第六話
後ろから頭を何度も殴られたかのような強い痛みにリナは顔をしかめた。瞼をゆっくり持ち上げる。すると、ほっとした表情の友人がリナを見下ろしていた。今はもう視界は揺れていなかった。
「リナ、大丈夫? 急に倒れたからびっくりしちゃった。もう少しで起きなかったら救急車を呼ぶところだったよ」
美櫻によると、リナは演奏中に突然意識を失ったのだという。つい数分前のことだ。
おかしい、笛を奪おうとするキオウに追われて部屋から飛び出たはずなのだが。割れるような頭痛は嘘のようにすっかりひいていた。
「みーちゃん、この部屋にキオウくんは来なかった?」
「キオウって誰それ?」
美櫻はけげんそうな表情を浮かべた。私の友人はもしかしたら頭がおかしくなったのではないか、と様子をうかがっているようだ。
リナ自身も信じ切れてはいなかった。
――あれは夢だったのかな。
目の前で繰り広げられた景色は悪夢のようで非現実的だった。けれど長時間演奏した後に体に残っている特有の疲労はリアルだった。
リナの手には古い横笛があり、部屋の照明で黒く光っている。この笛を吹いたら坂東地区がお椀をひっくり返したかのような不思議な大きな膜に覆われたのだ。
――そうだ。あの膜はどうなったの?
立ち上がって窓に走り寄った。家々の向こうに広がっているなだらかな傾斜には、今はまだ何も植えられていない畑が広がっている。見慣れた冬の風景だ。あの赤みがかった大きな膜はもしくだけたなら、どこにも見いだせなかった。
「リナ、大丈夫? 気分悪くない?」
リナが狐につままれたような顔をしていると、美櫻が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫だよ、みーちゃん。ごめんね、心配をかけて」
一瞬気を失ってしまったのはきっと夜遅くに寝てしまったせいだ。体に残っている疲労感も。リナはそう思うことにした。
「もう、無理しちゃだめだよ」
今日はこれ以上練習するのをやめて、美櫻は家へ帰ることになった。
彼女は玄関の棚をみるなり驚きの声をあげた。
「え! アマビエが一体消えているよ?」
「え、うそ」
「わたしが来たときは八体あったでしょう。ひーふーみー、今は七体しかないよ」
美櫻の言う通りたしかに棚の上には八体あった。端にあった大きな青いアマビエがいつのまにか消えている。
ぞわぞわと得体のしれない寒気がリナのお尻から背筋を襲った。美櫻もそうだったようでみるからに青ざめている。
「SNSでみかけた噂なんだけどさ」
リナの親友は中学生だけれどスマートフォンを持たせてもらって複数のSNSのアカウントも持っている。
リナも見ている大手動画投稿サイトでときどき演奏動画を投稿しているらしい。でもなぜかそのアカウントは教えてくれない。
「アマビエの絵や置物がある家にはアマビエが現れてその家の食糧をあさって食べているんだって。そんなのどうせ都市伝説でしょ、ってスルーしていたけどひょっとして……」
霊感のある友達は、顔をみるからにひきつらせた。
その都市伝説をありえないとリナは笑ってすませることはできなかった。だって、実際冷蔵庫から炊き込みご飯と冷凍ヤンニョムチキンの袋がなくなっていたのだから。
「おやみーちゃん、帰っちゃったのかい。みーちゃんの分も用意しておいたんだが」
友達を門のところまで見送ってリナは台所へ行くと、ちょうどおじいちゃんが野菜を切り終えていたところだった。
「せっかくお前たちのお囃子の音が聞こえてきたから、焼きそばにしたんだけどな」
綺麗に切りそろえられた玉ねぎ、にんじん、ピーマンがそれぞれステンレスのボウルに入っている。焼きそばのときの我が家の定番の具材だ。
未来を剣道教室へ送って帰ってきたら、リナと美櫻が演奏しているお囃子の音が耳に入ってきたから、その足でスーパーへ行って焼きそばの材料を買ってきたらしい。
すでに土日の食材は買っておいたはずなのだがどうしても食べたくなってしまったそうだ。
リナも演奏しながら焼きそばを食べたくなっていたが、あの変な夢を見た今食欲は全然わかなかった。
リナはさきほど見た夢をおじいちゃんに打ち明けるべきかどうか迷った。
「どうした、リナ。浮かない顔をして」
おじいちゃんは少し驚いた顔をしてリナに問いかけた。眼鏡の奥のつぶらな瞳には、こちらを労わるような優しい光が宿っている。厳しいところもあるが、リナたち孫たちのことをとても大切にしてくれている。
おじいちゃんなら、さっき夢の話をしてもきっと笑い飛ばしたりはしないはずだ。
リナは打ち明けることにした。今よりももっと小さな子供に戻ったような気持ちで。
「あのね、さっきね……」
口を開きかけたとき、おじいちゃんのスマートフォンのアラームが鳴った。それからおじいちゃんはジーンズのポケットから取り出して画面をちらりとみた。
「未来を迎えに行く時間だ」と言って白いエプロンを食卓の椅子に掛けると足早に出て行った。
リナはすっかり夢のことを話すタイミングを逃してしまった。
さっきの夢が実は夢でなかったのか、キオウのところへ行って確かめてもいいが、もし万が一また鬼のような形相で「笛をよこせ」と迫られでもしたらと思うと、自分から行く勇気は当然起きなかった。
リナは窓のそばでお囃子をまた奏で、そわそわと落ち着かない気持ちを紛らわせた。
何度か繰り返しているとおじいちゃんの車が駐車場へ入ってくる。未来を連れて帰ってきたのだ。未来はお風呂に入っておじいちゃんは食事の準備に再びとりかかり始めた。リナも手伝う。
お母さんがロシアへ戻ってから食事の準備の手伝いは自然とリナの役目だった。楽しいなと思うときもあればめんどうだなと思うこともある。ただ、料理を手伝うかわりに食器洗いを免除してもらえるようになったのはよかった。
「リナ、お昼ご飯だからキオウ様を呼んできてくれ」
彼と一緒に食べるのかとリナは驚いた。
「私たちと一緒に食べた方が食欲もわくかもしれないからな」
昨日の夜、何も手がつけられていないご膳が返ってきてがっかりしていたおじいちゃんは、キオウにどうしても食事を食べさせたいらしい。
「朝ごはんにトーストを二枚も食べていたから、もしかしたらまだおなか減っていないかもしれないよ」
今リナは彼と顔を合わせたくなかった。すると、どういうわけかおじいちゃんは眼鏡の奥の小さくて丸い瞳を輝かせた。
「おお召し上がって下さったのか。じゃあリナ一応私たちとお昼を食べるかどうか聞いてきてほしい」
「ええ、でもお腹すいてないかもしれないよ?」
「一口でもいいんだ。さあリナ、よろしく頼んだよ」
おじいちゃんは満面の笑顔でリナを送り出した。
結局、キオウのところへ行かなければいけないようだ。
リナは肩を落としながら社務所へ行った。
ため息をもらして社務所の引き戸を開けるなり、リナは「ひっ」と息をのんだ。
緑色をした大小の水滴が玄関のタイルから高い上がり框、そしてすりガラス戸のところへ途切れることなく点々と続いていたのだ。これがもし赤色だったら殺人事件でも起きて犯人が逃げ去ったあとのようでリナは悲鳴を上げていただろう。
すりガラスの戸の奥から荒い息づかいが聞こえる。
「キオウ君、いるの?」
リナは顔をこわばらせおそるおそる戸を開けた。すると、日に焼けてすっかり色あせた畳の上で、初めて会ったときのようにキオウがまた倒れていた。彼が横たわっている場所から緑色の染みが広がっている。生臭い匂いが鼻についてリナはぎょっとして足を止めた。
――この緑の液体、きっとキオウ君の血だ。
彼が着ている服はあちこちが派手に破れ、白い皮膚が裂け下の赤い肉が露出してそこから緑の血がどくどくと溢れ出ていた。骨らしき白い部分がみえている箇所もある。きっとさきほどの狼に肉を食いちぎられたのだ。
やはりあの光景は夢ではなかった。
「キオウくん、大丈夫!?」
そばに駆け寄って呼びかけると、キオウは夜空のように深い色の瞳をほんの少しばかり開けた。よかった、意識はまだあるようだ。
「おじいちゃんを呼んでくる!」
「いやいい。リナ殿。ふえを……ふえを、吹いてくれ。そしたらきっと良くなる」
キオウはかすれた蚊の鳴くような声で言った。
「だめだよ、ちゃんと手当てしなきゃ」
「そなたのふえが、手当てになる」
そう言うと、彼はそれで力尽きたようにふたたび目を閉じた。
リナは駆け足で家へ戻った。台所へ入るなり、具材の焼ける匂いが鼻へ飛び込んでくるがちっとも美味しそうだという気持ちはわきおこらなかった。
おじいちゃんは食卓の上に置いたホットプレートで大きなコテを持って野菜と麺を炒めていた。
「どうした、リナ。そんな血相を変えて」
「おじいちゃん、実はね」
焼きそばを作ってくれているおじいちゃんに、リナはさきほど見た夢からキオウが大怪我をしていることを急いで話した。
夢の話をしたときにはおじいちゃんのコテは止まり、ホットプレートの温度を切った。大きな地震の到来を知らせるアラームが携帯電話から鳴り響いたときのような緊張感が二人の間を走った。
「リナ、お前はキオウ様の言う通りに笛を吹きなさい」
リナは一瞬戸惑ったが、おじいちゃんの真剣な様子に押されるようにうなずいた。
「おい、どうしたんだ?」
階段を駆け上がろうとしたら、焼きそばの匂いにつられて部屋から降りてきたらしい望とすれ違った。
「キオウ君が狼、いえ犬に咬まれたの」
死にそうなの、とまではリナはどうにか口をつぐんだ。縁起でもない。
「そりゃ大変だな。じゃあこれから病院へ行くのか」
望はどこか他人事のようにのんびり言った。マイペースな兄は、もしリナや未来が大けがしてもきっと慌てることはないだろう。
「いや、病院に行くほど大したことはないからうちで手当てする。リナにお母さん特製のハーブの瓶を持ってきてもらうように言ったんだ。望、お前は未来を呼んで一緒に焼きそばを作って食べてやってくれ」
二人の孫の会話を聞いていたらしいおじいちゃんが声を張り上げて言った。大したことはない、というのは明らかに嘘だが、家族全員に作られたお母さん特製の盛り込まれた塗り薬はちょっとした火傷や切り傷によく効く。おじいちゃんは笛以外にそれも持ってこいとリナに伝えてきた。
けれど、人間用の塗り薬でどうにかなるような傷にはリナにはとても思えない。
「ああ、あれ? 俺、あのハーブの匂い嫌いだから俺の分も持って行けよ、リナ。机の一番下の引き出しに入っているからさ。じいちゃん、俺は未来に焼きそばを食べさせたらいいんだな、わかった」
「まだ味はついていないからお前たちの好きにしなさい」
「わたしはお腹すいてないからいいけど、おじいちゃんの分はちゃんと残しておいてよね!」
リナは食いしん坊の兄に念押しすると、笛を取りに階段を駆け上がった。
タオルと救急箱を携えたおじいちゃんを連れて、リナが社務所へ戻ると、色あせてところどころ傷んでいる畳の上には緑色の血がさらに広がり染み込んでいた。キオウの顔色はますますひどくなっていた。人間でいうならまさに瀕死の状態だった。
おじいちゃんはさっと顔をこわばらせ、意識のないキオウのいちばんひどい傷に、緑の血が止まるようタオルを押し当てた。
リナも真似しようとしたが「リナ、お前はそんなことしなくていいから笛を吹きなさい」と厳しい声で言った。
「早く!」
キオウの言葉通り、赤葉の笛が彼にとって治療になるとおじいちゃんも信じて疑っていないらしい。
――本当に笛を吹いただけで、こんなひどい怪我がよくなるってありえるの?
リナは半信半疑のまま横笛の小さな穴に唇をあてた。
曲の半分ぐらいまで奏でたとき、さきほど見た夢の中のように赤黒い膜がキオウの頭からつま先まで包んでいく。すると、狼の鋭い牙によって抉られただろう深く裂けた傷から垂れ流されていた緑色の血が徐々に止まり始めた。
お囃子の演奏を繰り返すうちに、骨がみえるまで痛々しそうに裂けていた傷は鮮やかなピンク色の肉がもりあがってふさがっていく。リナは演奏しながら目の前で起きている奇跡を信じられないような面持ちで見つめた。
彼女の笛の音が怪我の手当になるというのは、まさにキオウの言う通りだった。
「救急箱もマーシャの塗り薬もいらなかったようだね」
おじいちゃんは危機は脱せたとばかりに額の汗をぬぐった。
おじいちゃんは目の前で起きた現実とは思えない光景にあまり驚いている様子はない。もしかしたら、キオウが現れる前からおじいちゃんはこの赤葉の笛の効力を知っていたのかもしれない。
骨さえみえていたひどい傷さえも、嘘みたいに何のあとかたもなく元通りになったところでリナは笛を唇から外した。
リナはおじいちゃんに尋ねた。
「おじいちゃん、ひょっとしてこのことを知っていたの?」
「今日までは単なる迷信だと思っていたけどね」
おじいちゃんはタンスから新しい服を取り出して、まだ意識を失っているキオウに着せながら、赤葉の笛で音楽を奏でると神々や精霊の霊力を高める効果があるとリナに教えてくれた。
――だからキオウ君はあんなに必死になってわたしから笛を奪おうとしてきのね。
リナは、キオウ彼女から笛を力づくで奪い取ろうとしてきた動機に気付いた。最初からちゃんと言ってくれれば彼のために吹いてあげたのに。
「じゃあわたしが笛を吹いたとき、うちの地区を覆った膜は何なのかわかる?」
「それは……」
「――おそらく前に社にいたという神が残した結界だ。人がその笛を吹くごとに結界を補強していたのだろう」
おじいちゃんの腕の中で目覚めたキオウが言った。さきほどまで蠟のように白かった頬に生気が戻っていた。
やはり彼は人ではないのだ、とようやくリナはこのとき確信することができた。
キオウは血の染みついて色濃くなった畳から体を起こすと、リナとおじいちゃんの前に膝をついて人間の娘を見上げた。まるで雪の降る夜のように静かな面持ちだ。
「急にどうしたの?」
「リナ殿、そなたが笛を懸命に吹いてくれたおかげで私の霊力も戻ったようだ」
「え、戻ったの? よかったね!」
「そなたのおかげだ。心より礼を申し上げる」
真摯な態度で彼は言った。それからさらにリナへ深々と頭を下げた。初めて会ったときは人間のリナに姿を見られることすらショックを受けていたのに。
「やめてよ、わたしは笛を吹いただけだからそんな大げさなことしなくていいよ」
笛を吹いたぐらいで誰かにこんなにも感謝されたことがなくて、リナは背筋がくすぐったくなったが胸のあたりもじわりと温かくなった。
頭を上げたキオウは、冷たさを感じる顔立ちに今は穏やかな微笑みを浮かべた。まるで夜空で星が瞬いているかのようだ。
きっと、彼は星か夜を司る神様なのだろうとリナは思った。
大怪我が治って畳から立ち上がったキオウは、なんとリナと合う目線の位置が変わっていた。今朝までリナが彼を少し見下ろしていたのに今はリナが顎を少し上げないと目線が合わない。彼の着ている服も袖や裾が短くみえる。
「キオウ君、ひょっとして背が伸びた?」
「ここへ来る前はもともとこの背丈だった。まだ私は神核の大きさが定まっていないからおそらく背はまた伸びるだろう」
神核とは神様の霊力の源のことをいうらしい。キオウは生まれたばかりの新しい神様だから神核がまだ小さいのだという。
キオウは畳や床にさっと手をかざすと、そこについていた彼の血があとかたもなく消えた。
「キオウ様、霊力が戻られたのでしたら社へ移られますか?」
おじいちゃんがキオウに尋ねた。「いやこのままでいい」とキオウは答えた。
「いくら神様でもあんな小さなお社に寝泊まりできるわけないよね」
リナはおじいちゃんの申し出に首を傾げた。笠無神社のお社はこの社務所の半分の広さもない。
「人の目にはそう映るだろうが……」
キオウによれば、神々の世界ではなんとあの小さなお社は、茅葺屋根の広い家屋らしい。人の世界と神々のいる世界では景色が異なるそうだ。
さっきはリナが赤葉の笛でお囃子を奏でたから神々と人の世界が重なって、そのせいでリナは神々の暮らす世界へ入り込んだのだとキオウは教えてくれた。
昔は神々の世界と人の世界は固く結びついていたが、最近では離れていることが多いそうだ。
本来の神殿ではなく社務所にいることを選んだのは、人間のふりをしやすいからだとキオウは言った。
「あまたの神々のように神殿で鎮座するより、そなたたち人間の世界や暮らしをもっと知りたいと思ったんだ」とキオウは言った。そのときリナは当たり前のようにこれからも彼がリナの家へ出入りすると思っていたことに気付いた。
昨日は彼のことを厄介だと思っていたのに我ながらすごい変わりようだ。
「そういえば、あの狼はどうなったの?」
「のどに木刀を突き刺して仕留めた」
キオウはさらりと答えた。つまりさっき彼は瀕死の怪我とひきかえにあの恐ろしい狼を退治してくれたということだ。
「リナ殿、あいつを倒せたのもそなたが笛で力添えをしてくれたおかげだ。かたじけ……いや、ありがとう」
リナはキオウからふたたびお礼を言われた。現代の言葉で。彼は今その引き締まった口元に心からの微笑をたたえている。
かっこいい美少年からお礼を言われて、リナは頭が一瞬ぽうっとなった。
笛やクラリネットを吹いて「頑張ったね」「お疲れ様」「よかったよ」と声をかけてもらったことはあっても、これまでありがとうなんて感謝されたことはなかった。
「キオウ様、わが家へお越しください。ともに食事をしましょう」
おじいちゃんの誘いにキオウはうなずいた。リナもまたこのときようやく空腹を思い出した。
リナたちの家に入るにあたって、髪が腰まで長かったキオウは居候の相馬キオウへ戻った。人間のふりをすることにしたらしい。
家に戻ったら、野菜が炒められていたはずのホットプレートには何も残っていなかった。美櫻のぶんもいれたら少なくとも六人分はあったはずなのに。
「あーごめん、腹が減ってて全部食べちったわ」
「兄ちゃんの作ってくれたソース焼きそば、すんげえおいしかった」
兄弟は、端っこに野菜くずだけが散らばったホットプレートを前にしてあっけらかんと悪びれもなく言った。
腹を膨らませて満足そうな兄弟二人に、すきっ腹のリナは「いくらなんでも信じらんない」と詰め寄りそうになった。肩を怒らせているリナを、おじいちゃんがなだめてきた。
「まあまあ落ち着きなさい。リナとキオウ君にはブリヌイを作ってあげよう」
ブリヌイはそば粉を使ったロシアのクレープだ。我が家ではいつもたくさん焼いて手巻きずしのように具材を巻いて食べる。
おじいちゃんは空になったホットプレートを兄と弟の二人に洗わせてそこでブリヌイの生地を焼いた。そのあいだ、リナは具材の準備をした。
「私は何をすればいい?」
リナは丸い目を見張った。昨日は家具を運ぶのを手伝わなかったのに、今は望や未来さえやらない食事作りの手伝いをやろうと申し出てくれた。まるで別人のようだ。
「リナ殿?」
「あっ、うん、そうね。じゃあそこのレタス、青い野菜をちぎってくれる?」
リナは心の中で驚いていた。昨日は手伝わなかったのに。
けれど丸いレタスを手にすると、キオウは豪快に真っ二つにした。それからぐしゃぐしゃにしようとしたのでリナは慌てて止めた。
「ちがうちがう。こうやって一枚一枚はがして半分にちぎるんだよ」
リナの言ったとおりにぎこちない手つきでレタスの葉をはがしてちぎった。彼はたしかにまだ三歳児だ。
「これは『とーすと』とはちがうのか?」
キオウは、リナが渡してきた具材をはさんだブリヌイをきいた。クリームチーズを薄く塗って野菜とハムを巻いたブリヌイだ。
「これはブリヌイっていうの。そばの粉を使っているんだ」
キオウはきっと初めて食べるだろうブリヌイを一口食べると、トーストを口にしたときのように切れ長の瞳に明るい光を宿らせた。それから彼はもくもくと頬張った。リナはキオウの様子をみてうれしくなった。
おじいちゃんは、キオウの前に黒く小さなおちょこをおき日本酒の小さな瓶から酒を注いだ。我が家では母以外アルコールに強くないので、これは明らかにキオウのためのものだ。
キオウは自分のためのものだとわかったらしくおちょこを片手で持った。彼は一口飲むなり、口に含んだ酒を勢いよく噴き出した。
「ちょっと大丈夫?」
リナが水を取りに行き、おじいちゃんが雑巾を持ってきて床に散らばった酒を拭いてくれた。
「げほっ、すまない、げほっ」
キオウはリナから水の入った黒いマグカップを受け取ると、まだむせていながらも自分の粗相を謝った。
「キオウ様どうかお気になさらず。お若いからきっと飲みなれていなかったのでしょう」
「口直しにまた紅茶を淹れてあげるね」
リナは薬缶でお湯を沸かして、コーヒーサーバーに紅茶のパックを二袋淹れて熱湯を注いだ。そして三人で紅茶を飲んだ。あたたかな紅茶はリナの心と体を満たし、くつろいだ気持ちにさせた。昨日の朝から怒涛のようにいろいろなことがありすぎて、少女はようやくひと心地ついた。
キオウは朝のようにずずと音を立てて紅茶を飲んでいる。彼はまるでずっと昔から絵坂家の食卓にいたかのように馴染んでいた。
そこでリナはふとあることに気付いた。
「あれ、そういえば霊力が戻ったらおなかすかないんじゃないの?」
「これは私たちの最初の共食だから」
「共食?」
「神様と人が同じ食事を食べて縁を結ぶ儀式のことだ。リナ、私たちはこれでキオウ様と縁を結んだんだよ」
神様と縁を結んで丁重に祀れば、その加護を与えてくれるとおじいちゃんは言う。
「じゃあ、ひょっとして今のキオウ君ならお母さんを日本へ帰らせてくれるの? アステリウィルスを消すこともできる?」
「それは……」
リナが大きな期待を込めて尋ねると、キオウの白い頬があからさまに強張った。
「リナ、日本中の神主さんとお坊さんが日本中の神様仏様に祈っても感染は落ち着かないのだからさすがのキオウ様でもウィルスを消すなんて難しい」
「なんだ、神様って万能じゃないんだ」
リナはがっくりと肩を落とした。それにキオウは最近この世に生まれたばかりの神様だ。そんなに強い力はそもそもないのかもしれない。
「リナ、キオウ様に失礼だよ」
おじいちゃんは、あからさまにがっかりするリナをとがめた。
「どの神様も追い風を吹かせてはくれるが、願いを叶えるのは神様じゃなくて自分自身の努力だ。なんでもかんでも神様に頼ろうとしてはいけない」
それは滅多にないことだが、リナはおじいちゃんのもっともらしい言葉にかちんと頭にきてしまった。
「でも、ウィルスを消滅させるなんて神様にでも頼らなきゃわたし一人の努力でどうこうできることじゃないでしょ!」
諭してきたおじいちゃんに、リナは思わず強い声で言い返してしまった。
美櫻のような音楽の才能なんていくらほしいと思ってリナがどれほど努力したって決して手に入らない。それと同じぐらいパンデミックをどうにかするのはリナがいくらマスクをつけてアルコール消毒をして外出を控えても、彼女の努力ではどうしようもないことだ。ひょっとしたら人類の知恵をもってしても。
食卓がしんと水を打ったように静まり返る。
おじいちゃんはリナの勢いにあんぐりと口を開いていた。キオウは何を考えているのかわからないぐらい無表情だ。
「ごめんなさい」
リナは二人に小さな声で謝った。何とも言えない気まずさが食卓を支配する。
今世界の人たちが感染症に怯えて暮らしていることは、リナはもちろん誰にも何の責任もない。キオウのせいでさえも。
「そなたの言う通りだ、リナ殿。残念だが今の私にはそなたの母君を帰還させる力はない」
キオウは端正な顔に暗い影を落とし、悔しさをにじませた声で言った。年若い神様は自分の力不足を不甲斐なく思っているようだ。
椅子にあぐらをかいて座ったまま、若い神様はこれまでにない厳かな表情で二人の人間を見回した。
「だがこの坂東の地に誓おう。今日より私は神命をもってこの地に住まう人々を災いから守り、そなたたちの生が幸多きものになるよう手助けしよう」
キオウは落ち着いたよく通る声で人間に誓いを立てた。まだこの世に生まれて三年だというのに何百年も過ごしてきたかのように威厳に満ちた様子だ。
このとき、彼の体は夜空に瞬く星のように一瞬だけ強い光を放った。
こうして空っぽだった笠無神社にふたたび神様がおわすことになった。