22.芸術家
液体の入ったバケツの傍へ寄る。
近付いて、ようやく気が付く。鉄の匂いと、腐敗した生臭さ。
心がときめく。
ああ、ヒトの残骸の、なんと醜いことだろう。
その残骸の醜さ、郷愁のような感情。
私達は、この醜さから生まれた。
「君は落ち着いているな」
背後に迫った、彼の疑問。
「恐怖で動けないのか?」
私は微笑む。
「ねぇ、このヒト」
バケツを指さす。
「どんなヒトだったの?」
返事は暫くなかった。私は振り向いて、彼の表情を伺った。
「どんな人?」
「そう」
まさか、知らないの? と、私は問うた。
あまりにも、勿体ない、って、教えてあげた。
何故って?
この絵は、あなたの、人生をかけた芸術、なんでしょう?
優れたアーティストは、道具一つにも拘るもの。
あなたは、それにヒトを選んだ。
ヒトの価値は、物語。
物語を知らずに、ただ道具として扱ってしまえば、ヒトである必要がなくなってしまう。
「ただ機械的にヒトを浚って、磨り潰して、塗りたくるなら、ヒトである意味、あるの?」
彼は困惑していた。
私は首を傾げる。
「ヒトの命の意味を、あなたは、無駄にしてしまったの?」
私はバケツを持ち上げた。ずっしりとした重さ。
私はそれを彼の前に掲げた。
「このヒトは、誰?」
彼は、持っていた縄を落として、バケツを受け取った。
「女だった」
ぼそり。
「町から浚った。道で寝転がっていた女だ」
私は冷ややかな目で彼を眺めた。
彼は、親に怒られる子供のように、私を恐る恐る、見た。
「首を絞めるとき、何か言っていた。自分には子供がいると、言いかけていた」
私は目を逸らして、ため息をついた。
「そう」
それだけ?
彼はバケツを置いた。膝をついた。
瞳には、光がなかった。ただ地面を写していた。
「俺は、なんて、惜しいことを」
彼は何事か口走っていたけれど、私の耳には届かなかった。
私は、彼に近付いた。
うなだれる彼の耳元に、顔を近づけた。
「見せてよ」
彼の背中に手を回して、抱きしめた。
「あなたの傑作、人生をかけた、赤色を」
軍の施設の廊下で、女性の絵を眺める。
背景の赤色は、絵の具だろうか、ヒトだろうか。
もしかしたら、この絵の女性は、この背景の元となったヒトかもしれない。
なら、この絵の女性は偽物で、背景こそ本人ということになる。
何だか可笑しな矛盾。
私に言い寄ってきた軍人が、この絵を描いた芸術家の末路を教えてくれた。
彼は、秘密の工房で発見された。その工房には、40人分の骨が見つかった。
彼は地下のアトリエで倒れていた。左手と右足が細切れになっていた。
彼は絵を描いていた。地獄の絵が、壁一面に描かれていた。
ほとんどは他人の血。残りは自分の血。
軍人は、その光景を思い浮かべると吐き気がする、と言った。
私は、そうは思わない。
彼の最期を知っているから。
彼は、たくさんのヒトを切り裂いた短刀で、まず、自分の左手首を切り落とした。
でも血が足りなかったから、今度は足首を切り落とした。
まだ足りなかったから、今度は肘を、膝を、少しずつ、切り落としていった。
そうして、描き上げたの。
地獄を照らす太陽を。
彼はうつ伏せに倒れて、私へ青白い顔を見せた。
ああ、あのときの、満たされた表情。幸福の絶頂。
彼の瞳は輝きを取り戻した。
私は屈んで、彼の傍で、瞳の輝きを眺め続けた。
光が失われる最期の瞬間を、笑顔で見送った。
彼は最期に、芸術家として蘇った。
途方もなく、幸福な最期だった。




