思い出した色
サユラは小さな声で「こっち!」と僕と先生を先導した。
その瞬間、サユラの全身から黄緑色がぶわりと浮かんだように見えた。
僕らは知らない森の中を全力で走り出した。
背中がとても熱い。
恐怖で振り向くことができない。
あの男の長い手が、僕の肩に掛かる幻想が思考を支配する。
一瞬、先生が岩に足を取られ、体勢を崩したのが見えた。
僕は走る速度を緩め、先生を支えようと身をかがめた。
その時、後方から破裂音が鳴り響いた。
世界が、一瞬、途切れた。
先生の身体は力を失ったように傾き、地面に崩れていく。
僕は足を止め、大きく後ろを振り向いた。
そこには、白い煙が昇る拳銃を構えた、あの男が立っていた。
地面に倒れた先生の胸からは赤い血が滴っていた。
男は無表情のまま、づかづかと歩み寄ってくる。
そしてサユラに向けて拳銃を構えた。
「行きなさい!」
先生はふらつく足でその射線に立ち上がった。
苦痛に満ちた顔から、赤が散った。
その瞬間、再び銃声が鳴り響いた。
サユラは僕の腕を掴むと、木々の隙間を縫うように走り出した。
……先生はもう。
その事実は、理解ではなく、欠落として僕の中に残った。
頭の中はただただ黒かった。
僕は何も考えられなかった。
急斜面を下り、
岩を、倒木を飛び越え、
小川を渡った。
呼吸がうまくできない。
心臓が張り裂けるように痛い。
頭の奥がガンガンする。
やがて足は、限界を迎えた。
”これ以上走れない”と悟ると、僕は速度を緩め、半身をよじるようにして後ろを見た。
生い茂る木々と土埃。
そこに男の姿はなかった。
僕は膝に手をついて、立ち止まった。
視界が黄色く明滅する。
顔中から汗が吹き出し、大地に滴り落ちた。
もう一度、今度は周囲を見渡す。
そこには、僕以外、誰もいなかった。
前を走っていたサユラ。
僕らをかばった先生。
後を追って来る男。
その人影は、どこにもなかった。
僕は身をかがめながら、森を歩いた。
……どこを見ても似通った景色。
木々の茶色が、僕をあざ笑っているように見えた。
大きなトンボが木々の隙間を飛び去って行く。
岩に生えた緑の苔が、妙に胸をざわつかせる。
小さなトカゲが、岩の上を駆け抜けた。
すると、こつんと上方から音がした。
僕は近くの大きな岩を見上げる。
ゴツゴツした岩の上から、何かが転がり落ちてきた。
ザクッと音を立て、それは静止した。
それを見た瞬間、視線の先が頭の中のイメージと重なった。
古の記憶は、それを知っていた。
パキパキと小さな音が響く。
僕は”ありえない”と頭の中で拒絶した。
けれど、それはパキッと割れて、姿を表した。
トカゲではない。
僕は、それが何かを理解していた。
この時代にいるはずのない生き物。
「……恐竜」
それは初めて見るはずなのに、
僕はその名前を、ずっと前から知っていた。
その瞬間、僕の中に、もう一人いた。
カビスの意志が、蘇った。
熱ではない。
痛みでもない。
それは記憶だった。
僕の奥底に沈んでいた時間が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
「先生……いや、セキベムはいつも、僕を導いてくれるんだね」
僕は右手を前に出した。
わずかに、震えていた。
けれど止めなかった。
そして、緑を大地に足した。
そこから、緑の苔が生えた。
植物たちは花を咲かせた。
周囲の木々が太く、大きく育っていく。
枝と枝はぶつかり合い、木の葉が空を覆う。
世界が、呼吸を始めた。
僕は左手を前に出した。
今度は迷いがなかった。
そして、そこに青を足した。
そこには、小川が流れた。
水は音を持ち、流れを持ち、意味を持った。
魚たちが生まれ、
昆虫たちが集まり、
動物たちがその水を求めた。
またたく間に、森は賑わっていった。
そして僕は気付いた。
これは、思い出しているのではない。
──もう一度、創っているのだと。
僕は森をひた歩いた。
古代を思わせる樹木がそこに広がっていた。
でも、木々のあちこちにキズがあった。
木の葉が集められ、緑色が作られ、
昆虫たちの死骸からは青色が搾り出されている。
その景色を、カビスは覚えている。
僕を模倣して色を集めはじめたピテクスたちの行動。
ジャワがいた時代。
ここはその模倣に見えた。
すると、木々の向こうから、ガサガサと枝が折れる音がした。
「ようやく思い出したのか。カビス」
その声が落ちた瞬間、森は息を止めた。
葉の擦れる音も、虫の羽音も消え、
世界は一つの記憶に耳を澄ませていた。
「俺様があのとき、槍で貫いてやったというのに」
その言葉は、時間そのものを揺らした。
森の緑は薄れ、現代の森に移り変わっていく。
古代と現代が重なり、断絶されていた色が、この世界に再び溶けはじめる。
「ススム!逃げて!」
その声が届いた。
けれど、それが誰に向けられたものなのか、すぐには理解できなかった。
男がいた。
拳銃をこちらに向けている。
その姿を、僕は見た。
いや──
その男の“白”を見た。
存在の輪郭としての白。
意味をまだ与えられていない、未完成の白。
黒い引き金が動く。
次の瞬間、
黄色い音が破裂し、
銃口が赤く燃え、
白銀の弾丸が空間に線を描いた。
それは、あまりにも鮮明だった。
速度も、質量も、軌道も。
すべてが、色として理解できた。
弾丸は正確に、僕の中心へと向かっていた。
僕はそれを見続けた。
美しい、と思った。
これが現代の技術。
色を閉じ込め、方向を与え、
死という結果へと導く装置。
だが──
その弾丸に、黒はなかった。
悪意は存在しなかった。
ただ、運動だけがあった。
ただ、結果だけがあった。
そして男を見た。
男もまた、白かった。
まだ、何色にもなっていない存在だった。
そこにも、黒はなかった。
あるのは、意味を与えられた行動だけだった。
僕は理解した。
死とは、黒ではない。
黒とは、理解されないことだ。
ならば──
これは、死ではない。
僕は、ただ、この世界が許す位置に立った。
世界の流れに従うように。
色の進行を妨げないように。
弾丸は、僕のすぐ横を通り過ぎた。
空気を裂く音だけを残して。
そして、後ろの木に深く突き刺さる。
木の中で、白銀が静止していた。
まるで、そこが最初から終着点であったかのように。
「模倣では、僕を超えられないよ」
僕はそう告げていた。




