1話
天窓から差し込む光の中でくるりくるりと小さな精霊が、その胴から細長く伸びた尻尾の先を輝かせて合図を送ってきている。どうやら自分の探していた本を見つけてくれたらしい。そちらに寄れば確かに自分の探していたような本があり、手にとって確認していると精霊がちょこんと本の上に着地する。
「これだ。ありがとう」
一見では少し大振りな蛾に似た姿のそれは、お礼の言葉に羽を数回はためかせ、パッパと銀の光を散らして消えていった。小さな恩人を見送って、貸し出しの手続きをするために、出入り口傍の長い机で積み上げられた本と紙束を交互に睨みつける司書に話しかけると、司書は「ああ、はいはい」とずれた眼鏡を直しながらこちらを向いた。
「ブリジット・ホーキン、期限は七日でお願いします」
「はいはいえーと、……おや、この本、無事に見つかったのかね。よかった、棚の整理中はどうにも場所の把握が難しくてね」
本を受け取った司書はそう言い、図書館内に視線を巡らせた。
「ちらと見たけれど、また"本の気まぐれ"が案内したみたいで、ええと、ブリジット、ホーキン、と…」
棚から取り出した一番上に「貸し出し」と大きく書かれた用紙にガリガリとペンを走らせながら、司書は独り言のように話を続ける。
「前にも言ったが不思議なもんだ、その辺を飛び回ってるのはいつものことだけれど、彼らが案内をしているのなんて見たことが無い、少なくとも私が勤務してる間ではね。名前の通り気まぐれに案内ということも無いし、そう言う話も聞いたことが無い。そもそもこの学園と契約してるのは"這う爪"だから、勝手に住み着いた彼らは別に私たちに利益になるようなことをする理由が無い、それも一人だけになんて。不思議なんだ、実に、実に……」
書き終えた用紙が棚に仕舞われ、今度は薄灰色の細長い紙が取り出される。それにも数行ペンで文字を書き終えると、文字の上に四角い図書館の印が押された。
「よし。お待たせ、それじゃあまた」
「ありがとうございます」
その紙を添えられた本を受け取れば、司書はさっさと本と紙束に向き合う仕事に戻っていった。図書館を出ると廊下は夕日の橙に染まっていて、思ったよりも時間が経っていたことに少し焦りながら、借りた本と紙をカバンに詰め込んでいつもと変わらない帰路についた。
『魔法使いの挟持』
「今日の授業は昨日も伝えた通り、週末にある実技試験の模擬を行います。皆さん魔法式はお忘れではないでしょうね、もし忘れた場合には速やかに申し出ること。さあ、速やかに準備をしてください」
各々が準備に取り掛かると同時に、教室にわいわいと声が広がる。
「練習したけどまだ不安だよ」「維持が難しいよねこの魔法」「本番で間違えなきゃいいけど」「ねえ式ってこれで合ってるよね」「私の全然より綺麗じゃない」「あ、杖汚れてる……」「緊張するなぁ」
先生が長杖の柄で床を突いた鋭い音で一斉に静かになる。
「準備ができたのならお静かに。魔法の発動は試験と同じ順番で行ってもらいます」
この部屋は三分の一ほどが、何枚もの分厚く大きな鈍色の板石で作られた壇になっている。そこには木箱が三つ、等間隔に離されて置いてあり、それぞれには球体が四つずつ紐で繋げられている。その木箱たちから少し離れたところに、四角い目印が三つ描かれている。
試験の内容は複雑ではない。まずは球体を全て浮かせる。ただし、繋がっている箱が床から離れてはいけない。しかしながら繋いでいる紐が緩んでもいけない。これを合図があるまで正確に持続させること。
次に合図の後に箱が床から離れるまで球体を浮き上がらせ、床に描かれた目印まで運んで箱を降ろす。降ろすのは一度きりで、目印は箱の底面とほぼ同じ大きさであり、正確に下すほど得点は高い。
最後に再び合図がされたら、箱の中に球体を全て収める。球体を収める際に箱が動いてしまわないよう注意すること。終了の合図があったら球体を全てを収めきれていなくても、速やかに魔法を止めて採点を待つこと。
正確な魔力の調整することが求められる、よくある基礎的な技術の試験だ。
「では、三名ずつ見せてもらいますので、名前を呼ばれた人は速やかに壇の上に」
操作する球体は複数を同時に動かさなければならないというだけでも集中力を要するのに加え、試験用ということで球体は中身がくりぬかれていたり逆に重りが埋め込まれていたりと、それぞれの重量にかなり差がある少し意地悪なものでおおいに生徒たちを困らせた。
そんな中で突出した生徒が一人。
全ての球体が鏡写しのように正確に浮き上がり、箱はそこにあるべきと言わんばかりにぴたりと枠に収まる。そして箱に入っていく球体はそれぞれが当たる音もせず、まるで羽のようだと錯覚するほど軽やかに収められていく。
緊張した様子も見せずにやってのけた彼女は、最後にふぅと短く息を吐いて採点を促すように先生を見る。
「さすがですね、マクレイアさん」
文句のつけようもない満点を披露したものだから、先生は採点記録もそこそこに称賛の声をかける。
「ありがとうございます、先生。試験本番も頑張ります」
ふわりと柔らかな笑顔で返す少女。
エイミー・マクレイア。
決して実力者が少ないとは言えない、ここカーム魔法女学園で、しかし誰もが一番は彼女だろうと言うほどの飛び抜けた実力の持ち主である。加えて容姿も美しく人当たりも柔らかで、彼女に心酔している生徒も多いのだとか。
とはいえブリジットにはとんと関係のない話だ。確かに実力者だとか見目麗しいだとかは思ったことはあれど、話したことはほとんどない。ブリジットにとってはそんなことよりも今は目の前の試験を乗り越えることで手一杯なのだ。どうにも魔法の細かな操作は苦手で、浮かせた木箱がなんだか可哀想な状況になっている現状に苦悩していた。
「はい、よろしいです」
なんとか赤点にはならない点数は取れたことにより、ブリジットは緊張から解放されて盛大に息を吐いて「早く明日終わらないかなぁ」とぼやいた。
放課後になれば、学友同士での明るい話し声があちらこちらで咲き始める。それらを横目にブリジットはいつものように、図書室へ足を運んだ。同級生たちを嫌っているだとか、人付き合いを嫌っているだとか、そういうことでは無い。むしろああいうのに憧れてすらいるのだが、どうにも馴染めずにいる。
「マクレイアさん、今日は何かご予定がありまして?」
声の方へ顔を向けると、彼女がいた。
同級生に慕われるその姿は見慣れたもので、仕草に合わせてふわりと舞う金色の髪が、窓からの光で輝いている。
ふと彼女の目がブリジットの方を向いた。蒼い瞳と真っ直ぐ見つめ合うことになり、不意打ちの驚きと気まずさに思わずさっと視線を落としてしまう。そのままそそくさとその場から離れた。
この態度は向こうも気分は良くなかったのでは?自分の行動に少し後悔しつつも、次はどの本を借りようかと意識を別へ移していく。先日借りた本は残念ながら、目当ての事柄はあまり詳しく書かれていなかった。"本の気まぐれ”に案内してもらった棚は似た題材の本が並んでいたから、とりあえずはそこから選んでみようか。本の場所が変わっていなければいいのだが。
そんなことを考えていると、急に視界に影が現れた。ハッと顔を上げたと同時に、ブリジットは何かにぶつかる。
「あらぁ? 大丈夫かしらぁ」
すこし間延びした声がブリジットにかけられた。
銀の糸で縁が飾られた夜色のクロークに、揃いの円錐帽。ゆるくまとめられた亜麻色の髪が腰まで伸びている。出立ちはよくある正装のそれであり、しかし見かけたことのない人物だ。
「ご、ごめんなさい!」
「怪我はないかしらぁ、こちらこそごめんなさいねぇ、気がつかなくて」
彼女はにこりと微笑み浮かべた。
「ああ、急に知らない人に会って驚いちゃったわよねぇ。あたしはダミア・オーリィ。国からのお仕事で来たのよぉ、よろしくねぇ」
その言葉にブリジットは緊張を解く。廊下で会うことは初めてだが、時たま先生が同じように正装をした来訪者と言葉を交わしているのを見たことを思い出した。
「ブリジット・ホーキン、です。初めまして、オーリィさん」
「うふふ、ちゃんと挨拶できる子は好きよぉ」
ダミアはしゃらりと腕の時計を眺めて、あらあらと呟いた。
「急いでたんだったわぁ、おしゃべりは終わりねぇ」
「えと、じゃあ、さようなら……」
「はぁい。さようならぁ」
挨拶を交わしてお互いに向かうべき方向へと足を向けたとき、ぴり、ブリジットは何か背中に嫌な感覚が走った。驚いて振り向くとそこにはすでに誰もいなかった。
「あれ……?」
ここは並んだ校舎に架かる、少し長い距離のある渡り廊下の真ん中であるから、すぐそばを曲がって行ったということはないと思うのだけれども。先ほど時計を気にしていたので、思ったよりも急いで行ってしまったのだろうか。転移魔法などは防犯対策で使えないはずであるし。
不思議に感じつつもブリジットは図書館に足を向けた。
傾いた太陽が暖かな色で染めあげる街の中。
今度こそはと借りてきた本が入った鞄を抱え、ブリジットは帰路についていた。
少しひんやりとした風を頬に受け、いつものように少し俯きがちに、遠くから聞こえる貨車の走る音やあちこちで転がる通行人の会話を耳に拾いながら、いつもと同じ見慣れた石畳の道を行く。
そうして着いた場所、『カティラ回路修繕工房』と看板を掲げている建物だ。『受付時間外』と貼られカーテンの閉じている正面の扉を通り過ぎ、裏の扉へ回った。
鍵を開けて少し錆びた金具のきいきいと軋む音と共に中へ入り、受付のほうから光が漏れているのを見てブリジットは「ただいまー」と控えめに声をかけた。その声に対して返事はこない。
まだ開梱していない荷物や修理済みの札が付けられた機器の山を避けつつ受付の方へ向かうと、聴き慣れた声が聞こえてくる。どうやら誰かと通話をしているようだった。大声で言わなくてよかった。とりあえず帰宅したことだけ伝わるように姿を見せよう。通話の邪魔はしないよう静かに半身だけ作業場に覗かせるが、電話の内容を書き控えるのに集中していてこちらは見ない。
「ええ、ではお待ちしております。はい、はい、よろしくお願い致します」
かちゃん、受話器が置かれる軽い音。と同時にブリジットの存在に気付いたようで、「わ」と目を丸くした。
「……た、ただいま」
「ああ、お帰りなさい。通話に気を取られていて気づきませんでした、何か用がありましたか?」
「ううん、大丈夫。ただいまってしようかなって」
「そうでしたか」
受付台には注文書や帳簿が広げられている。仕事が片付いているようには見えない。
「何かお手伝いすること、ある?」
「ありがとうございます、それなら上に行くついでに今日来たものを作業場に運んでくれませんか。私はまだ注文の確認がありまして」
ブリジットはちらと廊下の奥の昇降機前に置かれた、様々な機器が乗った台車を見る。
「あれだけ?」
「ええ、他はもう上に、あとはあれだけです」
「わかった、いつものところに置いておくね」
「ありがとうございます、お願いします」
昇降機に台車ごと乗り込み上階へ行くよう操作する。ゴトンと一度大きく揺れてからゆっくりと上昇して、まもなく止まった。昇降機から特に仕切りもなく続くのは、二階がまるごと使われた結構な広さのある作業場。
「よいしょ、と」
言われた通りに台車を置いて、なんとなしに作業場を眺める。明かりが点いていないので薄暗いものの、もうすっかり見慣れた空間だ。初めてここへ来てからしばらくの間、できるだけ近づかないように長く留まらないようにと避けていたことが懐かしい。今ではすっかり気が置けない、唯一無二の離れ難い場所になった。
簡単な手伝いをするようになって、間近でこっそり作業を見ていることも多くなった。そんなブリジットを鬱陶しがらずに、むしろ歓迎してくれた時は嬉しかった。どういう手順や理屈があるのかはよくわからないが、作業の姿は真剣で、手つきは丁寧で、複雑そうな機器に対しても面倒でやりがいがある、と軽やかで。不安そうな顔で依頼してきた客が機器を迎えにきて、すっかり直った様子に喜んでいる姿。「あれを見るのはこの仕事をやっていて一番楽しいところですよ」と話していたのはいつだったか。
いつしかその姿は憧れになっていた。
だから。
「わたしも……」
小さな決意と一緒に鞄を抱きしめる。
と、その時、壁掛け時計がカーンカーンと鐘を鳴らした。その音にブリジットはハッと顔を上げて、再び昇降機に乗り、さらに上の階へと登っていく。三階は居住階となっており、台所や個々の部屋、浴室に書庫等々がある。ブリジットはすこし急ぎ足で自室に向かい、鞄を置いて制服を着替えると台所へと向かった。
手洗いをさっさと行い、焜炉に置かれた鍋の中を覗けば作り置きのスープがゆらりと波立ち、すこし不思議な香りがする。
「何のスープだろう」
温め直すために焜炉の鍵を捻りぽっぽっと起動した合図が光るのを見てから、今度は戸棚に手を掛けた。取り出したパンが少し乾いてしまっていることに気づき、うーんと悩んだ後とりあえず一口大に切り分ける。
「えーと、これとあれと、あ、あれも」
作り慣れた基本をもとにありものでソースを作りパンとこれまたあり物の具材をたっぷり絡めて底の深い皿に敷き詰め、パン粉とチーズを振りかけて焜炉の下の天火で焼き始める。その間に香茶の準備のために手鍋を取り出して湯を沸かしていると「おや、いい匂いだ」と声がかかった。
「……すぐに手伝いますね」
言葉通りに、遠ざかった足音はすぐに戻ったきた。着替えてきた部屋着の袖をまくり、台所で支度されているものをひと回り眺め、流しに置かれていた使った器具を洗い始める。
「今日、お客さんからいただいた野菜を使ったんです。西の方のお知り合いから戴いたもののお裾分けだそうで、ちょっと楽しみにしていたんですよ」
あの不思議な香りはその野菜のものだったのか、ブリジットは一人納得した。
「これ、初めて食べるかもしれない」
「言われてみれば、あなたと暮らし始めてからは食べたことありませんでしたね。ふふ、きっと気に入りますよ」
暮らし始めて。そう言われるともう三年も月日が経っていることに思い耽る。
ここ『カティラ回路修繕工房』に連れられて、今すぐそばで洗い物をしている人、リギ・ウシュカに引き取られて、三年。あの夫婦は、どうしているだろうか。しばらく連絡を取っていないが、元気でいれば幸いなのだけれど。
「ああ、そうだ。今日はブリジット宛に手紙が来ていましたよ、部屋の扉のところに入れておきましたから、ご飯の後にでも確認してください」
きっと偶然なのだろうが、棚から食器を出す手が思わず止まる。実に半年以上ぶりの便りに少しだけ緊張し始めた。何の手紙なのだろう。もしも何か悪い知らせなら、どうしよう。
そんなブリジットの不安の気配を感じてか、「大丈夫ですよ」とリギが言う。
「あなたに来たと言うことはそんなに身構えるものではきっとないですよ。悪い知らせなら私宛に来ているはずですから」
穏やかに諭すリギの言葉に、少し緊張が解かれる。
「ほら、もう出来上がることですし、とりあえずは夕飯を食べましょうか」
洗い終わった器具を水切り棚に並べ終わったリギは、布巾を手に天火に向かう。うんうんと頷きながら、取り出されたものは綺麗なきつね色に覆われて香ばしい匂いの湯気を立てていた。
取り分けるための大きな匙でサクサクと表面が割られる音に、はっとブリジットは止めていた手を皿に伸ばして、リギが匙で掬った料理を皿で受け止めた。
スープも出して、香茶を用意して、食器を並べて、食卓に向かい合うように着く。
「では、いただきます」
「いただきます」
ブリジットはスープの野菜を口に入れる。少し慣れない香りではあるが、葉物のような見た目の割にほくほくしていてほんのりと甘さがあり、少し濃く味付けされたスープとぴったりだった。
「おいしい!」
「それは良かった。パンもいつもながらとても美味しいですよ」
明日の試験とのこだとか天気のことだとか、他愛もない話をしながら夕飯を終えた。二人で皿洗いをして、それぞれ部屋に向かった。
ブリジットは扉の入れ物から件の手紙を取ると、緊張した面持ちで部屋に入った。封筒を開いて、淡い緑色の便箋に目を通していく。そこにはあの夫婦からの言葉が少し硬い文章で綴られている。
内容は進路についての話だった。なんでも知人の専門家が講師をやっている学校があるので、ブリジットがよければそこへ行かないかとの事らしい。ブリジットが抱えている特異な体質について話したところ詳しい調査や観察をしたいと希望され、半ば研究対象のような面もあるものの、生徒としての生活も保証する、推薦状も喜んで書くとのことだ。二人としては今後何か問題に直面した際に専門的な対応が迅速に行える見込みや、何よりブリジット自身が専門的な知識を得ることに越したことはないことも踏まえ、抱えている問題と向き合いやすい環境に行くことに賛成している、と綴られている。
手紙に書かれた推薦先の名前を見て驚いた。あまり学校のことに詳しくないブリジットでも、何度も耳にしたことがある程の有名な学校だ。
手紙を机に置いて、鞄の中から一冊の本を出す、今日学校の図書館で借りてきた本。表紙には「魔導機器回路理論」と書かれている。卒業後は工房で働きながら知識も技術も学べていけたらと、この工房の後継ぎになれたらと、リギに話をする気でいた。こんな提案をされるとはとんと考えていなかった。
いや、嘘だ。少し察してはいた。
ここに来てからは大事になったことはないけれど、そういった事態になるとリギはひどく心配していたし、毎回「何もできなくて」と申し訳なさそうにしていた。そして、いつもあの夫婦宛に連絡していたのも知っている。手紙には夫婦だけで決めたような話ぶりだが、きっとリギも関係していて、賛同していることだろう。
ブリジットは本を抱きしめ、それから部屋の角に眼を向ける。すこし憧れて、真似をするために手にした回路の修繕工具と、今や練習のために集めた壊れた機器や部品で埋め尽くされた元本棚。隣の机の置き時計は、初めて回路を直し今まで動き続けている思い出深いもの。リギに見せたら褒めてくれた。仕事を手伝いたいと言った時も、否定なんてしなかった。きっと好意的に受け止めてくれていた。
けれど、けれどこの提案に賛同したとしたら、ブリジットに対してどんな心を隠しているのだろうか。
思わずも唸り声を上げてしまう。
その時、部屋の外から声がかかった。
「ブリジット、先にお風呂入りますか?」
「あ、はい! いきます!」
いつものやりとりであるはずなのに、ひどく心臓がせわしなく動いている。本を鞄に戻して着替えなどなど抱えて慌ただしく浴室に駆け込んだ。
全身を丸ごと洗い流してきても気分はまるですっきりとしない。洗髪料の香りがふわふわと鼻をくすぐる中、再び手紙を片手にベッドへ体を放り投げた。
「どうしよう……」
悩みを抱いたまま目を瞑れば、これ以上は考えたくないと言うように、意識はすとんと眠りへ落ちていった。
暗い。暗い。暗い。
お腹が空いた。
寒い。寒い。寒い。
足も疲れてる。
怖い。怖い。怖い。
進まなければ。
痛い。痛い。痛い。
はやくはやく。
逃げなくちゃ。
酷い動悸と乱れた呼吸に目を白黒させながら飛び起きた。
「はっ、はっ、はぁ、はぁ……」
久しぶりに見てしまった悪夢。飛び跳ねる心臓を押さえながら眺めた窓の外はいつの間にか明るく、しかし時計を見れば普段起き上がる時間よりも随分と早いことを知る。落ち着かないままにとりあえずベッドから抜け出し制服に着替えた。手紙は大事に机の引き出しに仕舞い、鞄を手にそっと音を立てないよう台所へ向かう。
普段ならば二人で朝食をとってから各々の生活へ分かれるところだが、今はどうにも”普段”をする余裕が無い。コップ一杯の水を飲み干して、戸棚にあった瓶の飴を一粒口に放り込む。心配されないように書き置きを机に残し、昇降機は通り過ぎて、極力静かにあまり使われていない埃っぽい階段を足早に降りていった。
家を出ると朝の冷たい空気が頬を撫でる。時間が少し違うだけでがらりと様子の違う景色を眺めているとなんとも不思議な心地がした。いつも同じような時間と場所ですれ違う見慣れた人も今日はいない、通る頃にちょうど開店準備を始める見慣れた雑貨屋もまだ朝の静寂の中でひっそりとしている。口の中で転がした飴がカラコロとたてる音がやけに大きく感じた。
悪夢の動悸がおさまってきて、次にぐるぐると頭の中を巡るのはあの手紙のこと。
「……」
わかっている、悩んだところで頭の片隅ではわかっている。少し怖いだけだ。
そう悩んでいるうちに学園の門へ着くが、正面はまだ開いていない。始業時間にはまだまだ早いからだ。けれど門の横の小さな格子扉は鍵が外されているので、教員か用務員が 来てはいるようだ。そっと扉を開いて入っていく。説明すれば教室か図書館あたりで本でも読んでいられるだろうか。とにかく今は悩み事から目を背けたい。
校舎へと向かっていると、視界の端で何かが光った。
不思議に思って視線を向けると、"本の気まぐれ"がふらふらと飛んでいた。彼らが図書館以外にいる姿を見たことがない。驚いてそちらへ向かうと、"本の気まぐれ”もこちらに気付いたのか、力無さげにしていたのはどこへやら、凄まじい速さでブリジットの元へ飛んできた。
"本の気まぐれ"はリィンリィンと鋭い音をたてながら、ブリジットをなぜか聖堂の方へと急かす。何やら緊急事態なのかもしれないが、普段から聖堂がどのようなものかを説く教師の顔を思い出し、勝手に近づくことに少し抵抗を覚えた。それに聖堂は魔法や魔具で厳重に守られていて侵入などできない場所のはずだ、行ったところで何があるというのだろうか。
そんな疑問を抱きつつも、切羽詰まった様子の妖精のことを無碍にはできず、聖堂へと一緒に向かうことにした。
「え?」
聖堂に着いた途端、ブリジットはひどく驚いた。
聖堂を囲う背の高い柵、その入口に在る荘厳な門。その門の鍵が外されている。しかしそれだけではない。それらは物理的な守りでもあるが、それら自体が巨大で特殊な防衛魔道具でもある。対となる魔道具の鍵を門に使い開かなければ、中には入れない仕組みだ。しかしブリジットが聖堂を間近にした時、はっきりと感じ取った。
無い。
柵や門にかけられている魔法がすっかり無くなっている。たとえ鍵で開けたとしても、防衛魔法自体が無くなるものではないのに。
リィン。
ようやくわかったか。そう言いたげな音と共に"本の気まぐれ"はクルクルと回ってみせる。ブリジットが門をくぐり、駆け寄った建物の重厚な扉も鍵は外れていて、少し手で押してみると普通に開いてしまった。
誰かが侵入している。
この先は危険だ。
脳が警鐘を鳴らす。
「誰か、呼んでこないと」
そう呟いたブリジットの危機感とは裏腹に、少し開いた扉の隙間から"本の気まぐれ"がするりと入り込んでいってしまう。
「ま、待って! 危ないよ!」
必死に引き止めるも"本の気まぐれ"はリィンと一度だけ音を鳴らし、聖堂の奥へと向かって行ってしまう。
「まっ……! ああ、もう……!」
ブリジットは扉を力一杯に押し開き、その小さな姿を追いかけるべく薄暗い通路を駆け抜ける。
進むたびに足音が響く、天窓から注ぐ細い光たちでは温めきれない空気が肺を冷やす。通路を抜け階段を登った先、視界が開けその眩しさに一瞬目が眩まされるそこは、精霊の広間だ。所狭しと広がる草木、壁を伝い天井まで伸び垂れ下がる蔦、清らかな水が穏やかに流れて川を成している。森を切り抜いてきたような、室内であることを忘れてしまうような空間。
そこにいつも鎮座している精霊は、青々とした草原を全身にまとい、立派で無骨な樹木のツノが二本、地につけている逞しい手足の先には岩のような爪をもつ。それが精霊と知らなければ、小高い丘があるだけと間違ってしまうだろう。
そんな見覚えのあるその姿は、見覚えのない鎖に縛り付けられていた。低く地鳴りのような音が精霊の苦しむ声だと気づくのに時間は要らなかった。緑に包まれていた体には幾本もの楔が突き立てられており、それがただの楔でないことが流れ出ている黒い液体が物語っている。
ブリジットと精霊との間に立つ一つの人影。その侵入者には見覚えがある、昨日廊下でぶつかった政府から派遣された役人と言っていた人物。
「あらあらあらあら」
ゆるりと振り返ったその顔には、柔和さなどかけらもない不気味な笑みが貼り付けられていた。
「おかしいなぁ? どうしてここに来れてるんだろう? おかしいよなぁ?」
昨日のおっとりとした口調とは打って変わったその言葉は、疑問と苛つきと溢れ出る殺気が滲み出ている。
「な、にを、して」
不意に"本の気まぐれ"が鋭く風を切り侵入者へと飛び掛かった。小さな妖精といえど敵意を持てば人間にとって脅威になりえる。か弱そうな小さな体の腹が膨らみ弾け、内側から帯のようなものが幾つも飛び出した。
侵入者が身を翻しそれを避けると、それらは勢いのまま広間の床に達すると、ガガガと音をたてて床の表面を抉り取る。人間がまともに受ければ、腹から背まで軽く貫通してしまうほどの威力だろう。
「蟲が生意気な……」
侵入者が杖を振ると、"本の気まぐれ"の体が床に叩きつけられ、続いて壁に叩きつけられる。腹から出ていた帯たちがひらりと力なくなびき、ポトリと床に落ちる。もう動かない妖精にもう一度杖が向けられる。
「やめて!」
ブリジットは"本の気まぐれ"を庇って間に駆け込む。
「お前さぁ、なぁんでここに居る?」
『本の虫』からブリジットに標的が変わったらしい。ぶわりと背筋に嫌な汗が滲む。ビリビリと感じる敵意に、ふと昨日廊下で会った時を思い出す。あの時の嫌な感覚はこれだったのだ。
「よ、妖精が、呼んでいたから……わたしはなにか大変なことが起きたと思って、そうしたら、こんな……」
「違う」
ぴしゃりと言葉を切られる。
「誰も来れないようにしてたんだよ、魔法じゃない、これでさ」
侵入者の顔にザワザワと黒い模様が浮かび上がる。ブリジットが驚いた顔をすると、腑に落ちないと言わんばかりに侵入者は目を細めた。
「これを知ってるわけでもなさそう、と。ますますおかしい。そもそも知ってても解くことなんてできないはずなんだ。それなのになんで、お前……、……まあいいか」
ジリ、と侵入者が床を踏みにじる音がひどく大きく聞こえた。
「問題は潰せばいい」
瞬間、ブリジットは胸に強い衝撃が走った。黒く鋭い杭が目にも止まらぬ早さで杖から射出され、ブリジットの胸を貫いたのだ。
「っ……、……!」
ブリジットは呆然と杭を掴む。息が止まり声も出せぬまま顔から床に倒れ伏した。びくびくと全身を震わせながら何度か口を開閉して、まもなく静かに動かなくなった。
「あーあっ、余計な手間かけさせやがって。はぁ、とっとと終わらせるか」
侵入者は精霊に向き直る。
『……愚か、者が……』
地を這うような精霊の声に、侵入者はくつくつと笑う。
「ほんと不愉快だよな、お前らって。いつも偉そうにしやがって、なぁ!」
侵入者は精霊に突き刺さった楔の一つを踏みつけた。黒い液体が漏れ出し、精霊が苦しそうに呻いた。
「っはは、さあ、ご同行願いますよぉ」
巻きついていた鎖が精霊全体を包み込み、金属が擦れ軋む音を奏で、精霊に食い込み身を潰しながら、縮んでいく。精霊が苦痛な叫び声が響き、途絶える頃には掌に収まるほど縮んだそれを、侵入者は満足そうに眺め、腰に吊り下げていた入れ物に押し込んだ。
「なにしてるの」
ぞわり。侵入者はまるで心臓を何かに這われたような不快感となんとも言い難い焦燥感に驚いて、声の方へ振り返る。
立っていたのは、またもや学生服を着た少女だった。肩で息をしながら杖すら構えていない姿。先程同様、いやそれよりも容易く始末できるほどに無防備だ。
そうであるのに、侵入者は身動きが取れないでいた。
肺で呼吸をするだけで、心臓を鼓動をさせるだけで、今にも全身を貫かれそうな。例えるならば見えない針の筵に突如閉じ込められたような、ひどい緊張感に襲われる。
意味がわからない。こんな子供一人に、恐れを抱く理由がないはずなのに。
「な、にもんだ、おまえ……」
どうにか絞り出した声は弱々しく震え、自分の声とは信じられない。
少女は足元に倒れたブリジットの姿に、はっと息を呑んで駆け寄った。胸から背中まで貫かれたその体は、ぐったりと動かない。
「これ、あなたが」
ぞわり。今一度あの感覚が襲いかかってくる。
恐怖。
恐怖。
恐怖。
頭の天辺から足の指の先まで、凍りつくような恐怖に染まる。
「なっんなんだよぉ! お前ぇ!」
恐怖を振り切るように、侵入者は杖を振るう。黒いモヤが鞭のようにしなり、少女の体を弾き飛ばした。短い悲鳴と共にあっけなく少女は壁に叩きつけられる。
侵入者は荒い呼吸を繰り返しながら、少女へ向かう。震える腕を押さえつけながら、湧き上がる恐怖を振り解いて、ぐったりとした少女へ杖を向けた。
「死、ねよぉ!」
先ほど同じ、杖から黒い杭を発する。
はずだった。
「ぎぃっ!」
侵入者の体が、巨大な質量に吹き飛ばされる。それは広間に立っていた巨大な石製の柱だった。侵入者を薙ぎ払った柱の向こうには、先ほどまで倒れていたはずのブリジットが立ち上がり、苦しそうに咳き込みながらも杖を構えていた。
衝撃のままに侵入者は壁に叩きつけられる。身体中に感じる嫌な軋みと、どうしてこんなことになっているのかという混乱にかき混ぜられながら、意識を手放した。
柱が床に倒れ崩れてもうもうと砂煙が広がる中、ブリジットはよろよろとおぼつかない足取りで小さく痙攣しながら気絶している侵入者の様子を慎重に伺う。少し回復したのか"本の気まぐれ"も不安定だが懸命に羽ばたき、ブリジットの肩にふらふらと止まった。それからしゅるりしゅるりと腹から帯を伸ばして、侵入者の杖をへし折りながら身動きの取れないよう全身をすっかり巻いてしまう。
腰のあたりの入れ物を別の帯の端で指し示すと、ブリジットは恐る恐る手を伸ばす。出てきた鎖の塊のようなものに困惑していると、"本の気まぐれ"はリンリンと音を鳴らす。
「ここ? あ、ここかな」
ブリジットはその塊の唯一綻んだ部分に指をかけ少しづつ解いていく。だんだんとその塊は質量を増やしていき、とうとう抱えきれないほどになったので、ブリジットは広間の中心に移動しようと踏み出した。
「う、ぅ……」
小さな呻き声に目を向けると、そこにはクラスメイトのエイミーの姿があった。
「マクレイアさん!」
思わぬ存在に驚き、そしてただことではない様子に慌てて駆け寄った。身体中砂だらけで気絶していて、こめかみの辺りからは血が流れている。
「なんでここに、え、怪我してる、どうしよう……!」
戸惑うブリジットを見かねてか、"本の気まぐれ"はさきほど侵入者を拘束したものと同じような帯をまた一本腹から伸ばし、ブリジットの抱えていた鎖の塊に巻きつけ、リンと鳴いて広間の真ん中辺りまで飛んでいく。そちらを優先しろということだろうか。
ブリジットは持っていたハンカチを急いで取り出し、エイミーの髪を避けて傷口に押し当てる。
他にも怪我はしていないかと確認していると、エイミーが呻きながら目を開いた。
「うう……、いっ、たぁ……」
頭の怪我に伸ばされた手が、ハンカチを抑えていた手と重なる。ハッとエイミーがブリジットを見上げ、目を丸くして驚いた。
「あ……なた、さっき、死ん……え……?」
目を白黒させながら起きあがろうとするエイミーをブリジットは慌てて止める。
「あ、あまり動かないで、怪我してるし、さっきまで気を失ってた、から!」
傷を押さえることとエイミー自体を押さえることが混ざった結果、ブリジットは思い切りエイミーの頭を床に押し付けることとなった。怪我に加えて頭を床と挟まれる痛みにエイミーは堪らず叫ぶ。
「いたいいたいいたいッ! なっ……にすんのよ!」
「わぁっ!」
鋭い手刀が首に叩き込まれ、ブリジットは驚いて手を離す。エイミーは無理に動いたせいで痛む体に悶絶し、床に転がりながらブリジットを睨みつけて問う。
「あなたは……ッ、無事なのね?」
「はい、大丈夫です……」
「あの怪しい奴はどこかに行ったの?」
「あー……の人は、向こうで気絶してるので大丈夫です」
エイミーはなんで?と思わず起き上がりそうになるも、動きを止める。また押さえ込まれたくはない。
「マクレイアさんは、どうしてここに?」
「校舎に向かってる途中であなたを見たの。まだ早いのに何してるのか不思議だったから追いかけていって、そうしたら聖堂には入れないはずなのに門も扉も開いていたから、てっきりあなたがここで何かしでかしてるのかと……、何をしてるのかだけ確認しておこうかと思って入ったら、精霊は居ないわ不審者はいるわあなたは倒れているわ……、こっちも聞くけどあなたはなんでここに来たの」
「わたしは妖精に呼ばれて……」
説明しながら"本の気まぐれ"の方へ視線を向けた。と同時に破裂音が響き渡った。肩を跳ねさせて驚く二人の前に突如として現れた巨大な質量は、ズシンと床に降り立ちその身を震わせた。
地響きのような唸り声をあげる"這う爪"の目元で、"本の気まぐれ"がひらひらと飛んでいる。
『ああ、えらい目にあった……、ふぅむ……』
"這う爪"はじろりと辺りを見回し、ブリジットとエイミーに視線を向ける。
『礼を言おう。まったく、不甲斐ない姿を見せてしまったようだ』
それから少し離れたところに転がる侵入者にも気付いたようで、怒りからか身に纏った草原を波立たせた。足を踏み鳴らし、樹木のツノをメキメキと音を立てながら伸ばしていく。
「待って!」
エイミーが鋭く叫んだ。
「怒りは、わかります。でも、どうか今は納めてください。あれは私たち人間に引き渡してほしいのです」
痛む体に鞭打ってエイミーは起き上がった。その姿を精霊が睨みつけている。空気が張り詰め、ブリジットは思わず喉を鳴らした。
「あれは呪いを持っているのです」
その言葉に精霊は『なるほど』と呟き頭を一度振るう。草原を穏やかに寝かせ、ツノも短く元に戻し、怒気を収めてその場に寛ぎ始めた。
『ならば腑の煮えも抑えて渡そう。我がここですり潰すよりもずっと有意義だ』
「感謝します」
精霊が引き下がってくれたことにエイミーは胸を撫で下ろす。
その時、廊下の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。学園にすでに来ていたのであろう教員が三名、息を荒げながら広間に駆け込んできた。
傷ついた精霊と妖精、それから生徒二人と、床に転がされている見慣れぬ人物が一人。
「いったい何があったというのです」
惨状に唖然とた教員たちは、そう言うしかできなかった。
続




