正論が創る白
「……こちらの避難施設にお越しください」
男の低い声がわずかに聞こえてきた。
その声によって僕の背中は、急激に冷えていった。
先生は僕の姿を視界に捉えると、僕を外に追いやるように目配せした。
サユラは僕に助けを求めるように顔を歪めている。
すると男はゆっくりと振り返り、物陰に隠れようとした僕を視界に捉えた。
先生の目配せに反して、僕の身体は言うことを聞かなかった。
「さぁ、皆さんお揃いのようですので、ご一緒に行きましょう」
その瞬間、先生は目を伏せた。
僕は、僕の失態をようやく理解した。
きっと先生は、僕を待つことを理由にこの場を動かず、男をやり過ごしたかったのだろう。
その言い訳は、僕のせいでなくなってしまった。
男は僕に向けて、口を動かしはじめた。
僕の頭はそれに合わせて、ある”彼方の記憶”がよみがえってきた。
それは「ジャワ」と名付けた人類の祖先となる生き物の記憶。
地球上の生き物たちは、ずっとカビスが色を足して創り続けてきた。
けれどジャワの誕生によって、その役目は終わりを迎えた。
色を模倣して、生き物の仕組みを理解して、最後にはカビスが足した色を突き返し、そして彼を槍で刺した。
それはカビスの感情に深く根差した真っ黒な記憶となっていた。
「顔色が悪いですよ。さぁ行きましょう」
男は正論を言い続ける。
きっと僕らの言い分を否定しない。話もちゃんと聞き入れてくる。
けれど──その上でこの男が望む行動への正論を突き返してくる。
その想像が僕の頭をかけめぐっていった。
だから僕は、この男に、何も言い返せなかった。
いつの間にか、僕は頷いていた。
言葉を発したくない。何を言っても意味をなさない。
黒い感覚が僕の身体を蝕んだ。
先生とサユラは諦めたように顔をしかめている。
男は張り付けたような満面の笑みを浮かべ、大股で僕に近付いてきた。
男が一歩近づくたびに、森の色が薄れていくように見えた。
先生とサユラは、重たい足を引きずるようにそれに続いた。
僕らは抵抗の意味を見失ったまま、避難施設に向けて森の中を歩いた。
「いやー、皆さん無事で何より。こちらの方角から大きな音がしたので──」
男は淡々と口から言葉を連ねていた。
その言葉の意味は僕らを労っているが、その温度は氷のように冷たかった。
感情が、ない。
形だけの言葉たちは、無表情に耳から頭に入っては、一瞬で抜け落ちていく。
すると、男は歩幅を少しだけ縮め、低い声をさらに低く、頭の中に直接囁くように言葉を発した。
「──して、洞窟には、何があったのですか?」
その瞬間、顔に力がこもり、呼吸が苦しくなった。まるで息の吸い方を忘れたかのように、鼻で意識的な呼吸をした。
いつもの表情の作り方が、わからない。
僕はサユラの顔を横目で見た。
サユラは目の動かし方を忘れ、黒目を小刻みに彷徨わせていた。
今の僕らを見られたら、まずい。
僕とサユラは小さく震えていた。
その雰囲気を察した先生は、凛とした表情で言った。
「先程も言ったように、熊から隠れていただけです」
僕は察した。
先生は、そういうことにしたのだ。
先生は僕に目配せした。
すると顔の力が抜け、意識はいつもの思考に戻っていった。さっきのような失態は犯さない。
僕が言うことは、これだ。
「街までの道には、熊はいませんでした」
先生は小さく頷いた。洞窟の話題は避けなければならない。言及されてはならない。
サユラはいつもの調子で口を開く。
「じゃあ、そっちの道に行こうよ。そっちの方が安全だよね」
僕は少しだけ安堵した。
男の言う避難施設には絶対に行きたくない。
男はゆっくりと足を止めた。
背中が急に熱くなる。
男が次に吐く言葉が怖い。
僕らの提案を突き返してくる。
──すでにそう思ってしまっていた。
「そうですか……では、一旦街に出る道を行きましょう。方向はどちらですか?」
背中が凍った。
”一旦”
と、言った。
つまり、その後で施設へ向かうつもりだ。
僕は、先導した。
下手な嘘はバレる。だから街に向かういつもの道を選んだ。
男はあっさりとそれに従う。それがとても怖かった。
僕を先頭に森の中を歩き続けてしばらくすると、聞き馴染みのある電話の着信音が森の中に響いた。
振り返ると、その音は男の胸ポケットから鳴っていた。それに呼応するように僕の心臓は不穏な影を知らせた。
男は電話を取り出して一言問う。
「どうだった?」
三人の冷たい視線が男に向けられる。
僕はまた、自分の犯した間違いに気付いた。
すでに手が回っていた。
あそこを離れては、いけなかった。
僕らがいなくなったあと、洞窟は調べられていたのだ。
「やっぱりそうか」
男は嬉しそうに電話越しに頷き、じっと僕らを見回した。その目は悟っていた。
「つまり、生物をもてあそぶ化け物は、こいつらってことだな」
その瞬間、僕らは走り出した。
消される。そう直感した。
真っ白な感覚が頭の中を支配した。




