五.細い糸
加地は壁を見つめたまま微動だにしない。高橋も加地を睨んだまま黙り込んでいる。まるで時間が止まったかのような、重苦しい空気。梶原はその長い沈黙に耐え切れない様子で、顔を真っ青にして震えている。
たまりかねて村上が声をかけようとしたその時、高橋がおもむろに口を開いた。
「この男をしっているか?」
再び一枚の写真を出し、今度はゆっくりと加地の前においた。
ほっそりとした若い男。白い宗教服を身にまとい、輝くような金髪と健康そうな肌。信者らしき群衆を前に、美しく、希望に満ちた笑顔をふりまいている。
加地は一瞥したが今度はわずかに顔をしかめた。
高橋は加地の表情をじっと観察した。その目が一瞬泳いだ。漏らしそうな声をぐっとこらえて大きく息を吸った。
「しらない。誰だね、この男は」
その反応に高橋は確信したようにニヤリと口を歪めて畳み掛けた。
「山下正寿郎。聖星教 福岡本部 八代目当主。ハーバード大学 首席」
(聖星教 当主? いったい何の関係が?)
唐突な人物に村上は首を傾げた。相変わらず高橋の情報網は底がしれない。続く言葉に耳をそばだてた。
「当時の年齢は二十二歳。彼はその見た目の通り、誰からも好かれる若き当主として多くの信者に愛されていた。彼が微笑めば誰もが救われ、どんな悩みもその明晰な頭脳で幸せに導いた」
村上は加地の表情を確認した。先ほど一瞬垣間見た動揺は影をひそめ、再び能面のように壁を見つめている。
「あなたは三十代半ばの頃、彼に相当熱を上げていた。月に何度も東京と福岡を行き来した。相当の額も会社から持ち出した」
高橋が数枚の紙を勢いよく机にたたきつけた。突然のことにぎょっとした村上は、身を乗り出して机に散らばる小さな文字に目を凝らした。
〝加地……則貴様 聖星教 福岡本部 ……御寄付御礼……〟
美しい毛筆で書かれた古びた和紙。眉をひそめた村上はその後の文字に唖然とした。
(篤志 二……千萬也!?)
梶原も口をぽかんと開けて呆然と眺めている。
「聖星教は共信党の母体。その縁もあって三十七歳の時、あなたは政界に進出。四十一歳の時、それまで無名だったあなたは共信党の若きリーダーとして彗星のごとく表舞台に現れた。その端正な顔立ち、堂々とした雰囲気、明晰な頭脳。瞬く間に有権者の支持を得て党首へと上り詰めた」
(共信党の母体……加地は金に物を言わせて聖星教に働きかけ、政界での地位を築き上げたということか……)
村上は手に湧き出る汗を握った。
(そして、その当主、山下正寿郎。その人物が今回の事件に何らかの関係がある……?)
「しかし、その一年前、山下正寿郎はこの世を去っていた。若干、二十六歳、死因は自殺。妙に気になるんだよな。アンタが政界に出る直前に死んでるってのがさ……」
高橋の言葉に村上は息を飲んだ。教団の最重要人物の死。しかも自殺。一体加地とどいう関係が……?
細い目を鋭く見開いて加地を睨む高橋の横顔を、村上は息を飲んで見守った。加地がゆっくりと高橋の方を向いた。瞬きのない真っ黒な深淵の瞳。少し頭をかしげた。
「なるほど、随分と詳しく調べたものだ。高橋さん……だったな。こんな小さな県警にあなたのような人がいるとは。だが、それ以上はもう、およしなさい。自分の身を大事にすることだ」
高橋は少し驚き、満足そうに口元を緩めた。
「やっと本性が出たか。それは脅しか? 見上げたもんだな。警察相手に恐喝とは」
高橋はおかしそうに口元を緩めた。だがその目は冷徹にまっすぐ加地を睨みつけている。
「勘違いされては困るから釈明させてもらう。働きすぎのあなたが体を壊さないか、心配しているという意味だ」
加地はやれやれといった態度で首をすくめ、鋭い瞳で高橋を睨んだ。
「確かにその男の事は知っている。聖星教 八代目当主。言われる通り、私は何度もその男の元に出向いていた。若いころの私は悩み多き青年だった。だが、彼からは多くの事を学び、そして……救われた」
〝救われた〟
その言葉を発した刹那、加地に複雑な表情が覆った。懐かしそうな、悲しそうな、それでいてどこか怒りを感じるような眼差し。少し眉をひそめた高橋は黙って加地の言葉を待った。
「……かわいそうな彼は二十六歳という若さでこの世を去ってしまったが……会社からは正式に決裁をもらって寄付をした。この国には宗教の自由が認められている。彼の死は私には何ら関係がない。一体私の行動に何の問題があるというのかね?」
加地は勝ち誇ったように口元を緩めた。わずかに困惑した表情を浮かべた高橋は、気を引き締めるように背筋を正して続けた。
「確かにあなたの行動には何ら問題はない。業務態度に難があったとしても犯罪でなければ罪に問われることはない。教祖の死とあなたに関連性は無いという捜査結果も出ている」
薄っすらと笑みを浮かべる加地。形勢逆転の雰囲気に安堵の表情を浮かべる梶原。呆然とする村上。
取調室は再び凍るような沈黙で覆われた。
(しかし、この教祖、山下正寿郎。調べれば調べるほど限りなく黒に近いグレーな人物。この男から出る綻びが加地の犯罪を暴く糸口になる)
高橋は写真に目を落とし、福岡県警の報告書を思い返した。
※
〝山下正寿郎〟
美しい見た目と明瞭な頭脳を持つ彼が現われると、信者たちは涙を流して彼の足元にひれ伏した。熱狂的な妄信者を源とした教団は、急速に拡大の一途をたどる。山奥にそびえる怪しげなアジア風建造物を囲う広大な敷地では、白装束をまとった多くの信者が、夜な夜な奇妙な声を上げて俳諧しているという、怪しげな噂もあった。
福岡県警の記録によると、教団に入会後、行方不明になっていると信者の親類から幾度となく相談が寄せられていた。宗教の自由が認めれている以上、明確な証拠がないと強制捜査は難しい。当時の担当者は一般人を装って教団に潜り込んだ。
「心の平和を、皆に希望を」
大きな門の前に出迎えた女性は微笑を浮かべて捜査官を招きいれた。それまでの鬱蒼とした森林が消え失せ、急に開けた広大な景色に彼は一瞬目を疑った。
どこまでも続く壮大な高原。視界をに広がるまぶしく輝く青い空と雲。肌をかすめる心地よい風と、ただよう草木の香り。耳をかすめる川のせせらぎと、小鳥の鳴き声。
遠くの丘では、巨大な木の下で数名が各々、儀式のような所作を一身に努めている。男女が談笑していた。
(なんだここは。まるで天国、いや極楽というべきか)
捜査官はしばらくその場で呆然としたが、言い知れぬ空気に飲まれまいと背筋をただした。
ふと奇妙な建物が点在しているのに気づいた。真っ黒で巨大な球体状の物体。小さな穴がぽっかりと中央に空いている。
「あれは悪魔祓いのほこらです」
遠い目をして説明する案内役の女性の目を見て、捜査官は背筋が凍った。冷笑を浮かべた、いやらしくも蔑んだ眼差し。
「人には必ず悪魔が住んでいます。このような平穏な場所で身を過ごしても、それは突然襲い掛かってきます。その場合はあの空間で心を清めるのです。今のあなたには必要はないでしょう」
(悪魔祓いのほこら……?)
その不気味な見た目と呼び名に戸惑いながらも、捜査官は女性に引きつられて丘を越えた。
下を見下ろすと巨大なインドの寺院のような不思議な建物が見えた。その周囲に天使のような、悪魔のような奇妙な偶像が見える。そピラミッド状の屋根の上には、巨大な円柱が不自然に天高くに伸びていた。
「さあ、我が当主の元へ」
振り返った彼女は優しくほほ笑んで手を伸ばした。
※
建物の中に入った捜査官は、きらびやかに飾られた巨大なホールに息を呑んだ。天井は高く青空のように明るい。奥の大きな祭壇の中央。若く美しい男が微笑を浮かべて座っていた。
「さあ、新たに導かれし者よ。我が名は正寿郎。うるわしき我が庭園へようこそ。あなたはこれから真の自由を手に入れる。何の悩みもない、心からの平和と幸福が目の前にある。何もする必要はない。すべては私が導いてあげよう。ただ、信じて心から受け入れるだけでいい。さあ、こちらに」
心に響く声。耳を傾けるだけで不思議と穏やかな気持ちになった。大きなものに包まれている安堵感。
(なんだろう、この温かな気分は……)
ぼーとしていた捜査官は引き込まれそうになる自分に気づき、はっと頭を振った。
「さあ、正寿郎様の元へどうぞ」
案内役の女性がにこやかに前へ促した。
(俺は引き返せるのか)
捜査官は息をのんだが、意を決して正寿郎と名乗る男の前に向かった。
「ひざまずき頭を下げなさい」
その厳かな声に捜査官は恐る恐る座り込み、前にかがんだ。突然、冷たい感触を首に感じ、思わず後ろにのけぞった。
「さあ、その顔をよく見せておくれ」
手をこちらに伸ばした正寿郎が穏やかに微笑んでいた。端正な顔立ち、吸い込まれそうな瞳、心温まるその笑顔。
突如、捜査官の耳元にどくどくと心音が鳴り響いた。生暖かい空気とほんのりとしたお香の香り。一瞬のめまい。気づけば回りが一面の花畑に変わっていた。
(これは……彼岸花?)
足元に広がる真紅の花弁に戸惑う捜査官に、正寿郎の目が一瞬鋭く光った。
「あなたは選ばれた人間のようです。すばらしい。我が主、マザーもお喜びになるでしょう。彼を我が楽園の清めの滝へ」
記録はそこまでだった。その後、捜査官は行方しれず。団体に取り込まれた。福岡県警は思わぬ失態に捜査記録を慌てて隠蔽した。
だが、高橋の目は欺けなかった。誰もの記憶からも消えていたその事実を執念で掘り返した。
加地は正寿郎に会い、その影響を受け何かに目覚めて政治家になった。その可能性は高い。だが、あまりにも豹変しすぎている。
高橋は福岡県警の捜査記録を元に一つの仮定を立てた。捜査官は正寿郎に触れられた後、妙な体験をした。神秘現象というべき不思議な体験。
だが、高橋はもっと現実的な理由を考えていた。薬物。即効性があり、人の意識に働きかける何か。そして、その場所は首の後ろ。
おそらく、捜査官はそれによって洗脳に近い状態に陥り、教団に取り込まれた。
〝彼岸花〟
あの世と結びつく花。もしかしたら、すでに命を落としているのかもしれない……この教団には闇がある。加地は正寿郎からその入団の洗礼を受け、何かに覚醒して、政治家として大成した。これが加地の不自然な変化の原因。だが……
高橋は悔しそうに奥歯を噛み締めた。
これと加地が岡本紬に接触した事が、どう関係するのかがわからない。正寿郎の死と加地の関係性も。一体なぜ自分はあのとき本庁に踊らされたのか。
ここで行き詰った。
高橋はいらだった。逃げるように新聞に顔を埋める上司を見て、得体のしれない大きな力に屈した、あの時の自分を思い出し、心底恥じた。
だが、諦めていなかった。ここまで調べた事は無駄ではない。いつか必ずどこかで何かと紐づくはずだ。長年の経験でそう確信していた。
そして、この猟奇殺人が起こった。写真を見てすぐに糸がつながった。首の後ろの傷。
このタイミングは偶然ではない。誰も見えない、細い消えそうな糸。自分にだけは、はっきりと見えていた。