16.名前
青色に塗装された列車の列。
くすんで錆び付き、剥げてボロボロ。がたついた線路の上で、大人しく並んでいる。
物に命が宿るなんて思うほど純粋ではないけれど、これも、一種の死の形。
私達は、その死体のお腹の中に、こっそりと侵入する。お腹の横の穴、割れたガラス窓から。
人がいないとは限らないので、警戒はしたけれど、誰もいなかった。
空に浮かんでいた月は、厚い雲の上に追放。小さい水滴が下りてきて、あっという間に、大粒になる。暗闇の中で、水滴が屋根を叩く音が続く。
私はつり革に掴まって、身体を預けて、ぶらぶらと揺れる。ぎい、ぎい、と軋むような音。遊具。遊び。その間に、牧師さんは列車の長椅子へ横になる。片手を額の上に置いて、随分と辛そう。
「熱が上がったみたいね」
牧師さんは弱々しく微笑んだ。「頭が痛いよ」。ええ、そうでしょう。
「銀、お薬は?」
私は、つり革に揺られながら声をかける。
「残り僅かだ」
「あげましょう」
「貴重品だぞ」
「構わないでしょう。古いことわざ通りなら」
「お前と一緒にするな」
「私は丈夫。あなたはお馬鹿。薬なんていらないでしょう?」
「お前と、一緒に、するな」
これを聞いていた牧師さんは苦笑い。気まずいのね。けれど、「いりません」とは言わない。遠慮がちな彼だけれど、本当に辛いみたい。
仕方がないから、私が例の家で見付けた錠剤を彼に渡した。多分、解熱剤。随分と古い物だけれど、何もないよりましでしょう。
銀は舌打ち。持っていたのなら、最初から出せ、ってこと。
そう、その顔が見たかったの。
私は丈夫で、あなたはお馬鹿。一説によると、お馬鹿は風邪をひかない、っていうことわざは、お馬鹿は風邪をひいても気が付かない、の暗喩らしい。
だから一応、薬の管理は、お馬鹿なあなたのお仕事。
私は余った薬を銀に投げ渡した。
雨が窓ガラスに水の膜を作る。絶え間ない、雨。この中を歩けば、気持ちが良さそう。
銀が別の車両を探索に向かったから、今は、椅子に座って雨を眺める私と、横たわる病人さんだけ。
「君の」
と彼が言った。顔色は悪いけれど、少し薬が効いてきたみたい。
「なぁに?」
「君の名前を、聞いていなかった、と思って」
私は、くすくすと笑った。
名前。
人を区別・判別する記号の一つ。
今のカオスな時代だと、他人に興味を示す暇がないから、あまり重要視されていない。
だって、名前が意味を持つのは、他人に、興味価値観心がある時、だから。
あなたは、誰? っていう問いに意味がある時、名前は、初めて必要になる。
初めまして。道に寝そべるあなたのお名前は?
初めまして。あなたを今から殺すけれど、お名前は?
なんてことにはならない、ってこと。
だから、仲間内や、有名人以外に、人の名前を聞く機会はない。
「あなたは? 名前があるの?」
「あるさ。酷いな」
牧師さんは微笑んだ。私もくすくすと笑う。
「母がくれた名前だ。サトル」
「サトル」
「そう、僕の名前だ」
雨の音が続く。湿っぽい空気。
なんだか、面白そう。最近は、屍の人生を、想像や日記で補ってばかりいた。心臓がまだ動いている人の物語を聞くのは、久しぶり。
私は移動して、牧師さんの傍に屈んだ。彼の顔をのぞき込む。彼の顔に私の髪がかかる。
鼻先がくっつきそうなほど顔を近づける。お互いの呼吸を感じる。
牧師さんは露骨に驚いている。目の奥。瞳孔が開いてる。面白い反応。銀の真逆。
「サトル」
私は囁く。
「話して」




