三.猟奇殺人事件
「すいません、今戻りました!!」
刑事課に飛び込んできた村上は、一目散に高橋の元に駆け寄り、頭を深々と下げた。
(女神様のためとは言え、勝手に飛び出したのは完全に俺の責任。とにかく、今は謝るしかない)
村上は目を閉じて、必死に心の中で許しを乞うた。部屋を出ようとしていた高橋は、舌打ちをして村上を睨みつけた。
「お前、仕事をなめてんのか?」
高橋の威圧に村上は縮こまり、慌てて名誉挽回とばかりに、先ほどの写真を渡して水野の話を熱弁した。
(これを見ればきっと高橋さんだって……)
高橋は眉をひそめて写真を一瞥した後、再び舌打ちをした。
「バカが……」
呆れたように丸めてゴミ箱に放り投げた。村上は呆気に取られた。女神様の大切な写真が……
「ちょっ、高橋さん。これは重要な証拠っすよ。二十年前の事件と関わりがあるとなると、一から洗いなおした方がいいんじゃないっすか。しかも、この害者、首には注射の跡が無い。今のままじゃ、また前回の捜査のように失敗するんじゃ……」
高橋がぎろりと、怒りの眼差しで村上を睨んだ。
「前回の捜査の失敗だと? ひよっこが偉そうに口をきくな!!」
高橋の怒鳴り声に、村上は小鳥のように首をすくめて、青白い顔でその場に縮こまった。しまった……前回の捜査、あれは禁句だった……高橋はいらいらしたように、歯ぎしりをしたあと、黙り込む村上に、諦めたようにため息をついた。
「で……なんだ、あの写真は? くだらない手に引っかかりやがって。目をかっぽじってよく見ろ。猿でもわかるぞ」
(猿でも……? あっ!?)
村上は慌ててゴミ箱に駆け寄り、くしゃくしゃに丸まった写真を取り出した。猿でもわかる、何か見落としてることがあるということか? 写真を隅々まで目を通し、ふと違和感を感じた。
(男に影がない、近くの柱にはあるのに……もしかして、合成……?)
一瞬で見抜いた高橋の眼力に脱帽し、同時に、こちらを潤わせた瞳で見つめる水野の顔が、グニャリと崩れた。
(女神様、どうして……?)
「ついてこい!!」
青白い顔で口を開ける村上を無視して、高橋が顎で前方を指した。村上は魂が抜けたように、ぼんやりとその先を眺めた。
(取調……室? あっ!?)
ぱっと高橋との昨日の会話が蘇った。
『明日、ある大物政治家を取り調べる。当然、一連の猟奇連続殺人事件に関連するものだ。こいつは、巨額の国費が投じられた国家プロジェクトの主導者だった。そして、同時期に若者の大量失踪があったという、きな臭いうわさもある。もし、この議員が事件に関係しているとなると一大スキャンダルになる。俺は主犯格だと睨んでいるかな』
突然、呼び出されて、目をぎらつかせて、まくし立てるその姿に、村上は呆気に取られた。
(前回の捜査の失敗……完全に、吹っ切れたみたいだ……)
本庁による不可解な捜査の中断。どこか魂が抜けたようだった高橋に、久しぶりに訪れた平和と、村上は、悪いと思いつつも、心が躍っていた。
だが時が経つにつれて、村上に、かすかな違和感が襲った。
いつもなら怒鳴られるような自分のミスにも、どこか上の空の高橋。事件が起こっても全く興味を見せる素振りがない。らしくないその態度に、段々と言い表せないむず痒さがわき上がってきた。
(もう、あの鬼の高橋は見れないのだろうか……)
言葉は荒いがこの人の言うことは常に的を得ている。皆が手をあげた難事件を、いとも簡単に解決してきた姿を、何度も間近で見ていただけに、その沈む姿が痛々しかった。
だが、それは杞憂だった。猟奇事件の担当になって一週間。段々と、あのギラついた眼差しが垣間見え、その発せられる力強い言葉に、村上は安堵の心を覚えた。
(やっぱ、この人はこうでなくっちゃな……)
取調室に向う、湯気沸き立つ高橋の背中を、村上は羨望の眼差しで眺めながら、写真の事はすっかり忘れて、息をのんで後に続いた。
部屋に向かいながら、高橋は言い知れぬ高揚感を覚えていた。村上の写真。今日のこの取り調べを妨害する意図を、組織に何かが紛れ込んでいる事を確信した。前回の捜査の時もそうだった。得体のしれない何か巨大な力。
(総務の水野か……前からきな臭いやつだとは思っていたが、やはり……そして、今度は、絶対に、あの屈辱を味わうつもりはない!!)
※
村上と別れた後、水野は壁の写真を見つめて、情けなさそうに、ため息をついた。
(この方は私のおじさんで……)
我ながら稚拙な説明を思い出し、顔が真っ赤になった。村上は信じてくれただろうか? 慌てて、吹っ切るように頭を振った。
(信じるかどうかは問題じゃないわ! 教団の幹部として、今は何が何でも捜査を妨害しないと。自分がこうしてのんびりとしている間でも、あの方は……)
水野は、悲痛な面持ちで、厳かに両手を組み、目を閉じ祈った。
「我が主、マザー。親愛なる我が当主を、どうか、お守りください……」
※
取調室の前には、珍しく大勢の人だかりができていた。皆、眉をひそめ、ひそひそと心配そうに話しあっている。
(なんだ? 珍しいな、こんなに集まってるなんて……)
「ちょと、すいません! 通りますね」
村上は、意気揚々と人だかりをかき分け、高橋と共に部屋にはいり、机に座る男に目を向け、ゲェとすっとんきょうな声を上げて、青白い顔で固まった。
(か、加地則貴!?……まさか……)
年齢は、四十代前半。第二政党、共信党の党首。若く、今、最も勢いのある政治家。背が高く外国人のような彫の深い顔。白くなった髪を後ろに流し、少し垂れた目元は相手を安心させる不思議な魅力を醸し出している。
一方で、国会では、論理的、攻撃的な答弁で常に野党を圧倒し、まるで催眠商法のようにその場を支配。常に漆黒のスーツを身にまとっていることから国会の死神とも形容され、その恐怖と支配力で、近い将来、彼の力で共信党は第一政党にのし上がるのではないか、という噂もある。
村上は震える手をこらえて、高橋に目を向けた。いくらなんでも、この人の取り調べは……高橋がわずかに眉をひそめて村上を一瞥した後、男に向き合い、表情を和らげて話しかけた。
「初めまして。私は高橋といいます。加地国会議員ですね。こちらの方は……梶原秘書ですか。今日はお忙しい所、捜査にご協力いただきありがとうございます」
丁寧な物腰で深々と頭を下げる高橋を、村上は息を飲んで見守った。尋問前の高橋は、普段とは打って変わって妙に礼儀正しい。だが、これはあくまでも、追い詰める前の表面上の体裁。安心した相手を背後からぐさりと刺す、偽りの仮面。ただ一つ、獲物を逃すまいと睨む目だけは、いつものように、鋭く男を捉えている。
加地は、高橋に一切視線を合わせず、前の壁を黙って、無表情に見つめている。まるで高橋の存在など、初めから認識していないように。
村上は改めて、人形のようにピクリとも動かない加地をまじまじと見た。
(しかし、これ程の大物を相手に取り調べとは……もし、何もなかったとしたら一体、高橋さんはどうするつもりなんだ!?)
背筋がゾッと凍った村上は、冷や汗で濡れた手のひらを握り締めながら、加地の隣に座る若い男に目を向けた。秘書ということだが随分と若い。慣れない取調室のせいか青白い顔をして黙り込んでいる。名前は……先ほど、高橋から渡されたメモに目を向けた。
〝梶原照久(十七歳)〟
閉成高校普通科三年。硬式野球部主将として今年度、県大会決勝に導く。議員出身の家計に生まれ、将来は政界の道に進むべく、現在はアルバイトとして加地の元で研鑽に励む。
(まだ高校生なのに立派だな)
村上は感心して若者をまじまじと観察した。スポーツマンらしく短く刈り上げた髪。小柄だが服の上からでもわかる鍛え挙げられた筋肉。その眼差しはあどけないが、鋭く、人を引き連れる資質を持った者のみが持つ特有の眼力。
(ここに同席しているということは、かなり信頼されているということか。確かに将来有望そうだ)
高橋から渡されたメモ以外は詳しいことはわからない。村上はただ部屋の隅でかたずを飲んで状況を見守るしかなかった。
高橋は眉ひとつ動かさず、品定めをするかのように二人を交互に見つめた後、ゆっくりとその前にすわり、規定通り、黙秘権の行使と弁護士を呼ぶ権利を説明した。加地は変わらず瞬き一つせず、壁の一点を見つめている。
「黙秘権を行使します!!」
高橋の話が終わるや否や、梶原が大きく声を張り上げ、意気揚々と立ち上がった。秘書として先生を絶対に守る。そう思わせる使命感と正義感で溢れる眼差しを一瞥した高橋は、ふんと、うざったるそうに鼻を鳴らした。
異様な雰囲気がその場に漂った。ほどなくして、仕切り直しとばかりに軽く深呼吸した高橋は、ここに来る前に村上に見せた、あの怒りの感情はすっかりとなりを潜め、普段通りの飄々淡々とした様子で話しだした。
「加地則貴。四十二歳。国会議員。第二政党 共信党の党首。1965年4月15日に東京都文京区に旧財閥系資産家の次男として生まれる。
血液型はO型。出生時の体重は五百グラムの超低出生体重児。一時は命も危ぶまれたが、懸命の治療により延命。通常よりやや遅れて一才でずりばいを始め、二歳には走り回るまで急成長。
入園式では頭一つ抜けた大柄な子供として周囲の目を引く。兄弟は十歳年上の姉と五歳年上の兄。兄とよくケンカをして泣かされていたが、年が離れた姉には可愛がれていた……」
(さっそく始まった……)
村上は生唾を飲み込んだ。高橋の取り調べは今まで何度も見てきた。この人が他の刑事と異なる点。それはその裏打ちされた圧倒的な情報量。一体どこから得てきたのか、自分の知らない多くの協力者がいるというのも聞いたことがある。
まさにケツの穴までかっぽじるとは高橋のこと。本人すら知らなかった事実を根掘り葉掘り調べ上げ、取り調べの中で容疑者の首をじわりじわりと真綿で締め上げていく。相手が黙っていようが、いまいが関係ない。耳を塞ぎたくなるような事実を聞かされ、行き場を失った容疑者は、最後には深い絶望の淵に突き落とされ、罪を認めざるを得ない状況に追い込まれる。
すっぽんの高橋。一度噛みついたら骨の髄を食い尽くすまで絶対に離れない。今まさに加地の喉元に、鋭い牙が喰らいつこうとしている。
加地は眉一つ動かさず、その視線は壁から一寸も揺らがない。
「無駄ですよ……先生は何も話しません」
隣で梶原が得意そうに腕を組んでいる。高橋は相変わらず感情を抑えた冷ややかな目で加地を睨んだ。しばらくの沈黙の後、少し口元を緩めて再び話し出した。
「そして、小学六年生の夏休みの夜、あなたはある計画を企てた。頭の硬い父の対する子供ながらの僅かな抵抗。当時外交官だった父の書斎に忍び寄り、ある重要な、国家を揺るがすほどの機密情報を」
「何が言いたいのか、はっきりしてくれないか? 私は忙しい身なので」
加地の顔がゆっくりと高橋の方へ向いた。一切瞬きのない、何の感情も読み取れない人形のような眼差し。
「どうして……先生……?」
梶原は信じられないと唖然と口を開いてその様子を見つめている。高橋は加地の反応にわずかに驚いた表情を見せたが、すぐに満足したように口をゆがめた。
「安心しろ、もう時効だ。今回、取引に使うつもりはない」
特に気していない様子で手を振った。
(完全に高橋さんのペース……)
村上は相変わらずの高橋の手腕に安堵を覚え肩を落とした。大物政治家の取り調べ。さすがの高橋でもかなりのプレッシャーを感じているはず。果たして普段通りに事が進むだろうか? だが、それは杞憂だった。よほど、掘り返されたくない過去でもあったのだろうか……加地はこちらのテーブルに自ら乗り込んできた。
高橋はポケットから写真を取り出し、ぶっきらぼうに加地の前に放り投げた。
「これに見覚えは? 本日、午前九時三分。都内、マンションの307号室。害者の首の後ろには針のような跡……」
五十代あたりの女が鼻から大量の血を流し絶命している。加地は、写真を横目で一瞥した。
「ない」
ただ一言、はっきりと断言し、再び、壁の一点にゆっくりと、冷たい視線を戻した。高橋は再び人形のように固まった加地の横顔をじっと観察した。
(まさかこんな形で、あの事件とつながっていたとは……)
あの忌まわしき、前回の屈辱の捜査の記憶が鮮明に蘇った。