
条件が失われていた。
循環が止まり、反応は起こらない。
僕はその世界を、記録し続けることしかできなかった。白銀に覆われた世界を。
記録は残る。
けれど、残っていくほどに、この世界から何かが失われている気がした。
真っ白な視界は、徐々に透明度を失い、やがて何も見えなくなっていった。
──
「……おい、おい!起きろ」
身体がポカポカと温かい。
僕はいつからか、眠っていたみたいだった。
ゆっくりと目を開ける。
そこは、青々とした空とやさしい光が大地を照らしていた。
「お前の名前は?」
唐突に聞かれた。僕以外にこの星の観測者がいたらしい。もしかしたら、派遣されたのかもしれない。
「僕はカビスと言います。あなたは?」
声だけが降ってきた。姿は見えない。
「俺はシルンだ。よろしくな
ほら、お前も色を足せよ」
彼の言葉には、記録に必要な前提が欠けていた。
因果も、再現性も。
それでも、この世界は彼の言葉に従って、動いているように見えた。
そう言うとシルンの気配は彼方へと飛んでいった。
生命の大半は死んだ。
また、やり直し。
僕は魚が消えた海に飛び込んだ。
息を引き取った魚たちは、海底で滅びを待っていた。
ふと、視界の端で何かが動いた気がした。
滅びゆく魚の傍らに黒い影が動いていた。
思考のどこかが、静かに跳ねた。
そこには、生き残った魚たちが泳いでいた。
海底のさらに奥底で、寒さを耐え凌いだ種が存在していた。
僕はその色を、そっと記録した。強い種だけが生き残るこの世界。
絶滅したと思っていた生命は、ひっそりとそこにいた。
僕はまた、緑の雫を大地に落とした。温暖な気候も幸いして、次第に緑は広がっていく。
すると、どこからか茶色の雨が降り注いだ。
それは大地を潤し、大地に広大な土を作った。緑は大地に広がり尽くし、そこに直立する種が現れた。
「なぁカビス。これを植物と呼ぼうか」
ふいに空からシルンの声が聞こえた。
シルンは茶色の雫を地上にもたらし、植物は巨大に育っていく。
やがて大地の大半を覆い尽くし、大きな影をそこに作った。
色付けてきたはずなのに、光が届かないところには闇が現れる。それを嫌うように植物たちは光の争奪戦をはじめた。
成長と枯死は繰り返され、やがて大地は、それを前提とした構造になった。
するとまた、どこからかシルンの声が聞こえた。
「……そろそろ、か」
シルンは何も記録せず、黄色の雫を海に落とした。
それに伴って、魚たちも大きく育った。
僕もシルンに促されて、青を足した。
ゆっくりと、確実に成長していく世界。
壮大な時間はまた、あっという間に過ぎ去っていった。
そして、海と陸の狭間で、新たな祝祭が起きた。
魚たちは陸に這い上がろうとしている。
しかし、空気に触れては死に、陸に上がる前に干上がる。それを何度も、何度も繰り返した。陸の栄養が魚たちを強力に呼び寄せていた。だが、環境の違いはそれを拒絶していた。
シルンはそっと、黄色を継ぎ足す。
僕は記録を続けながら、
自分がいつの間にか、結果を追う側に回っていることに気づいた。
魚たちは陸に這い上がる。
そのときは、やさしい雨の日だった。
……魚たちは、呼吸した。
空気を体内に取り込み、少しずつ大地を這い上がる。そして植物を捕食した。
結果だけを見れば、僕の想定と一致していた。だが、過程はどこにもなかった。
── 陸に這い上がる魚たちの死体は大地に更なる栄養を運んだ。植物はさらに巨大化して、ついには高さを競いはじめ、やがて光を遮る構造体になった。
それを、「森」と呼ぶことにした。
森という名前はシルンと一緒に決めた。植物が織り成すコロニーだ。
木々たちは風に吹かれて大きく揺らめいていた。
大地の栄養も有り余るほどに蓄えられていた。
そこには陸に這い上がることに成功した生き物が住み着いた。腹を大地に擦りつけ、小さな手足で、ゆっくりと身体を引きずっている。
「なぁカビス、こいつらはなんて呼ぼうか」
僕は密かに決めていた。影に潜むもの。
「トカゲ、なんてどうかな?」
その名を口にした瞬間、
胸の奥で、何かが小さく音を立てて崩れた。
理由はわからない。
ただ、ひどく寒かった。
急に、強い風が吹いた。
葉が裏返り、森がざわめく。
さっきまで確かにそこにあったはずの気配が、
風と一緒に、どこかへ押し流されていった。
そこに、シルンはいなかった。
だが、シルンがいたはずの大地だけが、
異様なほどに盛り上がり、歪んでいた。
僕はシルンを探した。
名前を呼ぼうとして、やめた。
思考のどこかに、黒が滲んでいた。
それは恐怖ではなかった。
悲しみでもなかった。
ただ、何かが過ぎ去ったあとに残る色だった。
森の奥に、色の濃い場所があった。
光が届かず、風も通らない。
植物が異様な密度で絡み合い、
そこだけが、時間を拒んでいるように見えた。
胸の奥の冷えが、はっきりと形を持ちはじめる。
僕は立ち止まった。
そして、その光景を見た。
そこに、シルンはいた。
いや、シルンだったものが、そこにあった。
色は失われ、構造は崩れ、
砕けた破片が、大地に沈み込んでいる。
回収も、修復も、できない形で。
それは感情とは違った。
まだ名前を持たない色だった。
だが、後になって、僕は知ることになる。
それが、後に“絶滅”と呼ばれるものだと。




