カビスの色
頭の中を、ありとあらゆる記憶が駆け抜けていく。
この星の歴史は、いつのまにか僕の過去と地続きになっていた。
生命の誕生。
成長と進化。
そして、僕が目を逸らしてきた、絶滅という選別。
それらのほとんどは、「カビス」と呼ばれる生命体によってもたらされてきた。
この星の、最初の創り手。
そう呼んでも、もう違和感はないと思う。
カビスは海や大地に色を足すことで、生き物を生み出した。
足すことのできる色は、青と緑。
それだけで、世界は呼吸を始めた。
姿は定かではない。
けれど、腕と足があり、歩き、泳ぐことができたらしい。
ただ時間の中を移動していた。
それが生きていると言えるのか、僕にはわからなかった。
気の遠くなるほどの時を旅しながら、少しずつ世界を塗り替えていく。
やがて、別の色を持つ存在が現れた。
身体が結晶でできた生命体。
どこからともなく現れた「シルン」は、黄色と茶色。
乾いた大地の色だ。
先生の過去である「セキベム」は、灰色と赤。
燃え残った記憶の色。
サユラの過去──「サジュラ」は、黄緑色。
まだ名前を持たなかった頃の、生命の色だった。
それぞれが異なる色を持ち、異なる役割を担いながら、この星は形を得ていった。
そこには、度重なる絶滅があり、そのたびに生き物は意図せず歪められ、進化を余儀なくされていた。
今、目の前にある地球。
それは彼らによって完成した世界であり、
それは同時に、僕自身の過去でもある。
──カビスの物語は、地球の成り立ち。
そして、僕がここにいる理由そのものだった。
先生は懐中電灯で周囲を照らしていた。
壁画の奥には空間があり、そこは黒く淀んでいるように見えた。
先生がそこに手を触れようとした瞬間、洞窟は激しく揺れた。
巨大な生き物がいななくような音が、耳の奥を叩く。
湿った土と、古い石の匂いが一気に押し寄せた。
小刻みな振動が足元を波打たせる。
「出口に走って!」
サユラは僕と先生を両手で押しやると走り出した。
洞窟の壁に、嫌な音が走った。
乾いた骨が軋むような、低く長い亀裂音。
次の瞬間、足元の地面が割れた。
「伏せて!」
先生の声。
その声に、胸の奥がちくりと痛む。
──ああ、この響き。
昔も、同じ声で呼ばれた気がした。
視界が傾く。
僕はとっさに岩にしがみついたが、指先が削れる感触だけが残り、身体は前に投げ出された。
亀裂は一本ではなかった。
壁、床、天井──あらゆる場所に、黒い線が蜘蛛の巣のように走っていく。
黒い、というより色を吸い尽くした痕。
その隙間から吹き上がる風は、異様に冷たく、
触れた瞬間、記憶まで削っていくようだった。
──こんな色、知っている。
まだ名前を持たなかった頃。
何も理解できなかったあの日の、世界の色。
サユラが僕の腕を掴む。
「考えないで、走る!」
引き寄せられた瞬間、彼女の指先が淡く光った。
一瞬だけ、白に近い色。
それは洞窟の黒と触れ合い、すぐに濁って消えた。
引きずられるように身体を起こし、出口の方へ駆け出す。
だが、洞窟はさっきまでとは別物になっていた。
通路は歪み、岩はせり出し、天井からは次々と石が落ちてくる。
背後で、重たい音。
振り返る余裕はなかったが、何かが崩れ落ちたことだけはわかった。
もう、戻れない。
足元が崩れるたびに、身体が宙に浮く。
世界が一瞬、無重力になる。
そのたびに、心臓が喉まで跳ね上がった。
「前だけ見て!」
先生の声が、振動にかき消されながら届く。
懐中電灯の光が乱れ、壁に歪んだ影を映し出す。
それはまるで洞窟そのものが、黒い意思を持って蠢いているかのようだった。
再び、激しい揺れ。
今度は天井が裂け、大きな岩塊が目の前に落ちてきた。
間に合わない。
そう思った瞬間、サユラが僕を突き飛ばした。
身体が転がり、岩はすぐ後ろを叩き潰す。
轟音。
粉塵。
耳鳴り。
白い。
一瞬、視界が完全な白に染まった。
──ああ、これだ。
黒くなる前に、必ず現れる色。
咳き込みながら起き上がると、出口の光が見えた。
それは光というより、まだ色を失っていない世界の断片だった。
「もう少しだ!」
僕は声を吐き、息を吸い込む。
肺が焼けるように痛む。
けれど、足は止めなかった。
背後で、洞窟が完全に崩れ落ちる音がした。
それは、過去が閉じていく音にも聞こえた。
僕たちは、割れた大地を跳び越え、出口へと駆け抜ける。
そして──
白と黒の境界を越えるように、
光の中へ、身体を投げ出した。
「……みんな無事!?」
先生は息を切らせながら、僕とサユラをじっと見つめた。
僕は身体のあちこちをペタペタと触った。
骨の位置、皮膚の感触、鼓動。
人間的な特徴が確かにそこにあることに、なぜか違和感を覚えた。
「……何ともないみたいです」
僕の言葉に、先生は小さく息を漏らした。
しかし、サユラは何も言わなかった。
いつもなら無理にでも元気に振る舞うはずなのに、右足のスネを押さえたまま、視線を落としている。
先生はゆっくりとサユラに歩み寄り、ズボンの裾を捲った。
スネは紫色に腫れ上がっていた。
その色は、洞窟の闇とは違い、確かに“生きている”色だった。
「大丈夫、です」
そう言うサユラの声は、ひどく細かった。
僕らはその場で息を整える。
激しく鳴り響いていた鼓動は、森の静けさに溶けるように、少しずつ落ち着いていった。
そのとき、別の音が混じっていることに気づいた。
さらさらと、途切れずに流れる音。
どこかぎこちなく、川の流れを真似ているような音。
先生にサユラを任せ、僕は見晴らしのいい場所まで歩いた。
……丘の上の湖から、水が街へと流れ込んでいる。
湖をせき止めていたコンクリートの壁の一部が壊れ、濁った水が斜面を滑り落ちていた。
それは蛇のようにうねりながら、勝手に進路を選んでいるように見えた。
けれど、その水が街を飲み込むことはなかった。
炎はすでに消え、焦げ跡だけが、色を失った地面に残っていた。
僕の頭には、ひとりの人物の姿がこびりついていた。
丘を登ってきた、真っ白な男。
あの男が湖の壁を破壊し、街を救ったのだ。
けれど、その行動力と解決の速さを思い描くと、背中に冷たいものが走った。
あまりにも、迷いがなさすぎる。
人間技ではない。
──そう思ってしまっていた。
戻る途中、ふと考えた。
湖の壁を壊した衝撃が、洞窟にまで伝わったのではないか、と。
コンクリートを砕く力だ。
岩盤が耐えられなくても、不思議ではない。
「もしかして、あの男は僕らのことを……」
いつの間にか、胸の奥に不穏な影が落ちていた。
二人のもとへ戻ると、そこにはもう一つ、背中があった。
心臓が、ドクンと大きく跳ね上がる。
異様に大きな背中。
長い腕と、指。
間違いない。
あの男だ。
過去の記憶が接続された僕は、その男にひとつの名前を当てはめていた。




