ここは、大好きな物語の世界!?
そよそよと春の心地よい風が薄いレースのカーテンを揺らす。
「ん……ここは……?」
一度眉間にシワを寄せ、ぎゅっと瞼に力を込める。そして、そっと開いてみたものの、ここがどこなのかわからなかった。
「あの……大丈夫ですか?」
誰もいないと思っていたその部屋の片隅から、突然聞こえた声に私はビクリと肩を揺らした。
声のした方向に目をやると、そこには一人の青年がいた。黒い髪で前髪は長く、瞳を隠している。その上、黒縁眼鏡までかけている。まるで、存在まで影のようだ。
「ここは救護室です」
先ほどの疑問に答えてくれたようだが、私が知りたかった回答ではなかった。
私が知りたかったのはこの場所ではなく、この世界について、だ。
見覚えのない場所。そして、目に飛び込んできた自分の毛先。明らかに自分の髪色とは思えない薄ピンク。染めた記憶などないし、そんなキャラじゃない。
目の前の眼鏡くんだって、髪の色こそ、ホッとする感じはするが、姿は異国風なのだ。それなのに言葉は通じている。
私は上半身を起こして、キョロキョロと辺りを見回した。
「うっ……」
首を振った瞬間、頭に割れるような痛みが走り、私は両手で頭を抱え込んだ。
「わっ、だっ大丈夫ですか!?」
彼は私が寝ているベッドサイドに駆け寄ってくると、体に触れないように、でもどうしようとオロオロしている。
そんな彼の気配を感じながら、私は頭の中に流れてきた膨大な記憶に意識をぶっ飛ばしたのである。
◇
次に起きたときには窓の外はすでにオレンジ色に染まっていて、先ほどの眼鏡くんはいなかった。意識をぶっ飛ばしたおかげで、なぜ自分がこの世界にいるのかも、そして、なぜ救護室にいるのかも理解した。
私は転生したのだ。前の世界で大好きだった本の中の世界に。そして、今日は物語が始まる記念すべき日だった。
今後、恋に落ちる相手、この国の王子であるフレデリック・ジュエライズ殿下と出会うプロローグ。
入学を明日に控え、事前に下見をしにきたこの物語の主人公、伯爵令嬢アイリーン・ロードナイトは広い学園内で迷子になり、生徒会長で入学式の準備をしていたフレデリック殿下に助けてもらう。
誰に対しても紳士的で優しく、柔和な微笑みを浮かべる彼にアイリーンは好感を持つ。
しかし、今の私の記憶はそれとは程遠い光景を映し出していた。
「ここで何をしている」
恐ろしいまでに殺気立った表情。初対面とは思えないほどの冷たく厳しい口調。両腕を組み、ここからは通さないと言わんばかりの仁王立ち。
「あの……迷ってしまって」
私の言葉を聞いた彼はピクリを眉を動かした。
「やはり、ディアの言ったとおりか」
「え?」
「いや、何でもない。とにかくここから先、通すことはできない。戻りなさい」
いや、そう言われても道がわからないって言ってるのに。
教えてくれそうもないし、あの冷たい視線を受け続けるのも苦しい。私がその場を離れようと、くるりと向きをかえた瞬間。
――ガコッ!!
何かが頭を直撃し、私はその場に倒れたのだった。
◇
「よかった、気がつかれました?」
扉をノックする音が聞こえ、返事をすると、先ほどの眼鏡くんがホッと息をついて入室してきた。表情は見えないが心配してくれていたようだ。
「ご心配おかけして申し訳ありません」
彼はぶんぶんと頭を横に振った。
「謝らなければならないのは僕です」
私が首をかしげると、「実は」と話し始めた。
私があの場所に迷い込む数分前。彼もあの場所にいた。新入生ではあるが事情があり、事前に来ていたのだという。
「どうしても逃れたくて隠れる場所を探していたのです。そして、見つけたのがあの場所でした」
彼は窓の外を指さした。その方向に視線を送ると先ほど王子に出くわした中庭が見えた。中央には大きな木がどっしりと立っている。
あの木の近くで倒れたのは確かだけれど、王子以外に人がいたとは思えなかった。
「もう少し、上、です」
私の視線の先が指す場所と違うことに気がついたのか、彼は気まずそうに付け加えた。
「枝を折ってしまい、あなたに」
本当に申し訳ありません、と深く頭を垂れた。
ああ、そうだ。そんなイベントあった。
王子が落ちてくる枝にいち早く気づき、かばってくれる。そのせいで腕に怪我をしてしまい、アイリーンは救護室に付き添っていく。彼に怪我をさせてしまったことに罪悪感を抱き、落ち込むアイリーンを元気づけようと王子はたくさん話をするのだ。
しかし、現実はどうだろう。王子は私をかばうことなく、枝は私の頭を直撃。目覚めれば、彼の姿は跡形もなく。目の前には、頭を垂れる眼鏡くん。
(えーっと? いったいどうなってるの? ここは、あの物語の世界なんだよね?)
思い出した世界と今の世界の違いに困惑する私を、心から心配している眼鏡くんは家まで送ると譲らず、きっちり馬車を手配してくれた。
彼は伯爵令息らしい。私も伯爵家だから交流があったのかと思ったが、どうやら事情があり、今まで社交はなかったとのことだった。
「では、また明日」
馬車の窓から彼の柔らかいオーラが伝わってくる。瞳は見えないが、口元はニッコリと弧を描いていた。