存在を消して 〜レオナルド視点(前編)〜
僕は――。
ガーネット伯爵家、待望の息子であるレオナルド・ガーネットは――生まれて間もなく伯爵家のメイドによって誘拐された。
身代金目的の誘拐で犯人は明らかであったのだが、計画よりも早く身元が判明して焦ったメイドは、逃亡資金を工面するため、たちの悪い組織に子どもを売り飛ばしてしまっていた。
そのメイドはすぐに捕まるも、子どもの行方はわからないままだった。
行方不明になった子どもが五歳を迎えるころ、ガーネット伯爵家にほど近い路地裏で一人の男の子が保護された。
その連絡を受けたガーネット伯爵と夫人はその子どもが保護されている修道院へと取るものも取り敢えず駆けつけた。
この五年、ガーネット伯爵と夫人は大切な息子のことを諦めることなく、死に物狂いで探していた。どこかできっと生きている、そう信じて。
修道院に到着するや否や、保護された子どもの側へと駆け寄った。黒くパサついた髪は肩についてしまいそうなほど長く、自分たちを見つめる瞳はガーネット伯爵家の血筋を思わせるほどの深い赤。
一緒に過ごした時間は短かったが、髪もその瞳の色も、まさに探していた息子と同じ。
年齢と容姿、すべてが――彼がレオナルドである、と示していた。
◇
僕は――。
なるべく目立たないよう、息を殺して生きてきた。
息子が誘拐された経験から、ガーネット伯爵家では“何をするにも気配を消し、決して目立たず”ということが家訓のごとく徹底されてきたから、という経緯もある。
しかし、実際には少し違う。
結果的に僕の都合がいいように転んだだけで“目立たないように”というのは、今も昔も変わらない。
入学する前日。僕はある人に会いに、学園の敷地に足を踏み入れた。
「うっわ……!」
塀を飛び越えたまでは良かったのだが着地に失敗し、眼鏡を落としてしまった。そして、運が悪かったのは、自分がその上に膝をついてしまったこと。
「あー、これ高いのに……」
少しヒビが入ったが、効力には問題ないだろうか。
そんなことを考えながら拾い上げると、試しにかけてみる。そして膝についた芝をはたいていていると、背後に人が近づいてくる気配を感じた。
「どうかなさいましたか?」
気配を消しているはずなのに声をかけられたということは――魔法具が壊れたということだ。
僕は声のした方へゆっくりと顔を向けた。
そこに立っていたのは、年配の紳士。高位の貴族に仕えているとひと目でわかる執事服を纏っていた。
その紳士の瞳が大きく見開き、驚きに変わる。
「……! あ、あなたは……!」
僕は息を呑んだ。そして、彼が次の言葉を発する前に走り出した。
何とかして彼から逃れないと。
隠れる場所を探し中庭まで走ってきたが、そこには中央に一本、大きな木があるだけだった。今から引き返したら、きっとすぐに見つかってしまう。
だから僕は――その木の上に登った。
「先ほどの坊ちゃま! どちらにいらっしゃいますか!?」
彼はキョロキョロと首を左右に振る。このままでは見つかってしまう。
僕は木の上でヒビが入った眼鏡を外すと、素早く内ポケットからスペアの眼鏡を出し、かけ直した。これで何とか誤魔化せるだろう。
しばらくして諦めたのか、彼はもと来た道を戻っていった。
ホッと息をついたのも束の間。
「ここで何をしている」
恐ろしいまでに殺気立った表情と声。冷たく厳しい口調で腕を組み、仁王立ちしている男が見えた。
「あの……迷ってしまって」
最初こそ自分に向けられた言葉かと思ったが、彼の視線の先には――女子生徒がいた。
僕は、小さく息を吸った。
「やはりディアの言ったとおりか」
「え?」
「いや、何でもない。とにかくここから先、通すことはできない。戻りなさい」
(――あれは、フレデリック殿下? 彼女は迷った、と言っているのにあんな言い方をするのか?)
女子生徒が殿下に背を向け、立ち去ろうとする。
(あっ、待って!!)
慌てて彼女を追いかけようと体勢を変えた瞬間――
――ガコッ!!
自分の落とした枝が、彼女の頭に直撃していた。
◇
そよそよと春の心地よい風が薄いレースのカーテンを揺らす。
「んっ……ここは……?」
彼女は一度眉間にシワを寄せ、ぎゅっと瞼に力を込めた。そして、ゆっくりと開く。
「あの……大丈夫ですか?」
誰もいないと思っていたのか、彼女はビクリと肩を揺らした。
「ここは救護室です」
上半身を起こして、キョロキョロと辺りを見回す。
「うっ……」
首を振った後、彼女は急に両手で頭を抱え込んだ。
「わっ、だっ大丈夫ですか!?」
僕は、彼女が寝ているベッドサイドに駆け寄ると、体に触れないように気にしながら様子を伺った。
しかしそのうちプツッと何かが切れたように彼女は意識を失ってしまった。
どうしよう、と大慌てで持っている魔法具を探っていると、ちょうど救護員が来た。事情を説明し、治療をお願いして、一旦救護室を出る。
今、彼女に必要なものは何か――?
自分がしてしまったことの重大さに頭を抱えるも、冷静さを取り戻し、思い当たる魔法具を手に救護室へと戻った。辺りはすでにオレンジ色に染まっていた。
「よかった、気がつかれました?」
扉をノックして、中から返事が聞こえると、ホッと息をついた。
「ご心配おかけして申し訳ありません」
突然謝られて驚き、ぶんぶんと首を横に振った。
(――なんで君が謝るの?)
「謝らなければならないのは僕です」
彼女が首をかしげたので、「じつは」と話し始めた。なぜ彼女がここにいるのか、を。
「どうしても逃れたくて隠れる場所を探していたのです。そして見つけたのがあの場所でした」
彼女の視線は彼女が倒れた辺り。
「もう少し、上、です」
僕は気まずそうに付け加えた。
「枝を折ってしまい、あなたに」
本当に申し訳ありません、と深く頭を垂れた。
彼女は口元に手を当てると、何かを考え込んでいるようだった。
頭を打っていることを考えると心配で、ガーネット伯爵家の馬車で家まで送らせてもらうことにした。
馬車の中で彼女がアイリーン・ロードナイト伯爵令嬢であること、そして、彼女自身もあまり社交をしていなかったことを教えてもらった。
「ではまた明日」
自己紹介をし合ったのだから、明日からは堂々と声をかけられる。僕の口元は大きく緩んだ。
◇
何の因果か――今、僕の目の前に一つに束ねられた薄ピンク色の美しい髪が、窓から入る春の風に揺れ、サラリと靡いている。
入学式が終わり、教室まで来ると、自分の席を確認してから席に着いた。
しばらくして教室内が騒然となる。
「君がアイリーン・ロードナイト伯爵令嬢か」
昨日、出会ったばかりのアイリーン・ロードナイト伯爵令嬢が一人の男子生徒に話しかけられていた。
昨日と違い、髪を後ろで束ね、眼鏡をかけている。
アイリーンを睨みつけるように見下ろしている男子生徒は――淡い緑色の瞳。新緑色の髪。ジェイド伯爵家の次男カイルスだ。
「昨日は早々に仕掛けてきたようだけど……何をしてこようと、我々には通じませんよ」
アイリーンには思い当たる節がないのか、首をひねっている。その仕草にカイルスは硬直し、眉間にシワを寄せた。
「そのようにして相手を籠絡するのですね。やはり、あなたには注意が必要だ」
アイリーンはピッと姿勢を正すと、にっこりと微笑んだ。その笑顔に思わず見惚れてしまう。
「はじめまして。わたくし、ロードナイト伯爵が娘、アイリーンにございます」
綺麗な淑女の礼をした後、彼女が顔を上げると、先ほどまで浮かべていた微笑みが一瞬にして消え去っていた。
「貴方様とは初対面ですのにそのような態度、いささか失礼ではございませんか?」
こぼれ落ちそうなほど目を見開き、呆然としたままのカイルスに軽く会釈すると、アイリーンは僕の前の席に座った。
魔法具の効力は順調だ。でも今は――僕に気づいてほしい、なんて。
先ほどのカイルスとの会話が気になったので、休み時間に声をかけようと思っていたのだが、彼女はすぐに席を立ったので機会を逸してしまった。
しばらくして、彼女は冴えない顔をして戻ってくると、静かに席に着いた。
僕はぼんやりと外を眺めている彼女の肩をトントンと優しく叩いた。
「アイリーンさん」
「え……? あっ!!」
「昨日と雰囲気が違っていたので、少々驚きました」
「雰囲気……驚く……」
僕の言い方が悪かったのか、彼女が肩を落としたので慌てた。似合わないなんて少しも思っていない。
「いや、あの、その……そちらの雰囲気も素敵です!」
「へっ……?」
「とても、似合っています!」
「ふ、ふふっ」
自分の言葉で喜び、笑ってくれた。その笑顔が、先ほどカイルスに見せた微笑みと違っていて、僕の口はポカンと開いたまま動かなくなっていた。
「なるべく目立たないようにしたかったのだけれど……うまくいかなかったみたい」
そんな僕の状態を構わず、彼女は肩を竦め、ニコッと笑ってみせる。僕は飛ばしていた意識をハッと取り戻し、開いたままだった口を横に結んだ。
今はカイルスとの間に何か問題があるのか、彼女の力になれないか聞くことが先決だ。
「それにしても、その……何かあったのですか?」
アイリーンは少し躊躇った後、ポツリと話し始めた。
初対面なのに、ある特定の人たちにだけ、先ほどのような態度を取られていること、その原因が全く思い当たらないこと、どうしたらいいのかもわからないということ、を。
「だから目立たないようにしたかったのですね」
「えっ?」
昨日と今日とで雰囲気を変えてきた理由は、問題に巻き込まれないように気配を消したかったからだ。
「私の言っていることを、信じてくれるのですか?」
「もちろんです」
「なぜですか? 昨日出会ったばかりで、お互いのことをよく知らないのに、なぜ信じられるのですか?」
僕にもその気持ちが痛いほどよくわかるからだよ。それに――
「僕は自分が直接見たもの、感じたものしか信じません。昨日も今日も、あなたに非があるようには思えない」
隠れていた前髪の隙間から黒にほど近い赤色をした瞳で、アイリーンを見つめた。
彼女と目が合った気がして、僕は眼鏡をくいと押し上げた。
「あの、失礼を承知で伺いたいのですが」
「何でしょう?」
「目立たない方法、教えてくれませんか?」
(まさか僕の魔法具に気づいた……? それとも――)
「……僕に存在感がないって言ってます?」
「!!」
彼女が言いづらそうにうつむくと、その様子に思わず笑いが込み上げてきた。
「ぷっ……大丈夫です。狙ってやっていますから」
堪えられていない笑いをごまかすように話し始めると、自分でも思いがけない提案をしてしまっていた。
「放課後、お時間ありますか?」