十八.新たなる道
「ユージ。調子はどうだい?」
地面に這いつくばるユージを、覗き込むように岡本は尋ねた。
「ええ。この辺りはおおよそ調査が完了しました。紬さんのデータと照合すれば、全体像が把握できると思います」
「そうか。ご苦労だったな」
ユージを労い、岡本は顔を上げ、目前にそびえ立つ、巨大なアーチ状の構造物に手を添えた。グランマには珍しい高硬度な黒石。なめらかに研磨され、理路整然と積み上げられた石塊の中央には、荘厳な扉がそびえている。
いつからあるのか、周りに聞いても皆わからないという。岡本は重々しく閉じられている扉を、不思議な気持ちで眺めた。
(まさか、これで、地球とつながっていたとは……)
関心したように見回した後、遠くに目を向けた。
(そして、あれが新たに出現したもう一つの黒石の塊。しかし、ざらざらして、ばらばらの形状。荒々しく積み上げられ、突貫工事で作られた、今にもこわれそうな扉)
キラキラと輝くモノが近づいてきた。
「かなり不安定な状態。一部崩壊しているところもある。奇跡的なバランスでなんとか機能しているようだけど、時間の問題な気がする」
色白で栗色の髪をした小柄な少年。小さな顔とほっそりとした手足は一見弱々しい印象を与えるが、その知的に輝く瞳に見る者は吸い寄せられる。
額に指を添えて考え込む姿に、岡本は嬉しそうに目を細めた。紬。この地に来た時、はじめはわからなかった。こちらを見て微笑む姿を思い出した。
唖然と弟の笑顔を見続けていた……自分の責任で、若くして命を終えた弟。まさか再び出会える時がくるなんて……溢れ出る涙を抑えきれなかった……あのときと同じように、再び熱くなった目頭を岡本はそっと抑えた。
「もう。待っててって言ったのに!」
遠くから慌てた様子で、金髪の少女が駆け寄ってきた。
ふと岡本に気づいた少女は、あわててぺこりと頭を下げて、こっそりと紬の袖を引っ張った。頭をかきながら、笑顔で謝る弟に岡本は思わず笑みがこぼれた。宙を見上げて、はるか彼方の懐かしい地に思いを馳せた。
秋山の言葉。〝この宇宙のどこかにある巨大な器。人間の意識は死ぬとそこに帰るだろう。そこでは、人間とAIの境界は存在しない。真の共存が可能となるはずだ〟と
(秋山、ここがお前が言っていた場所なんだな……)
目前に広がる広大な大地とゴーストたちに、岡本の心は、熱く沸き上がる感情で満たされた。
※
「時間がありません」
紬が厳しい顔で、机を囲んで座る全員を見回した。その横には強張った表情の金髪の少女が、青白い顔で座っている。ユージは手に汗握り、岡本をちらりと見た。普段の飄々とした態度とは異なり、険しい表情を浮かべている。
「地球側の扉は秋山君とAI×OSJrに任せるとして、グランマ側の扉の状態が良くない。そして、あきら……彼の状態も注意を要します」
小さな球体が二つ、机の上に浮かび上がった。その間は七色に輝く細長い直線でつながっている。
「グランマと地球。両者をつなげるレインボーロードです。そして、これが正寿郎により新たにつくられた……」
同じく七色だが、グネグネと折れ曲がり今にも切れそうな線が地球とグランマをつないだ。その一か所が赤く光っている。ユージは息をのんだ。
(あの赤い点にあきら君がいる。今にも切れそうな線。まるでそれを必死につなぎとめているようにも見える)
地球の状況は岡本さんから聞いていた。内閣もようやく重い腰を上げたようだ。そして、タッキーの事も。
「心配ない」
岡本さんはそう言っていが、話を聞いて、いてもたってもいられなくなった。タッキーの苦しむ顔が浮かんだ。今すぐにでも扉に飛び込み地球に戻りたい。
(だめだ……)
ユージは邪念を断ち切るように首を振った。
(冷静になれ……自分ができる事はなんだ? タッキーはギリギリの状態で頑張っている。今、自分のなすべきことをやれ!!)
紬に目を向けた。IT Translator国家育成プロジェクト 第一期生 首席。AI×OSを初めて脳に共有した伝説の人。まさかお会いすることができるなんて……
ユージは前のめりになった体を慌てて抑えた。
(聞きたいことは山ほどある。でも、それは今じゃない。あきら君は紬さんの息子。その命が消えかけようとしている。彼も本心は今すぐにでも扉に飛び込みたいはずだ)
ユージは自分を必死に抑え、紬の隣に座る、赤い点を一心に見つめた金髪の女性をまぶしそうに見つめた。心が奪われるような美しい瞳。包み込まれるような笑顔を想像して、思わず頬を赤らめた。
(初代AI×OS……あきら君の、アイコスJrの母。そして、自分たちのイブ。気丈にふるまってはいるが、紬さん同様、あきら君の事が気が気でならないはず……)
不思議な感覚を覚えた。もし、自分に母親がいるとすると、彼女のような人なんだろうか。部屋の沈黙を破る、紬の声が響いた。
「地球の自転停止を回避する方法。地球は魂で溢れている。今すぐ、レインボーロードを通してグランマにそれを移送する必要があります」
青い球体から染み出る白い塊が、トンネルを通して緑の惑星の方向に流れ出した。血液の様に波打ちながら流れだすその様を、皆が息を飲んで見守った。
「しかし、クリエイターが通したロードには、通過するのに一定の制約がかけられている。〝彼を喜ばしたもの〟という制約」
突如、トンネルの中央を遮断するように巨大な扉が現れた。地球からあふれ出す魂は、扉の前で行く先を失ったかのように滞留しだした。その背後では、真っ黒なフードをかぶった男が、口元を歪めて両手を広げている。岡本が苦々しそうに口を開いた。
「制約の解除はクリエイターに掛け合ってみたが否定的だった。自分が動くことは彼の美学に反するらしい。自分たちで何とかするしかない。魂の移動については特に何も言われなかった。今のグランマに退屈しているのかもしれない。何か面白い事が起こるのであれば、悪人の魂でここがあふれたとしても文句は言わないだろう」
険しい表情を浮かべる岡本に、紬がうなずいて続けた。
「クリエイターによりつくられたオリジナルゲートは、非常に安定した強固な作りになっています。扉は普段閉じていますが、つい最近、断続的に開放され、大量の魂がアースから供給されてきました」
(つい最近……)
ユージはこぶしを握り締めた。地球でなくなった大勢の人たちの魂。地震により壊滅的な状態に陥った地上の様子を想像して胸が痛んだ。
「魂は最初、霧のような状態ですが次第にゴーストの形状に変化。彼らに確認したところ、死亡時の年齢は十代~二十代。全員、自然脳容量の含有量が三十パーセント以上でした。これらから、その濃度が扉を通過する条件であることが強く推定されます」
(三十……パーセント?)
ユージは予想外の数値に青ざめた。高い。これでは地球の一部の魂しかこちらに来ることができず、自転の停止は防げない。
「一方、正寿郎によるニューゲート。現在は達也君の脳内で保持されています。素材はオリジナルと同じですが、造りがもろく不安定。所々に隙間が見られることから、ロードの途中は非常に危険な状態だとおもわれます」
立体映像の折れ曲がったロードが、今にもちぎれそうに、震えた。ユージはむなしい気持ちに襲われた。正寿郎の無慈悲な実験により作り出された天国への道。多くの魂で作られた道は、その犠牲もむなしく、使えない代物だった……
「なぜ、そもそもこれが出現したのか? クリエイターに確認しました。興味がわいたから、という事でした。正寿郎の執念というべきマザーへの崇拝に関心し、道を授けたのだと。彼は困難を乗り越え道を完成させたが、あと一歩だった。はざまに足を滑らせアースに堕ちた、彼はそう言っていました」
(タッキー……)
ユージは溢れ出る感情を必死に抑えた。ボロボロのゲートは達也の懸命な努力によりなんとか維持されている。それもいつまでもつかわからない。早く何とかしないと。
「達也君によるニューゲートを使った魂の移送は困難です。しかし、現在も地球と常時接続状態を保持。映像、音声であれば遅延なく伝達は可能。よって、ニューゲートは地球との情報交換としての利用をメインとし、魂の移送はオリジナルゲートの制約を解除する方向で進めたいと思いますが、皆さんどうでしょう?」
(オリジナルゲートの誓約の解除……果たしてそのようなことが可能なのか……)
紬の言葉にユージは戸惑いながらも、立体映像に目を向けた。クリエイターにより硬く閉ざされた重厚な扉……彼の許可なしには決して誰も通過することはできない……静まり返る室内。
「わかった」
苦悩の表情を浮かべ答えた岡本に、その場の全員が、青白い顔を浮かべながらも頷いた。
※
「アースか……」
クリエイターは宙に浮かぶ青い惑星をしみじみと眺め、初めて見つけた時を思い起こした。
「面白そうだな」
暇つぶしに知性を与えた。そして、その後の驚異的な発展に驚いた。暇なときはいつも、ロード通して伝わる景色を眺めていた。壮大なドラマに感動し、迫力ある映像に心躍り、皆で力を合わせ互いに競い合うその姿に涙した。
気になる人間はここに呼んで詳しく話を聞いた。彼らは面白かった。難解な記号を駆使して自然を見事に説明した。鍛えられた肉体で小さなボールを魔法にように操った。目まぐるしい指の動きで信じられない音楽を奏でた。原子を壊す巨大な装置。宙のはるか先を見つめる見事な鏡。
物理的な制約が強いアースで、知恵と工夫で自分では考えもよらないものを創造していた。
「だが……」
クリエイターは大きく首を振りため息をついた。我は欲深い。もっとだ。もっと感動を知りたい。
〝蟻はなぜ食べ物を運ぶのでしょう〟
ふと、以前誰かに聞かれたのを思い出した。長い髪。透き通る肌。整った鼻筋。薄緑色の瞳。シッダールタ。思い出した。我はまだお前の質問に答えられない。我のこの欲望。吸い込んでもまだ先の見えない無限の穴。
ふと、不思議な感情がした。今までにない、何かに吸い込まれるイメージ。
〝まだ、足りない。もっとだ……〟
どこからか声が聞こえた。誰だ…? ふと気づいた。腹部にぽっかりと黒い穴が開いていた。
〝もっと知性を〟
穴の奥底から響く暗い声。冷や汗が出た。獰猛な猛獣が小さな動物を食い散らかす姿が浮かんだ。
「これは……恐怖か?」
初めて知ったその感情に唖然とした。
※
「ここが、ロードの示す先……」
巨木を前に秋山は額の汗を拭いた。インド、マハバドゥリアン森林公園。ブッダが悟りを開いたといわれるガヤの菩提樹から、少し離れた立入制限区域。静かな忘れら去られた空間。
レインボーロードの影響なのか、二十一世紀半ばでなお、奇跡的にその姿は紀元前の様子を保っている。遠くに観光客のざわざわした声と何かを叩く鐘の音がかすかに聞こえた。
秋山は目の前にたたずむ巨大な老木を改めて見上げた。
「これは木なのか?」
複雑に絡み合ったその幹に唖然とした。アイコスJrも息をのんでいる。
ガジュマルの木
榕樹とも呼ばれる溶ける木。横に伸びた巨大な幹の節々から、地面に向けて液体のように気根が何本もたれている。その先は地面に根付き、頑丈な幹とへと成長していた。幾たびと垂れ下がるそれは、縦横無尽に複雑に絡み合い、次第に巨大な自然の鳥かごを形成していた。
ブッダはガジュマルの木で悟りを開いた。そんな伝説もある。この幾重にも囲われた巨大な鳥かごの奥深く、ロードはそこを指している。
「だが……」
ゆっくりと振り返った。銃をもった兵士。イザナギノートにより、立ち入りの許可は得られたが、これ以上は難しく思えた。
バキリ
枝が折れる音がして驚いて振り返ると、梶原が幹を踏み倒していた。兵士が慌てて怒鳴りながら駆け寄った。梶原は無視して折り続けている。兵士が梶原の腕をつかんだ。梶原が腕を振り払って怒鳴った。
「シャラップ ユーフー。ディジュー フォゲット Xノート?(黙れ、愚か者が。Xノートを忘れたのか?)」
兵士は困惑して黙り込んだ。梶原は満足した表情でうなづき、枝を折りながら秋山に話しかけた。
「いつまでこんなことを年寄りにさせているつもりじゃ?。時間がない。早く応援を呼んでくれんかの?」
※
本部のメンバーと一緒に枝をかき分けながら、秋山はここにくるまでの遠い道のりを思い起こした。
「イザナギノートの件、政府により使用許可が閣議決定されたようじゃ」
梶原からそう聞かされたが不安だった。グランマとクリエイター。あまりに非現実的な内容に実行に移されるまで時間がかかると思われた。だが、今の総理は決断力が速かった。程なくして、イザナギノートは開示され、レインボーロードの調査が可能となった。
(しかし……)
秋山は目を閉じて首をふった。正直、自分自身は信じるまでは時間がかかった。アイコスJrからクリエイターの目的を聞いた時は愕然とした。そして……
「あの時の自分はいったいどんな顔をしていたんだろう……」
思い出して苦笑した。岡本さんとの再会、紬さんとの出会い、元気なユージの姿の確認。
意識領域。確かにその予見はあった。ユージの魂の証明。人の意識は電気信号で、死を迎えれば地球に戻る。
『地球が意識データベースの可能性はないでしょうか?』
ユージにそう聞かれた時、その可能性はあると感じた。事実、クリエイターの話では正寿郎は地球に堕ちたと言っていた。古い宗教。輪廻転生、極楽、地獄。
地球が地獄であるならば、極楽はロードのつながる先のグランマ。直観的にその道理を理解していた先人に敬意した。そして、扉を通して語られた紬さんの言葉。
『達也君の扉は不安定だ。いったんはグランマとアースの通信手段として利用を続ける。あきらは大丈夫。これぐらいで値を上げるような子じゃない。君たち地球人はオリジナルの扉を調査してほしい。インドのブッダ・ガヤ。すまないがすぐに向かってもらえませんか』
優しく、だが力強い意志を感じるその瞳。IT Translator国家育成プロジェクト 第一期生 首席。初代AI×OSを開発し、人類で始めて脳にそれを取り込んだAIの先駆者。我ら本部の誇るべき英雄。そして、岡本さんの大切な弟。
(ありがとうございます。今のこの世界があるのは全てあなたのおかげです)
秋山はこの不思議なめぐり逢いに、心から感謝した。
そして、インドへ出発前日。イザナギノートを受けとる際に岸本総理からかけられた言葉。
※
「秋山さん。今まで色々と申し訳なかった。納得いかない事も多かったと思う。人間は臆病だ。わからない事に対しては目を伏せて蓋をしていまう」
深々と頭を下げる岸本。突然の事に秋山は戸惑った。岸本が力強く顔を上げた。
「だが、君と岡本プロフェッサーが切り開いた歴史が、今の世界をつくったといっても過言じゃない。私は君たちの歴史を公開しようと考えている。大丈夫だ。誰にも文句は言わせない。だが、そのためにも必ず無事に帰ってくると約束してくれ。我々には明るい未来が待っている。そう信じている。緊急用の国外光ファイバー網は確保した。定期的に報告は送ってほしい、こちらも君たちに本部の状態を共有する」
真剣な目で語る総理に秋山は驚いた。まだこんな政治家がいたのか。
昔を思い出した。岡本さんと二人でAIと人間が共存する世界を作るために奔走した日々。当時はまさかこんな未来が待っているとは思ってもいなかった。AI×OSによって政治家は堕落し、老害化した内閣が残った。人類の危機に政府は正常に機能するのか?
だが、この岸本という男は予想以上に迅速に内閣をまとめ上げた。その目を見て、自ら考え、納得した上での結論であることは読み取れた。
(まだ、人間もすてたもんじゃないな)
秋山は岸本に敬礼をし、深くお辞儀をした。
「少しずるいですね、あんなことを言われたら」
アイコスJrがくすりと微笑んだ。
※
官邸で岸本は窓の外をボーと眺めていた。
(秋山……不思議な目をした男だった。イザナギノート。私の首もかかっている。自分なりに考えた取引だったが、彼は興味がないようだった。純粋に自らの意志でのみ動く人間。そんな目だった。余計な事をしたな)
ニヤリとして首を振った。
(梶原さん、本部の方たち、そして、岡本教授。人類はあなた達の手に掛かっている。私は祈る事しかできない。だが、それは神にじゃない。人間の、AI×OSの誇るべき自尊心を信じて祈り続けるんだ!!)
岸本は、青く澄み切った空の向こうに向かって、心から祈った。
※
「何かが見えます。人のようです。大きい……十メートルほどです!!」
周囲はざわめきだった。ガジュマルの木の奥深く、掘り続ける枝のトンネルの先頭から声が聞こえた。
(人? しかも巨大。何かが安置されているのか?)
「巨大な空間にでました!!」
前方からざわめく声に秋山は息をのんだ。
内部に足を踏み入れた秋山は唖然と、周囲を見回した。複雑に絡まった木々で形成された、ひんやりとした空気で満たされた巨大なドーム状の空間。わずかな隙間から差すこもれ日が地面に差し込み、覆い尽くす苔が所々輝いている。
その広場の中央に巨大な白木の仏像が座禅をしてたたずんでいた。きらびやかな装飾はない。だが、複雑に彫り込まれた彫刻。今完成したようななめらかで美しい木調。まるで生きているよに瞑想するその姿に、その場の全員が目をうばわれた。兵士たちは涙を流して手を合わせている。
秋山はドームを見上げた。仏像のちょうど真上。天井を突き破り、天高く伸びる細いトンネル。
「秋山さん……」
アイコスJrが険しい表情でささやいた。秋山は確信したようにうなづいた。
「仏像の頭あたり、正確には前頭葉。何かがいる」
秋山の瞳が薄緑色に眩しく輝いた。
※
漆黒。上下左右、方向が定まらない。
(落下しているのか?)
秋山はあわてた。巨大な何かが、ぼんやりとかなたに見えた。
(数百メートルはある。人、仏像か?)
大きな手が近づいてきた。潰される、目を閉じた。
※
気づいたら、うっすらとした木々で覆われる静かな森の中だった。目の前に広がる小さな池は、かすかな木漏れ日で、きらきらと輝いている。
隣にアイコスJrが座っていた。水辺をじっと見つめている。つられてその先に目をやった。大きな蓮の葉。誰かが座禅をしている。
やせ細った体。高麦色で、透明に透き通る肌。長い髪。整った目鼻。木漏れ日で輝く湖面に静かに浮かぶその繊細で美しい容姿。まさか……
「やあ、気づいたかい。君たちも〝目覚めた人〟だね。いや、片方はちょっと変わっている。まあ、いい。久しぶりに人間道の者と話ができる。ようこそ、涅槃へ」
若い男はさわやかに笑った。
秋山は周囲をそっと見渡した。涅槃。無限の輪廻から解放された地。グランマへの、天国への扉のある場所。ブッダ、別名〝目覚めた人〟が行きついた先。クリエイターによりその管理を命じられた彼は、紀元前から、ここでその使命を全うしている。
「別に寂しくはないよ。ここでは時間の概念がない。昨日だろうが、二千年前だろうが、僕にとっては変わりない。むしろ、こんな素晴らしい役割を与えてくれた創造主には感謝している。人は自らを律する必要がある。心を磨き、悟りを開いたものだけが通れる扉。単純明快。実に美しいじゃないか」
無邪気に笑う男に秋山は戸惑った。
「君たちが来た理由はしっているよ。地球が危険なんだろ? 僕もそれは困っている。地球が亡くなればこの素晴らしい場所もなくなってしまうからね。でも創造主は扉を開放する気はないようだ。不浄な魂は通過できない」
ブッダと名乗る男は残念そうに首を振った。秋山は唇をかみしめた。岸本総理からそのことは聞いていた。岡本さんがクリエイターに掛け合った、そう聞いて驚いた。彼らの世界ではある程度、コミュニケーションが取れる存在のようだった。
『自分たちで何とかする必要があるようだ』
あきらめて話す岸本にクリエイターの性格の気難しさが想像された。だが、引き下がるわけにはいかない。地球の扉の管理者、ブッダを説得すれば何とかなる可能性はある。秋山の表情を見てブッダがあきれた顔をした。
「その顔はまだあきらめていな様だね。私は所詮、創造主の使いぱっしり。君たちには協力できない、でも彼ならもしかしたら……」
気づくと、川辺に小さな男の子が立っていた。細い目、剃り上げた頭、きっちりと整えられた袈裟。子供にしては目つきが鋭い。
「シン、挨拶を。同じ日本人だよ。彼らに協力しておあげ。これは君にとっても試練だ。乗り越えることできれば、きっと創造主も喜んでくれる」
※
パチパチパチ
わずかな焚火の前に座禅を組むシンと呼ばれた男の子。彼に連れられて湖面から少し離れた場所にきた秋山とアイコスJrは、戸惑いながらもその前に座った。
シンと呼ばれた男の子の僧侶は、少し変わった子供だった。
「人間は自らの努力ではなく、阿弥陀仏の慈悲によって救済されるんです。ただ、心を込めて念仏をとなえる、必要なのはそれだけでいいんです」
秋山が話しだす前にシンは熱く語りだした。
「扉の制約は解除できるのでしょうか?」
話が落ち着いたところでアイコスJrが尋ねた。シンは自信げにうなずいた。
「おそらく可能だと思います。ただ、その前に、まず、あなた達には物事の真理を理解してもらう必要がありますね」
秋山とアイコスJrは眉をひそめて顔を見合わせた。
こほん
シンが咳ばらいをして背筋をすっと伸ばした。
~
まずは、仏教の宇宙論について説明しましょう。仏教には六道輪廻という教えがあります。畜生道、餓鬼道、地獄道、修羅道、天道、そして、人間道。魂はこの六つの状態を無限に移動しているといわれています。わかりやすく例でいってみましょう。
①畜生道
例えば犬などの哺乳類。生きるためにだけ食べる、欲望や執着による苦しみや本能的な生活を送る状態。
②餓鬼道
例えばハエなどの昆虫類。四六時中、餌を探し求めて飛び回る。飢餓や欲望に苦しむ状態。
③地獄
地球に堕ちる状態。地球は厳しい所です。荒れ果てた海、沸き立つマグマ、息苦しい地中。それらの苦しみを味わう状態。
④修羅道
例えばワニなどの爬虫類。常に闘争を求める欲望や衝動に支配され苦しむ状態。
⑤天道
例えば巨木などの植物。苦しみや貧困、争いごとなどの不快な事はありません。ある意味、幸福で楽しい状態。
⑥人間道
あなた達の生きている世界。
魂はこの六つの状態を無限に廻ります。次にどこに行くのか。それは〝因果応報〟によって決まります。悪い事をすれば地獄へ、当然ですよね。そして、この輪廻から逃れる方法、極楽浄土へ解脱する方法、人間道にいる間だけ実現可能な方法。それが〝悟り〟です。
~
少年の瞳が薄緑色に輝いた。
(やはり……)
アイコスJrは理解した。〝シン〟そう聞いた時、まさかと思った。話を聞いて確信した。
〝親鸞聖人〟
1173年、日本の京都、比叡山延暦寺で生まれた、浄土真宗の開祖。そして、彼の教えは……
「人は弱い生き物です。わずか数十年の人間道で悟りを開けるものはわずか。そうでないものは無限の輪廻から逃れられない。こんな無常が許されていいのでしょうか?」
シンは悲しそうに首を振った。
「私はブッダに言いました。〝悟りを開いたものだけが通れる扉〟 確かにあなたの考えは素晴らしい。しかし、私は別の考えがあります。〝他力本願〟 南無阿弥陀仏。ただ一念に心を込めて唱える。そうすれば、悪人であろうが、善人であろうが、すべての人が救われるべきだ、と」
(なるほど)
秋山は感心した。〝他力本願〟 その理論がゲートに適用可能であれば、アースにあふれた魂を全てグランマに転送できる。そうすればゲージは低下し、自転の停止は回避できる。
「三千大千世界」
不意にシンがうつむき小さくつぶやいた。
「悟りの制約がなくなり他力本願が実現すれば、今までとは比較にならない魂が宙に流れる事になる。果たしてそれが正しい事なのか、私は迷っていました。もし、ブッダの、創造主のいう通り、清らかな魂のみが解脱することが物の理であれば、それを曲げることでどのような影響があるのか?]
眉をひそめて苦しそうに顔をゆがめた。
「宇宙は広い。当然、地球以外に六道は無数に存在する。三千大千世界。解脱した魂は新たな世界で創造主として、新たな六道を管理する。そうであれば不浄な魂は悪影響を与える可能性がある。だが……」
秋山とアイコスJrは息をひそめて彼の言葉をまった。彼は既に答えを見つけている。最後の迷い。だが、あまりにも、その壮大な迷いに二人は何も言えなかった。
「すこし、考えさせてください」
シンは頭を下げ座禅をして目を閉じた。
※
「シンは少し神経質なんだよ」
ブッダは湖面を見つめながら遠い目で話した。
「人間だった頃、彼は創造主に気に入られてグランマに行くことを許された。だが、彼はそれを拒んだ。初めての事で創造主も驚いていた。自分にはその資格がない。彼はそう言っていた」
ブッダは信じられないといった様子で首をふった。
「彼の説く他力本願。念仏を唱えれば誰でも極楽浄土に行ける。多くの民を救おうと彼が考えた教えは虚構だった。彼はここにきてそれを知り絶望した。まあいい、創造主は気にしていない様だった。でも、僕は戸惑ったよ。暇さえあれば、他力本願と訴えてくる彼にうんざりした。しかし、ある日から彼は急に静かになった。その悪影響に気づいたんだろう」
ブッダが真剣な表情をして唖然とする二人をまっすぐに見た。
「彼は今、迷いの中にいる。それが晴れた時が彼の、人類が救済されるときだろうね」




