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七.マザー

 水野はうつむいて黙り込んでいる。村上の胸に、やるせない痛みが広がった。かつてお世話になった彼女と、こんな形で対峙することになるなんて。


 長い沈黙。


(女神様……だったのに)


 村上はため息をつき、一週間前の静かに立ち去る高橋の背中を思いおこした。


         ※


 取り調べの翌日、高橋の上司が本庁に緊急呼び出しを食らった。本庁は事の重大性を重く見た。


『共信党から高橋にクレームがきている。お前の監督不行き届きだ』


 厳重注意を受けた上司は縮こまり、慌てて署に戻り怒りの表情で高橋を呼び出した。


「お前、いったいなんてことをしてくれたんだ!!」


 黙り込み目をそらす高橋の態度に上司はイラつき、手に持った書類を投げつけた。


「こんな案件、初めから乗り気じゃなかった。お前の執拗な要求に仕方なく折れたんだ。俺も少しばかり浮足立っていた事は認めるよ。一大スキャンダル。うまく行けば出世の道も開ける、お前に言われてつい乗せられちまった」

 

 苦々しく当時を思い返した。


「しかし、この結果はなんだ? 散々な内容に呆れ空いた口がふさがらんぞ」


 床に散らばる報告書に目をやり、目覆いたくなるような不正の数々に頭を抱えた。


「財閥系企業データベースへの不正アクセス。本庁のネット記録の無断参照。福岡県警の機密情報の不正入手。一般人に対する無許可での会話の記録。挙句の果ての、己自身の疲労による取り調べの中断。お前、いったい何を考えているんだ?……」


 高橋を睨みつけた。感情の無い目で、石のようにピクリとも動かずこちらを見ている。反省も、反抗もない。感情のない、まるで鬼畜でもみるような凍てついた瞳。ふっと怒りが冷め、恐怖を感じ上司は思わず目をそらした。時々こういう目をする部下がいる。何かを理解し、それを理解できない自分を(さげす)む目。


(駄目だ。目が据わっている。深入りは避けるべきだ。何をしでかすか、わかったものじゃない)


「……もういい、お前を信じた俺がバカだった。しばらく家でおとなしくしていろ」


 冷や汗をかきながらも、一か月の出勤停止を言い渡した。


「高橋さん!!」


 何事も無かったかのように部屋から出てきた高橋に、待ちわびていた村上は駆け寄った。高橋は無言で荷物をまとめ出した。


(やっぱ相当重い処分が下ったのか……)


 村上の胸に、高橋が黙って紙片を押し当てた。村上は青ざめた顔で呆然と高橋を眺めた。


「水野を詰めろ」


 呆気にとられる村上を背に高橋は静かに部屋を出て行った。


         ※


 目を伏せ黙り込む水野。村上が意を決して声をかけようとした時、顔を上げた水野が真っ赤に腫らした目で村上を睨んだ。


「私の事、最低な人間と思っているでしょう。確かにそうかもしれない。でもあなたにはわからない。本当に大事な事は何か」


 村上は呆気にとられた。自分が知っている穏やかな水野とはまるで別人。これまで向けられたことのない剥き出しの敵意に、村上は息を飲んだ。


(何がここまで彼女を追い込んでいるのか? そして、彼女は一体何を知っている?)


 不気味に輝く加地の瞳が脳裏をかすめた。高橋の無残な姿が目の奥から離れない。得体のしれない、抗うことのできない、圧倒的な力に自分たちは屈した。


 これで二回目。


 耐え難い屈辱は筆舌に尽くしがたいはず。無言で部屋を去る高橋の背中がいつもより小さく見えた。この捜査への強い思いをしっている分、何も声をかけることができなかった。


 ふと、ポケットの紙に手が当たった。


〝水野を詰めろ〟


(あの高橋さんが俺を頼ってくれた。こんなバカでどうしようもない俺を……)


 熱い気持ちが込み上がり、腹をくくった村上は静かに息を吸い込んだ。もう迷うことは何もない!


「水野さん……あなたには入社したての頃に色々とお世話になり、とても感謝しています。あの写真が加工されたものだと知った時、目を疑いました。もし、高橋さんがいなかったら、私はあなたに騙され、真実から遠ざかっていたでしょう…… 」


 水野は無表情なまなざしでこちらをじっと見つめている。脳裏に浮かぶのは、あの日の優しい笑顔。胸が締め付けられるような思いに、村上は目を逸らした。


「なぜ加地国会議員の取り調べを妨害する必要があったのですか? あれからすぐにあなたを問いただすこともできた。でもできなかった。信じたかった。あなたには、そうせざる得ないきっと深い理由があるはず。この一週間、私は苦しみ、迷いました」


 震える指先で、高橋から託されたメモを取り出した


「水野美紀。総務課所属、五年目。十八歳で聖星女子大学し、祭礼部長として、法要、記念式典の準備から、信者の勧誘、集金まで、手広い活動を取り仕切る。どっぷりと宗教活動に染まった学生時代。()()()は、浮いた噂もない、まじめでおとなしい学生。だが、どこか陰のある不思議な雰囲気を醸し出していた」


 わずかに水野の視線が揺れた。俺は彼女の過去に無造作に踏み込んでいる……村上は痛む心にこらえて続けた。


「……卒業論文は〝人間の魂の可能性について〟 人間の死に対してあなたは独自の解釈があった。〝天国への道(ロード・トゥ・ヘブン)〟 そこを通過する魂が到達する未知の領域に対する解釈……」


 女神様。彼女につけられた呼び名も、あながち無関係でもなかったな……美しい白装束をまとい、畏敬の念を板出せるような、透き通るような微笑を浮かべる水野を想像して、村上は胸が締め付けられる思いに襲われた。


「卒業後、二十二歳で千葉警察に所属。公務の傍ら、周りに隠れて宗教活動家として二重生活を送る。そして、二十五歳のとき、突如、個人的都合で休職した。周囲は驚いた。真面目な勤務姿勢のあなたがどうして? 空白の二年、貴方は一体何をしていたのか?」

 

 水野の深い、諦めにも似たため息が聞こえた。


『根掘り、葉掘り』


 村上の脳裏に、高橋のニヤリと笑う顔が浮かんだ。


「ちょうどそのころ、聖星教と政界である重要な出来事が起こっていた……当主 山下正寿郎の死。そして、加地国会議員を党首とする共信党の新体制の発足……」


 村上は喉まで出かかった言葉を思わず飲み込んだ。この先を語れば、俺はもう、彼女と完全に終わる。水野は下を向いて黙り込んだまま。悲壮な決意を宿したその表情は、痛々しいほどに美しく、まるで、今にも消え去ってしまいそうな儚さを(はら)んでいた。


(もう俺も引き返せないな)


 ため息をついて頭を振り、水野を睨んだ。


「あなたは学生時代から福岡と東京を何度も行き来をしていた。行き先は聖星教 福岡本部。幹部会への定期的な出席。表向きはそうなっていたが、あなたの目的は違った。ある信者の証言がある。あなたと山下正寿郎が親し気に会話をして一緒に部屋に入った、と。

 あなたにとって正寿郎は当主として以外に特別な人だった。しかし、正寿郎が死にそのさみしさを加地に求めた。個人的な事情に口をはさむ気はありません。けれども、あなたのしている事は……」


「何もわかっていないようね」


 低い声で、憐憫の色すら感じて発せられたその声に、村上は言葉に詰まった。


「彼は特別な、選ばれた人間よ。あなた達凡人には到底理解できない。マザーに認められた、人類を超越した存在。今回の取り調べは失敗したようね。私が出るまでもない。彼はマザーに常に守られている。これからも永遠に」


 水野は顔を上げ、乾いた笑い声を高らかに響かせた。突然の豹変に村上は呆気にとられた。


 〝マザー〟


 いったいその存在は何だ? 薄緑色の瞳に不気味な光を宿し、嘲弄的な笑みを浮かべる加地の顔が、脳裏に鮮明に蘇った。得体のしれない巨大な力に押しつぶされそうな感覚に、村上は思わず拳を強く握り締め、全身に力を込めて気を奮い立たせた。


「確かに加地には常識では理解しがたい力があるように思える。それがあなたが言うマザーと呼ぶものなのかはわからない。一体、あなたは何を知っているんです?」


「マザーは私たちを包み込む存在。全てを理解する大いなる意思。その中で私たちは永遠に生きることができる。正寿郎様は人類で唯一、マザーからその強固な繋がりを自らの意思で断つことを許された特別な御方」


 目を細め、恍惚とした表情で悦に浸る水野に村上は背筋が凍った。狂信的な光が宿る彼女の瞳。その声は、徐々に熱を帯び、まるで何かに乗り移られているようにさえ見えた。


「加地はただの器。彼を輝かすための単なる影。正寿郎様の能力は我々人類の理解を遥かに凌駕している。警察ごときが何をしても無駄。高橋なんて彼にとってはただの道端のごみよ」


 水野は勝ち誇ったように不敵に笑い、呆気にとられる村上を置き去りにして、冷たい空気だけを残して部屋を出て行った。


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