第一章7 「アッシェル・フェルステッド」
「では次は、君のことについて教えてくれないか?」
馬車の車輪が小石を踏む軽い音の中で、ダリオン団長が問いかけた。大柄な体を少し前に乗り出し、レンの顔をじっと見つめている。
レンは一瞬言葉に詰まり、それから少し目を伏せて答えた。
「……遠くの町から来ました。目が覚めたら、森の中で……それまでのことは、よく覚えていません」
「ふむ……?」
ダリオン団長の金の瞳がわずかに細められる。怪しまれているのは、分かっていた。だが、神や別の世界の話をしても、きっと信用されない。だからレンは、自分でも胡散臭いと思う説明を選んだ。
それでも。
(団長さんには、嘘をつきたくないんだ)
レンの胸の奥にあったのは、そんなささやかな誠意だった。
「町の名前は?」
レンは少し躊躇いながらも、ぽつりと口にした。
「……と、東京です」
「トウキョウ? 聞いたことがないな」
ダリオン団長は腕を組み、しばらく考え込んだ。そして、ふと独り言のように呟いた。
「……これは、妖精のいたずらというやつか?」
「妖精の……いたずら?」
「そう。吟遊詩人の歌に、そんなものがあった。妖精が旅人を森の奥へ誘い込む。誘われた者は、二度と元の世界へは戻れない。記憶を奪われ、どこから来たかも分からなくなる。そんな物語だった。……救いのない話だ」
その言葉に、レンの胸が冷たくなった。
記憶を消す妖精。――もし、本当にそんな存在に出会ってしまったら。
(日本で過ごした日々も……全部、消えてしまうんだろうか)
恐ろしさが、背筋を走る。
「まあ、吟遊詩人の歌なんて、本当かどうか分からないさ。あまり気にすることはない」
ダリオン団長はそう言って、明るい声で話題を変えた。
「そんなことより、君はすごいな! 状況は大体察しているよ。馬車が襲われていたのを見て、助けるために山賊に立ち向かったんだろう?」
「え……あ、はい」
「勇気がある子だ。君は、王国騎士団に興味はないか?」
その言葉に、レンは面食らった。口がうまく動かない。
「団長! なにをおっしゃっているのですか!」
御者台からアッシェルの鋭い声が飛んだ。
「そんな身元もわからない小僧を、栄えある王国騎士団に誘うとは何事ですか!」
「落ち着け、アッシェル。まずは王都の学園に入って、三年間教養を――」
「団長が、そんな面倒をかけてやる必要ありません!」
アッシェルの金髪が揺れる。彼の声には明らかな怒気がこもっていた。
「第一、平民が学園に入るには、厳しい試験を突破しなければなりません。そんな軟弱者では突破は無理です! 付き合うだけ、時間の無駄です!」
「そこまで言うことないだろ」
思わず、レンの口から声が漏れた。
その瞬間、アッシェルの目が鋭く光った。ぎろりとレンを睨みつける。その視線は、剣より冷たく鋭い。
「……なんだと?」
アッシェルの声が低く唸った。
「貴様、団長に褒められて調子に乗っているのではないか? 時間稼ぎなどゴブリンでもできるぞ。誇れるような行為ではない!」
怒りと羞恥でレンの顔が熱くなる。
「団長は、貴様のような木っ端に構うような方ではない! このお方は、功績だけで平民から男爵を授かった、実力者だ。ドラゴンを、ソロで討伐なされた英雄なんだぞ!」
「……っ!」
「貴様のような木っ端が関わっていい相手ではない。地面に転がって泣きわめいているのがお似合いだ、泣き虫が」
「……なんで、初対面のやつに、そこまで言われなきゃいけないんだよ!」
レンは立ち上がり、御者台のアッシェルへ向かって歩き出す。その時――
「そこまでだ」
ダリオンの静かな一声が、場を制した。
「元気なのはいいことだが……アッシェル、そろそろ川が見えるころだ。川に着いたら、しばらく休憩をとろう」
レンは、言い場を失ったまま、外の景色に目を向けた。気を落ち着かせるように。
* * * * *
やがて馬車は緩やかな坂を下り、澄んだ水の流れる川辺へとたどり着いた。
風に乗って水のせせらぎが心地よく耳をくすぐる。木々の間から差し込む陽光が、水面にきらきらと反射していた。
ミーリャは手綱を引いて馬を川辺へ誘導し、そっと水を飲ませている。馬は喉の渇きを癒すように静かに水をすすっていた。
そのとき、アッシェルが胸を張ってダリオン団長に声をかけた。
「団長、お任せください。このアッシェルが、食料の調達に向かいます」
言い終えると、レンのほうへ鋭い視線を向ける。
「……おい、お前は薪でも拾ってこい」
命じるような声音に、レンはわずかに顔をしかめた。
しかし反論はせず、短く息をついてから川辺のまわりに目を向ける。そして、静かに枝を拾い集めに歩き出した。
その隣に、ふいにダリオン団長が来た。黙って枝を拾いながら、ぽつりと言った。
「すまないね、うちのアッシェルが……」
ダリオン団長が申し訳なさそうに言葉をかけてくる。
レンはまだ心の奥に苛立ちを抱えていたが、何も言わずに黙っていた。
団長は微笑を浮かべ、続ける。
「それにしても、やっぱり君はなかなかの度胸の持ち主だね。貴族の子息を前にして、あそこまではっきりと言えるとは」
「……え?」
「気づいていなかったのか。フェルステッド家は、代々魔術師を輩出してきた子爵家だ」
レンは思わず目を見張り、アッシェルの方を振り返った。
彼は川辺に立ち、指先をすっと伸ばしている。
次の瞬間、川面に氷の棘が走った。水面を切り裂くように鋭く伸びたそれは、泳いでいた魚たちを正確に捉え、次々と串刺しにしていく。
その魔術の鮮やかさと、容赦のない精度に、レンはただ圧倒された。
「アッシェルは、その中でも特に抜きん出た魔術の才を持っていてな。だが、それゆえに周囲からは妬まれ、時には恐れられることもあった。そんな彼が、俺のもとを訪ねてきたんだ――『あなたのように、皆から頼られる存在になりたい』ってな」
ダリオン団長は懐かしむように目を細め、やわらかな笑みを浮かべた。
「あいつは不器用で、ついきつい言い方をしてしまうこともあるが、決して根がひねくれているわけではない。心の奥底では真っ直ぐで、優しさを持っているやつなんだ。だから、もしできることなら――君が友人になってくれたらと思っている」
「……優しい、ですか?」
レンは思わず声をあげて聞き返した。その顔には、信じられないという表情がはっきりと浮かんでいた。
それを見たダリオン団長は、くすりと苦笑を漏らす。
「きっと君も、あいつと付き合っていれば気づくだろうよ」
団長は落ち着いた声でそう告げた。
ちょうどそのとき、アッシェルが川辺から戻ってきた。
「団長! 食料を確保しました。昼食にいたしましょう!」
声も晴れやかにそう告げると、手にした魚を掲げ、ちらりとレンの方を見やって言う。
「……おい。少し取りすぎたみたいだからな。お前らにもくれてやる。感謝して、ありがたく食べるんだな」
その言い方は相変わらずぶっきらぼうだったが、どこか照れ隠しのようにも聞こえる。
ダリオン団長と目が合うと、思わず笑みがこぼれた。
* * * * *
その後も馬車の旅は続いた。
やがて、遠くに町の姿が見えてきた。
「このあたりで一番大きな町だ。市場は活気にあふれていて、さまざまな地域の品物が並び、とても興味深いぞ」
レンの胸は期待で高鳴った。
ダリオンは、誰にともなく静かに呟いた。
「……あのお方とも仲良くなってくれたら嬉しいが。あのお方も、一筋縄ではいかない性格だからな……」