第五話
リナが持っている『赤葉の笛』と呼ばれる黒い横笛は、リナの家に先祖代々伝わっている笛だ。
平安時代の終わりごろ、猟師の万次郎という人が近くの山で行き倒れていた旅の尼僧を看病して彼女と結婚した。赤葉の笛はその尼僧が持っていたという笛だ。
リナはその万次郎の直系の子孫ではない。万次郎とその尼僧の間に娘が一人いたがその人が、彼女は子を残さなかったので彼女のいとこだったリナの先祖がその笛をお囃子とともに代々受け継いできた。
それが『赤葉の笛』にまつわるお話だ。
墨がなみなみと入った樽の中にでも間違って落っことしてしまったかのような真っ黒な横笛なのに、『赤葉の笛』と呼ばれるその理由は、リナたち子孫にもよくわかっていない。
「ああ楽しかった。お囃子の練習もたまには楽しいねえ。まだ冬だけどこの部屋だけ夏が来たって感じがする」
演奏しているうちにお互い体が熱くなってきたから、リナは途中で部屋の暖房を止めた。
一時間ほど演奏した今は、リナも美櫻も二人とも脇やこめかみに汗がにじんでいる。リナは部屋の中にこもった熱気を逃がすために窓を大きく開けた。今朝散歩したときには、体を芯まで凍らせるかのように冷たかった風が、今は夏場冷房が送り出す涼しい風のように心地よく感じた。
時計を見たらもうすぐお昼の時間だった。遅い時間にトーストを食べたからあまりお腹がすかないかもしれないと思ったが、楽器を思いきり演奏するとやはりお腹はぺこぺこになる。
夏祭りのときには必ずソース焼きそばが、リナたちお囃子会の人たちにふるまわれる。坂東自治会の婦人部の人たちがテントで作ってくれるのだ。
けれど、二年前の夏。近所に住んでいる斎藤さんという母より一回り年上の女性が、「お祭りがなくて楽だわ。こんなに楽だと思わなかった」と母と立ち話で実感を込めて言っていた。それがリナにはもう祭りをしなくていいと言われているようで少し悲しかった。
それを母に告げたところ、母は『夏の炎天下の中で、鉄板の上で焼きそばをたくさん作っているんだからそう思うのも無理はないわよ』とリナを諭してきた。そこからは母も斎藤さんと同じことを思っていたんだとわかった。斎藤さん同様に母もまたリナの参加しているお囃子をそんなに楽しみに思ってはくれていなかったのだ。それ以来、誰もわたしの演奏を必要としてくれてないのかもしれないとリナは思っていた。
隣にいる美櫻のお腹が大きく鳴った。
「へへ、お腹すいちゃったね」
「わたしも。おじいちゃん、ホットプレートでソース焼きそばを作ってくれないかな」とリナは言った。きっと未来の送迎から帰ってきているはずだ。
すると、誰かが突風のような勢いで階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
ノックもされずリナの部屋のドアが大きく開け放たれた。
部屋の前で、キオウが息を切らして立っていた。まるでここまで全速力で走ってきたかのようだ。そのせいか、雪のように白い頬は薪ストーブの炎のように赤くのぼせている。
「今、笛を吹いていたのはどちらだ?」
キオウは、自分の物を盗んだ犯人でも捜すような厳しい声で尋ねてきた。
「……わたしだけど?」
ただごとではない様子にリナはおそるおそる答えた。
すると、少年は両目をかっと見開いた。青みがかった漆黒の瞳はつい先ほどまでは夕闇のように冴え冴えとしていたのに、今は恐ろしく飢えた獣のように血走っていた。
「リナ殿。その笛を今すぐ私に譲ってくれ! 早く!」
キオウは激しい剣幕で迫ってきた。まるで彼の中にある爆弾がいくつも炸裂しているかのような激しさだ。
リナはひっと小さく悲鳴をあげるも、すぐに首を振って断った。
「だめだよ。これはわたしのだし、うちの家の唯一の家宝といってもいい笛なんだよ。貸すならまだしも他の誰かに渡せるわけないでしょう」
キオウが手を伸ばして今にも笛をひったくろうとしてきたので、リナは慌てて笛を腕に抱え込んだ。
この赤葉の笛はリナが小さい頃からずっと使ってきた笛だ。それを突然渡せだなんて、体の一部を差し出せと言われているようなものだ。相手が神様であろうと仏様であろうとアメリカの大統領だろうとそんなの断固断る。
「リナ、誰この人?」
美櫻がこっそり小声でリナに耳打ちしてきた。その顔はいかにも「この子ちょっと頭おかしいんじゃないの?」と言いたげだ。
「おじいちゃんの知り合いのお孫さんで相馬キオウくん。東京でアステリウィルスの感染が流行っているから、うちの町へ疎開しに来たんだよ」
リナは一息にキオウの『設定』を説明した。まさか笠無神社へ新しく現れた神様だなんて言って信じてもらえるはずがない。
「つべこべ言わず、いいからそれをよこせ!」
キオウはまるで人が変わったように乱暴な口調で言った。まさかこの荒々しさが神様である彼の本性なのだろうか。
ふたたび勢いよく伸びてくる手を、リナはあわててよけた。けれどキオウはあきらめずリナに飛びかかってきた。力づくでも奪おうとしていた。
「ちょっと、あんた、リナに何すんのよ!?」
美櫻は自分より小柄なキオウをリナからひきはがそうとするが、彼はひどく乱暴に彼女を振り払った。美櫻は勢いあまってベッドに倒れ込んだ。
「みーちゃん!」
「リナ、そいつから逃げて!」
美櫻は悲鳴のように叫んだ。
なにがなんでもお前から赤葉の笛を奪ってやる。人間ならば何かに取り憑かれているかのような険しい形相はそう言っていた。さっき恥ずかしそうにトーストをもう一枚ほしいとお願いしてきた彼とはまるで別人だ。
一瞬、キオウの小柄な体から真っ黒な炎が立ちのぼった。まるで地獄の業火のようなまがまがしさだ。
――彼は本当に神様なの?
キオウに睨みつけられてリナは恐怖のあまり膝ががたがた震えたが、美櫻がまたキオウの後ろからとびかかってくれた。
「早く逃げてリナ!」という親友の声に我に返って、リナはとうとう部屋を飛び出した。廊下を走り階段を飛ぶように降りて靴も履かずに家の外へ飛び出た。
神社の前を通り過ぎたら、道路が交差するところで一匹の体の大きな犬がぽつんと立っていた。毛並みが左右に白と黒に別れている。この辺りでは見かけた覚えのない犬だ。
その犬は目が見えないのか焦点が合っていないが、こちらへ向かって走っているリナに気付いたのか尻尾を大きく振っている。
リナが近づくと、その不思議な毛色の大型犬は口を大きく開けた。耳までぱっくり裂けたと言ってもいい。その大きな口の中に何本も生えている鋭い牙を目の当たりにしてこれは犬じゃない、狼だとリナは直観的に思った。
狼は恐ろしい咆哮をあげて今にも飛びかかろうとしてきてリナは足を止めた。引き返そうにもすぐ後ろからキオウが追いつこうとしてきた。
まさに前門の狼、後門のキオウだ。リナはその場で身動きが取れなくなってしまった。
「なんなの、いったい」
神様に追いかけられるわ狼が今にも襲いかかろうとしてくるわ、リナは恐怖で今にも泣きたくなった。キオウがすぐ近くまで近づいてくる。もうだめだとリナはしゃがみこんだ。
「リナ殿! 笛を吹け」
さきほどまでリナから笛を奪い取ろうとしていた神様は、なんとリナの前に回り込んだ。驚いたことに、彼はさきほどまでリナを害してでも笛を奪おうとしていたはずなのに、今はまるで狼からリナをかばおうとしているかのようだ。
「結界が一昨日よりもかなり薄くなっている。きっとあいつが体当たりしたせいだ。あいつは神にもなれなかった妖魔のなれの果てだが霊力だけは強い。いつこの結界を破ってこちらへ侵入してきてもおかしくはない」
「結界? 何の話? いったいどういうことなの? あの狼は狼じゃないの?」
「つべこべ言わずにさっさとその笛を吹け! 今の私の力ではそなたを守れない。死にたくなければ私の言う通りにしろ!」
キオウは殺気だった表情でリナを振り返った。けれど、彼はもはやリナから笛を奪うつもりはないようだ。
キオウの必死な勢いに押されるように、少女はおそるおそる先祖から伝わる漆黒の横笛に唇をつけた。そして、さっき美櫻と練習したときのように夏祭りで奏でる祭囃子の曲を奏で始めた。
笛の涼やかな音色は、夏祭りで太鼓の激しいリズムとともに獅子の頭をした武士の舞を盛り上げる。獅子頭の武士は、獅子王という笠無神社で祀っている神様の弟子だ。獅子王の扮装をした舞い手が刀を持って動きの速い舞を舞いながら、人々は獅子王に頭を差し出して噛みついてもらいその年の無病息災を願うのだ。
唸っている狼のすぐ前でうっすらとした赤みがかった透明な膜が生じた。それは演奏と共に徐々に広がりやがて坂東地区全体を覆った。
リナの家の裏に広がっている雑木林から三瀬川の川べりまで、リナの暮らす坂東地区は赤みがかった半球に覆われた。まるで半透明の大きなお椀で蓋をされてしまったかのようだ。
膜の向こうの狼は苛立っているかのように、アスファルトを前足で何度もひっかきおどろおどろしい声で繰り返し吠える。まるでこっちへ来いと誰かに呼びかけているようだ。
――いったいこれはどういうことなの?
「その楽を止めるな。私がいいというまで何度も繰り返すんだ」
お囃子を奏でるとともにリナの暮らす土地を覆っている膜は、卵の殻のように厚く頑丈になっていく。
キオウの体もまた血のりのように赤黒い光の膜に包まれる。そして彼は鳥居のそばに生えている大きな木を一本蹴り倒して手で軽々と持ち上げた。それはたちまち一振りの大きな木刀になった。
木刀を手にした少年は、現代の格好をしているのにまさに百戦錬磨の侍のような恐れるものなど何もないかのような堂々とした佇まいだった。
キオウを包んでいた赤黒い炎はその木刀へ移るなり、さらに勢いよく燃えさかった。けれど不思議と木刀は炭にならなかった。
炎の剣を手にして、若い侍は膜の外へ勢いよく飛び出した。そしてすぐさま唸る狼の頭上へ振り下ろした。だが狼はより俊敏な動きでキオウの一振りをよけた。
狼は口を耳まで大きく開けキオウの腕に噛みつこうとする。今にも食いちぎらんばかりの勢いだ。
キオウは炎に包まれた木刀を狼に噛ませ、自身は飛び上がって空中で一回転する。狼は木刀を吐き捨てると地面に着地しようとする少年へ飛びかかった。
足から着地したキオウは、そのまま地面を転がって燃える木刀を拾い上げ、すかさず狼の長い胴へしたたかに打ち込んだ。狼は辺りに響き渡るような唸り声をあげたが、その一撃で倒れはしなかった。
アスファルトの道路の上で若い武士と一匹は激しい攻防を繰り広げた。お囃子の音もあいまって、キオウの切れのいい動きはまるで獅子王の舞をみているかのようだ。
このとき、リナは笛を吹きながら周辺の様子がいつもと違うことに気付いた。いつまでたっても山向こうの江湖市へ続いている道路を車がまったく通らないのだ。それどころか鳥の鳴き声もせず、風さえも吹いていない。激しい戦いの音と笛の澄んだ音だけが響きわたっている。
――いったいこれはどういうことなの?
リナは半ば呆然として同じ問いを繰り返した。けれど誰も彼女の戸惑いをぬぐってはくれない。
リナはひたすら笛を吹き続けた。吹くのをやめてしまえば、キオウも自分もきっと狼に噛み殺されてしまうかもしれないと思ったからだ。
『リナ!』
数えるのも忘れるぐらい演奏を繰り返したとき、突如として美櫻がリナを呼ぶ声が頭の中で大きく響いた。
笛に口をつけたまま急いで辺りを見回すが、親友はどこにもいない。けれど、彼女が必死に自分を呼び声だけは頭の中で何度もこだまする。名前を呼ばれるごとに、頭を鈍器で殴られているかのようなひどい痛みに襲われてリナは横笛から唇を離さざるをえなかった。
その瞬間、リナを取り囲む景色がまるで大きな地震が起きたときのようにぐらぐらと激しく揺れた。まるでこの強い振動のせいで今にも彼女の立っているこの世界が粉々に砕けて壊れそうだった。
やがて夜のような闇にリナの視界は閉ざされた。視界の端で青い鳥が飛び立ったような気がした。