第一章2 「夢の中の、平穏な朝」
靴のかかとを鳴らしながら、僕は玄関の扉を開けた。
冷えた朝の空気が頬を撫でる。まだ日差しは優しく、風は静かだった。
そして、目の前に立っていたのは、見慣れた顔の女の子だった。
「おはよう」
ぱっと笑って、あいちゃん――そう呼んでいた彼女が僕に挨拶をする。
思わず僕も口元を緩めかけて、でもそれより先に──
「おっ、ラブコメの朝チュンってやつ〜?」
背後から、寝間着姿の姉がニヤついた顔で現れた。肩にはタオル、口には歯ブラシ。
寝起きのくせに、口はよく動く。
「……違うし」
しかめっ面で姉を見ると、あいちゃんの方を向いた姉が、何食わぬ顔で手を振る。
「おはよ、あいちゃん」
「おはようございますっ」
少し恥ずかしそうに返事をするあいちゃん。
なんとなくいたたまれなくなった僕は、顔を逸らして彼女の手を引いた。
「いこ」
「うん」
後ろから聞こえる、「お熱いね〜!」の声は、聞こえなかったことにした。
***
「仲いいね、ほんと」
学校へ向かう途中、あいちゃんがぽつりと言った。
僕は肩をすくめて首を横に振る。
「仲良くないよ、あれは。ただの、口うるさいだけ」
「ふふっ。いいな〜、私もお姉ちゃん欲しかったな〜」
「ほんとに? 絶対うるさいだけだって。今朝なんかさ、兄貴と卵焼きに何かけるかでケンカしてたし……」
僕は肩を落としてため息をついた。あれは本当にくだらなかった。
だいたい、醤油派とソース派で朝から大声ってどうなんだ。
そんな僕を見て、あいちゃんは口元に手を当てて笑った。
あの、困ったような、それでも柔らかい微笑み。
「……なんで笑うのさ」
少し不満気に顔を向けたときだった。
彼女の制服の袖がふと動いて、腕の肌が一瞬だけ露わになった。
そこに、青紫色の痣があった。
「……っ」
眉をひそめて、僕は視線を止める。
あいちゃんは、その視線に気づくと、咄嗟に腕を背中に隠した。
「また……何か親にされたの?」
問いかけに、彼女は何も言わず、目線を落としたまま首を振った。
「嘘だ」
込み上げる怒りを押さえきれず、僕は彼女の家へ向かって歩き出す。
「やめてよ、学校遅れるよ」と後ろから声がしたけれど、僕の足は止まらなかった。
──今度こそ、止めないと。
***
あの時、僕はあいちゃんの家の玄関を開けた。
玄関の中にいたのは、あいちゃんの父親だった。
酒の匂いが鼻をついた。ツンと刺すような、吐き気を誘う刺激臭。
目は血走り、すでに理性は酔いに沈んでいるのが分かった。
「おい、ガキが……」
「どうしてあいちゃんを殴るんだよ!」
僕がそう言った瞬間──
大きな手が、僕の頭を掴んだ。
そして、そのまま振り上げられた腕が……。
「──っ」
そこで、記憶が途切れる。
あのあと、どうなったんだっけ……?
何かを叫んで、何かを殴られて、何かが壊れたような──
そのとき。
現実の空気が、僕の肌を撫でた。
「──っ!?」
意識が一気に引き戻される。
遠くから、誰かの叫び声が聞こえた。いや──あれは、あいちゃんの声?
「……夢、か?」
僕は、現実に戻った。
風の吹く森の中で、まだ座り込んだままだった。
だけど、あの声は──現実のものだった気がした。