第四話
窓の外からチビの吠える声が何度も聞こえてくる。大きな犬や知らない人が通りかかって警戒しているというより、まるでリナを呼んでいるようだ。
「もう、まだ早いよ」
とぼやいて布団の中で縮こまったが、カーテン越しに差し込んでくる明かりはいやにまぶしい。そこでリナはいつものお散歩の時間がとっくに過ぎていることに気付いた。
「ごめん、チビ。すぐ行く」
慌てて服を着替えて、リナは愛犬の散歩へ行った。
空は雲一つなく晴れ渡っているのに吹いている風はまるで冷凍庫の中にいるかのように冷たく、リナは家に戻ってきたときにはすっかり凍え死にそうになっていた。
朝ごはんにトーストを焼いてラズベリーのジャムをたっぷり塗った。この黒みがかった赤いジャムは、庭で育てているラズベリーを収穫して母と夏に作ったものだ。リナは薬缶でお湯を沸かしてティーバッグの紅茶を飲んだ。一口飲むごとに身体が温まっていく。
土日の朝だけは、おじいちゃんに頼らず自分たちで各自で用意して食べるようにしている。でもこの食パンはホームベーカリーでおじいちゃんが作り置きしてくれていたものだ。枚数が減っているから父や未来は食べたのだろう。望は、土日は朝食を抜くことが多い。明け方ぐらいまでオンラインゲームに没頭して昼過ぎまで眠ってしまうからだ。
今の時間帯は、おじいちゃんは未来を剣道の練習へ送りに行ったはずだ。父は土日もお店へ出勤するから当然不在だった。
母がサンクトペテルブルクの実家へ戻るまでは、土日のこういう冬の寒い朝にはカーシャという牛乳のお粥を子供たちに作ってくれた。
リナは実のところあまり好物ではないけれど、今はそれを無性に食べたいとラズベリーの甘酸っぱさを舌の上にのせながら思った。
「……気分がよくない」
リナがトーストを食べ終えたときに、まるで幽霊のように青ざめた顔でキオウが居間にぬっと現れた。リナは悲鳴をあげかけた。
「びっくりした。驚かさないでよ」
「さきほどから腹がずっときゅるきゅる鳴っていてな、体に力が入らなくなった。気分もよくない。私に効くかはわからないが腹に効く薬はないだろうか?」
「キオウ君、それってきっと病気じゃなくてお腹がすいているってことだよ」
キオウは太い眉を弓なりにした。少年の姿をした神様は、空腹という事実に軽く衝撃を受けていた。霊力がなくなってしまったせいで、今までにない体の変化が起きているようだった。
若い神様はさらに顔を青ざめさせてから大きく息を吐くと、何か大きな決意をしたかのように凛とした眼差しを人間の少女へ向けた。
「リナ殿。そなたたちの食糧を少しわけてもらえないだろうか。屯食はないか?」
昨日の夜にはつんとすました態度で人間の食事をいらないと拒んだ神様は、今はリナに食べ物をわけてくれるようにねだった。青みがかった黒い瞳には、親猫とはぐれてしまった子猫のような心細さも浮かんでいる。
名前の下に殿と呼びかけられ、まるで時代劇の登場人物になったかのような気分をリナは味わった。悪い気分ではない。昨夜よりはましだ。
聞いたこともない食べ物のことを問われ、人間の娘はきょとんと首を傾げた。
「トンジキ? 豚汁のこと?」
「屯食とは蒸した米を手で握ったものだ」
「そういうのは、うちにはないよ。おじいちゃんなら作れるかもしれないけど、おじいちゃんは今出かけているし作るのにきっと時間はかかると思う」
「では団子はないか?」
「お団子は、スーパーへ行けば売っているだろうけれど、ここからだと自転車で四十分はかかるよ」
おじいちゃんも車を運転するときときどき江湖市にある大型スーパーの移動販売を頼むことがある。
「そうか」
キオウはあからさまに力なくうなだれる。そのしょげている様子からは神様というよりお腹を空かせた同い年の少年にしか思えなかった。
「トンジキはないけど、炊き込みご飯ならあるよ」
リナは冷蔵庫の中から一昨日の晩ごはんの残りを解凍して、インスタントのお味噌汁と食べさせてあげることにした。
味噌はいつもならば今の時期に母が友達と一緒に大豆から煮て仕込むけれど、母はここにはいない。今年の分のお味噌はもうなくなってしまったから、近頃は市販のみそやインスタントを買っている。
おじいちゃんが作ってくれる鮭と小松菜の炊き込みご飯は絶品だからきっとこのちょっと気難しい神様もお気に召すはずだ。
しかし、冷凍庫にはラップにくるんでいたはずの炊き込みご飯はなぜか一つも残っていなかった。おまけに昨日はあったはずの冷凍のヤンニョムチキンの袋もない。家族の誰かが食べてしまったらしい。
「ごめんなさい、炊き込みご飯はもうなくなってた。わたしと同じトーストでいい?」
「『とーすと』とは?」
今度はキオウがきょとんと首をかしげる番だった。そのあどけない様子は、彼が神様などではなくリナと同世代の少年のように感じさせられた。
――そうか、きっと食べたことないんだ。
「小麦粉と水とバターと塩とイースト菌と牛乳をまぜてこねて発酵させて焼くとできあがる人間の食べ物のこと」
少年の姿をした神様はますます頭の上にクエスチョンマークをのせている。神様に人間の食べ物のことがもちろんわかるわけがない。
「要は人間が朝ごはんによく食べているものだよ。もし口に合わなかったら残していいから、とりあえず食べてみて」
リナは薄切りのトーストへ、バターを薄く塗ってトースターへ入れてスイッチを回す。香ばしい匂いがふたたびキッチンを漂う。
チン!と甲高い音が鳴ると、リナは網の上からトーストを取り出した。こんがりキツネ色になった生地に溶けたバターが染み渡っている。そこへガーネットのように赤黒く光るジャムを重ねて皿にのせてキオウへ渡した。
最初はおそるおそる一口かじって口に含むと、キオウはかっと切れ長の瞳を見開いた。まるで天から彼の頭上へ雷が落ちたかのような表情を浮かべている。一口食べるごとにパリっと小気味よい音を立てて、若い神様はあっという間にトーストを平らげた。
どうやら気に入ってもらえたようだ。
「どう? 美味しかった?」
リナが問いかけると、神様は困惑気味に口を開いた。
「美味しいという感覚は知らなかったがこれがそうなのか。体が喜んでいる。だろうに恵んでくれてかたじけなく思う」
かたじけないとは時代劇でよくでてくるありがとうという意味の言葉だ。彼はやはりお侍さん関係の神様なのだろうか。
「どういたしまして。今の日本人は、お礼を言うときはかたじけない、じゃなくてありがとうって言うんだよ」
「ありがとう?」
「そう」
「ありがとう」
リナが英単語を覚えるときのように現代日本語を機械的に復唱すると、キオウは何か考え込むようにうつむいた。
「リナ殿、その……」
何やら言いにくそうにしていたが、とても真面目な面持ちとともにキオウは口を開いた。
「その『とーすと』とやらをもう一つもらってもかまわないだろうか?」
まるでとても貴重なものをわけてもらえないかと頼み込むような必死さだった。単なるトーストなのに。リナはその必死さをおかしくなり、この若い神様のことを可愛らしくも思った。
「いいよ」
そして、希望通りもう一枚焼いてあげてバターと宝石のようなジャムをたっぷり載せたトーストを作ってあげた。
「これはなんだ?」
あっという間に平らげたとき、リナはキオウへ誰も使っていなかった黒いマグカップを差し出した。
黒いマグカップには透き通った赤い液体がなみなみと入っている。ティーバッグでいれた紅茶だ。
「紅茶。赤いお茶って意味のお茶」
「茶?」
キオウはやはり首を傾げた。この神様はお茶さえも知らないらしい。きっとこれまでよほど人と関わりを持ってこなかったのだろう。
「人間がよく飲む飲み物の一種だよ」
絵坂家ではおじいちゃんと母とリナが紅茶党で、父と望がコーヒー党に別れている。まだ小学校三年生の未来はもっぱらオレンジジュースやコーラといった甘い飲み物が大好きだ。
キオウは取っ手のついたマグカップを両手に持って、ずずっと音を立てて紅茶をすする。今なら彼にリナが気になっているいろいろなことを尋ねてもよさそうな気がした。
「ねえ、キオウ君ていくつなの? 見たところわたしと同じぐらいだけど」
同い年ぐらいにみえても、神様ならば百歳どころか千歳であってもおかしくはない。
ところが。
「人間の年月でいうならば、私は生まれてから三年だ。『高天原』の神々の感覚からすれば私は生まれたての赤子といったところだろうな」
リナは目を大きく見開いた。時代劇のような口調だからとても年を重ねているようにみえてむしろ逆だった。
――まだたったの三歳だなんて。
俄然、リナは神様という存在そのものに興味がわいた。
「じゃあ三年前にどこから来たの? 神様ってどうやって生まれてくるの?」
伝説の生き物、たとえばおじいちゃんの小説に出てくるフェニックスのように卵なのか、それとも西遊記の孫悟空のように大きな石だろうか。それとも古い神話にあるように、神様同士が戦って新しい神様が生まれたりするとか。
リナは顔を輝かせて尋ねた。けれど、キオウの口からはまたしても思いもよらない答えが返ってきた。
「黒い箱の中だ」
「え?」
「目覚めたときには私は箱の中にいた。それがいちばん最初の記憶だ。そのあとは白い衣を着た人間たちに囲まれて過ごしていたな」
それが窮屈に感じられて外へ出たんだ、と何の感情も込めずにキオウは言った。白い衣を着た人間というのは神様に仕える神主さんのことだろうか。
リナは拍子抜けした。風船のように膨らんでいた期待が、端っこを止めていた輪ゴムが切れてしまってあっという間に空気が抜けてしまったかのようにしゅるしゅるとしぼんでいった。
日本の神様は卵でも石でもなくて、箱から生まれてくるだなんてなんだか夢がなくてがっかりしてしまった。まだ桃から生まれてきた桃太郎の方が神様らしく思えた。
「キオウ君はひょっとしてその白い衣を着た人間たちに追われているの?」
敵に追われていると彼はたしか昨日言っていた。
「それもあるが、それだけではない」
追われているのは確かなようだが、キオウは詳しく言いたくなさそうだった。若い神様は何か人間には打ち明けられない特殊な事情を抱えているようだ。まだたった三歳なのに。
「おじいちゃんは、あなたがここへ来てくれて喜んでいるから好きなだけいていいと思うよ」
おじいちゃんは作家によくあるように常に不機嫌で気難しい人というわけではないが、いつもにこにこ笑顔を浮かべているわけでもない。けれど昨日今日と目に見えて機嫌がいいのだ。長く探していた宝物がようやく見つかったようにいきいきしている。きっと何かから逃げているこの神様を社務所へ匿うことにしたのだろう。
リナは昨日は彼のことを面倒で早くどこかへ行ってほしいと思っていたが、このわずかな時間で彼に同情してしまった。
「かたじけない」
どういうわけか暗い表情で彼は礼を言った。もしかしたら霊力を失って神様らしいことができないのに、神様としてここにいるのが心苦しいのかもしれない。
トーストを食べ終え紅茶を飲み干すと、キオウは席を立ち食卓から去ろうとした。
「使い終わった食器はシンクにおいてください。それがこの家のルール、きまりです」
リナは望や未来に同じように注意するおじいちゃんの口真似をしてシンクを指した。
キオウは指図されて太い眉を弓なりにした。驚いたのか指図されて不快に思ったのかあるいはその両方なのかわからないが、リナに言われた通り彼は使った食器をシンクへおいた。そして社務所へ帰っていった。きっとおなかがすいたら、自分たち兄弟のようにまたこの台所へきて何か食べ物をねだりに来るだろうとリナは思った。
二人分の食器を洗ってから、リナは数学の宿題を開いてみたがなかなか手につかなかった。学校からの連絡によると来週一週間は感染拡大を抑えるためにオンライン授業だそうだ。だから宿題も学校から配布されたタブレットで提出しないといけない。オンライン授業やタブレットでの宿題提出にはずいぶん慣れたが、好きか好きじゃないかと誰かに訊かれたらあまり好きじゃないとすぐに答える。
こんなときは、気晴らしに横笛かクラリネットでも吹こうとリナは椅子から立ち上がった。ちょうどそのとき家のインターフォンが鳴った。
部屋の窓から家の門をみれば、そこにはマスクをつけていない美櫻がいた。背中にショッキングピンクのフルートケースを背負って自転車に乗って大きくこちらへ手を振っている。
リナは急いで家の門まで降りていった。
「へへ、来ちゃった」
「来ちゃだめって言ったのに」
そう言いながらもリナはいちばんの友達が会いに来てくれてうれしい気持ちが沸き上がった。ちょうど時間を持て余していたところだったから。
「ねえ三瀬川のそばで課題曲の練習しない?」
「寒いからやだよー」
「あーやっぱりだめか。たしかに家からここまで自転車を漕いできても全然あったまらなかったしね」
美櫻は体をぶるっと大げさに震わせた。常夏の国育ちの友達は、蒸し暑さには慣れているが日本の芯まで凍り付くような寒さにはめっぽう弱い。
「今日は久しぶりにお囃子の練習をしたいからみーちゃん付き合ってくれる? 太鼓を叩いてくれたらうれしいんだけど」
お囃子会の太鼓は社務所の奥にある引き戸の中に置かれている。祭が近くなると、お囃子会に所属している人たちは社務所で合同練習していた。けれどパンデミックで夏祭りがなくなって集まってはいけなくなってしまった今は、お囃子会で太鼓を担当している人たちはまったく練習できていない。このまま夏祭りの中止がずっと続くとお囃子が演奏できなくなるのではと危ぶまれていた。
幸いリナの部屋には小さな太鼓がある。兄が昔おじいちゃんに買ってもらってもう使っていない安物だ。
「もちろんいいよ!」
美櫻は目を輝かせて言った。一度曲を聞くとすべて覚えられ、いろんな楽器を演奏できる彼女は、坂東地区の夏祭りに遊びに来たときお囃子の曲をぜんぶ覚えていた。
リナが入っている坂東地区のお囃子会に入ろうと決めたとき、パンデミックが起きて夏祭りは二年連続中止になってしまった。だからまだ二人は夏祭りでいっしょに演奏をしたことがない。
リナは彼女が和太鼓に興味を持っても横笛を吹いてみたいと言わなくてよかったとひそかに思っている。
玄関で靴を脱ごうとして美櫻は立ち止まった。
靴棚の上には母の木彫りのアマビエが小さなものから大きなものまでずらりと並んでいる。どれも色鮮やかでマトリョーシカを意識して作ったそうだ。
「あれ、アマビエひょっとして増えている?」
「え、まさか。そんなことないよ」
リナは否定した。けれど、美櫻は腰に手をあて、靴箱の端に立っている頭が緑色で体は青い色をしたアマビエを穴が開くぐらいじっと見つめた。
「おかしいなあ。この前遊びに来たときはこの端っこの一体はいなかった気がするんだけど。ひーふーみー、そう前は七体だったと思うんだ。リナ、やっぱり一体増えているよ」
「まさか。木彫りの像がメダカみたいに勝手に増えるはずないよ。みーちゃんの勘違いだよ」
「勘違いじゃないと思うんだけどな」
美櫻はおかしいなと何度も首をひねった。もう一度じっと見つめた後、階段を上がるリナの後についていった。
リナの部屋に入るなり、少女たち二人はそれぞれの楽器をとって早速お囃子の練習を始めた。
お囃子は『囃し立てる』という言葉から来ていると前におじいちゃんに教えてもらった。その由来通り、お囃子を奏でながらリナたちの気分は高揚していった。少女二人はお囃子の練習にすぐのめりこんでいった。
いつのまにか増えていたアマビエの謎は、演奏に夢中になっている彼女たちの頭の中からすっかり消えうせた。