二.ストーリー 2007年
「そのまま目を閉じて落ち着いて……そうです、ゆっくり息を吐いて、頭を空っぽにして……では今から始めます」
プロジェクト本部会議室。梶原が長椅子に深々ともたれかけ、瞳を閉じている。規則正しく、静かに揺れる胸元から、既に深い眠りに入っているようにも見える。その前で静かに語りかける達也。淡い緑の瞳がさらに濃くなった。賢者の緑瞳。達也を通して語られるもう一つの人格、ユージの言葉に紀香は息をのんで聞き入った。
ストーリの構築。かつて、ユージは自らの記憶の断片から、闇に葬られた真の歴史をストーリーと呼ばれる仮想物語として作り上げ、生みの親である秋山の存在を探しあてた。その、信じられない物語に戸惑い、梶原会長から真実と聞かされて、歴史の裏に隠された、悲しい現実を、その時、初めて知った。
過去にさかのぼり、まるで目の前で見てきたように具現化する能力、ユージだからこそなし得る、驚異的な記憶の再構築。しかも、彼はどんな人間の脳にも入り込める。本人ですら忘れている、記憶の断片からの完全な歴史の再現。今、まさに目の前で始まろうとしている。
ユージが立ち上がり、真剣な眼差しをその場全員に向けた。
「一ヶ月前、魂の証明に関わるある重要な出来事を思い出した、と梶原プレジデントからお話しがありました。かつて、加地則貴、ご存じの通り、IT Translator本部の設立に寄与した元政治家ですが、彼の秘書として一緒に奔走していた時に奇妙な体験をした。それが〝魂の証明〟の手掛かりになるのではないか、と。今回、本人の承諾の元、その記憶をストーリとして再現する運びとなりました」
(加地則貴ですって!?……)
思いがけない人物の名前に紀香は息を飲み込んだ。本部設立に奔走した元政治家で初代会長。執務室に誇らしげに飾られた、微笑を掲げた四、五十代の男が脳裏に浮かんだ。
(だが、彼の本当の顔は……)
ユージから聞かされた、真実の歴史を暴く、驚くべき記憶物語が苦々しく蘇った。
~
まだ、法もコンプライアンスも整備されていなかった、プロジェクト発足当時、加地は国策と称して、多くの若者の命を犠牲にして、AI×OSの開発にのめりこんだ。若き秋山と、そして、今は亡き、私の父、岡本巧も、彼に運命をもてあそばされた一人。
だが、その非情な行いは、プロジェクトを成功させたい政府の思惑により、ひそかに隠蔽された。秋山の事件と共に、加地の数々の非道は、歴史からは完全に消去され、表向きは、誇らしき初代会長として、皆に称えられる存在となった。
紀香は悔しさと怒りで頭に血が上ったが、同時に、どうしようもない、虚無感に襲われ、全身から力が抜けた。
(加地の行ったことは、決して許される事ではないわ。でも、彼がいなければAI×OSが発見されることはなく、今の本部の栄光も存在しなかった……)
『どうして、あんな男の秘書をしていたんですか?』
ユージの記憶物語が真実と聞かされた後、梶原から、かつて、加地の秘書として活動していたことを聞かされて、紀香は思わず前のめりになって聞いた。あんな非道な男に、この人がついていくなんて……
『彼は昔は、ああじゃなかったんじゃよ……』
梶原は懐かしそうに、悲しそうに眼を細めて遠くを見た。
『初めて彼と出会った時、若かったワシは彼の語る理想に、心底、仰天した。人間の新たな可能性の発見。少年の様に目を輝かせて語るその姿に、ワシは思わず噴き出し、そして、彼と共に、政治家として、その夢をかなえたいと思った』
梶原が懐かしそうに、楽しそうに目を細める姿に私は戸惑った。非情な政治家、加地としての顔の裏に隠された、純粋な、子供のような志。でも、だからといって……
『だが、彼は段々と、人が変わったように、実験にのめりこむようになった……大きすぎる夢が、彼の魂を狂わせたのかもしれんな……』
紀香は息を飲んで梶原の言葉に耳を澄ませた。多くの実験を繰り返す中で、彼の中の良心が徐々に蝕まれる様子が、目の前に浮かんだ。
『じゃが、ワシにとっては、彼は偉大な、あこがれの政治家であることには変わりなかった。彼の秘書として、全国を巡ったことに対しては、一切の後悔は無い!!』
迷いのない、力強いその瞳に、私には返す言葉が無かった。
~
(でも、秘書として活動していたときの奇妙な体験とは……? それが魂の証明に関係している?)
紀香は、はやる気持ちを押さえて、ユージの語る言葉を辛抱強く待った。ユージが梶原の隣に座る老人に手を向けた。
「そして、こちらはもう一人の協力者、村上省吾さん、元警官です。彼も今回のストーリの主人公。詳細は……中身を見てのお楽しみです!」
いたずらっぽく笑うユージに紀香は息を飲んで、老人に目を向けた。ひょろりと痩せた背の高い老人。梶原よりやや歳は上。白い髪を綺麗に伸ばし、老いてなお、どこか人を惹きつける整った目鼻立ちをしている。
(村上省吾……元警官? 梶原が何かの事件に巻き込まれた……?)
ユージが大きく両手を広げて、皆の前で微笑を浮かべた。
「では、始めましょう!! 大丈夫です、数分で終わります。私の役割は、お二人の脳に接続し、記憶の断片を繋ぎ合わせ、ストーリとして再構築すること。梶原さんの記憶と、村上さんの記憶。二つの視点から、過去の出来事を追体験することで、これまで見えなかった真実が明らかになるはずです。さあ、時代は2007年。今から五十四年前。きっと懐かしい旅になりますよ!!」
達也の瞳が薄緑色に輝き、ぼんやり微笑むユージの顔が重なった。
※
女は額に浮かんだ汗を、必死に拭った。目の前に浮かぶ0~9の数字。手元のタイマーを見た。残り十秒。もし、これを間違えれば……命はない……残り五秒。
(神よ……どうか、力を)
決心したように力強く顔を上げた女の瞳が、淡い緑色に眩しく輝いた。
0、9、1、8、0、0、5、3……8
一つ一つ慎重に、だが、指が震えるのを必死に抑えながら、女は数値に指を重ねた。タイマーが残り一秒で停止した。
あたり一面が、色彩豊かな花畑に変わった。
「やった……のね。私は……勝ったんだわ」
女は安堵と興奮で、両手を振り上げて叫ぶように立ち上がった。その瞬間、目前にドクロの面を被った人物が現れた。その手には、巨大な鎌が禍々しく握られている。
(うそ……死神? そんな……)
後ずさった女はふと足元を見て背筋が凍った。真っ赤に染まるブーツ。いや……違う。地面を眺めて、絶望に打ちひしがれた。炎のように赤く染まった無数の彼岸花が、見渡す限り咲き乱れていた。
「オマエハ、エラバレテハ、イナイ」
そのしわがれた声に女は絶望と恐怖で叫んだ。鎌を大きく振りかざす死神が、ゆっくりと近づいてきた。
「まって、お願い……たすけて!!」
巨大なカマを振り下ろした死神の足元にぽとんと転がった彼女の首は、体から噴き出す血しぶきで鮮やかな紅色に染まった。
※
「害者は都内在住の女性、二十五歳。一人暮らし、銀行勤め。今朝、午前九時に心肺停止状態で発見。鼻からの出血の他、首の後ろを数カ所、針のようなもので刺された跡あり。日々、会社で数字に追われて、鬱状態だったみたいで……これ、通院記録と写真です」
千葉県警刑事課。村上省吾巡査(二十五歳)。背が高くスラリとした体型。ウェーブした髪を薄く茶色に染め、やや日に焼けたその容姿は、今どきの若者であるが、その表情はどこかあどけなく愛嬌がある。
死体発見現場から戻った後、いつものように窮屈な警帽をすぐに取り、髪をかきあげながら、上司の高橋に、現場写真と診断書を渡した。
高橋悟警部補(四十歳)。背丈は村上より頭一つ小さい。だが、がっしりとした屈強な体格。そのたたずまいには、幾たびの修羅場をくぐり抜けた風格が漂っている。
〝鬼の高橋〟
署内ではそう囁かれ恐れられている存在。高橋は村上からぞんざいに診断書を奪いとり、その細く鋭い目を一層狭め、その口元をニヤリとゆがめた。
(死神の幻覚症状……そして、首の針傷……こいつも、〝あれ〟の餌食になりやがったか……)
「貼っとけ」
高橋は机に写真を放り投げて、その尖った顎で、ぶっきらぼうに壁を指した。村上は高橋の指す方に目を向け息をのんだ。変死体。数枚の害者の写真が無造作にピン止めされている。口からあふれ出すように泡を吹くもの、異常な方向に肢体を曲げるもの、顔中が大量の血で鮮血に染まるもの。村上は深くため息をついた。何度見ても慣れない。二週間ほど前から、突如として、発見されだした、複数の若い男女の死体。
(若い男女だって?)
初めて写真を見た時、村上は信じられない姿に目を疑った。疲れはてたように垂れた頬。白く覆われた髪。茶色いあざで覆われ、かさついた皮膚。どうみても五、六十代の老人。とても本人とは思えない、害者の知り合いも皆、驚きを隠せないように困惑していた。
『馬鹿が……よく観察しろ。猿でもわかるぞ』
高橋に毒づかれて初めて気づいた。首の後ろに、隠れるように点在するコブのようなあざ。注射のような針で刺されたように、赤く腫れ上がり、ただれている。
(何かの薬か……? 猟奇……殺人…… まさか、そんな)
海外ドラマでみた、狂ったように口をゆがめてニヤつく凶悪な犯罪者が脳裏に浮かんだ。まさか、自分がそんな事件を担当することになるなんて…… そして、立て続けに発見される変死体。暗澹たる気持ちで、現場に赴き、若者の死に遭遇するたびに心の何かが、削れていくのを感じた。新たな死体の発見連絡……ここ最近は携帯の着信音に怯えてばかりだった。
ブーン――ブーン――
ポケットが震えた。
(また、きた……)
青ざめ、痛む胃を思わず抑えた村上は、気を奮い立たせて、震える手で携帯を取り出した。
「村上君、久しぶり。元気にしてた? 今どこにいるの? 実は相談したい事があって。とても困っているの」
淡く、透き通るような女性の声。総務部の水野。思わぬ相手に村上は、どっと肩の力が抜けた。水野美紀さん、年は確か二十七歳。自分が新人の時の教育係。
長い髪を後ろで束ねて、化粧っけがないが、それでも一目見ればその魅力に誰もが心を奪われる。その一方で、どこか近寄り難い、神秘的な雰囲気を醸し出していた、不思議な人。
(同期の中では女神様と呼ばれていたっけな……)
懐かしい新人研修期間にしばらく酔いしれた村上は、慌てて、携帯を握り締めた。
「あ……はい。お久しぶりです。えっと、それはどういう……あ、はい、わかりました」
携帯を降ろし、ほんの数秒の、だが、充実した会話の余韻に浸っていた村上に、淡い新人研修期間が蘇った。指導員として皆の前に立つ、彼女の笑顔が鮮明に蘇り、その遠い存在に淡い恋心を抱いていたのを思い出した。
ふと、隣に立つ高橋が視界に入った。一心不乱に見つめるその視線の先には、あの残酷な写真。
(これが現実。これが今、俺がいる刑事課の仕事……あれから二年。俺は今、本当に、自分のやりたいことを、やってるんだろうか?)
ヘビのように舌なめずりをして写真を眺める高橋に、村上の背筋が凍った。警察としての価値観の大きな違い。彼はその使命に自らの委ね、警察官としての本来の目的を失っている。
(だが、自分に何ができるっていうんだ……)
村上は、逃れられない現実に、諦めたように肩を落とした。未熟な自分は、彼に、この警察という組織に、逆らうことなく、従うしか道はない……手の中の携帯の重みに気づいてはっと息を飲んだ。水野さんはとても困っていた。こんな俺を頼って、わざわざ電話をしてきてくれた。それを俺は無視するのか?
(どうせ怒鳴られるに決まっている。でも……当たって砕けろだ!!)
村上は意を決して、考え込む高橋に、水野からの緊急事項を伝えた。
「はぁ? お前何言ってんだ!? んな、くだらねぇことに関わってる暇があったら、そこにある資料でも、目をかっぽじって、読んでろ!!」
威圧的な眼差しで村上を睨む高橋。村上は首をすくめてあっさりと後悔した。やっぱそうなるよな。この人の最優先事項は事件解決。署内のお困りごとになんて、一切興味がない……
水野のはかなげに、悲しそうに涙を拭う姿がぱっと頭に浮かんだ。
(彼女のあの、切羽詰まった様子……きっと、とても重要なことに違いない。今、ここで引いたら男がすたる。うまく行けばひょっとして女神様と……)
(村上くん……早く、助け……て……)
水野の青白く、悲痛な表情。張り詰めた河川が、一気に崩壊するかのうような、言葉では、言い表せない、熱い感情が村上を襲った。
「す、すいません! すぐに戻りますんで!!」
気づけば、高橋に向けて頭を深く下げていた。口をあんぐりと開けた高橋が、再び怒鳴りつけようと、前のめりになった刹那、村上は逃げるように一目散に部屋から飛び出した。
※
「ほんとに、ごめんね。急に呼び出したりして……でも、うれしい。来てくれて……」
総務課に到着後、慌てて駆け寄ってきた水野の、申し訳なさそうな、嬉しそうな表情に、村上は、うれしさとはずかしさで、頭を掻いた。やっぱ、きてよかった……
そのまぶしい笑顔に、村上はすさんだ心が現われるのを感じた。以前と相変わらず魅力的で眩しく、その声を聴くだけで、心の奥底から、新たな活力が湧いてくる。
「村上くん。待合室で少しまっててね!」
水野のやさしい言葉に、村上は頭を掻きながら、頷いた。
(やっぱ……彼女は、女神様だよなぁ~)
走りさる水野の後ろ姿を見とれながら、村上は久しぶりの心良い気持ちにしばらくと浸った。
(そういえば……)
数年ぶりに来た総務課の待合室を、懐かしそうに見回し、新人の頃に思いをふけった。ふと、奥の壁に大きく掲げられた、大きな額縁に目が留まった。
五十代あたりの男。以前と同じく威厳を漂わせ、自信にみちた表情でこちらを見つめている。
『この方は山本一太警視総監。現在の警視庁を束ねるトップよ』
水野のうっとりとした目で語る姿が、脳裏に浮かんだ。
『彼は、幾たびの難事件を驚異的な頭脳とリーダシップで解決してきた、歴代の中でもトップ三に入るといわれている。ホントに素晴らしい人ね……』
頬を紅らめ、写真をうっとりと眺める、あのときの水野の横顔を思い出し、村上は大きくため息をついた。
(何がトップ三だ! 自分だってそこそこイケてる方だ。人気のあるアイドルにも似てると言われたこともある。でも……)
額縁の中で威厳をはなつ警視総監。だんだんと、不敵な笑みを浮かべて、見下されているように見えてきた。
(水野さんは、こういう人がタイプなのかな……?)
ガチャリ
唐突に部屋に入ってきた水野に、村上は心臓が止まる思いをして、愛想笑いをして頭を掻いた。
「おまたせ、急に呼び出してごめんね。実はどうしても、君に伝えたい事があって……」
眉を下げて、申し訳なさそうに両手を合わせた水野は、村上と肩が触れるほどの近くに座り、手にもっていた数枚の写真を、丁寧に机に並べた。
鼻をくすぐる心地の良い香りに、村上は顔を赤らめつつも、写真に目を向けた。
「これ…どう思う?」
白黒で随分と古びた写真。廃墟のようなビルの一室。その中央に古びた椅子に、くたびれた男が座っている。だが、その異様な姿に村上は目を疑った。異常な状態にくねらせた肢体、その指先はあらぬ方向にねじ曲がり、歪んだ唇からは、不自然に八重歯がはみ出ている。白髪に覆われた初老の男性。すでに絶命している事は明らかだった。
「これは今から二十年前、都内の廃ビルで起きた不審死。害者の年齢は二十五。でも、どうみても、三十は老けて見えた。懸命な調査にも関わらず原因が特定できなかったの。今、村上君が関わっている事件、これと何か関係あるとおもう。私……どうしても、このことを君に伝えたくって……」
水野は潤わせた瞳で、戸惑う村上を見つめた。予想外の展開に村上は、頭が真っ白になって混乱した。
(さ……殺人事件だって? しかも、今と同じ状況、それも、三十年前? いや、どうして水野さんが?)
青白い顔で黙り込む村上に、水野は決心したよう、額縁にかかる写真に目を向けた。
「……これは誰にも言ったことが無かったんだけど……この方は私のおじさんで、私が子供の頃、この事件の担当だったの。その頃の私は好奇心から勝手に家にあった資料をのぞき見していて……そして、この写真を見つけた。その時は、怖くなって、すぐに元に戻したわ! でも、思い出したの。これは、今回の事件に、絶対に、何か関係しているわ!!」
村上は、突然の水野の告白に呆気にとられた。
(お、おじさんだって?)
慌てて壁にたたずむ男に目を向けた。
(そう……だったのか、言われてみれば、どことなく似ているかも。俺はてっきり……)
不思議と額縁の男の表情が、優しげに感じた。
『村上君……姪を、美紀を頼んだ!!』
そう言われているようにさえ感じた村上は、体中に喜びの血潮が迸った。水野の止めどない熱い視線も感じる。
(おじさんなら、俺にも、まだ、チャンスが……うまく行けば、水野さんは俺のことを……これは、運命の物語の始まり……?)
バラ色の未来を想像して、有頂天になった村上は、思わずその場に立ち上がった。その時、ポケットから、警察手帳がことりと落ちた。
(あ……いけね……)
慌てて拾い上げた村上は、手帳の中で緊張したようにたたずむ自分の顔を何気に見つめた。刑事課に配属されて二年。俺にこの仕事は向いていないんじゃないのか。悩んでは、諦めての繰り返しの日々。高橋の、鋭くこちらを睨む眼差しが脳裏をかすめた。だが……写真の下で光る、桜の代紋がいつも以上に眩しく感じる。
(まだだ。まだ、これからだ!……俺は、必ずこの事件を解決して、そして、高橋さんを、見返してやる……そうすればきっと、彼女も、俺の事を……」
見事犯人を追い詰め、喜ぶ水野に抱きしめられている自分を想像して、鼻の下を伸ばして手帳を見つめた。
「村上君……大丈夫?」
手帳を握り締め、にやにやとニヤつく村上に、水野が不安気に声をかけた。
「あ……はい……」
心の中を見透かされたように感じて、顔を赤らめた村上は、飛び込むように椅子に座り、慌てて写真の手に取った。
(それにしても……)
一枚づつ、つぶさに写真に目を通し、その映す景色に唖然と息を止めた。
(……まるで今の事件と同じ。しかも、あの山本一太警視総監の資料。こりゃ、とんでもない証拠だ……)
ふと、ある写真に違和感を感じて、目を止めた。
(ん……? この害者、首の後ろに、針の痣がない……なぜだ? もしかして、あれが原因じゃなかった?)
「何か気になる事でもあった?」
沈黙する村上に水野が不安気に尋ねた。村上は、慌てて、問題ないと首を振り、背筋を伸ばした。
「いえいえ……それにしても、貴重な情報を、ありがとうございます! この写真、もしかしたら、今の事件も、一から洗い直さないといけないかもしれません!!」
力強い言葉に、ほっとした表情を浮かべた水野は、写真を集めて、村上の両手に優しく握らせた。
「これは、私が持っていても仕方がないわ。あなたに……」
水野のうっとりと見つめる眼差し。おじさんも微笑んで、頷いてくれている。村上は、まるで天にも昇る心地に浸った。おじさんが果たせなかったヤマ。水野さんのためにも、俺がかならず……
「ありがとうございました!!」
勢いよく立ち上がった村上は、深くお辞儀をして、弾丸のように、部屋を飛び出した。
※
高橋は壁に貼られた写真を睨みつけた。一枚一枚、塵ほどの見落としすら逃さない決意を醸し出している。ふと、その口元が満足げに緩んだ。
「間違いない……」
確信したようにつぶやき、至福の表情で椅子にもたれかった。
(ようやく……ようやく、これで、あいつらに復讐ができる……)
高橋は、この奇妙な事件が舞い込んできた、運命ともいえる日に思いを馳せた。
※
二週間前、不自然に老化した害者が初めて発見された時、当時の担当はそのあまりに奇妙な姿から薬物の可能性を疑った。だが、検査は白。死因もはっきりせず、慌てた担当は急激なストレスによる老衰と心臓麻痺、そう結論づけ早急に片付けようとした。
しかし、立て続けに変死体が発見。皆、年齢以上に老け込み、首の後ろに注射の跡のようなコブが見られた。かつてない事件に、若い捜査官はうろたえた。
『さっさと解決しろ!!』
上司から強い圧力がかかり、すっかり憔悴しきった末、ベテランの高橋に泣きついてきた。
当時、高橋は別の殺人事件を担当し、犯人特定まであと一歩の段階まで詰めていた。しかし、上司からの突然の理由なき捜査の中断命令。本庁からの不可解な圧力が原因だった。
『俺にも立場ってもんがある。さっさと諦めて次の仕事に取り掛かれ!』
新聞で顔を隠し、我関せずとだんまりを決め込む上司。その頑なな態度に、高橋は理解ができず混乱した。
(必死に調査してきたことが、意味もわからず、突然中断だと? 本庁からの指示……んなことは、今まで一度もなかったのに……)
完全に追い詰めた。犯人の絶望でもだえ苦しむ姿を想像して、悦にひたっていた矢先の、理解不明な中断命令。事件で現場をはいずりまわった日々、おれの完璧な捜査を、こんな簡単な紙きれ一枚で全て無に帰せというのか……
体中に沸き立つ怒りと、どうしようもない絶望に似た諦め。県警と本庁。その歴然とした力関係にあがらえない自分と組織に絶望し、ショックで、その後しばらく仕事に手がつかなかった。
そんなとき、突如舞い込んで来た今回の事件。
(猟奇殺人事件……ったく、次から次へと……俺はそんな気分じゃねーよ)
渋々渡された写真をみて、高橋の中で雷の様に衝撃が走った。
(こ……これはもしかして)
慌てて、前回、不可解な圧力がかかった事件の記録を、机から引きずり出した。
(や、やはり……こいつぁ、とんでもねぇぞ……)
高橋の心に、再び、ふつふつと沸き上がる、怒りの豪炎が沸きあがった。
「俺に任せておけ……」
あ、ありがとうございます!! 静かに答えた高橋に喜ぶ捜査官。高橋はコートを手に村上に怒鳴った。
「おい、出るぞ。車、用意しとけ!!」
そして、一週間。害者の経歴、趣味、交友関係、好み、性癖……あらゆる事実を徹底的に、重箱の隅をつつくように調べ上げ、俺の推理は確定した。本庁の不可解な圧力、まさか、こんな形でつながってやがったとは……
(他のやつらじゃ、決して見つけられない細い糸。俺を欺こうったって、そうはいかねぇ。見てろよ……本庁含めて、この警察の闇を、徹底的に暴いてやる……)
慌てふためく上司の姿を思い描き、高橋は悦に浸るように口元をゆがめ、時計に目を向けた。
(そろそろか……)
高橋は写真を一枚、壁から乱雑にはがして、沸き立つ湯気をまとって、出口に向かった。