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六.IT Translator

「特にこれ以上聞くことが無いのなら、私達は帰らせてもらう」


 黙り込む高橋に、加地は余裕の笑みを浮かべ、席を立とうとした。


「IT Translator」


 (うつむ)く、高橋がボソリと独り言のように(つぶや)いた。


 その一言に加地の動きがピタリと止まった。両目は見開き、口はぽかんと開け、腰を浮かべ固まっている。


 高橋が勝ち誇ったように笑いながらゆっくりと顔を上げだ。


「ITを駆使し、人間の要望をコンピューターに高速変換する人材育成に関する研究。明応義塾大学教授 武井純」


 加地の顔色が一気に青ざめた。冷や汗をかき、、苦悶に歪む顔からは先程までの余裕は微塵も感じられない。そんな加地に高橋はおかしそうに高笑いをあげた。


(武井純? 今度はいったい何者だ?)


 次々と飛び出す名前に村上は困惑したが、加地のうろたえる様子から核心に迫っていることを悟った。


「いいかげんにしろ! それ以上、先生を侮辱すると僕が許さない!!」


 今までじっと黙っていた梶原が顔を真っ赤にして立ち上がった。


「先生がどれだけ大変な思いをして、日々、身を削っておられると思ってるんだ! お前らのような凡人が、世界中の人々が新しい力に目覚める為にどれだけ……」


「そこまでだ」


 加地が部屋が震えるほどの大声で梶原を制した。梶原は顔を青ざめ、口を押えて力なく椅子に座り込んだ。突然の出来事に高橋は一瞬呆気に取られたが、すぐに口元を緩めた。


「新しい力に目覚めるか……思った通りきな臭い話になってきたな」


 肩をすくめて椅子にふんぞり返った。


「山下正寿郎には妙な力があった。〝神秘的な力〟俺は信じちゃいないがな。そして、やつが死にあなたは変わった。まるでやつの後継者のように」


 高橋は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。 


「正寿郎の入会の儀式と、猟奇殺人の注射の跡は共に〝首の後ろ〟という共通点がある。俺はあなたと猟奇殺人との関連性を疑った。しかし、害者とあなたには接点がなかった。当然、教団の信者でもない」


 加地の後ろに回り込み、威圧感を込めて耳元に顔を近づけ(ささや)いた。


「だが、一つ共通点を見つけた。明応義塾大学教授 武井純、それがこいつだ!」


 一枚の写真を机にたたきつけた。五十代半ば。古びた白衣を着た、ぼさぼさの髪をした、どこか狂気を(はら)んだ目をした学者風の男。


挿絵(By みてみん)


(さすがだな)


 いつの間にか加地の顔色は元に戻り、高橋の話に冷静に耳を傾けている。高橋は感心しつつも、容赦なく続けた。


「害者は全員、武井のホームページへアクセスをしていた。そして、あなたも」

 

 高橋は加地を睨みながら席に戻った。


「武井の専門は脳科学。五年前、ある論文を発表してその分野ではちょっとした話題になった。IT Translator理論。情報処理のエリート、その人材育成に関する研究」

 

(IT トラ……?)


 村上はその言葉に眉をひそめた。加地の態度から相当重要なキーワードのような気もするが。理系の知識に乏しい自分にはさっぱり見当がつかない。


(もうちょっと真面目に勉強しておけばよかった……情報工学に関する何かの理論だと思うけど……それが一体この事件とどういう関係があるんだ?)


 息を飲んで高橋の言葉を待った。


「おれはその分野には詳しくはないが、脳科学を生業にする学者にしては、ちと畑違いじゃないか? そう感じ、やつを洗った」


 高橋はおかしそうに口を押えて、肩を震わせた。

 

「思わず噴き出したよ。閉鎖的な大学にありがちな奇人、変人。純粋な脳科学とは程遠い、まったく現在の科学に基づかない、突拍子もない理論。おれは嫌いじゃないが、その分野の先生方には相当、煙たがられていたようだ」


 写真を呆れたように見下ろした。

 

「趣味はパソコンと電子部品の組み立て。好きなアニメは機動戦士ガンダムとドラゴンボール。愛読書は月間ムー。そして」


 一息ついた。


()()()()()()()()を崇拝」


(アインシュタイン……)


 その有名な人物に村上は息をのんだ。ベロを出しこちらをあざける男。


「武井の提唱する理論はぶっ飛んでいた。人間には九十パーセントの利用されていない脳の領域がある。それを人工的に目覚めさせる。そして、その能力はIT、つまり情報処理分野でこそ、もっとも効果的に発揮されるのだと、と」


(まったく、なんて人だ……一体、どうやってこんな情報を……)


 高橋の説明に村上は舌を巻いた。共にこの事件の担当になって、わずか一週間。見当違いの写真に興奮していた自分を思い出し、穴があったら入りたい、今まさにそんな気持ちだった。だが……村上は高橋の言葉を頭で繰り返した。


(加地はこの学者にコンタクトを取っていた。もしかして、学者と共謀して怪しげな実験を主導していた……?)


 村上はあらためて席に座る加地に目を向けた。まるで被害者とばかりに、ふてぶてしく腕を組むその裏に潜む、狂気にも見た悪意に背筋が凍った。


(この加地という男。高橋さんの言う通りだとすると相当の悪だ。教団という組織を隠れ蓑にして、武井と共に荒唐無稽な理論をかざして実験を繰り返し、無垢な若者の命を奪続けた。このことが公になれば一大スキャンダル。でも……)


「それがどうした。たまたま、被害者と私が同じ趣向を持っていたというだけだ。それだけの理由で私を加害者扱いするのかね。証拠は? どんな立派な推理を披露したところで、証拠がなければただの妄想だ」


 加地は高橋を睨み、嘲笑ちょうしょうを浮かべた。村上は悔しそうに唇をかんだ。


(そうだ……明確な証拠がない以上、立件は難しい。何か一つでも加地が実験に関わっていたという事実の確認が取れれば……)


 高橋を見た。何かをポケットから取り出した。


(なんだ? ペンタイプのレコーダ?)


 スイッチのようなものを押したのが見えた。


『……という事は、あなたの考えでは、私たちは人間の脳の十パーセントしか利用していない、そういう事ですね』


 高橋の声が聞こえた。ガサガサと何かの紙の束をかき集めている音がする。


『その通りだ。今見せた実験結果でその可能性がはっきりと示唆されている。かの有名なアインシュタインも言っている。残り九十パーセントの脳を有効活用できれば、人類はさらなる高みに昇華できると」


(誰の声だ? アインシュタイン? まさか……)


 村上は音声に聞き入った。


『しかし、なぜ利用していないか、わかるかね? 利用していないのではなく、できないのだ。なぜか? シナプスだよ。脳はシナプスという線で結ばれている。だが、十パーセントの脳を網羅するシナプスしか人間には用意されとらんのだ。なぜ? そんなことはわしにはわからん。神のみぞ知るだ。私は科学者だ。では、どうすればいいのか。増やすしかないだろう。自然には増えない。では人工的に増やせばいい。わかるかな?』


 高橋は再生を止めた。加地は口を結んで(うつむ)いている。梶原は青ざめ今にも卒倒しそうだ。村上は呆気にとられた。


(武井純? 一体いつの間に。そういえば捜査がはじまって三日程したとき、高橋さんを見かけなかった日があった。すでにその時点で武井をターゲットにしていた? まさにすっぽんの高橋。いやそんな生易しいもんじゃないぞ)


 何かの雑誌でみた、大きな牙を持ちごつごつした甲羅を持つ、外来の凶暴で素早い巨大ガメが高橋に重なった。高橋が厳しい表情のまま続けた。


(しかし、シナプスとは何だ? 人工的に増やすとはどういう意味だ?)


 専門的な内容はわからない。だが、何か異常な実験が秘密裏に行われた……そのゆるぎない事実だけは村上にも理解できた。


「武井は自慢話が好きなようだった。五年前の理論発表から、どれだけ実験を重ねて今の安定した状況に至ったのか。目を生き生きさせて語ってくれたよ」


 くっくっと高橋は腹を抱えておかしそうに笑った。


「当初は実験は難航していたようだった。人工的に増やしたシナプス、人工シナプスというようだが、その精度が荒いのか? 何度もチューニングをして実験をしたがうまくいかない。ある被験者は視力が急激に低下した。ある被験者は常時ひどい片頭痛に見舞われるようになった。急激な血圧上昇による鼻血」


(鼻血……)


 村上は、思わずあの猟奇殺人の写真を思い出した。被害者の顔にこびり付いた、乾いた血痕……。


「だが、まだそれらはましな方だった。言語能力の低下、全身まひ、老化現象。死神を見た、そんな妄想を訴えるものもいた」


(老化現象!!)


 壁に貼り付けられた写真が鮮明によみがえった。若々しい顔が、信じられないほど老け込んでいた、あの異様な姿をした男女……


「とてもじゃないが脳の九十パーセントを開放するなんて実現不可能に思えた」

 

 高橋は残念そうに首をふった。


「〝しかし〟そう言って武井は立ち上がった。〝わしはあきらめなかった。何度も人工シナプスの成分を見直した。被験者の性質も分析した。必ず最適な組み合わせがあるはずだ。何百と実験を繰り返しついに見つけた。九十パーセントの脳内で人工シナプスを安定して保持できる条件を〟」


 うう……。梶原が悲痛な表情でかすかにうめき声をあげた。その様子を高橋は(あざけ)るように眺めた。


「やつは興奮して目を輝かせていた。俺は感動したふりをしてすかさず問いかけた。それほどの大掛かりな実験をいったいどこで実施していたんですか、と」


 高橋は再びレコーダーを操作してボタンを押した。


『さすが武井教授ですね。ご立派な偉業です。でもそれほどの大規模な実験、いったいどこで実施されたのですか?』


 高橋の声。普段とは異なり従順そうな響き。心の中で舌なめずりをする高橋の顔が村上の脳裏に浮かんだ。


『ん……そこはわしも随分苦労したよ。実はある男からの共同開発の申し出があってな。その男はわしの理論に随分と興味を持っていたようだった。あまり詳しくは言えんが、まあそういった趣向をもつ人間があつまる団体の長のような男だ』


 こほん、と武井のきまずそうな空咳が聞こえた。


『男の真剣な顔が今でも思い浮かぶよ。〝脳の真の能力の開放。我々の団員達にぜひ協力させてやってください〟彼らの献身的な協力が無ければ今のわしはおらん。感謝してもしきれんよ』


 ふぅーと武井のため息が聞こえた。そうですか、とどこか高橋のうれしそうな声。


『だが、残念なことにその男は実験の途中で命を絶った。自らも被験者となり、その尊い命が犠牲になった。さすがのわしもその時ばかりは心が折れた。〝実験の中断〟 その思いが一瞬よぎった……』


 ぐすん、と鼻をすする音。どうやら高橋も泣いているようだ。再び村上に、心の中であざけ笑う高橋の顔が浮かんだ。


『すまん、年を取ると涙もろくなってな。しかし、ある男に説得されて実験を続けた。〝死んだ男の願いを、遺志を最後まで貫き通すんです〟一瞬、死んだ彼が蘇ったのかと思ったよ。わしは意を決して実験を続け、ついに勝ち取った……』


 わずかな沈黙。その人の……高橋の囁く声がわずかに聞こえた。


『その男の名前? それは……まあ有名な政治家、言えるのはそれぐらいじゃな』


 高橋はレコーダーを止めた。村上は興奮した。


(有名な政治家……明確に名前を特定できたわけじゃない。だが、武井にコンタクトを取っていた政治家は限られているはず。事件の前後に限定すればさらに。そして、加地の聖星教との接点と武井の供述。教祖の怪しげな儀式と首の後ろの傷。これらを総動員すれば、この実験に加地を関連づける筋道は成立する)


 村上の頭の中で、パズルのピースがカチリとはまる音がした。


(これはいける……! これは、加地を追い詰めることができる、十分な証拠だ!) 


 拳を震わせた村上は加地に目を向けた。無表情で、瞬きのない真っ黒な深淵の瞳。微動だにせず人形のように椅子に座っている。


 〝抜け殻〟


 まさにその表現がぴったり当てはまっていた。高橋はそんな加地を無視してさらに畳みかけた。


「武井はお前に隠れて実験を続けた。ホームページに興味をもった哀れな若者を食い物にしてな……」

  

 加地はに壁を向いたまま、変わらず微動だにしない。


「そして、武井の探し求めていた〝人工シナプスを安定して保持できる条件〟……それが岡本(つむぐ)だった」


 高橋は、吐き捨てるように言った。


(岡本……!? あの天才少年のことか?)


 村上はあの時の報告書を思い出した。わずか十一歳で、数々の難解な数式を解き明かし、高橋すら「天才」と唸った程の偉業を成し遂げた少年。そして、本庁からの不可解な圧力があった、まさに、その日に謎の失踪を遂げた。


(武井はあの子が目的だったのか……そして加地と共謀して連れ去った……)


「若く優秀な人間の〝脳〟それこそが武井が見つけた答え……お前は、そのために兄の起こした事件を利用し、県警に監視カメラに疑惑を持たせ、圧力に屈したあの子は、まんまとお前の手に堕ちた……」


(そういうことだったのか。あの事件の不可解な打ち切りの裏で、そんな取引がされていたなんて……)

 

 村上は呆然と二人を眺めた。正義を信じていた自分たちが貫いた行動が、結果的にこいつらの狂気の片棒を担いでいたなんて…… 怒りと絶望が、村上の胸を締め付けた。


「まんまとのせられたよ。思い通りにいって満足か? しかし、それにたどり着くまでに、いったいどれだけの犠牲を払ってきた? お前の背中にはどれだけの苦しみ、悲惨な思いをした若者の亡霊がのしかかっている?」


 高橋は椅子を蹴飛ばした。梶原は今にも泣きそうに肩を震わせた。


「これは山下正寿郎が始めた事かもしれない。だが、それを引き継いだお前もその罪から逃れる事はできない!」

 

 加地の肩を鷲掴み、至近距離からその顔を睨めつけた高橋の声が重く響いた。


「加地……観念しろ。そして、全てを償え」


(落ちた……)


 村上は全身から、力が抜けていくのを感じた。加地は、抜け殻のように、ただそこに座り続けている。時計を見た。長いようでわずかに時間は三十分あまり。改めて高橋の手腕に脱帽した。


(すごい、やっぱこの人は別格だ。超大物の国会議員。見事にこの人は困難を乗り越えた!!)


 目を輝かす村上に高橋がゆっくりと近づいてきた。


「……あとは任せた」


 すれ違いざまにつぶやかれたその一言に、ふと我に返った村上は勢いよく敬礼をした。


「まちたまえ。私はさっき言ったはずだ。証拠はあるのか? と」


 唐突に加地が口を開いた。村上は首を傾げた。


(今更何を? 気でも狂ったのか?)


 高橋がゆっくりと振り返り、加地を哀れな目で見つめた。梶原が目を真っ赤に腫れ上がらせて叫んだ。


「そうだ。あんな会話の記録は証拠にならない。先生は無実だ。お前たちにはマザーの天罰が落ちるぞ」


 村上は呆れて首を振った。


(もうこの先は自分たちの出る幕ではない。証拠を元に司法に判断をゆだねるだけ)


 高橋は無言のまま、踵を返して再び出口にむかった。


「何度も言わせるな。()()()()()()()


 やけに威圧的な加地の態度に村上は少し不安になった。


(一体、何が……? レコーダーの記録に何か不備でもあるのか?)


 高橋はイラついたようにため息をつき、厳しい表情で席に戻ってレコーダーを加地の鼻先に突き付けた。


「何度でも聞かせてやる。なんなら武井の部屋に入ってから出るまでのすべてをな」


 唸るようにつぶやき高橋は再生ボタンを押した。


……しかし、何も音は流れなかった。高橋は首をかしげて、巻き戻し再生を押した。音はでない。


「ど……どういう事だ!?」


 めずらしくうろたえた高橋の額には、脂汗が滲んでいる。村上も唖然と様子を眺めている。予想外の展開に混乱した高橋の視界の端に、ふと加地の顔が映った。異様な雰囲気。ピリピリと焼ける皮膚の感触。悪魔の様に薄緑色に輝く不気味な瞳。


「目の色が緑色に? こいつは……一体……?」

 

 高橋は、加地を凝視したまま後ずさりをした。


「どうした? そのレコーダーに証拠があるのか? 何も聞こえないようだが」


 高橋は急にめまいがし、その場に座り込み床の上に這いつくばった。加地が立ち上がり、そっと高橋の元に近づいてきた。高橋は磨き上げられた加地の革靴を虚ろに眺めた。一体俺に……何がおこった!?


「やはりお疲れのようだ。これ以上は取り調べも無理だろう。さあ、梶原君。我々がここにいても、もう無意味だ。結論は出た。我々は無実だ」


 加地は不敵な笑みを浮かべ出口から出て行った。慌てて梶原も這いつくばる高橋を横目にその後を追った。


 村上は突然の出来事に混乱した。


 唐突に出て行った二人。


 床にはいつくばる高橋。


 (一体、何が起こったんだ……)


 村上は、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。

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