第一章3 「森に響く声」
森の静寂を切り裂くように、微かに誰かの叫び声が聞こえた。
僕は、心臓の鼓動を抑えるように息を殺しながら、音のする方へ慎重に足を進めた。葉の擦れる音ひとつが命取りになるかもしれない。そんな妙な確信だけが、頭の奥で警鐘を鳴らしていた。
やがて、木々の隙間から開けた場所が見える。土煙が立ち上り、視界の奥に人影が揺れていた。
「……馬車?」
木の陰に身を隠し、そっと覗く。そこは、森に挟まれた一本の獣道だった。その真ん中に、馬車が止まっている。
馬が倒れていた。道の端には、剣を手にしたまま倒れた男。
どちらもまったく動かない。
馬車の周囲には、五人の男たちが立っていた。
みな、薄汚れた皮の鎧を着ている。ごつくて、どこか乱暴な雰囲気を漂わせていた。
(……山賊、か?)
そう思ったとたん、胸がひやりと冷たくなる。
そのとき、馬車の中から中年の男性が引きずり出された。
丁寧な刺繍の入った上着に、手入れされた髪と髭。きっと裕福な人なのだろう。けれど、今の彼はその格好に似つかわしくなく、地面に這いつくばって、山賊に向かって何かを懇願していた。
しかし、返ってきたのは無言の一撃。
男の身体が崩れるように倒れる。
動かなくなった男から、山賊たちは装飾品を外し、服を引きはがしていった。
それを自分たちの腕や首に巻いて、まるでおもちゃを手に入れた子どものように笑っている。
「……これが現実?」
まるで演劇の舞台のように、どこか現実味がない。夢の続きなのか、それとも……。
しかし、次の瞬間、僕の思考は一気に現実へと引き戻された。
次に馬車から引きずり出されたのは――少女だった。
僕と同じくらいの年頃。
淡い色の服を着ていて、乱れた髪の隙間から、大きな瞳が涙で濡れていた。
少女は、倒れた男性の姿を見るなり、息を呑み、目を見開いた。
そして、震える足を引きずるようにして後ずさり始めた。
「……やだ……やだ……!」
その小さな声は、風に溶けて消えそうだった。
それでも、少女の恐怖ははっきりと見えた。
彼女は――生きたいと、願っていた。
その願いは、当たり前のようで、あまりに切実だった。
しかし、逃げるように後退する彼女の腹を、山賊の男が無造作に殴りつけた。
「うるせぇって言ってんだろ」
鈍い音が響き、少女の身体がくずおれる。
その瞬間、僕の中で何かが弾けた。
考えるより先に、足が動いていた。
「やめろッ!!」
その声が自分のものだと気づいたときには、もう体が動いていた。
山賊たちが振り返る。
少女も、伏せた体勢のまま僕を見た。
僕は息を荒げながら、山賊たちの前に立ち尽くす。
その瞬間、世界が静止したかのように感じた。
(やばい、やばい、なにやってんだ、僕……!)
今さらのように、僕は自分の行動を後悔した。ここは夢じゃない。
誰も助けてくれない。死ぬかもしれない。
急に足が震えだした。
「誰だ、てめぇ……、どこから湧いた?」
山賊の一人が言った。
僕は必死に心の中で叫ぶ。
(お願いだ、僕にも……何か、あるだろ……!
異世界転移ってやつなら……僕にも、チートとか、力とか……)
「僕に、力を……何でもいい、今だけでいいから……!」
縋るように心の中で叫ぶ。
その一瞬に、僕は少女を殴った山賊に向かって飛びかかっていた。
拳を振り上げ、力いっぱい振り下ろす。
次の瞬間――
目の前には、不思議そうに眉をひそめる山賊がいた。
僕の拳は、相手の頬にかすっただけだったらしい。
「……なんだ、こいつ」
山賊はぼそりと呟いた。
他の山賊たちは、馬車の荷を漁るのに夢中で、こちらを見ようともしない。
僕は――どうすればいいのか、わからなかった。
(なんで……なんで、こんな……!)
頭が真っ白になる。
そして、次の瞬間――山賊の手が、僕の髪を掴んだ。
「ガキが、調子に乗りやがって……」
振り上げられた拳。鈍い痛みが顔に走り、地面に投げ出される。
「っぐ……」
痛みに顔をしかめる。でもその瞬間、妙な既視感が脳裏をかすめた。
(あれ……この光景……)
あの日の出来事と、あまりにも似ていた。
「はは……」
僕の中で何かがこみ上げる。
「……なんだ、こいつ」
気味悪そうに眉をひそめた山賊が、僕の腹を蹴る。
こみ上げるのは、怒りでもなく、恐怖でもなく――
(……なにやってんだ、僕は……)
気づいたら、笑っていた。
「あは、は……ははっ、あっははは……!」
腹を抱えて笑いながら、僕は地面に転がる。
何もできない自分。こんな状況なのに、無様に笑っている自分。
滑稽で、情けなくて――でも、それがどうしようもなく、可笑しかった。
山賊は目を見開き、僕を見下ろす。
「……なんだ、こいつ。気持ち悪い……」
顔をしかめて、後ずさった。
その目には、恐怖と、理解できないものを見たような動揺があった。