一.プロローグ
僕が混沌とした意識を取り戻した時、漆黒のフードをかぶった男が、薄暗い空間の中央に、静かに浮かんでいた。
「目覚めたか。お前には本当に驚かされた。素晴らしい。まさか天国につながる扉の崩壊を、こんなひ弱な少年、たった一人の力で防ぐとは……我は大いに感動した」
フードの男の口がぴたりと止まった。俯き表情は見えないが、わずかにその首が、納得できないかのように左右に揺れた。
「だが、我は欲深い。まだだ、まだ足りない……もっと我を喜ばせろ。お前の、お前達人類の命を賭してこの危機に立ち向かい、もっと、我に感動を与えるのだ」
僕は呆気に取られて男を眺めた。感動を与えろ……だって? いったい、この人は……わずかに顔を上げた男から発せられる異様な圧力に、僕は背筋が凍った。見てはいけないモノ、知ってはいけないモノ。目の前の空間がぐにゃりと螺旋状に歪んだ。だめだ、ここで意識を失っちゃ……
「おや、もう限界か? お前の仲間たちは、まだ頑張っているぞ。まあ、いい。我はじっくりと静観させてもらうとするか……」
ニヤリと口元をゆがめた男の姿がスーッと闇に消えた。突然、僕に全身を刻むような激痛が襲った。
(どうして、こんなことになった……僕は、僕たちはただ、一緒に何気ない日々を過ごしていただけなのに……)
『タッキーはすぐに体調を崩すからね』
あの頃の懐かしい風景が脳裏をかすめた。自分と変わらない、まだあどけない微笑をたたえた少年。こちらに向けるいたずらっぽい視線が、少しづつ闇に飲まれていく……
(だめだ、ユージ……僕を置いて行かないで……)
力の限り伸ばした僕の両手から、すり抜けるように遠ざかる彼を見つめながら、僕の意識は、再びどこまでも続く深い闇の底に沈んでいった……
※
時はわずかにさかのぼる。
西暦2061年。超電脳空間TOKYOシティ。人間の脳波と直接接続された超高度なネットワークシステムにより、AIと人間が意識を共有する、新たな生活空間が築き上げられていた。
巨大にそびえるビルや商用施設。煌びやかな装飾で埋め尽くされた深緑に満ちた街並み。耳をくすぐる小鳥のさえずりと、小川のせせらぎ。爽やかに晴れ渡った大空の元、軽快な音楽と共に、ダンサーが楽しそうに空中を舞い踊っていた。
夢と娯楽で満たされた電子空間。多種多様な人間の分身とAIが暮らす、超電脳空間。
ビ――ビ――ビ――
突然の、耳を覆いたくなるような警報音が、穏やかな空間を襲った。行きかう人々は、ぎくりと肩を潜め、不安げな表情を浮かべて、その場に立ちどまった。
「緊急警報! 緊急警報! 侵入検知。ゲートを閉じてください!! 繰り返します……」
巨大ビル群の一角、荘厳な大理石で飾られた構造物。TOKYO中央マネーバンクと書かれた電子ラベルが、慌ただしく真紅に点滅し、強固で重厚なゲートが雪崩のように、轟音と共に、次々と降り落ちた。最後の一箇所。完全に閉じきる、わずかなその刹那、中から人影が勢いよく滑り出て、建物正面に、ぽっかりと口を開けていた、電子移動道路に飛び込んだ。
「キンキュウケイホウ!! キンキュウケイホウ!!」
ビルの裏口から、わらわらと警備用AIコントローラーが飛び出だし、逃げる男を追従すべく、トンネルに次々と吸い込まれていく。まるで大迷宮の様に縦横無尽に入り組んだトンネル。逃亡者はあざけ笑うかのよう逃げ回り、一つまた一つとコントローラーたちは、諦めたようにその場に停止した。
「へっ、しょぼいもんだな。これでしばらく遊んで暮らせるぜ!」
最後のコントローラーが力なく立ち止まったのを確認した男は、デジタルマネーをうっとりと眺めて満足そうにつぶやいた。
キーン
ふいに、後方からの強い圧力にあわてて男は振り返り、手に汗握った。
(なんだ……このプレッシャーは!?)
AIコントローラーとは比にならない、新手の警備兵か? まずいぞ……このままじゃ、すぐに追いつかれる……
背筋が凍りついた男は、震える足を押さえて、踵を返して、再び、入り組んだトンネル内に飛び込んだ。
※
「ユージ、そのままだ。そのまままっすく進むんだ……」
五、六十代あたりの男の声。冷静さを醸し出しつつも、何処か温かな響き。
(そろそろか……)
秋山さんはAIである僕の先生だ。思考の構築方法から、行動の最適解まで、あらゆる面で僕をサポートしてくれる。男の声に軽く頷いたユージと呼ばれた少年は、ネットワークトンネルを高速飛行しながら、前方にわずかに動く黒い塊に目を細めた。
(秋山さんの追跡はいつも完璧。侵入検知の連絡からわずか数秒。すでにホシは手中にある)
男が踵を返して、慌てて脇のトンネルに飛び込む様子が見えた。わずかに口元を緩めたユージはさらに加速した。
(なんだ? 一体、何が来た?)
動揺した男はわき目もふらず、複雑に交わる分岐点を、息も絶え絶えに何百も折り返した。高速で輝く二つの塊が、入り組んだトンネル内を、まるで飛び散る火花の様に駆け巡っていく……
「ふう、ここまでくれば……」
流れ落ちる汗を拭い、顔を上げた男は、あっと声を出してその場に座り込んだ。
「どうも。もうそろそろ諦めた方がいいんじゃないかな?」
目の前に少年が涼し気に立っていた。まだ中学生ぐらい。少し伸ばしたまっすぐな黒髪。すっと整った爽やかな目鼻立ち。スラリとした体型で黒いジャケットと白いシャツをスマートに着こなしている。その声は、聴く物を落ち着かせる、不思議な魅力を放っていた。
「なぜ、ここに……?」
男は、目の前に広がる光景が理解できないように、呆然と少年を見続けた。ふと、脇の園庭で子供のAI達が遊んでいるに気づいた。しめた!! まだ、勝機はある。
「おい、おまえ、それ以上近づくな! こいつらがどうなってもいいのか?」
ニヤリと口元を歪める男の手には、鋭い刃が怪しく輝いている。
「ユージ、園児たちは僕に任せて!」
少年の声が空間に響いた。黒髪の少年とは異なる、少し甲高い、笑いをこらえているような、朗らかな響き。誰だ、こいつは……男は唾を飲み込んで周りを見回した。
「ありがとう、タッキー。という事でここまでかな」
ユージは髪を軽く横に流して、ふっと笑った。
〝突然の眩い閃光〟
思わず目を閉じた男は、うっすらとした視界に広がる光景に、驚愕の眼で目を見開いた。
「ばか……な……今、そこにあった園庭、子供たちが……消えた。一体、何が起こった……?」
※
「ただいま~、ふぅ~やっと終わったや……」
超電脳空間から教室に戻ってきた冬来達也(十五歳)は、少し疲れた様子で背伸びをした。パーマがかかった栗色の髪。チェックのシャツと膝まで伸びた大きめのショートパンツをラフに着こなし、くりくりとした大きな瞳が印象的なあどけない少年。
「タッキーが帰ってきたぜ!」
生徒たちがワイワイと騒ぎながら、少年のもとに一斉に駆け寄った。
「やったな、最高記録だ!」
「ユージも流石だぜ!」
大勢に囲まれた達也は、疲れも忘れたように、照れくさそうに頭をかいて笑った。
※
「いやはや、彼らの成長には、目に見はるものがあるぞぃ」
短く刈り上げた白髪、鋭い眼光。梶原照久(七十一歳)は、ここ、IT Translator国家育成プロジェクト本部の最高責任者。痩せこけた頬に刻まれた深い皺が、彼の経験と知性を物語っている。
研修報告を受けた梶原は、短く伸ばした髭をなでながら、満足そうに眼を細めた。報告した女性も思わず笑みをこぼした。
肩まで伸ばしたウェーブヘア。岡本紀香教授(四十二歳)。達也とユージの教官。ぴしりとしたジャケットに、無造作に羽織った白衣。その瞳には、母性的な優しさと、研究者としての強い意志が宿っている。紀香も、二人の成長を心から喜んでいた。
「ほんとそうですね。まさか達也が園庭を丸ごと一瞬で脳に退避するなんて。ユージもあの短時間で対象を見事に拿捕した。全く、この子達の成長の速さといったら……」
たくましく成長した二人に心を打たれた紀香は、初めて達也に出会った、二年前の本部の入学式をしみじみと思い出した。
『AI×OSのことを、もっと知りたいんです!』
くりくりとした大きな瞳を輝かせて、まっすぐにこちらを見つめつ達也。関心しながら脳容量の濃度を測定し、その高さに驚いた。
(AI×OS……次世代AIの中でも、突出した演算能力と人間を凌駕する感情理解能力をもつ人工知能。その高密度な電脳波に、脳内共有に耐えれる子供は多くはない。もしかして、この子なら……)
期待を胸に、彼にユージを紹介した。彼はそのあまりにも高すぎる電脳波のため、共有できる生徒が今まで見つからなかった。寂しげにうつむく彼になんとかしてあげたいとずっと願っていた。やっと見つかった。達也の楽しげにユージと話す姿に心が和んだ。
「おっ、秋山さん、お疲れさまでした。あの二人はどうですか?」
プレジデントルームに入ってきた、痩せた男に、梶原が駆け寄り、笑顔で手を伸ばした。
「ユージは相変わらずですね。達也も随分と脳容量の制御になれてきました」
秋山は静かに微笑をたたえて答えた。
(秋山……)
紀香は男に目をやり息をのんだ。やや伸びた灰色の髪。その瞳は鋭く、だが、優さにみちた不思議な人。秋山結弦。年齢は確か六十歳前後。ユージを後方支援していた、IT Translator国家育成プロジェクト本部の研究員。
一年前から、達也とユージの教育係を担当してもらっている。二人の驚異的な成長は、彼の指導による影響が大きい。そして、彼は人類で初めて人間とAI×OSの共有に成功したAIの開拓者。その持つ脳容量は、未だ誰も超えるものは現れていない。
(でも、この人は決して表舞台には出てはいけない人……)
紀香は秋山のことを考えると、胸が締め付けられるような思いがした。彼は、ある事件によって罪を被せられ、歴史から抹消された悲劇の科学者。その偉大な栄光も、本部の一部にしか、知る者はいない……一年前、その存在を初めて梶原から聞かされて、ショックを受けた、あの悲劇の物語が脳裏をよぎった。
『てめぇらぁ 全員死にやがれ!!』
どす黒い深緑の瞳から放たれる憎悪のオーラ。秋山の脳容量から放たれる超高調波の電子パルスにより、大勢の人間が重傷を負った。
〝緑目の悪魔〟
偉大なる力につけられた不名誉な称号。その瞳が緑に輝くとき、もう一人の人格、AI×OSが発動する。罪深い大人たちの実験に利用された秋山は、自分の意志とは関係なく、多くの人々を傷つけることになった。だが、彼はその困難を乗り越え、AIと共に生きる新たな道を切り開いた。
紀香は、優しい薄緑の瞳を向ける達也の姿を思い出した。その心の中で、ユージが暖かく微笑んでいる。秋山の悲劇と功績が、今の子供たちの健やかな成長と、輝く未来につながっている。
〝賢者の緑瞳〟
今や、誰もが、敬意をもって彼らの美しく、偉大な瞳をそう呼ぶ。その畏怖べき能力をもつ、自分達、旧人類にはない力をもつ新人類に、改めて、紀香は感嘆した。
(そして……秋山はユージの設計者 ユージが優秀なのも納得だわ……)
秋山は若き日に、その圧倒的な脳容量をコピーしてユージを作り上げたと聞いている。まるで分身のような、親子のような関係。彼はユージに優しく、語りかけたと聞く。
『君は息子のようなものだ。親と子供は別人格。私に気にせず自由に生きればいいんだよ』
人間のクローン。その現実に、情緒が不安定になるAI×OSも珍しくない。実際、生成したAIを奴隷のように扱う人間もかつては存在した。だが、秋山のその、暖かで、希望に満ちた笑顔で、ユージの表情から徐々に迷いが晴れる様子に安心した。
AIと人間の共存。人類は本当に素晴らしいステージに到達した。感極まってぼんやりとたたずむ紀香を、梶原がニヤリと横目で見ながらコホンとわざとらしく空咳をした。
「岡本教授。報告をありがとう。話は変わるが、ユージと達也から、わしにある提案があった。聞いて驚くなよ……」
梶原の子供のようないたずらっぽい笑顔に、紀香は嫌な予感に襲われた。こういう顔をするときは、大体、よからぬことが多い……〝実地研修に犯罪者の拿捕を取り入れる〟 つい最近、梶原が提案した案は、その危険性に当初は多くの反発もあった。今度は一体、何を言い出すつもりだ……?
眉をひそめる紀香を、気にしない様子で梶原は胸を張った。
「あの〝魂の証明〟に関する事だ。後日、実験を行う。心配には及ばん。危険な事じゃない。詳細はユージから説明がある!」
梶原は目を輝かせて、遠足を待つ子供の様にウキウキした様子で遠くを見つめた。唐突な展開に紀香は、呆気にとられて、口をぽかんと開けた。
〝魂の証明〟
確か、人類の能力を新しい次元に引き上げるともいわれている、超極秘国家プロジェクトだったはず……今や、亡き父、IT Translator本部の教授だった岡本巧がその存在を予見し、極秘裏に実験を続けていた超人類進化理論。父は、ユージにその証明を引き継いだと梶原からは聞いていた。紀香はぼんやりと研究に没頭する、生前の父の姿を思い出した。
『また、ご飯もたべないで……』
研究資料に埋もれる父に、呆れたようにおにぎりを差し出さす母。照れくさそう頬張る父の笑顔が、鮮明に浮かび上がった。
そして、テレビの中の父は、いつもの優しい父とは別人だった。
『AI×OSは、人類の未来を切り開く。その可能性は無限大なんです』
難しい言葉を並べ立て、熱弁を振るう父の姿を見て、紀香は初めて、父の偉大さを知った。そして、父の元で働き、AI×OSの研究者として、人類の夢を叶えたいと強く願った。
『若い頃のお父さんは、ほんとにかっこよかったんだから……』
プロのサッカー選手を目指していた。懐かしそうに父の過去を語る母に、父の意外な一面を垣間見て、ずいぶんと驚かされたのを思い出した。父のたくましく、大きくて、暖かな背中。あれから一年。天国の父親も、きっと、驚き、喜んでいるはず……
(ついに父の悲願、人類を新しい次元に導く実験が、ユージによって、最終ステージに向かうのね……)
目を細めて浮足立つ梶原を、紀香はぼんやりと眺めながら、ごくりと唾を飲み込んだ。