あなたのため 〜カイルス視点〜
ジェイド伯爵家の次男として生まれた僕は、兄の代替品として育てられた。兄は優秀だったし、伯爵家に僕の居場所はなかった。
そんな僕が行儀見習として公爵家の従者になったのは十歳になった頃だった。
王家とのつながりが深いジルコニア公爵家との媒介役くらいにはなるだろうというジェイド伯爵の思惑があった。
公爵家には、僕より一つ歳上の息子と、僕と同じ歳の娘がいる。
息子は公爵家の遠縁から養子になったらしく、血の繋がりはない。剣術に優れ、魔法具に関しての造詣が深いため、選ばれたのだと聞いている。
一方、娘は傲慢で奔放と噂されていたが、ある日を境に全く見かけなくなったそうだ。さながら彼女の外聞の悪さに公爵から外出を制限され、軟禁されているのだろう。今は教養やマナーなどを教え込んでいるにちがいない。
運悪く、僕はそんな要注意人物の従者として仕えることになった。
多少我儘で手がかかるとしても耐えろ、絶対に粗相をするな、と父からきつく言われていた。――いや、父とは呼べないと思うが。
父は――ジェイド伯爵は僕を嫌っている。
原因は、僕の容姿だ。濃い深緑色の髪と淡い新緑色の瞳。父とは何一つ似ていない姿に、愛情の欠片すら向けてもらえなかった。
そのことに、わずか十年で気がついた。
父はこれ以上、僕と一緒にいることが耐え難かったのだろう。僕にしても、そんな家から一早く出ることができて、よかったのかもしれない。
表情を変えず、目を合わせず、ただ淡々と日々を過ごす。そんな屍も同然の生活より、多少我儘を言われようが必要とされているのなら。きっと今よりはマシだろう。
「いってまいります」
「そうか、今日だったな」
出発の日。執務室へ挨拶に行くと、書類から少しも目を離さず、無表情で父はこう言った。
「二度と戻ってこようと思うな」
僕が小さく息を吸ったことに気づいたジェイド伯爵は、手を止めると視線を上げた。
榛色の瞳に、新緑色の瞳が映っている。
目が合うと、心底嫌悪した顔に歪む。
僕は理解している。だから目を伏せ、逸らしてきたのだから。
「はい。今までお世話になりました」
視線を外すように深く一礼すると、執務室を出た。
僕の帰る場所は――もう、どこにもない。
◇
ジルコニア公爵家に来て、わずか数日。
初日こそ、公爵と義兄の背後に隠れてうつむいていた我が主は、今やどこに行くにも僕を引っ張り回している。
傲慢で奔放。
その噂は――事実である。ただし、それは我儘とは違っていた。
「カイルス! ダメよ、もっと笑ってくれなきゃ! 楽しいときは思いっきり笑うの!」
ディアーナお嬢様は基本、屋敷の敷地内から出ない。その中で楽しいことを見つけては僕を巻き込み、同意を求める。
(知らないよ、笑ったことなんてないし)
こうやるのよ、とにっこり笑ったディアーナ様の姿が、この世のものとは思えなくて。
思わず僕の顔が緩んだ。
「カイルス……! あなたの瞳って、宝石のようにキラキラしていてとっても綺麗ね!」
(――父に嫌われていた、この瞳が?)
「……カイルス? ご、ごめんなさい! 私、あなたを悲しませるようなことを言ってしまったかしら」
僕を見て、ディアーナ様が慌てふためく。
輝くような黄金色の瞳に映る自分が、頬を濡らしていた。
僕は――泣いていたのか。
綺麗だなんて、初めて言われた。褒められたことなど、一度もなかった。
それなのにディアーナ様は――僕のお嬢様は、些細な変化に気づき、喜んでくれる。
たった数日で僕の居場所を作ってくれた。僕が僕でいられる、僕にとって一番居心地の良い場所を。
僕の帰る場所は――ディアーナ様の隣だ。
◇
うちのお嬢様は、臆病である。
そしてそれを知っているのは、常に彼女の一番近くにいるこの僕だ。
近頃、彼女が公爵家を出ていこうと画策しているのも知っている。そんなにこの家にいたくないのなら、僕がいくらでも手筈を整えるのに。
最近は頻繁に慈善活動をしている。
まさか――修道院に行こうとしている? それだけは阻止しなければ。
修道院に入られたら、僕もついていくことはできなくなる。
ディアーナ様には悪いけど、旦那様とディルク様、そしてフレデリック殿下にも報告させてもらった。
彼らに話せば、その選択肢は間違いなく消されるに違いないからだ。
思ったとおり、誰一人として同意せず、その未来は消滅した。
ディアーナ様は修道院に行こうと考えるくらい殿下との婚約を望んでいないようだし、公爵家も出ていきたいと思っているようだ。
ならば僕の出番も近い。そう思っていたのだが――
『フレディは学園で運命の人に出会うの。だから私はその邪魔になる。邪魔をした私は、大好きな皆に断罪されるのよ。それだけは……嫌なの』
天使のように美しい顔が涙に濡れる。
(ディアーナ様は、本当は殿下を……)
胸が苦しい。従者という立場である以上、難しいことはわかっていたつもりだ。それでも自分だけにみせてくれる弱さや甘えを特別だと感じていた。だから――ずっと一番近くで護りたい、と。
学園でも常に側にいるつもりだったが、ディアーナ様は入学することを拒んだ。旦那様も公爵家で教師を雇えば問題ないと判断したようだ。
それに美しく聡明なディアーナ様を他の者の目に触れさせる機会が少なくなるのだから、僕らにとってもそれは悪い話ではなかった。
学園に通い始めてから、お嬢様が懸念している原因がわかった。
アイリーン・ロードナイト伯爵令嬢。
ディアーナ様から伝えられていた特徴通りの容姿。そして、すでに的中した昨日の出来事。
何とかして排除しなければ。
「君がアイリーン・ロードナイト伯爵令嬢か」
彼女が顔を上げ、濃い桃色の瞳が映る。とても深い色で、気を抜けば吸い込まれてしまいそうだ。
「昨日は早々に仕掛けてきたようだけど。何をしてこようと、我々には通じませんよ」
宣戦布告をすれば、彼女は困ったように首を傾けた。その仕草は庇護欲を掻き立てる。
「そのようにして相手を籠絡するのですね。やはり、あなたには注意が必要だ」
何とか自分を保ち、はっきりと言い放つ。
彼女はにっこりと優しく笑うと、美しい所作で礼をとった。
「はじめまして。わたくし、ロードナイト伯爵が娘、アイリーンにございます」
彼女が顔を上げると、一瞬で表情が消えた。
「貴方様とは初対面ですのにそのような態度、いささか失礼ではございませんか?」
自分に向けられる無表情を目にしたのは、久しぶりだった。
◇
「まさかこんなところにまでついてきたのですか? しつこいですね」
ディアーナ様とティータイムを楽しんでいるところに彼女が現れた。
(どこまで、ディアーナ様を苦しめれば気が済むのか? どうして、そこまでディアーナ様に付き纏うのだろうか?)
「誤解をされております。わたくしはそちらの書店に行っておりました」
腕の中に抱えた本を見せてくるも、信じられるはずもない。その程度なら、いつでも言い逃れできるよう事前に準備くらいできる。
「そんな言い訳、通用するとでも?」
腕を組み、小さく溜め息をついた。
すると、彼女の顔が先日と同じように無になった。
「私が皆様に、何か失礼をいたしましたでしょうか。私の知らぬところで失礼がございましたら謝罪いたしますのでご教示いただけますか」
僕は隣にいる殿下とディルク様と顔を見合わせた。
そんなことを言われるとは思ってもみなかった。
「それから私の行動は、私の自由です。それとも、私の予定すべてに殿下やジルコニア公爵家の許可が必要でしょうか?」
「そ、それは……」
何もそこまでしろ、というつもりはない。
「先日も本日も私から皆様にお声をかけてはおりませんし、何を勘違いされているかわかりませんが、私は皆様に興味はございません」
確かに教室でもこちらから声をかけた。そういえば今だって、僕からだ。
「それに、私には同行者がおりますので」
本を抱えていない方の腕が動く。気づかなかったが彼女の隣には、黒い前髪で眼鏡が覆われた目立たない男子生徒がいた。彼女は彼の腕を取ると、しがみつくようにギュッと抱え込んだ。
「彼が私の行動の証人です。皆様と関わろうとは少しも思っておりませんので、今後、私を見かけても今のように話しかけず、無視していただくのが一番かと存じます」
(――だから、認識阻害の眼鏡を?)
彼女は先日と同じ美しい所作で一礼すると「では、失礼させていただきます」と一言断り、馬車に乗り込んでいった。
◆
「あれも彼女の策略でしょうか……?」
ゆっくりと走り出した赤い馬車を、複雑な気持ちで見送っていた。
「ガーネット伯爵家の馬車か……」
「ロードナイト伯爵令嬢が言ったように、彼女は我々に何もしていない。それに――我々は彼女のことを何も知らない」
殿下の言葉は正しい。
彼女からしたら、初対面の相手なのに、なぜ一方的に嫌われているのか理解できないだろう。
僕は、知っているじゃないか。
彼女がした、無表情の理由を。
彼女は――十歳の僕と同じだ。