ちょっと、失礼ではないですか?
ロードナイト伯爵家の屋敷に入ると、この世界での記憶と前の世界での記憶が入り混じり、不思議な感覚になった。
侍女に部屋まで来てもらい、お茶を用意してもらうと一人になったタイミングで今日の出来事を思い返してみた。
ちょっと物語とは違う展開だったが、どうあれ何十回、何百回と読み込んだ大好きな本の世界だということは間違いない。
「やったー!!」
思わず拳を高く突き上げた。嬉し過ぎて、そのままソファーの背もたれに、ばふっと勢いよくもたれかかると肩をこすりつけるように左右に揺らして悶えた。
物語の恋愛要素もいいのだけれど、何よりその世界観や出てくる鉱石が素敵だった。
挿絵になっている美しいものを眺めるのは、唯一無二のご褒美だった。もちろん登場人物の絵も皆、一様に美しかった。毎日、何時間でも眺めていられた。
それが現実に触れられたり、直接眺めたりできるのだから悶えもする。
ただ、私がどうしてこの世界に転生したのかという理由まではわからない。確かなのは、あちらの世界で死んでしまったということ。
それでも、全然悲観的になっていない自分がいた。せっかく自分の好きな世界に転生できたのだから思う存分楽しまなければ、という想いのほうが強かった。
物語としては全然違ったけれど、フレデリック殿下に会うこともできた。主人公の相手だけあって、容姿端麗なのは挿絵そのものだった。初対面とは思えないほどの形相ではあったが、整った顔はしかめていても美しかった。
この物語で唯一気が重いのは、悪役令嬢の存在だ。嫌がらせを実際に受けたいとは思わない。ただ、物語と違うのは、私がこれから起こる出来事を知っている転生者だということ。
仕掛けてくることがわかっているのだから前もって回避することも可能なのではないか、と考えた。
「きっと……明日、話しかけてくるよね」
フレデリック殿下の婚約者である公爵令嬢ディアーナ・ジルコニア。ジルコニア公爵家の一人娘。幼少期に母親が儚くなり、父親には愛されず、後継者として遠縁から養子になった一つ年上の義兄には蔑まれていると思い込み、性格が歪んでしまった。
彼女の傲慢さや奔放さに、なかば無理やり婚約者にさせられたフレデリック殿下をはじめ、義兄のディルク・ジルコニアや彼の幼馴染でクオーツ侯爵令息アラスター、ジェイド伯爵家から従者としてジルコニア家に仕えているカイルスたちは皆、頭を悩ませていた。
一年前に入学したフレデリック殿下と義兄ディルク、幼馴染アラスターのもとに、いよいよ問題児である悪役令嬢ディアーナがやってくる。
事前準備で学園にいる婚約者の様子を見に来ていたディアーナは、フレデリックが女子生徒と楽しそうに話している姿を目撃する。ディアーナはその女子生徒の家を調べ上げ、入学式前に学園の入口で罵倒するのだ。さらには扇子で頬を叩きつける。それも結構強めに。“頬が赤く腫れ……”なんて描写があった。そしてその女子生徒が私、アイリーンなのである。
正直、叩かれるのは回避したい。
それに、実際の私は物語のようにフレデリック殿下と仲良く話などしていないし、万が一私たちが会ったところを見られていたとして、嫉妬するほどの会話もなかったはず。
それどころかあんなに冷たい視線を送られて、少々不快な想いをしたくらいなのに、さらにその婚約者に嫉妬で叩かれるなんてまっぴら御免だ。
とにかく明日はなるべく目立たないようにしよう。あの眼鏡くんのように影になってでも気配を消そう。あー、やり方教えてもらえばよかったな。
◇
「あ、れ……?」
いない。悪役令嬢が。
待ち構えているはずのディアーナがいなかった。
髪を後ろで結び、眼鏡くんにならって厚めの伊達眼鏡をかけ、なるべく地味に、と万全の態勢で臨んだというのに。なんだか拍子抜けしてしまった。
さらに驚いたのは、教室にすらいなかったことだ。本来であれば従者であるカイルスとともに同じクラスになるはずだった。
カイルスは同じ教室にいた。しかし、その隣にディアーナの姿はない。そして、カイルスもまた、昨日のフレデリック殿下と同じように、私に向けて凍てつくような視線を送っていた。
私は首をかしげた。
はじめまして、なのに相当な恨みを持っているような視線。悪いことなどしてきた覚えはない。ドバッと戻ってきたこちらの記憶を含め遡ってみても思い当たらない。
「君がアイリーン・ロードナイト伯爵令嬢か」
たった今、私を睨みつけていた張本人が側に立っていた。
私は顔を上げて、彼と目を合わせる。
淡い緑色をした美しい瞳。深緑の襟足が肩を擦る。この青年も眉目秀麗という言葉が似合う。物語の中では悪役令嬢の後始末でいつもその瞳を濁らせていたというのに。
今、目前にいる彼の瞳はキラキラと輝いていた。――いや、ギラギラのほうが正しいか?
「昨日は早々に仕掛けてきたようだけど」
「……?」
「何をしてこようと、我々には通じませんよ」
(――はぁ?)
何を言っているのかさっぱりわからず、首をひねると、カイルスは硬直し、眉間にシワを寄せた。
「そのようにして相手を籠絡するのですね。やはり、あなたには注意が必要だ」
(――何なの、この人?)
確かに私は物語を知っているから、カイルスのことも知っている。でもそれは本の中の世界で、実際には今日初めて会ったばかり。なのに挨拶もなしにいきなり籠絡だの、注意だのって……私、怒っていいよね?
「はじめまして。わたくし、ロードナイト伯爵が娘、アイリーンにございます」
にーっこりと笑いかける。
私は突然怒るなんて失礼なことしないもんね。ちゃーんと手順を踏んで己の幼稚さを思い知らせてやる。
背筋を伸ばし、綺麗な淑女の礼をすると、微笑みを浮かべた顔から一瞬でごっそりと表情をなくしてみせた。
「貴方様とは初対面ですのにそのような態度、いささか失礼ではございませんか?」
カイルスはこぼれ落ちそうなほどに目を見開いた。
私が言い返さないとでも思ったの? いくら私が美しいもの好きでも、許せないものは許せない。昨日のフレデリック殿下とは違い、同じ伯爵同士で家格も同等なのだから不敬も問われないし。そもそも先に無礼を働いたのは彼の方だ。
伯爵家の令息ならば、当然教育は受けているはず。ましてや公爵家の従者をやっているのなら、なおさらマナーや規則は叩き込まれているはずなのだ。
自分がマナー違反をしたのに気がついたのか、彼は頬を赤らめ気まずそうに俯いた。
そのまましばらく黙っていて名乗る気もないようなので、失礼して自分の席に着こう。
私はカイルスに小さく会釈をし、くるりと背を向けた。