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疫病神が来りて少女は笛を吹く  作者: 収穫之月
3/8

第二話

 いつものように自転車置き場でヘルメットを脱ぎ、不織布の白いマスクをつけて教室に入ると、同級生たちがざわついていた。何か大きな事件が起きたかのようだ。

「あ、リナちゃん。おはよう!」

 リナの席へ小走りに駆け寄って明るく声をかけてきた少女は、黄美櫻ウォンメイイェンだ。彼女の父親は香港人で、彼女もまたリナのように日本人と外国人とのハーフだ。

 英語の先生によると、今時は違う国の人同士の間に生まれた子供のことをハーフではなくバイレイシャルと呼ぶらしい。リナとしては、宅配ピザみたいにハーフ&ハーフが自分の血筋を表すのに正確なんじゃないかなと勝手に思っている。

 スラブ系ロシア人の母を持つ絵坂家の三兄弟は、リナだけがまるで仲間外れのように顔の造作がおじいちゃんゆずりだ。身長も体系も平均的な日本の女子中学生だ。だから当然外見は日本人と変わらない。彼女がロシアとゆかりがあるのを示すのはリナという名前ぐらいだ。光を意味するロシア語のアリョーナという言葉から取って母が名付けてくれた。

 父親が香港人の美櫻もまた、外見は日本人とまったく変わらない。おかげで、隣のカスミ市ほどには外国人があまり暮らしていない雨巻町の中学校では、『ハーフだけど日本人にしか見えないコンビ』と同級生たちから言われている。

 けれど、美櫻は小学校4年までシンガポールに暮らしていたこともあって英語はペラペラだ。リナはずっと日本で生まれ育ったから、父やおじいちゃんのようにロシア語をもちろん話せない。

 美櫻ははっきりした目鼻立ちで身長も高くスタイルもすらっとしてかっこいい。南国の太陽のように明るい性格でしかもずば抜けた音楽の才能を持っているのでクラスの人気者だ。

 学校で女子から一番人気の生徒会長から美櫻にラブレターを渡してくれるように頼まれたことだってある。リナはもちろん一度もラブレターなんて男の子からもらったことない。ハーフもいろいろだ。

「みーちゃん、みんなどうしたの?」

 リナはいちばんの友だちに何が起きているのか尋ねた。

「隣のクラスの子でとうとう出たんだって。だから朝からもうみんな大騒ぎだよ」

「出たって何が?」

「何がって今なら感染者に決まっているでしょ!」

「えー! そうなの?」

「昨日の夜に高熱を出して、朝意識不明になって救急車で運ばれて入院したんだってさ。恐いよね」

 とうとう、都会からは遠いところにあるこの田舎の中学校でさえあの恐ろしいウィルス――アステリウィルスの感染者が出てしまったようだ。

 このウィルスに感染して発症すると、症状は高熱と頭痛、関節痛と一見インフルエンザのようだが、熱が一週間から十日以上続いて、やがて体から真っ黒い煙がでて死に至る。亡くなった人を解剖したらすべての臓器がまるで炎にあぶられたように焼けただれていたという。

 生きながら体の内側から焼かれるおそろしい奇病だ。治療法は現在に至るまで確立されていない。

 最初の感染者は日本で発見されたため、世界に先駆けて日本でワクチンが開発され大人と子供の多くはすでに接種した。しかし、数か月前にワクチンの効果を無効にさせる変異株がアメリカで現れてしまい、日本全国をはじめとして世界全体でまたしても猛威をふるっている。

 感染者の年代は、若者から六十代の人々が中心だ。当初重症化しやすく死亡率も高いだろうと思われていた高齢者は世界的にみてもふしぎなことに感染者や死者が少ない傾向にある。

 アステリウィルスは、ちょうど今から三年前のクリスマスシーズンに東京の若者を中心として流行し始め、日本からまたたく間に世界へ拡散した。

 このウィルスに感染すると誰もが内臓を焼かれて死ぬわけではない。人によっては感染してもまったく発症しない、または風邪レベルですむこともある。

 けれど、リナたちのような若い世代の感染者がもっとも多く死者も非常に多い。無事に回復してもなかには後遺症を引きずってしまう子供たちもいる。

『今までよりも息がしづらい、全然歩けなくなってしまった』と車いすに乗って話している同世代の子供たちの映像をリナはテレビで目にしている。

 感染しないにこしたことはないのだが、このウィルスのもっとも厄介なところはどうやって感染が起きているのか、最初の患者が発見されてからおよそ三年の月日がたっても未だにわからないところにある。わかっているのはアルコールには弱いということだ。

感染経路が不詳のため、ひとまずはインフルエンザウィルスの対策のように人々はなるべくあちこちへ移動せず集まらず、リモートワークやテレビ会議などを駆使してお互いの接触を減らした。主に花粉症のシーズンにつけていたマスクも、今や誰もが家の外ではつけるようになり、手洗いやアルコール消毒も入念にするようになった。

 中学一年生のリナたちがセーラー服に袖を通したのも始業式や卒業式のような式典のときだけだ。更衣室で集まるのを避けるため体操着のジャージで登校するのを許されたのだ。小学校の修学旅行も、県内の有名な観光名所へ宿泊するはずが東京のスカイツリーに登って日帰りで帰ってきた。

 週に一度通っていたクラリネットのレッスンも先生の希望でオンラインレッスンになった。わざわざ送迎しなくていいと母は喜んでいたが先生の出してくれる美味しいお茶やお菓子が食べられないのは少し残念だった。

アステリウィルスの蔓延が始まってから、リナたちの日常は大きく変わってしまった。以前の日常に戻れるめどはまだたっていない。

 感染者が出たため、一時間目の授業はなくなり急きょホームルームが開かれた。リナたちは担任の先生からこの後すぐ帰宅するように告げられた。来週のことはあとで保護者へ連絡がいくらしい。隣の工業都市の中学校では行われているようなオンライン授業が始まるかもしれないとリナは思った。

「せっかく学校に着いたと思ったらすぐ帰ってくるなんてもう本当にやだなあ」

 学校近くの通学路を美櫻と歩きながら、リナはぼやいた。

 中学校からリナの家まで自転車で片道三十分かかる。しかも通学路は平坦な道ばかりではなく小さな坂が何度もある。山を切り開いて人が暮らしているせいだが、やたら坂の多い町だと生まれたときから住んでいてもリナは思う。

「まあまあ、ちょっとした三連休になったと思えばいいじゃん」

 学校からそう遠くない、歩いて通える住宅街に暮らしている美櫻はなだめる。

 今日は金曜日だ。明日は土曜日だからたしかに三連休だ。でもどこへも出かけられない。パンデミックになってからずっとそうだ。リナたち子供は、感染したら重症化しやすいからとくにずっと家の中に閉じ込められている。

「部活もまたなくなったし、どっか気晴らしに遊びに行く? 自転車に乗ってさあ、隣町の白鳥が来る川へ行くとかどう? 屋外だからきっと大丈夫でしょ」

 屋外だから感染しないという話が流れているが、実際のところはまだわからない。

「だめだよ、先生にこの週末はなるべく家族以外の誰とも会うなって言われたじゃん」

「もうリナってほんとまじめだよね。じゃあ、河原で次の大会用の曲を練習してさ、コンビニでアイスクリームを買って食べるのもだめ?」

 美櫻は人懐っこい表情を浮かべながらリナに食い下がった。この友達は、外国育ちというのもあるからか自分の希望を通すためにあきらめないところがある。

 二人は雨巻中学校の吹奏楽部に入っている。リナは小さい頃から坂東地区のお囃子会に入って笛を吹くのもあって自然とその部活を選んだ。リナはクラリネットを担当し、美櫻はフルートを吹いている。

 美櫻の父親はクラシック音楽の世界では有名なフルート奏者で母親はピアニストだ。その間に生まれた美櫻は、当然のことながら両親から類まれな音楽の才能を受け継いでいてギターやピアノもまるで手足の延長のように奏でる。高校は、東京にある音楽専門のところへ進学するとすでに宣言している。

 リナは将来どうするかまだ決めていない。今のところは家から通いやすい高校を受験するつもりだが、美櫻のようにどういう道を進みたいかまだはっきりと考えたことはない。

 小学校六年生のとき「音楽関係の職業に就いてみたいなあ」と深く考えず呟いたら父に「やめとけやめとけ。お前レベルの才能じゃあ、音楽で飯なんて食っていけないぞ。せいぜい趣味にしておけ」と真面目な顔をして止められた。「手先は学さんに似て器用なんだから、美容師にでもなればいい。女はよっぽど優秀じゃないと正社員にはなりづらい世の中なんだ、国家資格は強いぞ」と日本社会のシビアな現実を教えてくれた。

 たしかに美櫻のずば抜けた才能を目の当たりにすると、父の言いたいことはリナにも理解できた。自分ではこの小学校でいちばん音楽の才能があるんじゃないだろうかとひそかに思っていたけれど、美櫻が転校してきて彼女の秀でた才能と比べたらウサギと亀どころか月とすっぽんだった。いくら自分が努力しても月に手は届きそうになかった。

 童謡の歌詞にあったように、楽しく膨らませていたシャボン玉が屋根にぶつかって消えてしまったようで悲しいなと思いながらも、リナは大人になったら音楽の道へ進むことを早々にあきらめた。

 せめて吹奏楽クラブの定期演奏会で演奏するのを楽しみにしていたのだが、彼女が小学校五年生になる直前にパンデミックは始まってしまった。吹奏楽の定期演奏会はもちろん地区の夏祭りもなくなった。笛を吹くぐらいしか取り柄がない少女は、その取り柄を披露する、人に聞いてもらう機会をことごとく失ってしまった。

「だめったらだーめ。それに寒いでしょ。今の時期、河原で長時間いたら私たちがアイスクリームどころかアイスノンになっちゃうよ」

「ちぇ、つまんないの」

 美櫻はマスク越しにもわかるぐらい頬を不満そうにふくらませた。リナはおかしくなってマスク越しに笑った。美櫻も声をだして笑った。

 コンビニのそばにある十字路で、いつものようにリナは坂東地区につづく道へ、美櫻は町中の住宅街につづく道へそれぞれ進んで別れた。

 雲一つない遠くの空で飛行機雲がすーっと一筋描かれている。

 その軌跡を追いかけるようにリナは自転車をこいだ。自転車をこいでいるときリナは白いヘルメットをかぶってもマスクは外している。

 学校からは外出しているときはいついかなるときも必ず着けるように言われているが、リナの通学路では昼間は車がびゅんびゅん隣の江湖市に向かって通りすぎていっても、そうそう歩いている人とすれ違わないからかまわないのだ。

 坂を自転車で立ちこぎしてのぼってはくだることを繰り返しながら、今朝神社で倒れていたあの変な男の子はどうなっただろうとリナは思った。

 家に着くと、チビはなぜか犬小屋に隠れるように入っていた。リナが帰ってきたのに鳴き声のひとつも上げないチビに「ただいま」と声をかけ玄関に入った。すると、その片隅にくたびれた草履がおじいちゃんの革靴ときれいに並んであった。

――これってまさか。

 足音を立てないように居間へ行きこっそりドアの隙間から中をのぞくと、リナの予想通り今朝神社で倒れていた少年がいた。お兄ちゃんと三人でマスクをして食卓に座って何か話していた。

 朝着ていた漆黒の着物ではなく、彼の体より一回り大きめの服を着て、肩甲骨のあたりまである長い黒髪をポニーテールにして輪ゴムでくくっていた。明らかに望の服だ。なんと今はいない母の席に座っている。椅子用の薄いクッションの上であぐらをかきながら。

「東京の古い知り合いが、大事な孫をこの春休みに疎開させてくれと言っていたのをすっかり忘れていたんだ。さっき急いでの駅まで迎えに行ってきたんだよ」

 隣のカスミ市にあるJRの駅は大きくて、東京からの直行のバスも停まる。リナたちの暮らしている雨巻町も千引鉄道というローカル線の駅があるので電車は通っているが、利用者はこの辺りの地域に暮らす高校生ぐらいで一時間に二本だけだ。

相馬そうまキオウと申す。しばらく厄介になる」

 少年は椅子の上であぐらをかきながら兄に小さく頭を下げた。まだ役になりきっているのか、時代劇のような言葉遣いだ。

 マスク越しにもみるからに浮かない顔をしている。雪のように白い肌は今や画用紙のようで血色はよくない。朝会ったときよりも彼はさらに元気がなさそうだった。

「俺は望だよ。よろしく。でも、じいちゃん面倒をみるたってうちもう部屋ないけどどうするの? 俺の部屋は勘弁してくれよ、俺だって一応お年頃だからさ」

 リナの家は、十一年前に福島県で火山の大噴火が発生したときの地震をきっかけに建て直した。地震が起きたとき家は壊れなかったが、長期の停電を経験してソーラーパネルを屋根に導入しようとなった。せっかくだからこの際建て替えようと父が提案したのだ。

 こうして江戸の終わりごろに建てられた元の家は、十年ほど前にロシアのダーチャというロシア特有の別荘をモデルにした洋風の一戸建てに生まれ変わった。

 緑の屋根に黄色い壁というカラフルな洋館は、築百年越えの古い家もまだ残っている周辺の家から明らかに浮いて目立っている。これはロシア生まれのリナの母の要望ではなく、おじいちゃんの趣味だ。

 おじいちゃんは若かりし頃、ロシア語が話せるので有名小説家の秘書兼通訳としてその先生と一緒に旧ソビエト連邦の国々を巡ったことがある。だからイルクーツク出身の母は、父親から仲が悪いと聞かされていたおじいちゃんを紹介されたときすぐ打ち解けたそうだ。

 客室として空いていた一室は、弟の未来が生まれたから未来の部屋になったので、リナの家にはもう空き部屋はない。昔の離れだった家屋も、今は木彫り作家の母が制作用のアトリエとして改築したから、人が寝泊まりすることはできない。

「それは心配ない。キオウ君には神社の社務所へ滞在してもらう。今の感染状況なら、しばらく自治会の集まりもないだろうしな」

 笠無神社の社務所はリナたちが暮らす坂東地区の公民館にもなっている。

 六十年ぐらい前に建てられた古い建物は、地区に住んでいる大人たちが何か話し合いするときやお祭りのときの大人たちの宴会に使われてきた。けれどアステリウィルスの世界的な流行が始まってから集会はなくなった。

 だから夏祭りも二年連続ない。今の感染状況だとおそらく今年も難しそうだ。大好きなお囃子で笛を吹けないのはとても残念だ。

「この子、学校はどうするの?」

「キオウ殿、いやキオウ君は都内にある私立の中学校に通っていて、オンライン授業か登校かを選択できるそうだからここでも受けられるそうだ。」

 少年ことキオウはぎこちなく数回頷いた。おじいちゃんがこういうセリフを言ったら頷くように、あらかじめそう打ち合せされていたかのようだ。

「ふーん、わかった。まあ俺は自分の部屋を明け渡さなくていいなら別に何も気にしないよ。じゃあ、オンライン授業に戻るわ」

 兄は椅子から立ち上がってこちらへやってきた。まずい、見つかる。

「あれ、リナじゃん。どうしたんだ、帰ってくるの早いな」

 望にドアを大きく開けられてしまった。暖房の温かな空気が出てくる。母と祖父は居間に薪ストーブをつけたかったが、父が煙で近所の迷惑になるかもしれないからと暖房器具はエアコンになった。

「た、ただいま」

 一瞬おじいちゃんが厳しい視線をリナへ送ってきた。立ち聞きしていたのがすっかりバレバレだ。

「隣のクラスでとうとうアステリウィルスに感染した子が出ちゃったから今日は自宅学習になったの。来週どうなるかはあとでメールで連絡がくるって、おじいちゃん」

 日本語は話せても読めない母に代わっておじいちゃんがリナたち孫の学校からのメールを受け取っている。リナの父は、子供たちの教育はおじいちゃんか母に丸投げしてあまり関わろうとしない。

 リナのおじいちゃんは、今年八十一歳にしてはスマートフォンやパソコンを使いこなして車の整備も自分でできる。料理も家事も上手だ。手先が器用というのもあるが、おばあちゃんが若くして亡くなってから男手一つでリナの父と父の双子の姉を育てたことも理由かもしれない。

 おじいちゃんはおしゃべりが好きだが、おばあちゃんのことはどういうわけかあまり語りたがらない。おばあちゃんの写真も残っていないし先祖代々の古い仏壇に位牌もない。

 どんな人だったの? と孫たちが尋ねると必ず「かぐや姫のように月からやってきて月へ帰ってしまったんだ」とはぐらかされる。

 そのせいなのか父とおじいちゃんは一時期口も利かないくらい仲が険悪だったそうだ。母が嫁いで来てからようやく徐々に雪解けしたらしい。それでも二人の間には日のあたらない木陰で残っている雪のかたまりのようにわだかまりがあるのを、リナはときどき感じている。

「おお、とうとうリナたちの中学校でも感染者が出たのか。昼ごはんは、じゃあリナの好きなオムライスにしてあげよう」

 わざとらしい芝居がかった口調でおじいちゃんは言った。

「おれはチャーハンがいいな」

 と兄はぼそっと言って部屋に戻った。

 兄が二階へ上がる足音を聞いて、リナはドアを閉めるなりマスクをつけて少年を指差した。リナが猫だったらきっと毛が逆立っている状態だ。

「おじいちゃん、これってどういうこと? どうしてこの子うちにいるの?」

「リナ、人を指でさすのはやめなさい、失礼でしょう」

 おじいちゃんはリナを注意した。言われてリナは少年を指していた指をしぶしぶひっこめた。おじいちゃんは礼儀にうるさいのだ。

「今、私が望に言った通りだよ。隠れて聞いていただろう」

「この子がおじいちゃんの友達のお孫さんのはずないよね。おじいちゃんもわたしも今朝初めて会ったよね。ここに住まわせるんじゃなくて警察へ連れて行ってあげなきゃいけないんじゃないの?」

「リナ、キオウ君と仲良くやりなさい」

 また有無を言わさない様子だ。おじいちゃんに言っても埒が明かなそうなので、リナは当の少年に尋ねた。

「あなた本当はどこの誰なの? いったい何者なの?」

「私は、……」

 リナが不信感もあらわに問い詰めると少年は口ごもった。なぜか自分でも悩んでいるようだ。

 おじいちゃんのほうも、なぜかうーんと腕を組んでそれからちらりと天井を見てまたうつむいて考え込んだ。

 おじいちゃんが何かを真剣に考えているときのポーズだ。

 こういうときはちゃんと座って聞かなければいけないような気がして、リナは二人の向かいに座った。

 朝リナが神社で見つけた少年は、今は魂が抜けたかのようにどこかうつろだった。

 しばらくしておじいちゃんは組んでいた腕をはずした。何かを心に決めたかのようにリナをみつめて言った。

「リナ、ではお前にだけは本当のことを言っておこう。彼は、キオウ様は笠無神社へお越しになった新しい神様だ。だからあの神社をずっと守ってきた私たち絵坂家は丁重にこの方を祀らねばならん」

「え? 神様?」

 リナは素っ頓狂な声をあげてしまった。

 そんな馬鹿な。神様は人間が作った架空の存在で実在しているわけがない。しかも自分のすぐ目の前に。

 けれど、おじいちゃんは大真面目な顔で言った。

「お前が生まれる前から、四十年前からあの神社はずっと空っぽで誰もいなかったんだ。『あちら』の世界はようやく新しい方を私たちに遣わして下さったらしい」

「あちらの世界って、おじいちゃんそういうの見える人だったの?」

「四十年前まではたしかにあのお社の中にいらっしゃったのは見えていたよ」

 おじいちゃんは目を細めて言った。昔を懐かしんでいるようだ。

 おじいちゃんによると、おじいちゃんが子供の頃夏祭りのときかならず中国の仙人のような赤い着物を着た髪の長い青年がお社の中にいたそうだ。住人たちによるお囃子や舞をみて嬉しそうに手を叩いたらしい。家族の中でその青年が見えていたのは、おじいちゃんのおばあちゃんとおじいちゃんだけだったらしい。

 夏祭りやお正月、どんど焼きなど自治会の神事のとき、町中にある大きな神社の神主さんが祝詞をあげてくれる。明治より昔はリナのご先祖がその役目を担っていたそうだ。だけど、リナの家系に霊感や霊能力があるという話は今初めて知った。

 リナ自身もふしぎな体験を今朝までしたことはない。霊感というものであれば、むしろ友達の黄美櫻のほうがある。

 黄一家がシンガポールから雨巻町で暮らす家探しをしていたとき、家族で町はずれにある古民家を見学した。古民家はおばあちゃんが亡くなって誰も住まなくなったので地元の不動産屋さんに売りに出されたのだ。

 初めて見る日本の古民家に大はしゃぎした美櫻は、薄暗い奥を一人探検していたところ突然肩を後ろから強く叩かれた。最初はパパだと思ったけれど振り返ったら誰もいなかった――と青ざめた顔で美櫻はリナに語った。

 当然黄家はそこの古民家には暮らさず、町中で土地を買い家を建ててシンガポールから引っ越してきたのだ。

 その話を聞いたとき霊感なんてあっても嬉しいものじゃないな、とリナは思ったのだ。

 おじいちゃんによると、おじいちゃんがみえるのは笠無神社の神様限定らしい。おじいちゃんのおばあちゃんもそうだったようだ。

 ところが、あるときから急に青年の影が薄くなり四十年前の夏祭りから青年の姿がとうとう見えなくなった。

「何が原因かははっきりしないが、神様が去ったから神楽をするのはやめることにしたんだ」とおじいちゃんは言った。

 ずっと前にやめてしまった神楽の楽譜をリナに教えてはくれていたけれど、神楽をやめてしまった理由は今まで教えてくれていなかった。

 そういうことだったのかとリナはようやく理解した。霊感がない孫たちにはもちろんそんな理由を打ち明けてもきっと信じなかっただろう。

「でも、彼をお祀りするっていったいどうするの?」

「なーに食事など身の回りのお世話をして差しあげたらいい。しばらく養生されれば元のお姿におそらく戻……」

「私は……私の体は!」

 それまでずっと黙っていた少年はおじいちゃんの言葉を遮るように叫んだ。

 彼は叫ぶなり椅子の上に立ち上がった。まるで町中の立派な神社の前にいる仁王像のような仁王立ちだ。

「昨日敵に追われているとき女の霊が現れ、私はこの神社へ案内された。今朝、目覚めると私の体から霊力がすっかり消えていた。まるで根こそぎ誰かに奪われてしまったみたいだ。だからあなた方に私の姿が見えてしまっている。今の私は神などではない。霊力を復活させる方法さえも私は知らない。今の私にはあなた方人間の期待するような神らしいことなどできるはずがない……っ!」

 少年は――キオウは一息にそう言うと唇を強く噛んで体を震わせた。両手は握りしめすぎてさらに白くなっている。彼は今にも泣きだしそうだった。

「キオウ様、どうかおかけください。神とはそこにおわすだけで十分です」

 おじいちゃんはキオウの無作法に怒ることなく静かに言った。おじいちゃんによると、霊力というのは神様の力のことだそうだ。

 どうやらリナたちにキオウの姿がこうもはっきり見えているのは神様の力を失っているせいらしい。

――それで今日の朝わたしに見られてあんなにショックを受けていたんだ。

 リナはキオウが今朝あんな不可解な態度を取っていた理由をようやく納得できた。

 おじいちゃんの言う通り、どうやら本当に目の前の少年は神様なのだろう。

「リナ、事情を知ったからにはお前も私といっしょにキオウ様のお世話をしてもらいたい」

「え?」

「え、じゃない。はいでしょう」

「……はい」

 断ることは許されないようだ。リナはしぶしぶうなずいた。

 アステリウィルスが世界に蔓延してからリナたちの日常は変わってしまった。十一年前に福島県で大きな火山噴火が起きてもちゃんと福島県や周辺の地域は復興したのに。

 ロシアのイルクーツクにいる母親もいつ日本へ帰ってこられるかわからない、来週の学校さえも授業がどうなるかわからない。リナもリナの家族もいつアステリウィルスに感染するかわからない。氷が薄く張った池の上を歩いているようなそんな不安定な毎日だ。

 キオウが神様ならばリナたちの世界をウィルスが流行る前に戻してもらえるかもしれない。けれど、神様として力がなくなっているなら彼に頼ることはできない。

 むしろ何のご利益もないのに彼のことをお世話しなきゃいけないのか、ちょっとどころかとっても面倒だなとリナは思ってしまった。

 おじいちゃんは、暗くうつむいているキオウの肩をぽんぽんと叩いている。年長者として孫と同世代にみえる少年を慰めているようだった。

 おじいちゃんは、何のご利益がなくても神様がまたこの坂東地区へやってきてくれて、明らかに喜んでいた。

 この後、おじいちゃんは若い神様を連れて隣の大きな町にあるショッピングセンターへ行くと言って出かけた。神様であるキオウにおじいちゃんとリナたち以外には人間のふりをしてもらうためだそうだ。

 お昼を少しすぎた頃、二人はようやく買い物から帰ってきた。

 リナたちのお昼ご飯はオムライスでもチャーハンでもなく、おじいちゃんがテイクアウトしたハンバーガーだった。リナはハンバーガーが好きだから喜んだが、望は面白くなさそうな顔をしながら食べた。

 おじいちゃんは、若い神様のために服だけでなく家具屋さんでいくつかの生活用品を買い込んでいた。授業のなくなったリナは、社務所へそれらを運ぶ手伝いをさせられた。

 キオウは自分のための家具だというのに運ぶのを手伝うことなく、黙って社務所の古びた畳の上に片足を立てて座っていた。

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