十四.天国への扉
プロジェクト本部は騒然としていた。
〝あきらが消えた。しかも本部で〟
最後の分岐点の場所は特定されている。本部のメイン会議室。ユージが消えた、その地点に最終的にあきらは戻ってきた。だが、その先がわからない。どこかの量子領域内かもしれないし、誰かの脳容量内かもしれない。
達也の意識にアイコスJrが戻ってきた。状況を確認したJrは顎に手をかけて思考を巡らせた。
(正寿郎の脳がグランマへの扉だとすると、彼は本部にいることになる。一番可能性が高いのは……)
背を向けながら、淡々と語る杉本の話を思い出した。マルクに関する内部情報、ユージ君の搬送経路の詳細、そして、かつて人工シナプスの実験場となった聖域。次々と提供してくれた有益な情報。まるでこうすることが目的だったかのように。
(ありがとう、杉本さん)
杉本へ抱いていた恐怖はいつの間にか消え、溢れ出る感謝の念が芽生えていた。秋山さんと岡本教授と過ごした彼の四十年。変わるには十分な期間だったんだろう。アイコスJrは力強く前を向いた。
「そして、自分もいつまでも立ち止まってはいられない。すぐにでも行動を開始しないと……」
※
達也はアイコスJrに指示された場所に到着後、恐る恐る周囲を見回した。
薄暗く埃にまみれ、蜘蛛の巣が張り巡らされた、閑散とした古聖堂。かつては、きらびやかに装飾されたであろうその場所は、今では誰も立ち寄らない廃墟になっていた。地下にある納骨堂には何百という遺体が安置されているという噂も聞く。
〝聖域〟
聞こえはいいが、実態はその黒歴史を隠蔽するために立ち入りを禁止された地区。正寿郎が武井と共に始めた人工脳容量の人体実験場。
生温かい空気を頬に感じて、ぞっと身震いをした達也は、ふと前方に気配を感じて身構えた。
(やはり、ここにいた……)
鋭い眼差しで達也が見つめるその先、祭壇の裏から頭巾をかぶった老婆がゆっくりと姿を現した。
「ようこそ。お待ちしていました。ここに来られたという事は考えを改めてもらったという事ですね。マザーは等しく皆に慈悲のお心をもっておられます」
あの時と同じように、聖母の様に包み込むような微笑を浮かべる水野に達也は息を飲んだ。その背後には、あの男……正寿郎の邪悪な気配が渦巻くのをひしひしと感じる……達也は両手をぎゅっと握りしめて、大きく呼吸を整えた。
(彼らの言い分を完全に信じちゃわけじゃない。でも……虎穴に入らざれば虎子を得ず。まずは相手の出方を見る。それからだ!)
アイコスJrと目を合わせて互いにうなずいた。
「正寿郎さんに……合わせて下さい!!」
震える達也の声に、優し気に頷いた水野が踵を返した。さあ、こちらへ……その背後にぽっかりと出現した漆黒の闇に、達也は手に溢れる汗を握り締めて、一歩踏み出した。
※
「正寿郎とグランマがつながっているっていうのはホントなの? という事はやっぱり正寿郎は魂が移動した?」
僅かな灯で浮かび上がる、地獄まで下るような、終わりの見えない螺旋階段。静寂に響く自分の靴音。達也は注意深く下りながら、警戒して周囲を見回すアイコスJrに尋ねた。
「まだ確定ではないんだけどね。似たような話は仏教にもあるんだ。阿弥陀如来。その存在は謎だが、はるか昔にそれによって極楽浄土が作られたとされている」
(極楽……浄土……!?)
突然の言葉に戸惑い、思わず歩を止めた達也。
「どうかしましたか?」
不思議そうにこちらを見つめる水野に、慌てて達也は足を進めた。
「仏教って、あの古い宗教の……?」
そうだね、頷くアイコスJrに達也は唾を飲み込んで、耳をそばたてた。
「紀元前にブッダが苦行の末に悟りを開き、極楽浄土へ往生できる道を切り開いた。その後、命を終えた彼は、涅槃と呼ばれる〝この世にはもう存在していない〟場所に移り、そこから人々を今も浄土へ導いている……こう教えが広まっている」
(ブッダ……)
達也は歴史授業で見た座禅を組む、神々しいその姿をぼんやりと思い出した。何千年も前に、たった一人で巨大教壇を立ち上げた古代仏教の開祖。彼は今も、人々を極楽浄土に導くために涅槃という場所で生きていた? 初めて聞く話に達也は息を飲んだ。
「正寿郎がグランマへつながる扉を発見して人々を導く。ブッダの二番煎じは解せないが、偉大なるマザーを唯一神とする聖星教にとっては、理想的なストーリーなのかもしれないね」
アイコスJrは自分で説明をしながらも、心に沸き上がる疑問に戸惑っていた。
(正寿郎がブッダと同じ存在? 魂の存在を証明する中で、新たに生まれた可能性……悟りとは賢者の緑瞳に目覚める事だったのだろうか?)
疑念を振り切るように首を振った。
(いや、ユージ君の説明からも人の意識は電子的な信号の集合体であり、地球に回帰する可能性が見えている。正寿郎の力で、数百光年離れた地に送られるなんてありえない)
アイコスJrは迷いを断ち切るように首を振った。だが、ぬぐいきれ無い疑念に背筋が凍った。
(もし……正寿郎が魂であった場合、水野の語るように、彼が天国への扉だった場合……あきらやユージ君は、既にグランマに飛ばされている可能性がある)
黙り込むアイコスJrに達也は段々と不安の渦に襲われた。そして、淡々と、足音もなく、幽霊のように下り続ける水野と、永遠にも思える先の見えない螺旋階段。いったい、どこまで降り続けるのか、まさか、これは罠……?
「こちらへ」
細い腕を挙げて振り返った水野の姿に、ほっと胸をなでおろした達也は、彼女の手に持つライトの指す先に浮かび上がった、薄汚れた扉に息を飲んだ。あの先に、あの男がいる……
(気を付けて……達也君)
アイコスJrの呼びかけに、力ずよく頷いた達也は、意を決して老婆の待つ扉に向かった。
※
老婆が扉を開けた瞬間、飛び込んできた、刺すようなまぶしい光に達也は目を背け、目前に広がる光景に信じられないと目を丸めた。塵一つない近代的て整備された室内。高度な医療機器と電子機器が室内を詰めつくし、その中央には、医療チューブと点滴に囲まれた巨大なベッドが荘厳とたたずんでいる。
そして、横たわるあの老人。ミイラのように干からびた、息をしているのかすら定かではない。隣の電子機器には、消え入りそうな、微弱な波形が、無機質な電子音と共に不規則に波打っている。
(あれが……加地……)
立体映像では見えなかった、死の瀬戸際に瀕したその姿に、痛々しい気持ちに襲われた達也は、ピクリとも動かない頭部に目を向け、いしれない悪寒が走った。あの中で、今もあの男がこちらを見てほくそ笑んでいる……
突然、ベッドの脇の空間に大きなひずみが生じた。TVのモニターの様な矩形が、次第に立体物に形づいて行く……
(きた……か……)
達也は震える足を必死にこらえて、立体映像を睨んだ。金髪の青年。朗らかな微笑を浮かべ、白装束で身を包んでいる。その艶やかな唇から、引き込まれるような声が流れた。
「やあ、よく来たな。改心する気になったという事かな? まあ、君たちにはここに来る以外の選択肢はないとは思ったがね」
煌びやかに装飾された巨大な椅子に深々と腰を掛け、見る者が心を奪われるような威厳を放つその姿。梶原会長の記憶物語で、絶対的な教祖として、聖星教に君臨した木下正寿郎。死してなお、放たれる圧倒的な存在感に、達也は腰が引けて思わず後づさった。
正寿郎が不敵な笑みを浮かべて口元をゆがめた。
「それと、先ほど、あきらが来たぞ。扉に入ったようだ。さて、あいつは、この先、どうなるかな?」
突然、背後から伝わる熱量に達也は思わず振り返った。今にも喰いかからんばかりの鋭い視線を向けるアイコスJr。これ程、感情をあらわにする彼は見た事が無い。アイコスJrがゆっくりと達也の前に歩み出た。
「どういう意味か説明してもらいます。あきらは今どこにいるんです?」
ピリピリと、かつてない殺気を放ちながら、正寿郎を睨みつけるアイコスJr。間の空間は震え歪み、火花の様に激しく電脳波の渦が交差する……
「いった通りだ。彼はグランマに飛び立った。だが、到着出来たかどうかは……今のところはその可能性は極めて低いな」
不意に正寿郎を囲む立体空間が、異様な形状にゆがんだ。眩しい閃光を放ちながら、つぶれた箱のように少しづつ、その境界が内部にひしゃげていく。
達也は唖然とした。あのアイコスJrが、冷静に、全てを見越して動いていた彼が攻撃をしている。正寿郎は、一瞬驚いた表情を浮かべたが、にやりと口元を歪めた。
「冷静な君がめずらしいな。もう気づいているんだろ? あきらはもういない。やつも所詮、その程度だったという事だ」
(いないって、どういう事……?)
にらみ合う二人に、達也は湧き出す疑問と焦りを抑えきれなかった。アイコスJrの攻撃。この選択は正しい事なのか……だが、ユージとあきら君を早く助け出さないと…… 正寿郎の体が空間の圧力に次第に蝕まれていく……アイコスJrが関を切ったように畳みかけた。
「あきらを返してもらう。ユージ君も! お前の中の人工脳容量を加速した。このままだと、あと数分で肉体は灰になるぞ!!」
微動だにせず椅子に座る正寿郎が、呆れたように眉を上げた。
「まあ、落ち着け。私が死ねば扉は閉じる。そうなると彼らは永遠に帰ってこない……」
(永遠に……!?)
慌てて達也はアイコスJrに目を向けた。苦しそうな眼差し。正寿郎に対する怒りと、突き付けられた現実に葛藤する意識を感じる……彼はこの選択が誤っていることにすでに気づいている、このままじゃまずい……僕が何とかしないと……
困惑する二人をあざけ笑うように正寿郎が続けた。
「正直、あきらが今どういう状態かは私にもわからん。どうしても知りたければ、お前も扉に入るしかない。どうする? 私は後、数分で死ぬんだろ。早くしないと扉が閉じるぞ」
正寿郎は焦らすように手招きをした。
「罠だ!!」
あわてて達也はアイコスJrの袖を引っ張った。アイツの言いなりにしちゃいけない! 一瞬、迷うような視線を達也に向けたアイコスJrは、苦しそうに顔をゆがめて、うつむいた。震えるその肩が次第に静まり、正寿郎を囲む空間が何事も無かったかのように、元の状態に戻った。
正寿郎が、やれやれと呆れたように首をすくめた。
「まあ落ち着け。おまえに、いい事を教えてやる」
煌びやかに光る立体映像の祭壇に深く腰を鎮めた正寿郎は、威厳に満ちた眼差しで二人を見下ろした。
※
「ここには何百人という若者の遺体が安置されている。だが、実際に死んだ魂の数はさらにその何千倍だ。……どういう意味かは、いずれわかる」
(何百人という遺体………)
その言葉に達也は背筋が凍った。人工脳容量の人体実験。やはり、この場所で実際に行われていた……建物全体に漂っていた、言い知れぬ冷気を改めて感じて、達也は耐えがたい悪寒に襲われた。だが……達也は正寿郎の言葉に首を傾げた。実際に死んだ魂の数はさらにその何千倍……いったいどういう意味だ? 戸惑う達也に構わず、正寿郎は淡々と続けた。
「気づいた通り私は正寿郎の魂だ。加地に殺された時、気づいたらここにいた。隣で泣く加地を見て、なぜか理解した。彼の中に入ったと……」
遠い目で、わずかに悲しそうな表情を浮かべた正寿郎を、唖然と達也は見つめた。
(やっぱり、この人は正寿郎の魂だった……という事はグランマも実在する?)
達也はアイスコJrにすがるように目を向けた。正寿郎の語る話が真実であれば、ユージやあきら君は、既にグランマに飛ばされている……一体どうすれば……達也の動揺に無関心のように正寿郎は続けた。
「周囲を見渡した。内蔵の中のような、赤黒い血管で囲まれた不気味な空間。ふと近くに巨大な漆黒の球体があるのに気づいた。真ん中にぽっかりと穴があいている。なぜここに悪魔祓いの祠が?」
(悪魔祓いのほこ……ら?)
話す内容に頭がついて行けない達也は、僅かに眩暈を感じて、慌てて足元に力を込めた。聖域に到着して既に一時間は超えている。アイコスJrと正寿郎との間で飛び交う強烈な電脳波が、自分の意識を抑え込んでいく……達也はまどろむ意識の中、必死に集中した。ユージが、あきら君が……早く、早く何とかしないと……
「私は、妙にその穴が気になり、加地を見てある事を思いついた」
正寿郎がおどけたように首をすくめた。楽しい思い出に浸るような、輝いた瞳。
『泣くな。お前のしたことは間違いではない。確かに我々のしている事は非人道的だ。私が悪かった。あの実験は中止する』
「いつものように私は優しく加地に語り掛けた。彼は驚いて顔を上げた。泣き崩れて、真っ赤に腫れた瞼。いつものように、くしゃくしゃに顔を崩して、あいつは笑った」
不思議と心に響く正寿郎の柔かな言葉に、達也は虚ろな意識の中、いつの間にか、遠い正寿郎の過去に入り込んでいた。教祖として、愛する信者に優しく手を差し伸べる正寿郎と、涙を流して向かいあう加地。暖色色のオーラで包まれた二人だけの世界。一人の人間の脳に、意図せず同時に存在することになった、二つの数奇な魂……
『もう泣くな。さあ立て。これからは二人、力を合わせて生きていこう!』
「私は包み込むように微笑み、彼の肩を優しく抱きかかえて、立ち上がらせた。加地は、頬を溢れる涙をぬぐうそぶりも見せず、むせび泣き、震える足に力を入れて、重い腰をゆっくりと上げた」
『おっと失礼』
「わざとふらつき、彼を穴の方へ押した。加地は、あっと小さく叫んで、すとんと穴の中へ落ちた」
まるでゴミでも捨てるかのようなその悪魔のような言葉に、達也は理解できない耐えがたい恐怖に襲われた。絶望の表情を浮かべた加地が、漆黒の闇に吸い込まれるように堕ちていく……正寿郎があきれたような口調で続けた。
(あいかわらず、間抜けな男だ)
その結果に満足した私は、何が起こるか興味津々で待ち構えていたが、特になにも起こらない様子に拍子抜けをした。
(なんだ。思い過ごしか……)
意図しない結果に私は深く肩を落としたが、改めて気を取り直し、穴の中を注意深く覗き込んだ。漆黒の空間。加地の姿どころか、塵一つ見えない。一度入れば二度と出てこれない無の空間。だが、無性に引き込まれる何かがここにはある。押さえきれない、沸き起こる好奇心に、震える手を抑えることができなかった。
ぱりん
不意に背後から、ガラスが割れるような音がして、私は慌てて穴から顔を出した。
(なんだ?)
球体の表面。音のした箇所に目を凝らした。数ミリ程、卵の殻がむけるように外殻が割れ、キラキラと輝く、美しい傷口が姿を現していた。
(これは……)
しばらく呆然としていた私は、ふと、ある事を思いついて、注意深く周りを見まわした。生命の……魂の気配は感じられない……
〝魂が要る、しかも大量の〟
(一体、この男は、何をいっている?)
あまりの予想外の展開にアイコスJrは戸惑った。ふと、地下の納骨堂に眠る何百という遺体の事を思い出した。大量の魂、まさか、彼はこのために……
「そう青い顔をするな。想像通りだ。魂の取り込み方はわかっていた。血液による脳間の移動。人工脳容量の実験に失敗した出来損ないたち。彼らの〝魂〟を有効活用したまでだ!!」
虫けらでも殺すようなまなざしで語る正寿郎に、アイコスJrは言葉に詰まった。
(この男は狂っている)
正寿郎は悦に浸ったように両手を高く掲げて天を見上げ、叫んだ。
「何百、何千と、放りこまれた魂により、研磨され、鏡のように輝きを取り戻していくその表面……そして、数十センチの欠片にまで成長し、写りこんだ景色に私は息を飲んだ。すぐそこに夏空が存在しているかのような、透きとおった青。そして……」
正寿郎は目を見開き、血走った、恐怖とも、畏怖とも言うべき、異常な視線を浮かべた。その姿に二人は背筋が凍った。
「何かが欠片の中で動いた……瞳……左右に揺れる視線がこちらを見て、ぴたりと止まった。輝く瞳孔に移りこむ唖然とする自分の顔。思わず腰を抜かした私は、混乱する頭を必死に抱え込んだ。いったいどういう事だ。しばらくして、私は、気づいた。これは、彼の地を映す鏡。そして、この漆黒の空洞は、マザーに導かれし者だけが到着することができる、魂の最終地点、天国へ続く扉……ではないのか……」
(扉だと?)
突然の告白にアイコスJrは唸った。悪魔祓いの祠。マザーに選ばれた正寿郎のみが持つ、グランマへとつながる扉が具現化した姿?……だが……
大きく息を吸い込み、沸き立つ疑念に焦燥の念に駆られつつも、必死に冷静さを取り戻すべく集中した。
(落ち着け……正寿郎の話はおそらく核心に迫っている。だが、なぜ彼はこの話を今している? 時間稼ぎか。しかし、何の?)
このままここにい続けるのは危険だと感じた。だが……アイコスJrは焦る気持ちを必死にこらえて、達也に目を向けた。長い緊張の連続で、真っ青な顔で、今にも倒れそうにふらついている。ここにきて二時間程、そろそろ限界か近づいている。
(いったん戻るか。いや、しかし、ユージ君とあきらの状態がまだ……)
(そろそろか……)
正寿郎は横目で水野に視線を向け、ゆっくりとうなづく彼女に、満足したように口角をゆがめた。
「積もる話もあるが、これでおしまいだ。ユージの開けた穴、ようやくあきらで安定したようだ。念のため、君をここにさそい出して正解だった。先ほどの攻撃でさらに地盤が固まった。これを見ろ。美しい。神の国へ通じる扉。ようやく私も行くことができる!!」
正寿郎の隣にキラキラと光る巨大な丸い球状の物体が浮かび上がった。その曲面に、雲一つない澄み切った青空と風になびく広大な草原が映りこんでいる。その中央、全てを吸い込むような、漆黒の小さな洞穴がぽっかりと口を開けている。
(まさか……そんな……)
アイコスJrは、予想外の展開に絶句した。すでに扉は完成していた……しかも、自分たちの力が、彼の目的達成のために利用されていた……?
「多くの魂の犠牲の元、ようやくここまで輝きを取り戻した。祠を通して彼の地の風景を見ることもできる。天国への扉。すばらしい! まさに理想郷……私は今からグランマに旅経つ。すべてはこの瞬間のため。私は偉大なるマザーの後継者としてグランマで永遠に生きるだろう!!」
その言葉にアイコスJrは呆気にとられた。
(マザーの後継者……やはり、ユージ君を奪った目的は、自分自身が生き延びるため……)
彼を、このまま行かせてはいけない。アイコスJrの瞳が薄緑色に輝いた。魂を失った肉体は朽ち果てるのみ。そうなれば扉は閉じ、二度とユージ君とあきらは取り戻せない……何としても踏みとどまらせないと……
鋭い視線を向け、身構えるアイコスJrに正寿郎が首をすくめて、首をふった。
「まあ、慌てるな。すぐには向かわん。そうだ、言い忘れていた。死んだ魂。プロジェクト本部のクローンは非常に効率が良かった。岡本紬にAI×OSを脳に共有するようにけしかけた甲斐があったというものだ……」
正寿郎は悦に浸った表情で遠い目をした。
(どういう意味だ……?)
アイコスJrの脳裏に、非業の死を迎えた青年の姿が横切った。日本橋料亭を僅か三か月で完成させた、いや、完成させざるを得ない状況に追い込まれた父親。
ユージ君の記憶物語によれば、父、岡本紬が勤務していたメガソースで起こった百億のトラブルは、加地により意図的に起こされていたものだった。破壊的な障害事件の隠蔽を引き換えに、父は、日本橋料亭を三か月で構築させることを約束させられた。
AI×OSを脳に共有するという、未知の領域に足を踏み込まされ、驚異的な能力により開発は成功。副作用により、その命は、わずか十八年の命を終えた……
〝父の偉業すら、正寿郎に利用されていた……?〟
アイコスJrは溢れでる悔しさで、憎しみと絶望に襲われた。
(父が心血を注いで発見したAI×OS……人工脳容量を脳に注入し、発生する電脳波で生み出される、人と同じ性質を持つ人工知能。だが、それは天国への扉を開放するのに必要な魂を、効率的に複製する為の技術だった……)
「彼らの魂のおかげで随分と作業がはかどった。とくにユージはすばらしかった。あきらも。もちろん君もだ。おかげで一気に完成したよ」
正寿郎は、その言葉が終わる刹那、穴に飛び込んだ。
(な……しまった……)
父の話に動揺していたアイコスJrは、突然の正寿郎の行動に、呆気にとられた。煌びやかな装飾で施された巨大な椅子だけが無機質に空間に映し出されている。
(今すぐ、追わないと……)
アイコスJrは全身を震わせて集中した。正寿郎の脳。危険だが行くしかない……達也の瞳が眩い薄緑光に包まれた。全身があふれ出す輝くオーラで包まれていく。
ぐらり
不意に達也がふらつき、その場に膝をついた。しまった……アイコスJrは自らの失敗に悪態をついた。達也君の体はすでに限界を超えている。これ以上の無理は危険だ……
ピシッ
突然、耳をつんざくような破裂音と共に、祠に無慈悲に縦断する深いひびが走った。水野が慌てた様子で、ベッドに駆け寄り、首を振り目頭を押さえて肩を震わせた。アイコスJrは唖然とその様子を眺めた。正寿郎が抜けた影響か……魂が消失した加地の肉体は、その使命を終わろうとしている……
『早くしないと扉が閉じるぞ』
正寿郎のからかうような言葉が蘇った。扉がなくなれば、二度とユージ君とあきらは取り戻せない……
「だめだ……やめるんだ!!」
達也の叫び声に、アイコスJrは慌てて振り向いた。青白い顔を向けた達也がふらつきながらも前に出てきた。既に体は限界を超えている。アイコスJrは溢れ出る不安を胸に、諦めたように、後ろに下がった。自分にできることはもう何もない……今は、彼に任せるしか……
達也は、立体映像に駆け寄り、がむしゃらに祠に手をのばした。むなしく何度も空を切る両腕と、何事もないように崩壊し続ける祠。幾度も柳のように揺れかわされるその映像を、潤うまなざしで眺めていた達也は、力なくその場に座り込んだ。
(二度とユージにあえない? いったい自分は何をしている? いつも自分は人任せ……ユージ、秋山さん……やっぱり僕は彼らの助けがないと何もできないじゃないか!!)
あの時の劣等感が強烈に達也を襲い掛かった。楽し気に笑うみんなの後ろで一人、何もできずにたたずむ自分。結局なにも変わっていない。何一つあれから成長していない……不甲斐ない己に絶望し、溢れ出る涙と共に、その場にうずくまった。
(すぐ戻ってくるよ)
あの時の、最後に交わしたユージの過ぎ去る声が脳裏に響いた。命の灯が消えるような、もうに二度と会えなくなるような、あのさみし気な背中。手を伸ばしても、届かない。何度も、何度も、振りかぶる手をすり抜けていく……だめだ、いくな、いくな、いくな!! ユージ―――!!
達也は跳ね上がるように飛び起きた。頭からつま先まで、体中にめぐる熱い血潮。その両目が濃い、輝くような緑の光に包まれた。
(違う、違うだろ!! もう逃げない、逃げないと決めたんだ! 考えろ。今、自分にできることはなんだ。どうすればユージを助けることができるんだ!!)
達也は目を閉じ、必死に現在までの記憶を追跡した。唸りを上げる高性能な電子機器のように、脳容量が脳全体を縦横無人に駆け巡る……
(優先事項は扉の破壊を止める事。ゲートさえ残ればアイコスJrがきっと何とかしてくれる。だが、加地の肉体は既に崩壊寸前。延命は無理だ。どうすればいい?)
ふと、一年前のユージの歴史物語を思い出した。かつて秋山さんは日本橋料亭のメインOSであるアイコスJrを、自らの脳に共有した。一度OSとなったAI×OSは死ぬまでそこを離れる事ができない、その常識を覆し、彼を縛っていた重い鉄の枷を外して、広大で自由な脳空間に導いた。
(加地の脳内にある扉。それを含めた、加地の意識を丸ごと自分の脳に転送するんだ。できるかじゃない、やるんだ!!)
達也は目を閉じ、大きく深呼吸をして、意識を集中した。
ぼわり
達也の体から発する熱気で周囲の空気がぐにゃりと歪んだ。きらきらと輝く水滴のような、霧のような薄緑色の粒子。崩れ落ちそうになったひざを必死にこらえて達也は集中した。渦を巻き、徐々に速度を速めた粒子群は、眩いばかりに輝く帯へと変貌し、横たわる老人の頭めがけて吸い込まれていった……
※
加地の脳にアクセスした達也は、慎重に周囲を見回した。漆黒の空間。完全なる闇。死に行く人間の意識。ふいに背後からほほを触れられ、慌てて振りほどいた。振り向くと何十という青白い手が、まとわりつくように近づいてきていた。
(なんだ……?)
必死に振りほどき、踵を返して、息も絶え絶えに達也は走った。薄暗く、湿り切った地下道。朽ち果てた牢屋が幾重にも並んでいる。その錆びた鉄棒の奥の暗闇で、怪しく輝く視線に達也は息を飲んだ。ガリガリにやせ細った老人。口から泡を出して悶え苦しむもの、異常な方向に曲がった肢体で苦悶するもの、地面に散々する血だまりの中で、死んだように静かに横たわるもの……
(ここは加地の、正寿郎の実験の記憶……)
達也は恐怖を懸命にこらえて、必死に駆けた。じわり、じわりと、背後から感じる刺すような気配。振り返り、その異様な光景に恐怖で叫び声を上げた。大量の老人。幽霊のように両手を揺らしながら、苦悶の表情で、助けを乞うように顔をゆがめながら、こちらに向かって歩いてきている。
〝死んだ魂の数。プロジェクト本部のクローンは非常に効率が良かった〟
正寿郎の、あの言葉を思い出した。天国の扉に無慈悲にも放り込まれたAI×OSたち。無念の思いでその命を終えた、何千、何万ものクローンの記憶。逃げる達也は転がり込むように、突き当りの巨大な扉に飛び込んだ。
※
(ここ……だ)
内臓のような肉塊で覆われた大広間。巨大な球状の物体が部屋の中央にたたずんでいたる。鏡のように輝いていただろう表面は、無残にも、崩れ落ちそうに激しくひび割れ、朽ち果てている。
(急がないと)
達也は意を決して後ろを振り返った。救いを求めるように、彼らがすぐそこまで迫ってきている。
(まってて。今助けてあげるよ)
達也は手を大きく広げ、深く息を吸い込んだ。僕の脳に宿る脳容量 そのすべてを使い果たしても、必ず僕はこの場所を守って見せる。激しく眩い輝きに包まれた達也の瞳から発生られた薄緑色のオーラが、優しく部屋全体を覆い囲んだ。
※
アイコスJrは呆然と扉が崩壊する様子を眺めていた。
(あきら……)
ニコニコと目を細める、いつもの笑顔が浮かんだ。弟と話すと、いつも暖かい気持ちで心が包まれた。死んだ母親の明るさと父親の面影をもった唯一の兄弟。時にわがままで手を焼くこともあった。ただ、自分には無い奔放さに、時に羨ましさと、愛おしさを感じた。あきらの命の灯が消えかけているのを感じた。手が届かない場所で、一人、今も苦しみ、耐え忍んでいる……
(何がJrだ、何がアイコスの名を受け継いだだ……! 私にはそれを名乗る資格はない。父さん、母さん……どうか、あきらを助けて……)
アイコスJrは、頬を落ちる涙をぬぐう事もせず、扉に映る、広大な草原を祈るように眺めた。もし、ここが天国であれば、きっと、そこには……ふとその表面に黒い二つの影が映った。揺らめき、透き通るように輝くその物体は、人というにはあまりにもはかなく、美しかった……
(まさか……)
二人は、アイコスJrに向かって、溢れる微笑を向けた。アイコスJrは溢れ出る涙をこらえきれ無かった。まさか、再び、両親を目にすることができるなんて……虚ろな光の口が僅かに揺らめいた。大丈夫だ。確かに、そう伝えているとアイコスJrは感じた。
どすん
突然の衝撃に、異様な雰囲気を感じてアイコスJrは慌てて振り返った。無数のひびで覆われた巨大な球体鏡。指で触れれば、即崩壊しそうな、ぎりぎりの状態。
(これは、悪魔祓いのほこら……?)
「扉は確保しました。後はお願いします」
青白い顔で現れた達也が、糸が切れた人形のように、その場に倒れこんだ。
※
七色に輝くトンネルをゆっくりと流れながら、正寿郎は心に沸き立つ興奮を抑えきれ無かった。
(ついに、ついに私が神になるときがきた……)
前方に現れたわずかな明かり。あれが……天国……身を授けるように、正寿郎は光に飲み込まれていった。
「ここがグランマか。思っていたのとはだいぶ……」
地面に緩やかに降り立った正寿郎は、眉をひそめて周りを見渡した。星一つない漆黒の夜。点在する赤い灯と、その光で照らされた荒れ果てた大地。体中を覆うねっとり湿った生暖かい空気は、鏡体でみた、あの穏やかな風景とは完全に異なる……
カタカタカタ……
ふいに後方の妙な音に振り返り、巨大な黒い影に唖然とした。体から伸びる数十もの折れ曲がった棒が、機械仕掛の様にせわしなく歩を進めている。
〝巨大蜘蛛〟
マグマ溜まりの発する熱で浮かび上がるその姿。全てを破壊するような禍々しい牙、悪魔の様に輝く真紅の瞳。空気を震わす、耳障りな呼気に、正寿郎はたまらず耳をふさいだ。
(なぜ……?)
砕けそうになった腰に耐え、石塊に足をとられながらも、無我夢中で走った。不意に、何かが足に絡みついて、その場に横転した。振りほどこうと手を伸ばし、その生暖かい感触に背筋が凍った。人間の腕。しかも、大量の……
悲鳴を上げ、転げるように走った正寿郎は、足元から吹きあがる強風に、慌てて立ち止まった。闇空からわずかに顔を出した淡い白月が、ほのかに周囲を照らし出す。
〝断崖絶壁〟
眼下に広がる広大な大地を唖然と見つめた。青白い月面のような、生命の痕跡が全く感じられない死の光景。
(なんだ、ここは……)
炎沸き立つ灼熱のマグマだまりの脇で、人がウジ虫の様に地面をはいずりまわり、巨大蜘蛛に追われている。
(……ここは天国ではなく……地獄か……?)
正寿郎は理解しがたい状況に、呆然と立ちすくんだ。
※
「そんな……」
ピクリとも動かずベッドに横たわる達也に紀香は涙ぐんだ。脳聴器を外した医師が残念そうに首を振った。
「なんとか峠は越えました。しかし、脳容量が異常活性しています。この状態では意識がもどるのは難しいかと……」
「これは、全て私の責任です……」
立体映像のアイコスJrが悔しそうに歯ぎしりをしてうつむいた。梶原が慰めるように首を振った。
「いや、君の判断は正しいぞ。それに、あきらの事……君もすぐにゲートに入りたかったはず。よく、我慢して達也と本部に戻ってきてくれた。ありがとう」
梶原がアイコスJrに深々と頭を下げた。だがその震える肩は、梶原自身、不甲斐ない己に対する深い絶望に陥っている事を如実に表していた。二人のやり取りを悲痛な面持ちで眺めていた秋山は、横たわる達也に目をやり、信じられないと唸った。
(正寿郎の意思の完全な取り込み。かつて自分がアイコスJrを取り込んだ時とは比較にならない規模。達也の驚異的な脳容量だからこそ実現できた最後の希望。だが……)
秋山は死んだように眠る達也を悲壮な眼差しで見つめた。
(その引き換えに人間としての機能の完全な停止……くそっ、できる事なら変わってやりたい。だが、私には、その力が……ない)
うなだれるように肩を落とした秋山にアイコスJrが、頭を下げた。
「秋山さん……すいませんでした。達也君を守る。あなたとの約束が果たせませんでした。ユージ君を取り戻せないばかりか、あきらまで失った。私は非力だ」
互いに黙り込む二人に、梶原と紀香は失意の中に沈んだ。この二人に打つ手がないのであれば、自分たちにできることはなにもない……重く深い沈黙と絶望が室内に漂った。
不意にどこからか、低く唸るような男の声が聞こえた。
「心配する事は無い。あきらは生きている。ユージもだ。だが、正寿郎。彼は選ばれた人間ではなかった。地球に堕ちたよ。そして、はじめまして、我は創造主。マザーといった方が分かりやすかな?」
皆慌てて紀香は周囲を見回した。秋山が真っ青な顔をして達也を凝視している。
(まさか今のは……)
達也の目がぱちりと開いた。一切の瞬きの無い、大きく見開いた瞼。光を通さない深緑に染まった人形のような瞳。口だけが無表情に動いた。
「彼には驚いた。まさか扉を維持するとは。いいものを見せてもらった。感動したよ。だがまだ足りない。我はもっと君たち人間に期待している。時間がない。地球はじきに滅ぶ。我を喜ばせろ。そうすればまだ望みはある。……どういう意味か? 理解できないだろうな。まさか説明する事態になるとは」
何が起こっている? 全員が唖然と、突然目の前に現れた、得体のしれない何かに飲み込まれていた。




