第七話
川の近くに植えられた梅畑が満開になった。坂東地区へ春がやってきた合図だ。けれど、リナの母がいるロシアではアステリウィルスの感染が落ち着くめどはまだ立っていなかった。
先日父のパソコンの画面越しにようやくリナたちは母のマーシャと再会した。
長く日本の家族に会えず寂しがっている母をみかねた母の妹が、リモート会議アプリを通して母に引き合わせてくれたのだ。
日本からはるか遠い所にいるその母の席には今、笠無神社の神様が人間のふりをして座ってリナたちと食事をしている。
「みんな、元気だった? あら、その子は誰?」
「マーシャ殿、初めまして。相馬キオウと申します」
髪を肩よりもさらに短くしたキオウは、すました表情で母と初めて顔を合わせた。
キオウは都会から疎開しているおじいちゃんの知り合いの孫として、絵坂家にすっかり馴染んでいた。
飼い犬のチビも最初はキオウが近くにいたら小屋の中へひっこむぐらい恐がっていたが、小屋に逃げ込まないぐらいには彼に慣れてきていた。
キオウはもうお腹が空かないにもかかわらず、彼は今人間の食べ物、とくにパンやブリヌイ、焼きそばなど、いわゆる粉物にたいへん興味を持っている。
先日はなんとおじいちゃんに教えてもらいながらホームベーカリーで食パンを作っていた。若い神様はすっかり自分で焼いたトーストを気に入っていた。この勢いだとラズベリージャムも自分で作りそうだ。
キオウはまたリナがお囃子やクラリネットの練習をしていると、わざわざ部屋に来て耳を澄ましてくれる。クラリネットは神様にとって物珍しいからだろうが、観客がたった一人でもいると演奏しがいがある。
来月から彼はリナの中学校へリナと一緒に通う予定だ。人間の世界を詳しく学びたいそうだ。幸い、先月アステリウィルスに感染した同級生は無事に回復してもう通学して、今のところリナの中学校で感染者はふたたび出ていない。もっとも神様がアステリウィルスにかかるわけはない。
キオウを笠無神社の新しい神様として迎え入れてから、おじいちゃんは絵坂家に古くから伝わっていたがこれまで話してくれていなかったさまざまなことをリナに教えてくれた。夏祭りの神楽に込められた秘密のこと、赤葉の笛には対になっている笛があるかもしれないこと、笛を持っていた尼僧はもしかしたら平将門の子孫かもしれないことなど。
キオウがこの坂東地区へやってくる前だったら、おそらく絵坂家の言い伝えをリナは本気には受け取らなかった。今はどれもこれもが歴史の裏でひた隠しにされてきた真実のように聞こえて、おじいちゃんが語ってくれるたびにリナは目を輝かせた。
けれど、おじいちゃんは自分の頭の中以外におじいちゃんの話を記録してはならないとリナに告げた。一度でも文字に記録したら誰からの記憶からも言い伝えが消えてなくなってしまうからだそうだ。だからおじいちゃんの話をリナは必死で覚えなければいけなかった。
チビが何度も吠えている声で、リナははっと目が覚めた。
枕もとの時計をみたら散歩に行く時間ではなく、草木も眠る丑三つ時、つまり午前二時過ぎだった。
いったいどうしたのだろうと懐中電灯を持って、パジャマのままリナは家の外へでた。チビがあんなに吠えているのに、ふしぎなことに他の家族はまったく起きてくる気配はない。
チビは犬小屋の前で社務所のほうをむいてけたたましく吠えていた。
社務所のある敷地には街灯は一本もないはずなのに、煌々とした明かりがついている。
――もしかしてまた神様の世界とこちらの世界が重なっているの?
そういえば、今日から彼岸の入りだった。
リナはおそるおそる社務所へ行ってみた。まだ季節にしてはやけに生暖かい風が吹いている。
思った通り社務所の敷地に社務所やサクランボの木はなく、桜の木が花を咲かせて立っていた。社務所を建てる前に大きな桜の木があってそれを切ったという話を聞いたことがある。
漆黒の長い髪を風になびかせながら鳥居のすぐ下にキオウはいた。最初に会ったときのように平安時代の格好をしている。その小柄な背中は緊張感で張りつめていて、少しでも触れたら爆発しそうな危うさが漂っていた。
桜の太い幹の影に隠れて様子をうかがうと、階段下の小さな駐車場で異様な光景が広がっていた。リナは息を飲んだ。
階段下の駐車場では、たくさんの小さな火の玉が浮いて闇を照らしていた。忙しそうに動き回る火の玉は、いかにも古めかしい鎧を着た骸骨たちをくっきりと浮かび上がらせた。
――あれは骸骨武者!
笠無神社の言い伝えに出てくる悪霊たちだ。言い伝えはまさしく本当だったのだ。
骸骨武者たちの先頭に立っていたのは、昼間の空のように青い衣の上に雲のように真っ白な鎧をまとった大男だった。
ざんばら髪で額に白く太い鉢巻きを巻き、もみあげから顎にかけて長い黒ひげをはやしている。ぎょろりとした大きな目の端は切れあがってそこに宿っている光は研ぎ澄まされた刃物のように鋭い。態度は堂々としていていかにも武芸に秀でていそうにみえる。
光り輝く白い鎧を着こんだ武将は、いまいましそうにキオウを見上げた。
「ふん、坂東の地へ逃げ込んだと聞いてはいたがよりによってまさかここのことだったとはな。因果はまた巡るようだ」
ひげの武将は鼻を鳴らすと、闇を切るように長い細身の刀を素早く抜いた。少し弧を描いているそれは、不気味な赤黒い光を放っている。
大男のすぐ足元で悲鳴が聞こえる。そこには、頭は緑色の長い髪をはやした小鳥で身体は青い鱗をはやした魚のような奇妙な生き物がいた。その生き物は自分の目と鼻の先でまがまがしく光る刀身に泡を食っていた。
――あれはひょっとしてアマビエ?
この二年間で世間によく知られるようになった小さな妖怪は、今にも巨体の武将に踏まれそうなぐらいその近くにいる。まるで何かあれば武将を盾にして隠れるつもりのようだ。そんな気の小ささとずるさはうちのチビに似ている。
そのアマビエにリナはどこか見覚えがあった。
リナは「あ」と声を上げた。それは先月、玄関の棚の端にいていつのまにか消えた一体だ、とこのとき彼女は気付いた。
アマビエが家に忍び込んで食糧を盗んでいる、美櫻が言っていた都市伝説は本当のことだったのだ。
アマビエも桜の木のそばに立つリナに気付いて、まるで心底恐ろしいものをみたかのように小さな体をぶるぶる震わせた。あちらは妖怪でリナは人間だというのに。
ぬめぬめと光る青い胸びれでリナのことを指す。人を指差すなんて失礼な妖怪である。おじいちゃんがここにいたら憤慨していそうだ。
「為朝さま、あの娘です! あの娘が魔笛使いです」
黒ひげの武将はリナにぎょろりと目をむけるとまるで犬のように大きな鼻をひくつかせた。
遠く離れているのに、ひと睨みされただけで心臓がぎゅっとわしづかみにされたかのようにリナはすくみあがった。
「あの人間の女の匂いがうっすらするなあ。サツキよ。お前はまた俺の邪魔をするつもりだろうが此度はお前に手出しはさせん!」
ひげの武将は吐き捨てるように言った。サツキ、いったい誰のことだろう。聞いたことがあるようなないような……。
「キオウよ。この神社の主になったつもりだろうが、坂東の地奥深くに住まう大鯰に地鳴りを起こさせればこのちっぽけな社なぞひとたまりもない。遅かれ早かれお前はここを出ねばならん」
この武将は笠無神社を盾にしてキオウを明らかに脅していた。なんてずるいことをするんだろうとリナは怒りで顔を歪ませた。
「社を壊されたくなくば鳥居より出でて、正々堂々と俺と戦え。人の手により生まれし疫病神よ」
「何を言っているの、疫病神はそっちでしょう! うそつかないで」
リナは思わず言い返した。自分でもびっくりするぐらい大きな声がでた。するとひげの武将はリナを一瞥してから、彼女をあざけるようにリナ以上の大声で笑った。
「はははは、よもや我らが疫病神だとは。うまく人間の小娘をだましたものだな、新前疫病神よ。その武士の風上にもおけぬ厚顔無恥ぶりよ、天晴なり。この源為朝心底恐れ入ったぞ」
濡れ衣を着せられているのにキオウは武将に何も言い返さない。リナに背を向けている彼が今どんな表情を浮かべているのか、彼女にはわからなかった。
「リナ殿。家に戻っていろ」
キオウは振り返りもせずそう言うとすっと右手をあげた。彼の手にいつぞや作った長い木刀が出現した。赤黒い炎に包まれる。
リナは青ざめた。木刀一本で疫病神の集団相手にまともに戦えるわけがない。
だが、キオウは燃えさかる木刀を手にするなり地面を勢いよく蹴って飛び跳ねた。次の瞬間、彼の草履は武将の頭の後ろをしたたかに蹴った。
「こしゃくな!」
大柄の武将はすぐさま太刀を振り回して少年を追いかける。
目にもとまらぬ速さで二人は打ち合っていく。しつこく獲物を追いかける赤褐色の太刀を、キオウが木刀で受け止めるたびに赤い火花が辺りへいくつも散った。
キオウは素早い動きで武将の攻撃をかわしていくが、圧倒的に彼が不利だった。木刀では殴ることはできても斬ることができない。おまけに今は一対一の戦いだが、彼らを取り巻く骸骨武者の集団がいつその白骨の指でキオウへ矢を放ってもおかしくない。
リナは走って赤葉の笛を取りにいった。
――あの笛で、あの曲を吹けばキオウ君はひょっとしたら形勢逆転できるかもしれない。
あんなに吠えていたはずのチビは小屋の前で寝てしまっていた。夜に鳴く梟の声さえ聞こえてはこない。不気味なぐらい辺りは静まり返っていた。まるでリナ以外の生き物は何か魔法でもかけられて眠らされているようだった。
漆黒の横笛を部屋からとってくると、息を切らしたアマビエが玄関で胸びれを広げた。その小さな体はまるで事故現場のキープアウトテープのようにここから先は通さないぞと言わんばかりだ。
「どいてちょうだい! アマビエさん、あなたはアマビエなのにどうして疫病神の味方をするの?」
リナは二年前から厄除けとして日本全国に知られるようになった妖怪に厳しい口調で問いただした。
だが、アマビエもまた小鳥のような可愛らしい顔立ちを険しくさせると、衝撃的な話を人間の少女に伝えた。
「リナさん、あなたは大きな勘違いされています。あのひげの武将は源為朝さまといいます。あの方は疫病神殺しの神です。そして相馬キオウ、この家にまんまと入り込んで住み着いた彼こそが新しい疫病神のアステリウィルス。今あなたたち人間を苦しめているパンデミックを引き起こしている張本人なんです!」
アマビエの話にリナは目を剥いて睨んだ。そんな話を到底信じられるわけがなかった。キオウがもしアステリウィルスならリナたち家族が感染せずに無事でいられるはずがない。
「でたらめ言わないで。そんなことあるわけない。だって彼はうちの神社の神様になってくれた。彼は神様の世界から来たんだよ、人間に作られたはずないよ」
「残念ながらちがいます。相馬キオウは、私たちの世界にも通じた人間が生物兵器として造った新種のウィルス、人の世に災いをもたらすために生まれた魔性の神なのです」
アマビエはリナを冷ややかに見上げて言った。
生物兵器という妖怪が話すにはまったくもって似つかわしくない物騒な単語に、リナはあることをはっと思い出した。
『白い衣を着た人間に囲まれて』
あれは神主さんのことではなく、まさか生物兵器を研究している研究者の人たちのことだったのだろうか。
生まれた場所も『黒い箱の中だ』と言っていた。生まれたのは三年前、妙な感染症があると日本で騒がれ始めたのも三年前の冬だ。
言われてしまえば、思い当たる節は他にもあった。アステリウィルスはアルコールに弱い。キオウはお酒を一口飲んだだけで噴き出した。そして何よりリナから赤葉の笛を奪おうとしたとき、小柄な体を一瞬だけ包んだまがまがしい炎。キオウがずっと何の神様か教えてくれなかったのはまさか……。
リナはキオウの正体を知って、大きなショックを受けた。何度か遊びに行ったことがある福島の村が、十一年前の火山の噴火で一日にして火山灰に飲み込まれてしまったことをニュースで知ったあのとき以上に。
――そんな、彼こそが、お母さんがイルクーツクから帰ってこられない原因だったなんて。
リナが打ちのめされていると、自分の話を理解してくれたと思ったのか、アマビエは青いうろこで覆われた小さな胸をなでおろした。
「リナさん、あなたが我々の邪魔をしなければ、彼をすぐ捕まえられます。そうすればこのパンデミックが終わってあなたのお母様もオロシャからこの家へ帰ってこられます」
あなたが彼を助けなければ、みんな元の生活に戻れるのだ、この世界は元に戻るのだとアマビエは力強く言った。
――キオウを、疫病神を助けなければお母さんがイルクーツクから帰ってこれる、元の生活に戻れる。元の世界に戻れる。
――でも、でも彼はもううちの神社の神様だよ。そう縁を結んだじゃない。
――でも彼はわたしとおじいちゃんを騙してたよ。ひどい、ずるい。
――疫病神を神様として祀るなんておかしいんじゃないの? きっと彼はわたしたちに病気どころかもっと大きな災いを呼び込むかもしれない。
リナの顔から表情はごっそり抜け落ちていた。それでいて心は恐ろしい事実を知らされて激しく揺れ動いた。
アマビエは、棒のように固まっているリナへ暗示をかけるかのように優しく囁いた。
「さあどうかベッドに戻ってゆっくり眠ってください。そうすればキオウがこの坂東の地へやって来てあなたと出会ったのはあなたが見た夢という形で終わります」
――夢、キオウと過ごしたのはほんの少しの間だ。そうだアマビエの言う通り、忘れるのがいい。疫病神と過ごしただなんて悪い夢だったと思おう。そして前の生活に戻ろう。そしたらきっと吹奏楽部の部活や演奏会だって自由にできるようになる。お母さんもイルクーツクから戻って夏祭りだって予定通りできるはずだ。
地味で目立たない特に取り柄もないわたしがいちばん活躍できる夏祭りを……。
一瞬手の中の黒い笛が光った。霊力が戻ったときキオウが浮かべていた静かな微笑みが彼女の脳裏をよぎる。
「あなたたちはキオウ君を捕まえたらその後彼をどうするつもりなの?」
「しかるべき罰を下した後、二度と人間の世界に現れないように大きな岩の中に永遠に封じ込めます」
それは死なせることと何が違うのだろう。
リナは無意識のうちに手の中にある黒い笛を握りしめていた。
『かたじけ……ありがとう』
もしこれからリナが彼を助けなければ、彼女の笛を聞いてキオウがかけてくれたお礼の言葉を二度と聞けないということだ。
リナはそう思うとたちまち胸がしめつけられた。
なぜならそれは生まれて初めてリナの笛が、リナの奏でる音楽が心から喜んでもらえたあかしだったから。
リナの手の中にある黒い笛が、星の瞬きのように何度も煌めいた。
アマビエの言う通りにし、このまま彼を助けなければパンデミックは終わる。夏祭りも定期演奏会も元通り開催される。母親はイルクーツクから帰ってこられる。
けれど、今ここで彼女が家を出なければ、そのあかしはリナの記憶に残らない上に、彼から二度とその言葉を聞けなくなるのだ。
――それで本当にいいの、リナ?
彼女が演奏するのを家族でさえ別に誰も望んでいないかもしれない、とリナは思っていた。けれどキオウは、彼女のクラリネットの演奏を黙って聞き、演奏が終わったらぎこちなく手を叩いてくれた。「翁から楽が終わったら、このように手を叩くものなのだと聞いた」と少し恥ずかしそうな様子でキオウは言った。
誰も彼女の演奏を望んでいないと思ってた。
人間の少女は唇をかたく引き結んで、大きな声を上げた。
「アマビエさん、ごめん!」
リナは疫病除けの妖怪を突き飛ばした。もともとリナの膝ほどの大きさの妖怪は簡単によろけてしまった。
リナは、靴も履かずに玄関を飛び出した。
「あ、リナさん! 待ちなさい! あなたは世界がこのままでもいいと思っているんですか!?」
悲痛な叫びが後ろから投げられたが、リナは振り返らなかった。
世界がこのままでいいとはリナも思ってはいない。
――でも、わたしからたった一人の観客を奪わないで!
これ以上ない速さで走って社務所へ戻ったら、キオウはちょうど道路の上で丸腰で倒れていた。
ひげの武将は鋭く黒い切っ先をその喉元へ突きつけている。
「お前自身の刀の手にかかるがいい」
源為朝が疫病神の頭上に細身の刀を振り下ろそうとしたとき、物悲しい調べがどこからともなく聞こえてきた。
それは『高天原』の神々がもっとも苦手としている魔性の力だ。その力が澄んだ音にのって津波のように怒涛の勢いで源為朝へ押し寄せてくる。魔の波動にはことのほか『高天原』の神々を苦しめる効果がある。疫病神殺しの神は、己の動きを、つまり課せられたお役目を止めざるをえなかった。
リナは血のように赤い鳥居の下に立ち、ある古い曲を赤葉の笛で奏でていた。それは夏祭りのお囃子とはまたちがう、神社を建てたときから先祖代々伝わっている神楽だ。神様を喜ばせるためのもの。神社から神様が姿を消した四十年前から奏でられなくなってしまった。
けれど、キオウが現れてこの曲には神様を守る力があるということをおじいちゃんは教えてくれた。
この神楽を初めて聞いたとき、どこかで聞いた覚えがあった。先月偶然見た今すごく人気のある動画だ。
あの動画には不快感しかなかったが、神楽の悲し気なけれど穏やかな旋律は人間のリナにとっては遠いどこかの場所を懐かしむ気持ちにさせ、今はここにはいない誰かを思い出させた。
女性の歌声のように高く澄んだ音色が響き渡り、骸骨武者たちはその場でのたうち回り始めた。やがて彼らはその白い骨だけでできた体をひときわ大きく震わせると物言わぬ屍へ戻ってしまった。
「やめろ、その笛を吹くのはやめろ! 頭が割れてしまう!」
キオウを追いつめていたひげの大将もとうとう刀を放り投げた。激しく痛むのか、ざんばら髪の頭を守るように両手で抱えた。
道路に膝をついて、毒でも飲まされてしまったかのようにもがき苦しみ始めた。
けれど、キオウの身には何も起きていない。彼は顔をあげた。
「リナ殿」
今のうちに安全な鳥居の中へ戻るよう、笛を吹いているリナはキオウへ目くばせした。キオウは近くに投げ捨てられた刀を拾い上げると、アスファルトの地面を足でしたたかに蹴り、何の音もたてず鳥居の下へ着地した。
キオウが彼の神域へ戻ったところでリナは赤葉の笛を吹くのをやめた。
魔の波動から解放されると、源為朝はほうっと息を吐いた。そして思い出したように神はぎろりと人間の小娘を悪鬼のごとき形相で睨み上げた。彼の髪も髭も先までぴんと伸ばされ、激しい怒りに満ちている。
リナは今にも首を締めあげられへしおられてしまいそうな殺気を疫病神殺しの神から向けられてしまった。確実に彼女はこの神様から生涯にわたって骨の髄まで恨まれることになった。
神様の殺気をまともに浴びてリナは膝ががくがく震え今にも地面にへばりつきそうになった。そこをキオウが腕を取って支えてくれた。
「――この裏切り者めが。小娘、お前は今この瞬間から『高天原』の庇護から外れた。次に会ったときお前も無傷で済むと思うな!」
ひげの武将はそう捨て台詞をはくと、その場からさっと姿を消した。つづいて屍と化していた鎧武者たちもあっという間にいなくなった。
よく見慣れている山際の空が白み始めている。はっとして後ろを振り返れば、いつものように古い社務所とサクランボの木が静かに佇んでいた。神様と人の二つの世界はふたたび離れたのだ。
そこでようやく緊張の糸が切れ、リナは全身から汗が噴き出した。まるで夏祭りのあとのようだ。けれど、祭りのときのように「やりきった」という達成感ではなく、大きな嵐が過ぎ去った後のような安堵が彼女の胸を満たした。
「大丈夫か?」
キオウは気づかわしげにリナを覗き込んできた。疫病神だというのに彼は心根の優しい神様だ。
「キオウ君は、疫病神だったんだね。どうりで正体をずっと打ち明けてくれなかったわけだ」
「そうだ。私のことが恐くなったか?」
顔色は変わっていないが、落ち着いているようでどこか緊張している声だった。
リナはゆっくり首を振った。
「この間追いかけられたときはすごく恐かったけど、今は別に。さっきのひげのお侍さんのほうがよっぽど恐かったよ」
「あのときはすまなかった」
キオウは素直にリナへ謝ってきた。「あのときは我を忘れてしまっていた」や「あのときは霊力がなくてしょうがなかったんだ」といった具合にきっと言い訳すると思っていたが、彼は何も言い訳しなかった。疫病神なんてすこぶる悪いイメージでしかない神様なのにその態度はとても潔い。
「彼らは私の首級を取りに何度もここへやって来るだろう。リナ殿、そなたたちに害が及ぶ前に私はこの地を去ろうと思う」
なんと、キオウはとても落ち着き払った態度でリナへ別れを告げてきた。
この世に生まれたばかりの新しい神様は、それも世界中の人間からいなくなってほしいと思われている彼は、きっとこの世界のどこにも行くあてなんてないだろうに。
「ええ、キオウ君たら急にいったい何を言ってるの? うちの神社の神様になってようやく一か月経ったのにもう出て行くの?」
リナはわざとらしい口調で驚いてみせた。この娘は何を言い出すんだとでも言いたげにキオウは太い眉を寄せた。
「キオウ君は坂東地区のわたしたちを災いから守って幸せにしてくれるんだよね? さっきのおひげのお侍さんたちがまた来てもわたしたちを守ってくれないの?」
「『高天原』の神々は手ごわい。それに『奴ら』も嗅ぎつけてここへやってくるかもしれない。そなたたちを守り切れ……」
「それにね」
リナはキオウの言葉を遮った。
ここにおじいちゃんがいたらきっとこんな風に注意される。『人の話を途中で遮ってはいけません』と。
「それにね、きっと前にいた笠無神社の神様も疫病神だったと思うよ」
笠無神社の伝承とアマビエのアリエの言葉をつき合わせてみれば、あのひげの武将と骸骨武者たちがかつての坂東村へ現れたのはおそらくこの地にいた疫病神を退治しにきたからだ。
きっとその正体を知っていただろうに、それでもリナのご先祖たちは疫病神と縁を結ぶことを選んだ。
「あとね、おじいちゃん、今年はなにがなんでも夏祭りを開催するってはりきっているんだ。祭の主役がいなくなったら困るでしょう?」
感染対策からおそらく夏祭りで焼きそばは食べられないが、リナはそれでもとても楽しみにしていた。
四十年ぶりに神楽が開催されるのだから。
踊り手になる子供がこの地区にはいないからキオウにやらせようともおじいちゃんは言っていた。もともとは神様が踊り手の子どもにのりうつって舞を舞うという言い伝えだ。だから本人にやってもらうのは何も問題ない、とおじいちゃんはやる気満々だ。
キオウは太い眉を弓なりにした後、しばらく言葉を失っていた。
「ありがとう」
長い間をおいてからのどからしぼりだすように一言そう言った。このとき、リナには彼が今にも泣きだしそうにみえた。
「私の神核が安定すれば、感染の拡大も落ち着くだろう。そのとききっとそなたの母君は日本へ帰ってこられる」
ただしそれはいつになるかわからない、とキオウは付け足した。来月かもしれないし、十年後かもしれないと彼は正直に告げた。もしかしたら百年後というのもありえるかもしれないとリナはそんな予感がちらりとよぎった。
キオウが人の世界にいると、イルクーツクにいる母が日本へずっと帰ってこられないかもしれない。けれどリナの笛を心から喜んで聞いてくれる人がいなくなるのもまた同じぐらいリナにとっては悲しいことだった。
明るくなり始めた空を冷たい風が吹いている。その風にのせて、山の上にすっかり太陽がのぼるまでリナは神楽を奏でた。
笠無神社の新しい神様は、朝日を浴びながら少女の奏でる笛の音にじっと耳を傾けていた。